The Battle of Evermore by 清水義央 (2002)


●本年度の音楽体験について

今年も押し迫ってきましたな。
例年通り、今年も色々なCDを買い、コンサートにもでかけたけど、
自分にとって音楽の楽しさを心底味わわせてくれ、
更に大きなモチベーションを与えてくれた今年最高の音楽体験は、意外にもPat Metheny Groupだった。
数年ぶりの新作もよかったが、とにかくDVD「Imaginary day tour」が素晴らしかった。
日々忙しく、音楽もじっくり聞くゆとりもなく、(時間的余裕がないこともあるが、
ふと気付くと、時間的に余裕がある時でも心理的に余裕がなくて音楽に集中できないことがある。
おやじ諸君、そんなことはありませんか?)
昔のように、同じ曲をもう一度、もう一度と聴いているうちに夜が明けてしまうなんてことは、
本当に少なくなってしまった。自分のアルバムを作っている時は例外として。
そんな中でこのDVDは、「ああ、自分てやっぱり音楽が凄く好きなんだな」と再確認させて
くれるし、音楽って素晴らしいなあ、こんな演奏をいつかしたいものだ、きっと無理だろうけど、
目標とする分にはいいだろう、とか前向きな力を与えてくれるのだ。
9月に行われた来日公演も圧巻だったな。
たっぷり3時間、演出過多になることもなく、彼の今までの歩みをしみじみ味わうことができる
心憎いまでに考えられたセットリスト。過去の偉業をただ懐古主義的になぞるのでなく、
その本質を抽出し、それに斬新かつ意欲的な要素を加える手法に大いに心を動かされた。
また、どのメンバーもスーパーミュージシャンだけど、
その個性をPat Metheny Groupの中で生かしきるPat のリーダーとしての才覚は神業と言っても
いいくらいだった。久しぶりに、背筋が何度も寒くなり、一方で手に汗握るコンサートだった。

デビューソロアルバムの1曲目、「Bright size life」がなんの前ぶれもなく始まった時は
「あれっ?これ何の曲だっけ?あああっ!Bright size life かあっ!」と思った瞬間、
涙が出てきた。体が痺れた。この曲を初めて聴いたのは、もう20年以上前だったが、
今まで聴いたこともないような新鮮な印象を受けたことを思い出した。
(この来日公演のあと、CDでデビューアルバムを買いなおした。当時、これをオンタイムで聴いた人は
 天才!と感じたろうな。当時何歳? Patは。20歳くらい?ジャケット写真は少年!)

2年前くらいに買った「Pat Metheny song book」というPatの曲、167曲の楽譜集も
今年になって、たびたび開いてみて好きな曲を弾いたりもしたが、
本当によくこんな曲を作れるなあと感心させられる。
CDでは、とても複雑に聞こえるところが、意外とシンプルな構造だったり、逆に
“心地いいな”と聞き流していたところに実に巧みなコードワークが潜んでいたり、、。
脱帽です、Patさん。みなさんも是非、この曲集を買ってみてね。勉強になりまっせ。

更に、偶然、輸入盤屋で見つけた「The music of Pat Metheny and Lyle Mays」という
パットの曲をビッグバンドで演奏しているCDも楽しめた。原曲がいかに優れているかを
痛感した。

「清水さん、今イエス来日しているんだって」とか「来年のクリムゾン行くんでしょ」とか
その都度、色々な人から挨拶がわりのように言われるが、ごめんね、あたしゃもうプログレ残党組
の音楽には興味がないっさ。Caravan にもSoft Machineにも21 thなんとかバンドにも。
もちろん、今でも充実した音楽を聴かせてくれたPFMは楽しんだし、ハミルは残党とは考えていないし、
まだ見ぬGentle Giantが来日すれば見てみたいが。
なんか、残党組のやっているのが詭弁の音楽にさえ感じることがある、私には。
ぜんぜん興奮しない。
もちろん、かつて感動させてくれたことに感謝はするし、通勤途中にふと「静寂の嵐」全編を
口ずさんでいるようなことや、原稿書きのBGMとして「危機」をかけたら懐かしかったとか
はあるけど、、、、。そりゃ、昔は好きだったからね。
好きというより、プログレッシブロックに支えられて、やっと生きていた時さえあったくらい。
自分の作る音楽の中には、間違い無く今も生きているしね。(追記4参照)

バリ島での生ガムランもよかったな。
ガムランはやはりあの空間で聴くのが最高であって、
CDやVCDを向こうで買ってきても、なかなかそれを
じっくり聴く気になれないのも事実だが、NHK FMの番組の選曲のために集中的に聴いたら、
やっぱりエキサイトしたわ。一体どういうアンサンブルでこう聞こえる
のか分らないのがまた魅力だし、
実際に今年は体験レッスンを受けて演奏するのが恐ろしく難しいことを
痛感したので、その凄さにより圧倒されてしまう。
向こうで撮影してきたビデオは宝物ですわ。

あと先月買ったWeather Reportの未発表ライブのCDも素晴らしかった!
これについて書いている時間はないが、絶対のおすすめです。
これぞ、進化し続けた音楽。それにしてもジャコはすごい!
曲よし、演奏よし、勢い凄くあり!

おう、そうだった、前述のPatのアルバム「Brite size life」は、
ベースがジャコなんだよね。
とにかく、このアルバム以前には、こういう音楽はなかったんだから、
正に革新的だったんだな。

日本のマスコミはすぐに天才●●とかいうけど、
世間の御注文とりみたいなことをする天才がいるかいな。
ケータイばっかり覗いて、人生の貴重な時間を無駄にすごしているやつらに
支持されている現代日本のみの「テンサイ」群、、、。
PATやジャコの音楽を聞いていると、すげえなあ、天才だと強く思う。(註1)

マスコミも馬鹿なんだよね。
朝のテレビ番組の芸能ニュースなんて見ていると、
(見ているというより、朝の民放ニュース番組をみていると
流れで見ざるをえない)
キャスターもアナウンサーも芸能レポーターも、
「初登場なんと1位、発売1週間で90万枚ですよ!」
「キャーすごい、さすがクワタさん」
「もう涙がでてくるような名曲がめじろおしです。」
あたしゃ、貸しビデオ屋で女房こどもがビデオを探している間、
ずっとクワタのベスト盤がかかり続けていて、ゲロでそうだったわい。
「もう本当に天才ですよね、これだけ次々大ヒットさせるのは」
なるほどね、音楽をそういう基準で評価するのね、あなたは。

だったら、
故武満徹氏を朝のワイドショーで紹介してほしいぜい。
武満氏の音楽こそ名曲が目白押しなのだ!
日本が世界に誇るというのは、こういう音楽家のことを言うのだ。

話がそれたが、
ロック少年だった私が、22、3歳ころからロックシーンが面白くなくなってきて、
プログレのマイナーどころにも飽きてきたころ、数少ない、心を熱くしてくれた、どちらかと言えば
ジャズサイドのグループP.M.GとW.Rが、ここのところ自分の中で再びクローズアップ
されてきているのが不思議ではある。

と書きつつ、最近のヘビーローテーションは、Manuel Barruecoの「ヴィラ・ロボス前奏曲集」。
熱く、しかも心に沁み入る、、、さすが世界最高峰のギタリスト!
ああ、音楽ってなんて楽しいのだろう。
 
12月15日

註1: パットメセニーだったと記憶しているが、ジャコが死んだ時「スタイルに著作権があったら、ジャコは億万長者になっただろう」と話している。「彼のスタイルに影響を受けたと思うミュージシャンは、彼の遺族への基金に参加すべきだ」という発言もどこかで読んだことがある。
ジャコの短い生涯を綴った「ジャコ・パストリアスの肖像」は、全ての音楽ファンにお薦めする。真の天才とは、こういう悲しさを味わう者なのかもしれない。
   
追記1

ここのところ、川田絢音(かわた あやね)という詩人の詩集を読みふけっていた。
言葉の鋭さ、途方もない孤独感、とにかく凄い詩人だと思った。
思潮社の現代詩文庫で読めるので、是非。
kensoの次の作品に、インスピレーションを与えてくれそうだ。
“空を引き裂いてダイアモンドは血の最後の一滴まで暁の痙攣をする”

う〜〜〜〜〜ん、素晴らしい!

   
2: 大岡信著「萩原朔太郎」を、就寝前読書している。
御存知のとおり、私は朔太郎が大好きであるが、今までその俳句、和歌をじっくり読んだことがなかった。詩集「氷島」の中の代表作「漂泊者の歌」の卓抜した一節、“石もて蛇を殺すごとく、ひとつの輪廻を断絶して、意志なき寂寥を蹈み切れかし”の原型ともいえる表現が初期の歌に“拳もて石の扉をうつ如き”と在ることを知った。
たいへん興味をそそられる。
これまた、Pat同様、早熟の天才である。
   
3: ここ数日、電車通勤の友は、「音楽」という故武満徹氏と小澤征爾氏の対談集。
オリジナルを古本屋で入手していたのを忘れ、文庫版を新品で購入してしまった。
音楽について色々と考えさせられます。
   
4:

KENSOの今年のライブについて「〜〜そういった姿勢にも、清水のプログレに対する愛情が感じられる」というふうに書いてくださった難波弘之さんが、ユーロロックプレス誌の最新号、21thなんとかバンドのコンサートレビューに書かれていたことにはおおいに共感するし、若い方々が、糞面白くもない昨今のpopsでなく、progessive rockの黄金時代の名盤群を聴くことは大変意義深いことだと思っている。ここで私が書いているのは、あくまで今現在の私にとって、それが刺激的でない音楽であるというだけのこと。
音楽を作ろうとしている若者は、ぜひ、馬鹿な商業主義の排泄物でないこれらの傑作群を聴くべきだと思う。ただし、真に進歩的であった先人の偉業を、スタイルだけ継承したprogressive rockの駄作群には要注意。

では、みなさんよいお年を。
ローランドのイベントで会いましょう!


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●イベント情報

2003年1月25日(土曜)11時から20時の予定で、ローランドのSound Spark 2003というイベントが開かれ、
その会場でkensoが演奏します。入場は無料。 詳細は12月発売の各種音楽雑誌を御覧下さい。
場所はアムラックスホール/豊島区東池袋3-3-5
ベースの三枝俊治は現在ボストン在住のため参加できません。
辣腕ベーシスト/永井敏己さんが代役を務めてくれます。
kensoの出演時間は未定ですが、おそらく夕方以降になる模様。

問い合わせ先: ローランド03-3251-9204

11月27日

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●FMおよびイベントへの出演

NHK FMの「アジア・ポップ・ウインド」という番組に清水義央が出演します。
ガムランへの思いを語るとともに、KENSOの曲への影響についても触れるという内容です。
番組は毎週月曜の23:20〜0:20、
再放送が水曜の10〜11時。
清水氏の出演は12月9日の予定ですが変更の可能性もあります。
また、平成15年1月某日に、都内某所で行われるイベントにkensoがゲスト出演します。
詳細は、12月に入ってからこのHPで告知します。

11月15日

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●バリ島旅行反省会

9月某日の夜、拙宅に小口くんを招き、今年のバリ旅行の反省会を開いた。
お互いがバリで購入したCDや書籍などを包み隠さず見せあい、また旅行前に たてた目標の達成度や
今後の課題などをディスカッションするという何とも 色気のない企画である。

反省会のひとつの目玉である“プレゼント交換”を始めに行った。
小口くんからは、ガムランの伝統を大切にしながらも西洋音楽的な和声の導入が 感じられるという
(これは小口くんの解釈です。リーダーのI Wayan Sintiという人が
アメリカの音大に留学していたんでしたっけ?小口くん)MANIKASANTIというCDの複製、
私は自分で撮影してきたガムラン公演の模様や、風景や、私がガムランを習っている場面 などを
ダビングしたビデオテープ。
その他、ここには書ききれないほど盛り沢山の反省会だったのだが、
反省会のハイライトとも言えるエピソードを紹介しよう。

私がバリで買ってきたビデオCDのジャケットをながめていた小口が
「あ、やっぱり写っている」と言い出した。

「清水さん、このおじいさん、モデルじゃないですかね」
「えっ、?」

要約すると、ガムランのCDジャケットに写っているある特定のおじいさんが、
実はそのCDに収録されている楽団のメンバ−ではなく、
ジャケット用に雇用されたモデルではないかというのである。
小口に
「ほら、あのビクターから去年だかにでたシリーズでも、 このおじいさんアップで写 ってますよね」
と言われ、院長室に置いてあるそのCDのジャケットを 思い出してみたら、
確かにそのような気がする(ジャケットに写っているおじいさんが モデルかどうかなど、
本来はどうでもいいことではあるが、小口の熱心さと 小口仮説が証明されつつある高揚感に巻き込まれてしまった)。
小口は畳み掛けるように、
「この人、バリ人のおじいさんにしては格好いいですよね。 でも、video CDのジャケットに写 っているだけで、
演奏シーンにはでてきませんよね。 それに加えて、私が見たバリの漁師を映した写真集にも、
このおじいさん写ってたんですよ。」と。
「朝は漁師をやって、夜になるとガムラン演奏家をやっているだけで、 モデルじゃないかも、
という考えもできるんじゃないかな」と私。
「う〜〜〜ん。」と納得できない様子の小口。

う〜〜〜ん、どうなんだろうねえ。 と言いつつ、video CDを見ていたら、しばらくして小口が、
「ああああああっ!やっぱりこの人、楽団のメンバ−なんだ。モデルじゃないのかああああ」
と、自己完結してしまったようなのである。
この結論にいたる経過についてポリリズムの帝王小口さん本人からみなさんに御説明します。


★ 最初にあのおじいさんをレゾナンス・メディテーション( 前述、ビクターから発売されているガムランのCD)
の CDジャケットで見たときに、 顔のつくりといい表情といい、
ガムラン奏者にしては あまりにもカッコよくハマりすぎていることと、
なぜあのおじいさんだけが他のメンバーを差し置いて、 一人で表や中ジャケットに写 っているのか?
これは、よく海外旅行のパンフにあるようなイメージ写真的なものではないのか?
という考えが頭をよぎったのです。
その後、なんかのバリ本で地元漁師として これまたカッコよくハマッっているあのおじいさんを見たときに
間違いなくおじいさんはモデルだと確信しつつも、 大した問題でもないので、そのまま忘れていました。

そして清水さん宅で例のVCDを鑑賞しつつそのジャケットを見てみると、
ここにもあのおじいさんがいるじゃありませんか。
にもかかわらず映像にはどこにもおじいさんは写っていなかったので、 ああ、やっぱり!と思って
あの時清水さんに話したわけです。
しかし、2曲目か3曲目であのおじいさんがトロンポンの前におもむろに登場して 私の仮説は崩れたのです。

現在の私の見解としては、 あのおじいさんは夜はガムラン、昼間は漁師をやっている 典型的なガムラン奏者、
というものです。 ★

ファンのみなさん、小口仮説はこうしてくずれた訳ですが、
この独特な感性が小口曲のあの雰囲気と無縁でないのだと思います。

では、もうひとつエピソードを。
小口は私が買ってきたvideoCDを次々にプレイヤーにかけ熱中試聴、
そして持参したノートパソコンで複製に挑戦していた。

私は、この日のバリ反省会に出席していた小口の友人と 話していたら、
小口が急に正座をしたのが視野の隅っこに入った。 (あれっ!?小口なぜ正座を、、もしや)

「あのう清水さん」
「えっ?」
「たいへん申し訳ないんですけどオ」
「はい?」
「今回バリで清水さんが買ってきた(ばかりの)VCD、 全部貸してくれませんか?
ダビングして、宅配便ですぐ返しますので、、。」
(やっぱり当たった!)

普通言わないよな、他人が買ってきたばかりのVCDをすべて貸してくれなんて。
でも、そういう、音楽に関しては常識をも無視する熱心さが小口のいいところでもあるので、
「いいよ、でも宅配便はもしもってことがあるから、 いつか手渡しで返してくれれば。」
ということになった、、、よって私は買ってきたものの 見ていない作品が5、6枚あるのだ。
小口くん!早く返してくれ。
でも毎日忙しくて、VCD見ている時間もないくらいだから、 本当は、まだいいや。

ところで、 小口君にここで謝らないといけないことがあります。

小口くんに「小口、バリで買ってきたおつまみ食べる?」
「えっ!いただきます」て感じでだしたお菓子さあ、
あれ実は近くのスーパーで買った「デンロク豆」だったんだ。

パッケージの写真がそれっぽい雰囲気だったので、
「これ、小口にバリで買ってきたって言えば、ありがたがるかも」 と思い買ったんだけど、
袋を開けてお皿にだしたら、 まさに「デンロク」だったので
「あ、これ、けっこう日本ぽいわ」とかフォローしながらテーブルに置いたら、
私の妻も「ガルーダ・インドネシア航空の機内ででるおやつに似てますよね」なんて言って、
小口くんも「あ、本当だ。」とか言って食べてくれたけど、、、、、。

ま、嘘も方便っていうからね、、、、。
小口くんだって、そのお菓子に関して「おいしい」とも何とも言わなかったから、
それほど感銘を受けたってことは無いのだろうから罪は浅いと思うんだけど。
でもその「デンロク」以外は、すべて真実ですので、これからも友情を大切にしようね。
小口くんに出した、知人がハワイで買ってきたっていうコーヒーは本当だよ。
まあ、その人が本当にハワイで買ってきたのだったらだけど、、、。
せちがらい世の中だけど、お互い信頼を失わず、良い曲を書きましょうね。

追記:以上の原稿は、バリ島でのテロ事件の前に書かれたものです。
   「神々の島バリ」などという表現を軽々しくする人に出会うたび私は
   「お前ら分って言ってるのかよ」って思うのですが、でも、
   本当に人を惹き付ける魅力を持った素晴らしいバリ島にあんな事件が
   起こってしまったことは、実に残念なことです。
   ニューヨークのテロの後でさえ、バリを訪れる日本人が激減して、
   私の友人のパギさんも「仕事がなくて、実家へ帰っている。実家だったら
   野菜も米もとれるから」なんて寂しい発言をしていました。
   バリ島が、今どんなことになっているのか、とても心配です。
   また、不運にも事件に巻き込まれてしまって亡くなられた方の御冥福を
   心よりお祈りいたします。

11月1日

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●女人禁制のお部屋:ああ、恋愛

最近、このコラムがだいぶ幅広く認知されてしまうようになってきて、
筆者としてはどうしたものかと考えている。
現実に、私の子どもの同級生のお母さまが、別なことを検索しているうちに、
偶然“Battle of evermore”に行きついてしまい、読んでいるうちに
「あれ?これ、もしかして清水●●ちゃんのお父さん?」となり、
私の妻に恐る恐る「あのう、違ってたらごめんさないね。清水さんの御主人て ロックミュージシャンなの?」と、
尋ねてくることがあったのだ。
だから、あんまり下品なことを書くと、
授業参観とかで御会いした時に、 冷たい視線を浴びせかけられる可能性がある。
ああ、言論の弾圧が迫る!(註1)
でも、「ああ、恋愛」始めちゃうんですウ。(註2)

9月3日の朝日新聞家庭欄、ティーンズメールのコーナーに15才の女子高校生が投稿していた。
「彼からのHの誘い断れない」というタイトルの悩み相談であり、
“彼氏とつき合い始めて3ヶ月なんですが、彼氏の家で遊ぶたびにHをしています。
正直言って私は嫌なんです”云々、、、。

今から30年前、私は丁度この彼女と同じ15才であったが、本当に隔世の感がある。
今でこそ、所謂「できちゃった婚」なんて珍しくないし、否、
「できちゃった」ことでやっと結婚に 踏み切ることも多いとも聞く。
私が小学生の頃だったか、親戚の大卒の女性が婚前交渉(死語?)が あったと、で妊娠してしまったと、
その母親が「私は恥ずかしくて結婚式にでられない」と嘆いていたと。
若い方々には信じられないような時代に私はLED ZEPPELINを聞いて、、、
あ、今日はロックの話ではなかった。性愛、いや恋愛、恋愛。
ナイジェリアでは婚前の出産は死刑だというような話が新聞に載っていたような。
そうしたら、レーガン元大統領の奥さんは終身刑ずら。(参考文献:わが娘を愛せなかった大統領へ)

30数年前中学時代、私の周囲にも所謂不良といわれる人がいて、
いてというより田舎の中学でロックなんてやっていると、 暴走族候補生がバンドにひとりはいたりして、
私がはっきり覚えているのは、 青春マンガを彼等と見ていた時の話。
女性ヒロインが、それほど思いをよせてもいない男性に組み敷かれると、
そこで男の下で 「、、、、、好き、、、」とつぶやく。
当時の私にとって、どうしてほとんど無理矢理こういうことになって
「、、、、好き、、、」 なのか、全然分らなかった。
ところが、私のバンドでドラムを担当、と言ってもブラスバンド用の太鼓を いくつか寄せ集め、
スティックがない時は、リコーダー(縦笛ですね)でたたくような 粗野なリーゼント野郎Nクンがこう言った。
「こういうふうになったら、女はもう、こう言うしかないんだよな。」
私は横目でそいつをみあげた(すげえ、こいつ、そんなこと知っていやがる)。

勉強も音楽的才能もいまいちだったNクンに秘かに畏怖の気持ちを持ったあの頃。

中学3年の時の関西方面への修学旅行の想い出は、
Aクンが夜中にお腹が空いたため、 前日に食べきれなかった弁当の残りをたべてお腹が痛くなったことと、もうひとつ。
今の中学生も修学旅行では男女がそれぞれ一部屋に押し込められているのだろうか。
ともかく、私のクラスの男子部屋に、夜、スカート長い系のスケ番グループの女生徒が 遊びに来た。
スケ番グループって、結構かわいい子もいたりするんだけど、
部屋に入ってきて数秒後、上記ドラマーNクンを含む不良数人が突然「電気消せっ!」と叫び、
電気が消えるや否や、スケ番に襲いかかったのだ。
スケ番たちはキャーキャー言いながらも 結構楽しそうで、
要するに単にスケ番たちの体に触っているだけなのだが、
(さすがに不良たちも、まだ当時の田舎中学生ですから、そこまでで精一杯だったのだろう)
私は真っ暗闇の中、うらやましいな、と思いながらも何をしたらいいかわからなかった。

今の若者の性態に興味はないが、これだけ情報が溢れ、女体の神秘も何も悶々と想像することなく、
インターネットその他で公開されている現在は、きっと私と同世代で、
しかも結構真面目に勉強していた若者たちが女性に対しての想いを募らせた頃とはまったく異質の状況
であることは想像するに硬く、、、 難くない。
私がよく思い出す、あれは何だったかなあ、高1コースとかの性の悩み相談室とかだったのか、
「性行為について、君たちが憧れる気持ちはよく分るが、その体験は強烈すぎて、
勉強が手につかなくなる 恐れがある」というようなことが書かれてあり、大いに私はびびった。
今、ふりかえってみて、 この回答者の実体験からの答えだったのかな?って思うと面 白いが、
当時は私も青春時代まっただ中、しかも私史上、もっとも女性にもてた数年間、いや悩んだねえ。
でも事実、その禁を冒して、早々と経験し、その時の有り様を私に詳細に報告し、
私をおおいにうらやましがらせたBクンは、やはり本当にそれ以後もその刺激を求め続けるあまり、
ついに大学受験戦線から脱落したんよ。
「ほらみろ、あたったぜ」

あれ?何故今日はこんなことを書いているんだっけ。
光田くんの草月ホールでのコンサートの即売会で少し会話した若い女性が
「清水さんのコラム面白いですね」 と言ってくれたから、サービスかいな。
違う、違う。

十代後半に、私が思いを寄せていた女性からの手紙を突然思い出したからなのだ。
この女性は、高校の後輩で完全に私の片思い(死語っすか?)だったのだが、 ずいぶん沢山の手紙をやりとりした。
「清水先輩は、喧騒のコンサートが上手くいかないと、必要以上に落ち込んだり、悩んだりするけれど、
喧騒はプロではないんだし、人を楽しませることだけでなく、
自分が楽しむことを大切にしたほうが、 いいと思う。」 なんて、書いてあったこともあったなあ。

「プロではないんだし」かア、今もプロじゃないよね、結局。
ファンの多くはプロだと思っているかもしれないけど、、、、売れないし、、、。
それにしても、まさかこの頃の音源が「76/77」なんてCDになるとはなあ。

2つ下の彼女が大学卒業すると同時に私は歯科大(6年制)を卒業。
でも、何もおこらず、徐々に 疎遠になってしまった。
ジョン・レノンが暗殺されたのは大学5年の12月だったが、
レノン追悼の雑誌を持って喫茶店で彼女と話した記憶がある。
20代の後半のある日、彼女の結婚式の写真が送られてきた。
「やっと結婚できました。センパイも、もうすぐではありませんか?」と書いてあった。
当時は私も本当に結婚間際だったので、「ああ、●●さん、結婚するのかあ」程度にしか思わなかったが。

本日は、「天鵞絨症綺譚」などという作品を作ってしまった私にも、人並みの青春があったというお話。
彼女、幸せに毎日すごしているといいなあ。
感傷的イ〜〜〜〜〜〜。
なんか、フォークの歌詞みたいやけど、次回はまた硬派でいくからね。

〜あっなったに〜〜、さよーならって言えるのは、きょ、お、お、だけ〜〜〜。
22本のろうそくかあ、泣けるなあ。
あのころのカセット、どこへいっちゃったのだろう。
表向きは、ハードロック小僧、ギター少年だったけど、ひとりになるとフォークに涙したことも、、。

かなし〜ことが〜あると〜〜〜、ひらく〜かわの〜ひょおし〜〜。
これは村石くんの現在の主たる雇用主の名曲。
あれ〜が、あ〜なたの、すき〜なばしょ〜〜、
みなとが、みを、ろっ、せっ、るっ、 こだかーい、こ、お、え、ん。
港の見える丘公園、行ったなあ、なんども。
何度行っても、道に迷いそうになった。
いも〜〜とよ、ふすまいちまい、へだてて〜いま〜〜〜
ああ、秋吉久美子かわいかったなあ。

ドンドン!
「?????誰?」
「おお、清水、いたか」
「おっ、おお、お前か」
「何、聞いてたんだよ」
「見ればわかるだろ、ブラックサバスの血まみれの安息日だよ、  すげえぜ、このギターの音」
「なんか、日本語の歌、歌ってなかったか」
「ええ!?そ、そんなはずは、、、、あっ、ああ、さっきまで  成毛滋とフライドエッグ聞いてたから。
 この高中っていうベース、上手いよな」
「フライドエッグって、英語で歌ってるんじゃ?」
「oh!」


註1:言論、表現の弾圧について   
 作家の柳美理女史の小説「石に泳ぐ魚」の出版差し止め裁判について、    
大江健三郎氏が「(この小説の)発表によって苦痛をこうむる人間の異議申し立てが、    
あくまでも尊重されなければなりません。それなしでは、言論の自由、出版の自由の     
人間的な基盤がゆらぐことになりかねません。」と語っている。    
この大江氏の意見は大変重要なものであると思う。

註2:「私、とっても感じやすいんです」「私、こうみえても柔道3段なんです」
    といった女の子問わず語り形式の官能小説で昭和の時代に人気のあった宇能こう(?)一郎氏。
    青春時代の私自身は、どうもこの人の語り口では物語に入っていく気がうせたのであるが、
    数年前に読んだ「ズロース挽歌」(監禁淫楽:ちくま文庫収録)は、なかなかの作品。
    ところで、この「監禁淫楽」という文庫本には玉石混交、素人同然の作家もどきの
    未熟な作品から、さすが谷崎潤一郎は凄い!という作品まで収められているが、
    「天鵞絨症綺譚」の世界を深めたい方は、ぜひ読んでみてほしい。
    目次を見た時、きっとあなたは重要な手がかりを見つけちゃうんです。

追記1:あまりにも下らない話。
   これは18,19歳の頃の話。
   歯科大同級で、すけこましのSクンが、高校の修学旅行の時に、その時のバスガイドに
   性的興奮を起こさせるチョコレートを食べさせたんだって。そしたら、そのバスガイドが、
   「皆様、右を御覧ください」とかいいながら、何か様子がおかしくて、はあはあ言って、
   明らかに興奮していたんだって。ほんまかいな。
   でも、当時の私は信じたね。
   私も、受験勉強に通っていた図書館近くのラーメン屋においてあった、エロマンガ雑誌の
   通販広告で「女性をその気にさせるチョコレート」の存在は知っており、大学受験に成功した
   あかつきには、是非買ってみたいものだと思っていた。で、そのSクンとなぜか、上野駅近くの
   おとなのおもちゃ屋(若人よ、知っているかね)で、
   夢にまでみた「女性をその気にさせるチョコレート」、通称:媚薬チョコレートを買った。
   薬でもそうだが、やはり、実際に使う前に、実験を行う必要がある。
   もちろん、他人に使うわけにはいかないし、動物実験にも意味がないので、
   自分でためすしかないのだが、
   もし、そのチョコレートを食べて自分が非常に興奮してしまったら誰がそれを鎮静してくれるのか。
   興奮しすぎて狂ってしまったらどうしよう。
   それが恐くて、ずっと机の引き出しに入れておき、ついに使うチャンスがないまま変質し、
   とても食べられるようなものではなくなってしまったという悲しいお話。
   あの〜〜〜言っておきますけど、私は海外でも好評の「天鵞絨症綺譚」を作ったケンソ−の
   リーダ−ですからね。

追記2:kensoというバンド名の由来である「県立相模原高校」に入学して一番最初の失望は、
    男子クラスだったことだ。「県相」は共学だったが、女子の数が男子より少なく、
    全8クラスのうち2クラスは男子クラスであった。2年になると理系3クラス
    文系5クラスに分かれるのだが、理系3クラスのうち共学クラスは1クラスのみ。
    理系志望だった私はまたしても男子クラスだった。そして、高校3年も男子クラス。
    私の女性に関する偏った感情の根のひとつは、ほぼ間違いなくこの
    “共学にも関わらず3年間男子クラス”だったことだと思う。
    男子クラスの味気なさは、文化祭においてピークを迎えることを御存知か?

        共学クラスは模擬店とかを開いて、女子生徒はかわいいエプロンなんかして、
    料理を作ったり接客をしたり、、、、、なんとまぶしく見えたことよ!
    なんとうらやましく思ったことよ!
    下手くそなフォークギターにあわせて、「神田川」なんか歌ったりしやがってエ。
    いや、私自身はね、文化祭のヒーローでしたからね、ギンギンにギターを弾いてましたけどね。

    隣のクラスでは、そうした健康なお色気をふりまいているのに、私のクラスで
    クラスメートが何をしてたと思う?
     将棋だよ、将棋!
    机の上に腰掛けて、将棋をしているのが3、4組。それを見ているクラスメートもいた。
    参考書をひろげて勉強している奴もいたな。
    隣のクラスでは、もしかしたら将来の伴りょになる人との出会いがスタートしていたかも
    しれないし、伴りょにならなくても例えば上記「22歳の別れ」のような切ない物語が
    今まさに生まれようとしていたかもしれないのに、
    将棋ですよ将棋!     

追記3:eroticismということであれば、最近読んだ吉行淳之介「暗室」は
    奇妙な読後感を残す秀作であった。
    「暗室」のような作品によって、何か自分の中に
    名状し難い感情がうまれることこそ読書の醍醐味ではないだろうか。
    かつての官能小説というカテゴリーは、エロ小説との境界があいまいであったように思う。
    しかし私は谷崎潤一郎の「刺青」こそ官能小説という呼称にふさわしいと考える。
    すごいなあ、この文章。
    kensoを愛するあなたは、ぜひ読んでみてよ。

追記4:今回のThe battle of evermoreから、ドクター清水の青春は女の子とエロ幻想に
    満ち満ちていたと邪推されても別にかまわないが、それは事実ではない。
    私は既に17歳の時にkensoを結成しており、女の子より音楽に、より心惹かれていたのだから。
    ジミ−ペイジやジェフベックのようにギターを弾きたかったし、
    YESやLED ZEPPELINのような曲を作ってみたかった。
    今のようにバンド譜や奏法解説もなかったから、すべて自分の耳をたよりに、
    彼等のようなフレーズや、どうしたらあんな音が出せるのかをウンウンうなりながら考えていた。
    それは、3年前くらいのこのコラムにも書いたと思う。     
もちろん、イタリア映画「マレーナ」のように美しい女性に憧れたことは
    あったし、今より病的に繊細かつ現実離れしたことを考えてもいたが。
     おととい見てきたキルギス共和国の映画「旅立ちの汽笛」(瑞々しい映画でした。
    映像も素晴らしく美しかった)にも思春期の不安定な心情が実にうまく表れていたが、
    思春期の男の子(この映画では、兵役に行く直前の揺れ動く心理が中心)の
    女性に対するさまざまな想いは、どこの国でも同じだったのだなあと感じた。
     この映画、監督の長男が主演して、時代背景は、監督自身の思春期(おそらく1960年代後半)
    を回想したもののようだが、もし機会があれば御覧になることをお薦めしたい。
    (私は渋谷のイメージフォーラムという場所で見たが、そこのドアには“ダゲレオ出版”
    という濃〜〜〜い社名が書いてあった)
    また、最近読んだ本の中で極めて面白かった春日武彦著「17歳という病」も推薦したい。
    「天鵞絨症綺譚」のブックレットにも参考文献として挙げた「顔面考」の作者:精神科医の
    意見はやや極端ではあるが、しかし好きだなあ、私は。この偏りと正直さが、特に。
    “前略〜そのように後になれば恥ずかしくなるような鬱屈や屈折を抱え込まずに思春期を
    通り過ぎていった人物がいたとしたら、わたしはそんな人物をまったく信用する気に
    なれないのである。”
    同感である。
    この春日氏の文章から連想した萩原朔太郎の一文がある。
    アフォリズム集「絶望の逃走」に収められた“悔恨としての人生”と称されたものであるが、
    “いやしくも悔恨しないことを欲するならば、人は何事もしない方が好い。
     しかしながらまた、何事もしないところの人生も、
     ひとしくまた悔恨なのである。”
    う〜〜ん、これまた同感である。
    話が横にそれたが、
    春日氏の「17歳という病」にはまた、ぜひ読んでみたいと思わせる本が多数紹介されている。
    自身の思春期について考えたい方、またお子さんが思春期をむかえる方、読んでみてください。
    ただし、最後の子育てに関する記載には、大いに異論があることを申し添えておく。


では、最後にとっておきの思春期話。
中学2年の時だったか、保健体育の時間に、
巨人軍に入ったばかりの松井選手のような顔の肌の感触と 脂ぎった体臭をまきちらしていた体育の先生がこういった。
(たしか、この頃から性教育ということがさかんにいわれ始め、それを誰が担当するかという議論があり、
 保健体育の先生ということになったように記憶している。違ってたらごめん。
 保健体育の先生は、とまどいながらも時代の最先端を行く性教育というものに対して、
  まさにサムライ的な悲愴感を持って臨んだのだと思われる)

先生「おまえら、マスターベーションのやりかたを知っているか!知らないやつは?!」 
生徒「、、、、、、、、、、」(そら、そうだろう。はい!なんて手を挙げられるかよ)
先生「そうか、そうか、それならいい。知らないんだったら、先生が教えてやらなきゃいけないからな」


以上だ。
この短いやりとりから、みなさんは何を感じたね。
この松井のような先生に教えてもらいたいかね。
宿直室で、ふたりっきりで。

3流エロ小説にあるような、
美人教師が「あら、もうこんなになっちゃって」なんて、 教えてくれるほうが、よくはないかね。
でも、でも、でも、、、、。

あの、私は「夢の丘」や「天鵞絨症綺譚」を作ったkensoのリーダーなので、
そこんとこ4、6、4、9。
確かに思春期には、女の子のことも考えていたけど、信じられないほどの深さで 白日夢にも入りこんでいた。
時として現実にもどるのが困難なほどに。
「風さえ届かない遠い空、波さえ届かない遠い海」というイメージにとらわれ、 何時間も空想していた。
その遠い空想上の海を泳ぐトドやセイウチに思いを馳せてみたり。
そんな部分は、今も本質的には変わらず、それが「夢の丘」や「天鵞絨症綺譚」を生んだとも言える。
でも、みんなにもありませんか? トドやセイウチに思いを馳せたような経験が。

話は飛ぶが、いつのことだったか、お昼のワイドショー的番組で「出会い系サイト」の特集を やっており、
顔にモザイクかかった、でも明らかにヤンママが
「いくつになってもオ、結婚して いてもオ、やっぱ恋はしていたいしイ」と発言していたが、それは恋なのかなあ。
これぞ春日氏の言う、語彙不足のため、
自分の感情をその少ない語彙の中へ収束させて いるってことではないのかなあ。 まあいいか。

そんなことより、私は恋よりバンドがやりたいよオ!
忙しくて忙しくて、曲も作れないのだ!

河合隼雄氏の「中年クライシス」にも書いてあったが、中年は忙しい!
と言いながら、こんな駄文を書いている時間があるのだが、、、。

BGM:GENESIS「FOX TROT」、う〜ん、やはり名盤だ。

9月29日


Coda:(今回はGFRのHeart Breakerのようにしつこく、なかなか終らない)
数日前、歯科医師会の学術研修会に出席した時に、セクシャルハラスメント防止に関する 小冊子が配布された。
実際に、ある歯科医院でおこった事例をいつくか読んでみて、 同業者として本当に情けなくなった。
思春期の男の子ならともかく、いい年をした、しかも一応院長職というリーダーシップを とるべき立場にいながら、
こんなガキみたいなことを従業員にして、 未熟な性的満足を得ている、あるいは得ようとしているとは、
他人事ながら「恥を知れ!」という気持ちだ。
別に自己弁護をするわけではないが、媚薬チョコレートにわくわくするなんてことは、
10代の出来事だからこそ後になって笑えるのである。
上記のキルギスの映画にも、男の子がスニーカーに鏡の破片をくっつけて、
女の子のスカートの 中をのぞくシーンがあったが、
同じことを、歯科医師が自分のクリニックのスタッフに対して 行うなんて!
ゲロゲロだ。

同年輩のみなさん!
精神的に薄汚い中年にならないよう、日々精進しましょう!

10月10日  

The Battle of Evermore TOP  


●海外からのCD評

海外のファンから、いろいろなメールが送られてくるが、 今回はまず、
「天鵞絨症綺譚」の海外レビューをふたつほど紹介しよう。
翻訳はもちろん上田達郎氏。

「天鵞絨症綺譚」 評:デイヴィッド・シスコ 
2002年8月 http://www.progressiveworld.net/kenso5.html(原文はここ)

2000年の勤労感謝の日(9月1日)に行われたプログフェストに 行った人はケンソーの
(私が知る限りにおいて)初の海外公演 を見る機会を得たことと思う。
そして幸運にもケンソーのアメリカ デビューを見た人はこうも思ったかも知れない。
「二列目の真中 に座っているあの騒々しいアホ面は一体何者だ?」
それはというと、ケンソーによるフュージョンとプログレッシブロックの 凄まじいミックスに完全にいかれ果 ててしまい、
生涯ファンである ことを誓ったこの私だったのだ。
それから二年後、「天鵞絨症綺譚」がリリースされたのだが、
これは 清水義央(ケンソーのリーダーであり、またギタリスト、主たる作曲家 であり、
さらに本職は歯科医である)に聞いたところによれば、日本の 小説家の谷崎潤一郎に影響を受け、
そして天鵞絨症という稀少な 精神障害をもとに作られたコンセプト作品なのである。

その意味合い においても、「天鵞絨症綺譚」は極めてにダイナミックであり、
猛る 怒りから静謐な白日夢、そして突き抜けた喜びまでの感情を包含 するものとなっている。
「天鵞絨症綺譚」にはケンソーの持つオリジナリティーとその受けた 影響のすべてが現れており、
リスナーにとっては、レッド・ツェッペリン スタイルのロックからリターン・トゥ・フォーエヴァーばりの
フュージョン にいたるまで、プログレッシブロックのすべての要素をジェットコースターで 駈けぬけるような感覚である。

まず「精武門」はジミー・ペイジやジェフ・ベックを思わせるダーティーな ギター・リフのグルーヴで
ドアをぶち破ってくる。次に「禁油断者マドリガル」 で突然キーボード・フュージョンに突入し、
さらにフラメンコ・パートを 含む「韜晦序曲」になだれ込む。
「木馬哀感」では「禁油断者マドリガル」の キーボード・フレーズが再び使われ、
「天鵞絨症綺譚」の音楽による物語 が成立してくる。
この時点で「全機関出力全開!」となり、清水博士一座の音楽的 辣腕と折衷主義がその後の11曲にわたって
繰り広げられるわけだ。
大曲と言うに近い「Tjandi Bentar」は曲調や楽章の変化に富み、「天鵞絨 症綺譚」のハイライトといえよう。
鄙びた小都市の音に導かれて美しい バラードが立ち現れるが、すぐにロック感覚あふれるフュージョンが押し寄せ、
そして唐突に妖しい感覚と共にフェードアウトする。
「謀反」はレッド・ ツェッペリンの影響を表出させているが、その印象は長くは続かず、
ケンソーのトレードマークであるフュージョンがカンサス風のハモンド・オルガン と共に展開される。
ここで「Echi dal Foro Romano」でケンソーは大きな チェンジアップを見せる。
映像音楽的なキーボード・インタープレイとケルト 的なジーグが綯い交ぜになった様は、
リバーダンス・ファンなら誰でも踵が 折れるまで踊り狂ってしまうに違いない。
「陰鬱な日記」では、シンフォニック ロック、フュージョン、見事なUKスタイルのアンサンブル指向と
川島ケイコ のカンテ・フラメンコが再び導入され、絶妙な味わいを加えている。
他にも言いたいとこは沢山あるのだが、簡単に言うと「天鵞絨症綺譚」は 偉大なるバンドによる
偉大なるアルバムなのである。

入手は簡単では ないかもしれないが、国内で売られているので(私はグレッグ・ウォーカーの Syn-Phonicで買った)、
探してみる価値は充分にある。 フュージョン・マニアならこれを入手しないとは怠慢の至り。

これを聴け!

*清水義央と上田達郎には永きに渡る忍耐と協力をいただきました。
特別に記して感謝します。「愛してるぜっ…」(原文ママ)


ピエール・タソーネよりその2(デンマーク在住フランス人?)

前のメールを送ってからCDを注意深く2-3回聴くことが出来ました。コメントを送ります。
最初の曲について、完全に前言撤回します。
ハードロック的攻撃性には驚かされたものの、 二回目に聴いてみると最初に見逃した天ガいくつか見えてきました。
総体的にヘビーで あるものの、全体を通じて細かいリズムパートが全体の流れに抗うように刺激的要素を加えたり、
あるいは別の味わいを与えたりしていると思いました。
これは、私にとってはアルバム全体の コンセプトを形作る物だと思えました。
つまり、細部へのこだわり(リズムパターン、ポリリズム、 音の質感や効果、楽器の多様性)と、
シークエンスの流れへの大きな恣意的操作性(補完し、 または拮抗し、あるいは上書きして行くような)
が感じられます。 また、煌き踊る無数の真珠を刺繍した色彩豊かなパッチワークの織物のように視覚化できます。
より細かく見て行くとそれだけ全体のキャンバスに描かれた姿が見えて/聞こえてくると言って 良いでしょう。
音響的体験は実に強いもので、これだけの創造的産物を消化するには時間がかかります。

最上級の言葉というのはあまり使いたくないのですが、率直なところこの作品はケンソーが世に 送り出した作品中、
最高に複雑な物であると言わざるを得ません。
あまりにも多くの細部があり、 一時に理解しようとするとパニック状態に落とし込まれます。
あまたあるリズムの組み合わせから ひとつをつかんで数値的に分析しようとするとそのバックで鳴っているギターの音に
惹きこまれてしまい、 そちらに意識をもって行かれたときにはにすでに分析しようとしたパートは過ぎ去って行った後、
という仕儀になります。

ここで少し特定の曲について。
「Tjandi Bentar」に次いで気に入っているのが「夢想用階段」 と「Echi dal Foro Romano」です。
この2曲は別の曲と言うよりはひとつの曲が美しいブズーキに 導かれてヨーロッパ風のクラシックパートと
アメリカ風「ホー・ダウン」へと展開して行くように 聞こえます。
「Tjandi Bentar」に聴けるシンセサイザー・パッチはあまりに美しく、
またギターの コードによってすばらしくサポートされ、そして激しさを増して行く。
「禁油断者マドリガル」と「Tjandi Bentar」にはこうしたケンソーの典型的メロディー・アプローチが 聞かれ
、私には大変新鮮で嬉しく思えます。 M-10,11,12は緊密に関連した曲であるように思えます。
それがM-11が「夜のドッペルゲンガー」 と呼ばれる所以なのでしょうか。
いずれにせよメロディーのフレーズにはマイナー7th/9で終わる 共通性があるとみました。

ケンソーの皆さん、このすばらしいく、そしてパワフルなアルバムを作り上げられたことに賛辞を贈ります。
こちら(デンマークはもとよりヨーロッパにおいて)でもっと紹介されるべき作品です。
シャッポを脱いでOKサインを出さずにはいられません!

ピエール

P.S.: 所々でツェッペリンへ「ウインク」を送っているように見えると思うのは私だけでしょうか? (tracks 4, 12)

以上が海外からです。

次に、日本のファンからのメールもひとつ掲載します。 新作「天鵞絨症綺譚」心して聴いています。
一度や二度聴いても全体がわかるはずもなく(当然ですね)、今は音の中をたださまようように聴き入っています。
はじめてこの作品の楽曲群について受けた印象は、「どこにもなかった音楽」ということでした。
過去私が聴いたこともなかった音楽が、滝のように激しくあふれてきて、ひたすら圧倒されています。
前作「エソプトロン」は私の愛聴版で、これを生で聴きたいもんだと常々思っていますが、
Gentle Giantっぽい部分があるなとも思っていました(単純に音の質が似ているように感じたということです)。
最新作は他に並ぶものがないほどオリジナルティにあふれていると感じます。
いまこの時代にこれほどのオリジナルティと感性、緊張感を持ち続けられるというのはどういうことなんだろう
と考えてしまいます。それはきっと清水氏をはじめ5人のメンバーがスタジオにこもったミュージシャンではなく、
絵画、文学、ジャンルにとらわれない音楽、様々な分野の自然科学について感性を研ぎ澄ませているからなんだろうな
と思いました。

The Battle of Evermoreも楽しく読ませてもらってます。
カンディンスキー、ゴッホ、ゴーギャン。音楽関係ではPFM、YES・・・・。
清水氏の語り口は謙虚であるけれど、それらの作品とKensoの作品群は比肩する、
どころか凌駕するくらいに私は思っています。

個人ごとですが、感性が鈍り情熱を失いかけている時、優れた芸術に触れることは、
本当に私に生きる活力を与えてくれます。Kenso、応援してます。
私は3rdからのちょっと遅れたファンですが、KensoはGenesisと並んで私の部屋でかかっているんですよ。
しばらくは夜毎この最新作を(住宅環境のせいでヘッドホンで)Loudに鳴らしてみます。

富士山麓のいちリスナーより


みなさん、ありがとうございます。
新作の完成およびライブからだいぶ日が経ち、
「天鵞絨症綺譚」をやっとクールに見ることが できるようになってきました。
上記のような昔からのファンだけでなく、kensoを聞く前にはまったくこういった音楽を 聞いてなかった方からの感想も

お待ちしております。
9月27日

The Battle of Evermore TOP


●2002年バリ島旅行記

7月8月と、バリ島の夢をよく見た。
バロンというバリの聖獣(日本の獅子舞の獅子みたいな生き物)のかぶりものをして、
小学校の授業参観に行き、生徒たちを驚かしてやろうと教室のドアのところで
待っていたら、反対側のドアから本物のバロンが入ってきて、こちらへ向かってくる
などという不可思議な夢も見た。

2002年8月22日の夕刻、私と家族を乗せたJAL729便は、バリ島デンパサールへ向けて離陸した。
これまで3回のバリへのフライトはいずれもガルーダ・インドネシア航空で行ったのだが、
デンパサールへの往復直行便が名古屋空港からになってしまう(昨年、一昨年は名古屋から行ったのだが)。
今年から?JALが成田からの往復直行便を再開したので、それを利用した。この辺りの事情は、
私の素人情報であるから、もしこれからバリ旅行を計画する方は、御自分で調べてください。
行きだけ直行で、帰りはジャカルタへ寄ってからという便もあるので。
それにしてもどうして、毎年夏にバリへ行くことになってしまったのか。
3年前、夏休みの家族旅行を計画していて、そろそろ子供も大きくなってきて、6〜7時間のフライトなら
我慢できるのではないだろうか、それなら海外へ、でもヨーロッパは遠いし、、、、じゃあ
ガムランというのを一度体験してみたいからバリにするか、、となったのが始まりだった。
つまり、3年前にはそれほどガムランに入れこんでいたわけではなかったのだ。もちろん好きだったし、
昨年の9月ころのこのコラムにも書いたけれど、かなり以前からレコードやCDは持っていた。
しかし、それはアイルランドやインドやギリシア、中国、ブルガリアなどなど、私の民族音楽趣味の一部
にすぎなかったのだ。

まず1年目は、何がなんだか分らず、ただガムランやケチャを見て(今思えば、かなり質の低いものも
あった)、「面白い、面白い」と感動していたのである。帰国後、民族音楽学者/小泉文夫先生の本を
読んだり、日本のガムラン第一人者の皆川先生の本を読み直したりしているうちに、だんだんと
音楽的興味がかきたてられていった。
そして翌年のバリ再訪にむけて、こんどはしっかりとガムランの情報を仕入れ
ていった。私の本当の意味でのガムラン・ショックは、2度目のバリ旅行で見た有名楽団のひとつ
SEMARA RATHIだった。「す、す、凄い!去年見たものは惰性と手抜きだったのか!」と思った。
翌日、SEMARA RATHI /SEMARA DANAと書かれたCDを購入、ただしSAMARA DANAが何を意味するか
などは全くわからず、またバリ国内におけるCDの流通事情もよく知らなかったので、それ以外には
何となくよさそうなものを買っただけだった。ただし、この年は、ラッキーなことに、
我々の滞在中にガルンガンという大きなお祭りを経験できた。
ガイドさんが実家の村に連れていってくれて、そこでヒンズー教の儀式に参列させてもらえ、村びとや
子供が演奏する素朴なガムランに触れることができた。この辺りから、ガムランの魅力にとりつかれて
いったように思う。
更にその冬に、盟友小口健一が初めてバリを訪れ、やはり感銘を受け、
帰国後お互いに情報交換するようになって加速度的にバリ熱が高まったのである。
小口は初バリから数カ月後には「天鵞絨症綺譚」収録の
名曲Tjandi Bentarを作曲。皆川先生のセミナーにも通った。
そして2001年夏、文献やインターネット、更に小口情報でパンパン状態の私は3度目のバリ旅行。
この年は、伝統あるグヌン・サリとサダ・ブダヤなどを見ることが出来、ますますその魅力にとりつかれて
いった。CDも、こんどは狙っていったものを購入したが帰国後は「天鵞絨症綺譚」のレコーディングで
忙しくずっと聞けなかった。でも、心に誓っていた。「もういちどバリに行くぞ」と。

そして今年の8月、小口が私の数週間前にバリを訪れたので最新情報を聞くことができ、また私も
図書館やインターネットを駆使して研究した情報をたずさえ、4度目のバリとなったのだ。
(ちなみに小口も今年、初めてSAMARA RATHIを見て、ショックを受けたらしい。やっぱりね。
小口は絶対S.RATHIを気に入ると思っていたよ)
今年は、昨年VIDEO CDというよく分らないメディアだったので買うのを控えておおいに後悔した
前述SAMARA RATHIのSpirit of Bali Vol.1をなんとしてもゲットせねばならないし、その他にも
数種類でているVIDEO CDをできるだけ買ってくること、ガムランの演奏に関する本を探すこと、
昨年、偶然NHKで見た(アメリカのテロ関係の臨時ニュースの合間につなぎで流れていた)ジャンゲルという
ジャンルのCDかカセットも探すことを自分に課した。日程的にケチャを一回、あと3〜4日はガムランを
見ようと思っていた。

さて、夜11時ころ、デンパサールの空港から外にでると、なんとも懐かしい熱気が迎えてくれる。
そして、バリの友人がレンタカーで我々を空港から4〜50分離れた、まさに芸術の村Ubudへ
連れていってくれるのだ。
翌日、昼間はプールに入ったり、早速CDショップを漁った後、海外公演も多くこなしている
有名楽団TIRTA SARIの公演会場へ向かった。この楽団の知名度は高く、普段より早めに会場に
ついたのだが、かなり混雑していた。でも、素晴らしかった!ガムランの演奏形態にはいくつか
種類があって、それぞれ構成楽器も違うのだが(この辺りは専門家ではないので、間違っていたら
ごめん)、私が今迄みたSAMARA RATHIもグヌン・サリもゴン・クビャ−ルという形態で、これは
閃光を意味するクビャ−ルの名の通り、圧倒的なスピード感と火花が散るような華麗な技が炸裂する
もの。ところがTIRTA SARIはスマル・プグリンガンといって、王の寝室で演奏されたという、
これはまったく受け売り知識で恐縮です、、、正確なところは御自分で調べてください。

TIRTA SARIではグンデルという比較的柔らかい音を出す楽器が、非常に特徴的なアンサンブルの核と
なっている印象を受けたが、そのフレーズのリフレインに、私は初めて「トランス感」というのを
味わった。踊りも素晴らしく、「ああ、私はどちらかと言えば、クビャ−ルよりこっちのほうが好きかも」
と大きな感動を覚えた。さすがに海外公演の経験豊富なバリ指折りの楽団、演出も効果 的であった。
翌日は、UBUDという町の中心地近くにあるサラスワティ寺院で、2001年から
始まった新しいガムラン楽団、Chandra Wirabhanaを見た。これは、クビャ−ルと思われるが、
何しろメンバーが若く、高校生くらいなのではと思われる男の子も混じっていた。
しかし、侮れない。もちろん、演奏の深みや熟練といった部分で、前日見た大御所TIRTA SARIとは
比較にならないものの、リーダーであるクンダン(という太鼓)奏者のオリジナル曲があったりして、
これから世界へ出てゆくPFMみたいな気概の感じられる好楽団だった。普段、あまり見ることができない
らしい演目もあって、しかもまだあまり知られていないため最前列で見れて満足。

実は、この日の午前中、ALMAという芸術総合施設みたいなところで、ガムランの体験レッスンを
私は受けた。小口も、同施設で数週間前に受講しており、「KENSOの曲を初見で演奏するくらい
難しい」との恐怖情報を教えてくれたので、用心していったのだが、本当に難しかった。
特にミュートのタイミングが無茶苦茶難しい。
でも面白かったあ!
基本フレーズを繰返していたら、先生がなんとも言えないハーモニーを重ねてきたり、
通りがかったバリ人が他の楽器で加わってきたり。
更に、レッスンが終り、美術館を見ていたら、ガムランの音が聞こえてきたので音のするほうに
行ってみたら、小学生たちが、その日の夜に行われるステージにむけてリハーサルをしていた。
「これが、こどもの演奏!?上手いし、余裕でパフォーマンスしているやつもいる!」と驚きつつ、
しばらく見ていたら、クンダンを叩きながら子供達を指導している先生が、さっき私に教えてくれた
先生で、私をみつけると視線と顎で「ひとつ楽器が空いているから、やってみろよ」と言ってくれたので、
私、清水義央45才は、小学生ガムランの末席奏者となった。
この体験は大きかった。ガムランの楽器は、同じタイプのものでも少しずつ西洋音楽でいうところの
チューニングをずらしてあり、それが独特のモジュレーション感を生むのだが、その中で演奏していると
本当になんともいえない快感を感じた。とはいえ、与えられたフレーズを叩くのに必死で、
おまけに私が間違えると前にいる5、6才くらいの男の子が「あ、間違えた」って顔して私を振返るのだ。
でも、感謝してます。子供楽団のみなさん、ありがとうね。邪魔してごめんなさい。

いやあ、面白いね。実際に叩いてみて、初めて今迄本で読んで?????と思っていたことが
少しだけ分かったような気がする。単に西洋音楽の平均律のド、ミ、ファ、ソ、シじゃないんだなあ。
小泉先生の著書「音楽の根源にあるもの」だったか皆川先生の「ガムランを楽しもう」だったかに、
ガムランのチューニングを西洋音楽のそれと比較してある興味深い図があったことを思いだした。
この体験レッスンをしたため、それからガムラン奏者の手許を見ていても、何が行われているのか、
以前よりわかるようになった。

少し話はそれるが、やはり私たちはアジアの一員でありながら、そしておそらくアジア的なものを
根底に持っているにもかかわらず、子どもの頃からいわゆる西洋の音楽に多く触れ、
また学習してきたんだなと最近つくずつ感じる。
私の生業である歯科医療に関しても、大学では基本的に欧米の医学を学ぶわけで、
東洋医学的なアプローチを自分で本を買って学ぶ場合、どうしてもそれぞれの内容を西洋医学の概念に
あてはめたり、置き換えたりして捉えようとしてしまう、、、、そうすると更によく分らなくなるのに、、。
西洋医学というのは、人間という総体を疾病や臓器というもので分けたことで大きく
発展してきたといわれるが、西洋の音楽にもそういう側面があるのだろうか。
ガムランに触れるようになって、そんなことも考えたりするようになった。
さて、話をもどそう。

若い楽団の翌日は、まだ何を見ようか決めてなかった。
一応、ウブド王宮という有名な場所でジャヤ・スワラというのを見ようかなとは思っていたのだが。
その時、2日前にTIRTA SARIの会場で配布されていたチラシの存在を思い出した。
Special Programと書いてある。
演奏はTIRTA SARIとその弟分としてスタートしたGENTA BHUANA SARIである。
もしかして、これってジョイントコンサートってこと?チケット代も普段より少し高い。
凄いかも、、、、、。
ホテルのフロントに頼んで、電話で内容を聞いてもらうと、年に一度のスペシャルイベントだとのこと。
「これは見るしかない!!」
夕方、会場に着いてみると、日本人観光客は少ない。
「ああ、臨時公演だからガイドブックに載っていないんだな」
2日前のTIRTA SARI の定期公演より全然空いていて、しかもホテルから席をリザーブできたので、
このラッキーなライブを最前列で見ることができた。
す、す、凄かった。演奏も踊りも気迫が違う。踊り手の視線が恐いくらいだった。
やはりそれぞれの楽団が競うという感じがあるからだろうか。
ともかく圧巻!
また、ほぼ交互に両楽団が演奏するので、スマルプグリンガンとクビャ−ルの違いも、
音色、音量、アンサンブル、踊りとの絡みなどなど、分りやすかった。
ともかく、この日の特別公演は、いままで見たガムラン公演の中で最高にエキサイティングな
ものであった。

さて翌日、清水家御一行さまは、芸術の村ウブドからデンパサールを経由して、
バリ南部のリゾート地ヌサドゥアへ向かった。
途中、葬式も少し見れた(バリの葬式はかなり特殊な方法で行われるが、詳細については各自調べたし)。
また、小口開拓のデンパサールのCDショップに行き、ウブドで買いそびれたvideo cdやジャンゲールの
カセット(CDはリリースされてない模様)などを購入。ウブドで75000Rpで購入したのと同じ
video cdが35000Rpで売られていたりして、「けえっ、損した!」と思ったが、小口との間で
コンセンサスを得ている”バリにおけるCD購入の鉄則”は、
「次の店にあると思うな。欲しいと思ったら買っておけ」であったので、まあしかたない。

それにしても同じ製品が35000Rpから185000Rp(これは絶対ぼったくり!南部のリゾート、ヌサドゥア
では絶対にCDは買わないように)という価格幅があるのには驚かされる。ちなみに1円=72〜73Rpである。
もし、ヌサドゥアで両替する場合、メインゲートを出て、道の左側、TRAGIA スーパーマーケット近くの
両替屋が異様にレートがよい。
おお、そうそう、ウブドの大変素敵なホテルIBAHでは部屋にCDプレイヤーが置いてあり、
フロントでCDを貸してくれる。私もガンブ−というジャンルのCDを借りて聴いたのだが、これがかなり
goodであり、そのホテルの売店にも売っていたのだが、なんとなく値段が高そうだったので
「後でいいや、他でも売っているだろう」と、鉄則を破ってしまい、その後どこの店でも見かけず、
大いに後悔していた。でも、CDのジャケットやブックレットがバリ製とは思えない丁寧な
作りだったことを思い出し、ヌサドゥアのホテルからIBAHに電話して、そのCDの正式タイトルと
レコード会社を調べてもらい、帰国後インターネットで注文できた。アメリカのレコード会社が
リリースしていたのだ、やっぱりね。だって、バリの国内制作のCDのジャケットや
文字情報って、結構いい加減だもん。
やっぱ、バリ製じゃなかったんだ。というわけで一件落着。

ヌサドゥアについた日には、ウルワトゥという断崖絶壁の場所でケチャを見た。ガイドブックの写 真などから、ウブドで定期公演をしている団体に比べて人数も少なそうだし、あまり期待していなかったのだが、
人数が少ない分、誰がどのリズムを歌っているのかが明確で、思ったよりよかったし、なにしろインド洋に
沈む夕日をバックに演じられるという雰囲気が旅情をかきたててくれた。
その後、数日間をヌサドゥアで快適にすごしたが、ここではウブドのように見るものもなく、
唯一、寺院のお祭りで村人たちの演奏する祭礼ガムランをみたことくらいかな、音楽的には。
夜、レストランとかで、カセットやCDの演奏をバックに踊子がパフォーマンスしていたが、
これは私がみてもひどい代物で、ウブドで素晴らしい体験をしただけに「止めればいいのに」と
さえ思った。ちなみに、ヌサドゥアのCDショップでは、例えばフィルコリンズとかのつまらないCDが
商品の中心で、つまらないCDが大手をふるっている日本のCDショップと同じ様相を呈していた。
さすがにB´Zの「熱き鼓動の果てに」のポスターはなかったよ。それにしても、よく恥ずかしくないな、
こんなタイトルつけて、いい年して。

そんなこんなで、今年もよい経験をたくさんさせてもらった。
夜明けの空の変化と虫、蛙、鳥のオーケストラ、心なごむ木漏れ日、小川のせせらぎ、満天の星
などなど、自然も堪能した。
23:50、JAL720に乗り込む。日本は台風が来ているとのことで、
空路を少し変更、いつもよりやや長い帰路であった。
成田には朝8時に到着、自宅には11時ころだったか。
そして、その日の夜には早速、神奈川県保険医協会主催の「抗菌薬の使いかた」という研修会に
出席、むりやり現実に自分をもどしたのであった。
ああ、また行きたい!
ああ、目に浮かぶよ〜〜Tjandi Bentar、寺院の彫刻、明け方の海と漁師。

8月31日
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●ロックする衝動を与えてくれた音楽

こどもが大きくなってきて、ミュージックステーションのような「クズ番組」に
興味を示すようになってきている。おかげで日本の流行歌を
知ることができる。
本日も仕事から帰宅すると、たしかSPEEDとかなんとかいう餓鬼集団の一員だった女が
救われないほど魅力に乏しい歌を歌っていた。その後、確かvo,ds,keyが正式メンバーらしく、
バックにホーンやストリングスを従えた人たちが、
どこかで聞いたことのあるメロディと歌詞をつなげただけの
反吐を吐きそうなくらいつまらない馬鹿歌、、、。
おまけに番組のエンディングテーマは、鼻'吸のギタリストの平凡な曲、、、、これでもかというくらい
カスな音楽の連続であった。
あああって感じ。
さて、BGMはLou Harrison「La Koro Sutro」でいきますか、、。

最近のヘビーローテーションは、やはりガムランかな。
昨年の夏にバリ島で買ってきたCD、あの頃「天鵞絨症綺譚」のレコーディングで忙しく、
開封していないのもあったので、それをかけることが多い。
院長室では、川島さんから送ってもらったフラメンコ関係の貴重音源をがんがん鳴らしている。
ガムランはだいぶ多くの種類を聞き込んできたので、楽器編成の違いや楽団ごとのーーあくまで西洋音楽で
いうところのーーチューニングの違いなども聞き分けられるようになってきて実に楽しい。
1930年代、レコードで耳にしたガムランに魅了されバリにわたり、その音楽の収集と採譜をし
(ガムランの採譜というのが、いかに大変な作業であったことか!)、
バリの音楽の保存と発展に大きく貢献したコリン・マクフィーの編集による?
(違うかも、輸入ものなので詳細不明)1940年代の音源も
音はもちろん悪いが、演奏は実に素晴らしかった。
また、現在普通の書店で購入できるバリ関係の書籍に飽き足らず(もちろん神保町の
アジア書店も行きましたよ)、小口に教えてもらったバリの検索サイトで専門的な文献を探し、
自宅近くの市立図書館にて検索、なければ横浜中央図書館から取り寄せてきて読んでいる。
なにやら、生理学の研究室に在籍していたころを思い出し、これまた楽しい。
面白いよ〜〜ガムラン。
先週、バリから帰ってきた小口に、貴重情報を色々聞いたので、
ますます盛り上がってきました。

さて、じゃあ私はロックは聴いていないのか。
いや、聴いてますよ、時々。
今日は、その話。
数週間前、ある原稿を書くのでBGMは何にしようかなとCDの箱を眺めて取り上げた一枚、
それは“QUEEN”のセカンド。
エソプトロンの販促グッズのナンバー2だったかで作った「ロック切磋琢磨」に書いたかどうか
忘れたが、このQUEENの2枚目が私は好きでねえ。
QUEENの曲の中で一番好きなのは3rdのBriton Rockか4th のボヘミアン・ラプソディなんだけど、
アルバムとしてはダントツに2ndが好きなんだ。

私は黄金時代のロックを聴いて「懐かしいなあ」と感じることは皆無に近い。
それらは、30年以上にわたって、いつも自分の中で鳴り続けていたから、、。
既に自分の骨格であり筋肉であり血液だから、、。
多分、クラシックを専門としている人も、バッハやベートーベンを聴いて、
「懐かしいな」と感じることはないんじゃないかな。

確かにこんなこともあるよ。
後輩のA氏は昔はZEPとか好きだったって言ってたけど、「いや、清水さん、B'Zかっこいいですよ」
だって。つまり、彼と私は同じZEPリスナーだったんだけど、きっと違うところをかっこいいと
思って聴いてたんだ。ロックとの関わり方も実は違っていたんだ、きっと。
まあ、彼はロックの時代が終ったら、さっさとトレンドへ流されてたからね。
音楽が無くては生きていけない生活はしてないからね、だからB'Zなんて聴いているわけだし。
(BZやサザンて、テレビや車のラジオから流れてくるだけで気持ち悪くなるし、
なぜか恥ずかしい気分になる。自分もこれを聴いているアホの一員だと一瞬でも思われるのはイヤだ)
A氏にとって、今、QUEENを聞くことは、懐メロだろうね。

しかし、私にとっては違う。
自分でもこんな音楽を作りたい!
こんなロックバンドを作りたい!
と、思わせてくれたものを改めてじっくり聴き直すのは意義のあることなのだ。
そしていまだに発見があるのだ。

上記のように最初はBGMとして聴いたのがきっかけで、頭の中で数日間、そのメロディが
鳴り続けていた。そして数日前、家族が寝静まった後、ヘッドホーンでひとつひとつの音を
確かめながら聴きました。すごい、すごい、やっぱりすごい!

自分が如何にブライアン・メイに影響されてたかを再認識したし、ジミヘンの複数ギターの
アンサンブルとの共通点などについて、興味深い発見もあった。もちろんメイがジミから
影響されていたのは有名な話。
しかし、いい音してるなあ、このギター。
何百年だか暖炉に使われていた木を使って、ブライアンが自作したとかいうエピソードの
信憑性はともかく、実にいい音している。
ラフで衝動的なところから、繊細なタッチまで、プレイも素晴らしい。
ああ、そういえば、「ロックギタリストで、かつ工学博士ってかっこいいなあ」と
いう憧れが「売れないロックギタリストで医学博士」の私を作ったんだった。
研究室に在籍する動機のひとつだったのだ。若かったなあ。

みなさんも聴いてみてください。
もちろん音はモコモコしてます。
でも、巷に溢れる、音ばかり良くて内容の無いオバカなアルバムなんてつまらんでしょう、
ケンソ−ファンのあなたは。
だったら、問答無用、QUEENのセカンドを聴きましょう。
アナログLPでは、B面一曲目だったオルガ・バトルの逆回転サウンドが、どの部分を
逆回転したもので、それがどの位置から、どのように正回転へ繋がっていくか、
それをよりスリリングにするためにどんな隠し技を使っているか、などなど偏執的に聴いて
くださいね。どの曲の何分何秒では左の何本のギターが鳴っていて、そのトーンは
ファズ的なざらざらしたものだが、その時右から現れる柔らかいトーンのギターは
どのようなボイシングで重ねてあるとか、、、、筆記用具片手に聴くのも勉強になります。
コンピュータ・レコーディングなんて無い時代、しかもno synthesizerってわざわざ書いてある。
「天鵞絨症綺譚」の中のギターダビングによる和音も、その原点はブライアンメイになるのかも。
そう言えば、カセットテープレコーダー2台でピンポン録音して「God save the Queen」を
コピーしたり、これに似たオリジナル曲を作ったりしてたな、18才くらいの頃。

ところで、
「僕も歯医者をやりながら音楽やってます」なんていう人から連絡をもらったことがある。
しかも複数の人から。
最初は私も何か協力してあげようと思ったのだが、話してみると、実に甘いんだなこれが。
はっきり言おう、そんなことではクリエイティブな音楽を作るのは無理無理。

そうだ!
これから、私に協力を求める人には、QUEENについての口頭試問を行うことにしよう。
コードやメロディは勿論、ブライアン・メイのギターアンサンブルについても
重箱の隅をつついておいてね。
でも、ZEPについての問題は、もっと難しいからね。
なんてったって、kensoはZEPのコピーバンドからスタートしたのだから。
「幻惑されて」のバイオリンの弓を使う部分のエコータイムは?とか。
くっくっく、、、、、。問題は無尽蔵に作れるぜい。
「天鵞絨症綺譚」にもZEPの有名曲が一瞬サンプリングされて使われているが、
お気づきですか?

さて、来週はついにバリ島へ出発。
故武満徹氏曰く「切り取れない音楽」ガムランを今年も体験してきまっす!

8月10日
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●新たなスタート

早いもので、もうライブを終えて3週間経つ。
ライブの収支関係の整理やライブのために滞っていた仕事に追いまくられ、
またメンバー用にDATやらビデオやらのダビングもしなければならず、
あわただしい毎日であった。もちろん父親業も相変わらずで、こどものピアノの
グレードテストではその結果が心配で心配で、、、そりゃ親としては合格させてあげたいけど、
挫折経験も大事だし、いやちょっと待てよ、挫折経験はもっと先でよいだろう、今は達成感を
味わうことで人生に対して肯定的な気持ちをもたせたほうがよいのでは?、、でも良いのではって
言ったって合否を決めるのは私ではなく、、、、、、。いやあ、本当に自分の試験のほうが
どれだけ気が楽か、、、これを読んでいるお子さんをお持ちの方には分かってもらえるでしょうが。
というような毎日です。
今度の日曜には朝9時から夜まで、自宅から2時間ちかくかかる会場で歯科のシンポジウムがあるし、
こどもの夏休みの課題図書をいっしょに選んだり、自由研究のテーマも考えないと、、、
と思っていたら「パパ、今年の研究のテーマはバリ島と日本の生活の違いにしようと思う」なんて
子どもに言われたりして、「おおっ、お前もそんなことを言えるようになったのか、うううう」
となったり、翌週の休診日には家族で演劇を観に行く、あれっ?チケットは、、、
いやはや暇という文字は私の辞書にはないのかって感じ。

でも忙中閑あり。本日、誰にも邪魔されずに楽器を弾く時間が少しだけあった。
教会のオルガン当番のためや先日のライブのアンコール用に練習することはあったが、
曲を作るためにピアノに向かったのは実に久しぶりだ。「美深」や「禁油断者マドリガル」を軽く
弾いた後で、ここ数日、通勤途中に頭を占拠しているフレーズを具体的に探ってみる。
いい感じだ。
でも、曲と言うにはまだまだ。いつもの通り、完成は気が遠くなるほど先だろう。

心ない聴衆の自己中心的な言葉をふと思い出す。
また「今回のケンソーの新作は、やりたいことが分らない」なんて言葉も思い出す。
分らないのは貴方の感性の問題だろう、俺に言うな、自分を磨けとか思いながら、
そうした生活の中で生じた小さい軋轢感や「馬鹿野郎!」と感じる事柄への
エネルギーを作曲へ向ける自分がいる。これは昔から変わらない。

町のCDショップに貼られたふたり組ロックユニットのアホ面ポスターに、
心の中で唾を吐きかける自分がいる。
これは昔とは違う。昔は本当に唾をかけていたから。

小口はもうすぐバリ島へ旅する。私も小口が帰国して間もなくバリ島へ行く。
村石も光田も三枝も、それぞれ頑張っていることだろう。
おのおの全力で事にあたり、その中で生まれた何かをまたkensoに持ち込んでくれることだろう。
こんなメンバーと出会えて幸せだ。
そして、もちろん、こんな実は極めて個人的な音楽を支持し、自分が生きる活力にしてくれている
ファンがいることも有り難いことだと思っている。
尊敬するパットメセニーの言葉「君の曲が好きだ、と言ってくれるのは、もちろん嬉しい」
は全く同感だ。
でも、私にとって音楽を作ることは自己表現であり、自己同一性の探索であることは変わり無い。

小口に奨められた本「宇宙を映す身体:アジアの舞踊」、とても面白い。
川島さんからはフラメンコ関係のMDが5枚届いた。
光田が先日の打ち上げの時に言った
「こんなに長く続いているバンドなのに、いまだにメンバーどうしで刺激しあえるっていうのは、
素晴らしいことですよ」という言葉を思い出した。
さあ、また今日から第一歩だ。

7月19日

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●難波弘之さんのHPとのリンク

日本を代表するロックキーボーディストのひとり、そして
私とも親交の深い難波弘之氏のホームページとリンクしました。リンク先はこちら
2002/6/26のライブレポートおよび、その後の展開について
氏が書かれています。ぜひ、読んでまた考えてください。難波さんとの
20年にわたる親交とエピソードについて、いずれ書きたいと思っています。

7月15日
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●コンサートを終えて

ワールドカップも終ったようですね。
もともと興味がないので、TVから
「あああ、ついに終ってしまいましたね。いつかこの日がくるとは知っていましたが。」
なんて声が流れてきても、何の感慨もわかない。
そんな他人のやっていることより、自分のライブ、
自分が全力で臨んだライブが終ってしまった虚脱感のほうが当然大きい。

自分の中にぽっかり穴が空いてしまって、という月並みな表現が正に今の私の心境です。
コンサートの経理関係の書類をまとめなくてはという現実的なこともあって、
まだコンサート自体を振返る心理的余裕はないのですが、ともかく脱力感いっぱいの毎日です。

自分としては、このコンサートはどうだったのか、まだじっくり考えてませんが、
周囲の反応を聞く、見る限りはとても満足のゆくものだったようです。

実を言うと、私自身、「やったア!!!」という気持ちはあるのですが、では何が「やったア」
なのかを突き詰めないと、次のステップのためにも。

音楽ライターの内田さんがこんなメールをくれました。

昨日のパフォーマンス、最高でした。ザクザクと刻むギター・リフ、力強いストロー
ク、パワフルな曲の数々。その場に居合わせて、リフに合わせて心臓がバクバクいっ
ているのが感じられました。新曲もライヴで聴くとまた格別でしたね。川島さんの
ヴォイスも鳥肌ものでした。今のケンソーには野獣的なパワーを感じますね。年取っ
て無難な人生を送る人が多い中、いつまでもギリギリのエッジでワクワクするような
音楽を作り続けてほしいです。「Good Days Bad Days」は本当に最高のテイクでした
(ケンソーの曲、特に「スパルタ」と「夢の丘」からは強い「旅心」のようなものを
感じるのですが、川島さんのヴォイスでそれが頂点に達していたような気がしま
す)。TVカメラが入っていましたが、DVD化でもしていつまでも後世に残してほしい
と思います。本当に素晴らしい夜をありがとうございました!!

みなさんからのアンケートも楽しく拝見しました。
私と同世代の方やマニアの方からのだけでなく、今迄、こうした音楽に触れたことの無かった
若い女性からの素直で可愛いメッセージもとても嬉しかったです。
打ち上げの席で、アンケートの一部を御覧になった難波弘之さんから、そうした若くて純粋な
気持ちで音楽に接している、あるい良い音楽をまじめに探しているリスナーに対して、
我々は行動を起こすべきではないか、という電話をいただきました。
「清水くんのMC、我々の目の黒いうちに、、っていうのすごく良かったと思う。」とおっしゃる難波さんの
提案、私も具体的に考えようと思います。

それに対して、まだこういうことを書くかXX者め!という内容のものもあり、
そう言う人は、3年前エソプトロンツアーをめぐる諸々の事を知らないのかなあと思ったり。
つまり、我々の音楽が他人の意見に影響されることはないということであり、
音楽その他、芸術が自己表現であるということが、未消化な難しい言葉を使いまわしている
そうした人には全然、分かっていないということ。
3年前のところを見返して欲しいのだが、たとえば観客の導入の仕方とか、即売の混乱を防ぐアイディアとか、そうした音楽以外の意見は、今後のコンサート制作のためにじっくり検討しよう。

しかし、あの曲では、別なギターを使ったほうがとか、コンサートの曲順とかについての意見を
いまだに書いてくる人は、もう呆れて物が言えない。我々がそうした意見に影響されることは一切ないので、
お互い時間の無駄はやめようではないか。大切なメールだけでも膨大な量がくるのだ、海外からも。

我々と貴方がゴッホとゴーギャンのような関係なら、そうしたことも有効だろう。
しかし、貴方はいったい何様?どれほどの成果をあげてきたの?

抽象画の父と呼ばれる、私の大好きなカンディンスキーの絵に対して鑑賞者が
「この赤はもう少し淡くしたほうがいいのではないか」などと言うことがどれほど馬鹿げたことか。
その赤は、他でも無いカンディンスキーが自分の中から溢れ出てくるものと闘いながら
選択した赤なのだ。なぜ、いい年をして、そんなことが分らないのか。

kensoの音楽はもちろん、カンディンスキーの芸術ほど高いレベルのものではないが、音楽自体に関しては
私、小口、光田、三枝、村石で決めるのであり、レコーディングやライブについては、
信頼を年々深めてゆくスタッフの専門的なアドバイスを聞き、ディスカッションしながら
決めてゆくのだ。それ以外のものが入る余地は全くない。
その結果がリスナーにどう響くかは分らない。でも、我々はギリギリまで真摯な姿勢を貫くことが、
お金を払って聞いてくれるリスナーに対して何よりの誠意だと信じている。

一方、若い方の思いもよらない感想は、実に励みになる。
実は、私にしたところで、30年以上も前に初めてピンクフロイドを聞いた時、
「よく分らないけど、面白い。気持ちいい。何かが、ありそう。」と感じたにすぎないのだ。
そうした先入観の無い、音のみに反応することが実は、もっとも健康的なプログレッシブロック的なる
音楽への導入であると思う。

さて、次なる展開をどうするか。
今は、まったく白紙だ。
しかし、このライブの反省が新たな道を提示してくれる可能性は大きい。

6月30日

天鵞絨症綺譚について、或いは天鵞絨症についての私のコメントは、
「ユーロロックプレス」、「読売新聞6/19夕刊」、7月中旬発売の「ギターマガジン」を
参照して各自考えて欲しい。

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●最高のバンドKENSO,ライブまで秒読み

ちわっす。
昨日、歯科医師会関係の集まりがあってくさ、そこで偶然、KENSO初代キーボーディストの
大矢すすむさんに会ったんよ。
「おおお、清水、25周年記念の時はありがとね。いや〜もう一生の想い出になったよ。
それにいろいろCDも送ってくれてありがと、ありがと」
その瞬間、私は、あることを思い出し冷や汗がでてきた。大矢さんに25thライブのビデオを
送るのを忘れていたのだ。
「大矢さん、すみませんね。そう言えばライブのビデオ、送り忘れてましたよ。
25thライブの後も忙しくて、Los Angelsでのライブの準備とか、それが終ったらもう
レコーディングの準備、LAでのライブのトラックダウン、そしてレコーディング、、、、、。」
「ははは、いいよいいよ。いや、キーボードマガジン見てさあ。あ、新作出たんだと思って、
今日この会で会えるかなって思ってたんだよ。」
というような会話が続いたのだけれど、嗚呼!本当に忙しかったなあ、この2年間、いや3年間、いや
4年間。過労でダウンしたことも何度もあったよな。特に25thの時は、3つのフォーマットの練習で
疲れ果て、ライブ3日前に点滴してもらってたな。まあ、でもこの最高のバンドの活動のためには
仕方ないことだ。今回もライブ10日前になって、いろいろと問題を生じてきて、いよいよ忙しく
なってきた。問題といっても音自体のことじゃなくて、ライブレコーディングのテクニカルな問題とか
なので御心配なく。でも、現実になんとかしないといけないし、今回は映像も撮るから、そのスタッフの
食事のこととか、招待客の座席表も作らないといけないし、、、、、そう言えば、今週、KENSO SECONDが
工場から納品されるんだった。ひや〜まいったよ。
と、蜂蜜入りのハーブティーを飲む私、睡眠時間4時間の毎日。

でもね、いいバンドですよ、KENSOは。
キーボードマガジンの小口/光田のインタビューの特に最後、
光田のKENSOに対する考えと村石のドラムマガジンのインタビューのやはり特に最後の部分には
このバンドを結成し、金銭的にも時間的にもできる限りやりくりして全力でひっぱってきた
私は目頭が熱くなりましたよ。嬉しかったよ、ふたりの言葉。
また献身的なスタッフ、特にライブおいてはPA秋山/田淵チームはほとんどリハーサル全出席で
我々の音をサポートしてくれようといている。更に野崎洋子さんも単にライブ制作者という立場ではなく、
かつてマネジャーだったころと同じようなパッションを持って仕事をこなしてくれる。
リハーサルのテープを送ったギターテクニシャンの志村さん(私の赤いギターを作った方)からも、
「いやあ、凄いねkensoは。カンテの川島さんと村石と光田のかけあい、背中がぞくぞくしたよ。
清水、お前やばいぜ、負けるぜ、あいつらに」
「いや、志村さん、そりゃあ、ああいったジャズ的なインプロビゼーションになったら、
もう私は彼等には太刀打ちできないですよ。」
「いや、そういうことじゃないのよ。その凄いバンドを作ったのは貴方だってことを忘れるなって
言いたいのよ俺は」
こんな会話も実にありがたく感じる。今回も志村さんがサポートしてくれるってことで、
頼もしくも刺激的だ。

というわけで、究極の多忙モードに入ってきたけれど、上田部長が送ってくれる海外からの
「天鵞絨症綺譚」の感想にも勇気づけられ、ライブへむけてメラメラと気持ちが燃え始めた。
Van Der Graaf Generator状態だ、Scorched Earthが体に流れてくる!
では、みなさん、ライブで会おう!

6月16日 リハーサルの朝に

追伸:ライブ会場での即売では、私も執筆者のひとりである「200CDプログレッシブロック」という
  本も販売する。光田のソロコンサートを聴きにゆき、即売会場で「天鵞絨症綺譚」他を
  光田ファンが買ってくださるのを見ていた時、「夢の丘」と「天鵞絨症綺譚」を一枚づつ買って
  くださった女性から、「初めて聴くんですけど、難しいですか?」とたずねられ、
  簡単ですよとも言えず、、、、、
  やはりプログレッシブロックという私が愛した音楽をちゃんと伝えたいなあと思ったのです。
  もちろん色々な捉え方があっていいわけだけど、じぇんじぇん分かってない若造に
  「プログレっていうのは変拍子で、曲が長くて、、」とか見当はずれなこと教わったら悲劇でしょう。
  少なくともKENSOの若いファンには、そうなって欲しくない。
  「200CDプログレッシブロック」は私が制作にかかわったという理由からではなく、
  数あるプログレ総括本の中でも実に良く出来ていると思う。プログレが過去のムーブメントであること
  をきちんと述べた上で、ではそれが現在とどう関わっているかを解説している。
  プログレッシブロックという言葉がなかった頃、新しいロックの流れとしてリアルタイムで
  それを体験した世代が、若い世代への期待すら込めている。
  というわけで、即売でご紹介することにした。もちろん、普通の書店でも手に入る。
  その他、今後入手が難しくなる「エソプトロン」や秘匿性心象も、、、。

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●KENSO SECONDの再発について

kenso初期の代表作、SECONDが再発される。
リマスター、紙ジャケ、そして難波さんを始めとした
豪華執筆陣によるライナーノーツ、更にボーナストラック。

以前にも告知したように6/26のライブで先行発売。
ライブでの即売およびHPのオフィシャルshopで購入される
と、KENSO SECONDを作ったメンバーとの出会いを書いた
「追想:kenso second」をプレゼントする。

実は、初回1000枚作ったのだけれど、
色々なお店から注文が殺到、
もう私の手許には初回は一枚もこないことになった。
(サンプル盤はくるが)
追加プレス決定というやつだ。

国際部長の上田くんも、6月末にアメリカへ行商に
でかけてくれることになっている。

「天鵞絨症綺譚」のレコーディング制作費の赤字を
「SECOND」のセールスが補填してくれるかも、、、。
人間の臓器機能が、相互補填的に働くことを思い出す。
そうか、kensoの活動というのは、人間の体に
似ているのかも、、、。
というような謎の思考をしつつ、以下次号。

ライブでの即売、いろいろ用意してまっせ。
お年玉をここで使ってください、ここで。
ハムスターのほっぺたみたいに
ため込んでないで、、。

それと、「ESOPTRON」は7月にキングとの契約が切れるので、
今後入手が難しくなるかも。
将来、泣き言を言わないようにするためにも、
即売で買っておいてね!

じゃあね、バハハーイ!
みんなでギャロップ、ギャロップ、ギャロップ。

6月9日

精神科医Aの報告「う〜〜ん、かなりハイですね。B先生、どう思われますか?」
精神科医Bの感想「まあ、でも清水さんは昔からこんな感じでしたよ」
A「コンサート後に、この躁状態の反動と”荷下ろし鬱”で、鬱が強くでませんか」
B「う〜〜ん、やっぱりリチウムを処方すべきでしたかねえ」
A「まあ、でもこれが清水氏の人生でしょうからねえ」
B「躁の悲哀ってやつですか。」
A「B先生、なかなか上手いこといいますね。ESOPTORNですね。」
B「ギャロップの連呼はロンパールームの木馬を想起させますね」
A「おお、木馬哀感との相関関係か、気がつかなかった。さすがですねB先生は。
    どうですか、これから一杯」
B「いえ、あなたとは飲みたくないんです。すぐに手を握ってくるでしょう、あなた。」
A「う〜〜む、それは、、、、、う〜む。気がついていらっしゃったんですね。」

以下次号、、、。
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●リハーサルへ突入

5月某日、都内スタジオにKENSOのメンバーが集結した。
全員同時でのリハーサルは2年ぶりである。
初日は「天鵞絨症綺譚」の中の曲を練習する予定であったが、
新曲のリハーサルがひととおり終ったので、古い曲も
「覚えている限りやってみようか」と、トライしてみた。

それが、意外に覚えているんですよ。
みんなの中にkensoはずっと在ったんだなあ、としみじみ嬉しかったです。

2日目のリハーサルの日は、午前中に小学校の歯科検診をすませたため
疲労を隠せず、
しかも小口欠席という状態であったが、カンテの川島さんとの初練習と
いうことで、とても楽しみにしていた。
そうですよ、カンテの川島さんがゲスト出演するんです!

「まあ、とにかくやってみましょうか」という感じで始めたのだが、
一曲終った後、誰からともなく
「凄い」「かっこいい」という感嘆の声が、、、、。

いや〜〜〜〜新鮮でした。
kensoの音に他の要素、それも歌が入る!!!

それにしてもkensoのメンバーの音楽的ボキャブラリーには驚かされた。
「このテンポだったら、ルンバですかね」
「ここにこの音を加えたら、kensoとフラメンコの段差が緩和されるのでは?」
などなど、次々とくり出されるアイディアに、私はただただ感心していたのです。
kensoの音楽しかやってこなかった自分と、スタジオミュージシャンとして、
多くの現場で成果を上げてきた彼等との違いを痛感しましたよ。

というわけで、ライブ、楽しみです。

ところで、前回のこのコラム、およびニュースページでお知らせした
メンバーのインタビュー掲載誌について訂正です。
キーボードマガジンは、6月売り号ではなく、5月末に発売されている号でした。

5月30日
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●「天鵞絨症綺譚」発売日に思う。

本日、kensoの新作「天鵞絨症綺譚」がリリースされた。
HPでの通販は、予約が殺到しているらしい。
「制作日記」がつくしね。
でも、もし通販で入手できなければ、
ライブ会場でも「制作日記」がつきますよ。
まあ、予習したいでしょうけど。
そうだ、2枚買えばいいよ!!

では、リリースにともなう各メンバーの音楽誌での
インタビュー
掲載予定をお知らせしておくと、
「ユーロロックプレス」(清水)5月末?
「キーボードマガジン」(小口、光田)6月売り号
「ドラムマガジン」(村石)6月売り号
「ギターマガジン」(清水)7月売り号の予定
そう言えば、明日は読売新聞のインタビュ?があったんだ。
これは、新聞なので掲載日不明。

ところで、明日、読売新聞社へ行く前に
国立近代美術館で「カンディンスキー展」を見る予定だ。
東京では、5月26日までなので、この文章がアップされたころには
終っているかもしれないが、その後、京都や福岡もまわるんじゃなかったかな?

もし機会があれば絶対見た方がいいですよ。
私は、かつて個人のコレクションの展覧会で偶然
カンディンスキーの絵を見て、大きなショックを受けたのです。
今回は、代表作にして日本初公開のコンポジションシリーズも
見られるとのこと。

すご〜〜く楽しみだ。

それにしても、忙しい!!

5月22日
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●制作日記欲しくないかい?

PFM東京公演(実際は川崎公演ですけど)3日間制覇も
残すところ後一日となった。
初日もよかったけど、昨日は本当に信じられない出来だった。
我が師PFMは、やはり素晴らしい音楽家であった。
バックステージでは、私も小口も難波さんも大谷くんも、みんな
単なるファンになってサインをもらって嬉しがっていた。
さて、そういえば私のバンドkensoの新譜ももうすぐ発売だった。
kensoHPのオフィシャルCDショップおよび宮武くんのやっている
kasaya.comで購入のかたには、「天鵞絨症綺譚」の制作過程を
1年以上にわたって記録した私の「制作日記」がおまけで
進呈される。
これ、結構面白いエピソードも載っているし、
レコーディングの進め方も詳しく書いてあるので、
「天鵞絨症綺譚」の迷宮を深く味わうには必須アイテムだと思うのです。
野崎洋子さん作成のCDケースに入る可愛い奴です。
ということで、よろしくお願いします。
さて、では、またPFMに行ってきま〜〜〜す。

5月12日
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●友人からの手紙

みなさん、おひさしぶりです。
新作の制作は一段落ついたものの、今度はKENSO SECONDのリマスターや
ジャケット制作、ライナーノーツ執筆、各種届け出、、、、暇無しですわ。
もちろん、お陰さまで、町医者業も毎日、忙しくやらせてもらってます。
ということで、今日は、新作を早くも耳にした友人とエンジニア福島さんからの
メールの一部を紹介しておこう。
____________________________________
清水さんへ
月並みですが、一言。たいへん、素晴らしい。
ロックを聴いていて良かったと素直に感動しました。

正直なところ、『今、この時代』の作品にはほとんど興味が湧かない私ですが、
こういった作品が生まれてくる以上、私の先入観も改めなければと思います。
中身の濃さ、充実度では、過去の作品を凌駕しているように思えます。
ガムランへの傾倒は予想されていましたが、個性的な音楽要素の導入は、
ひとつまちがえると表面的な似非ワールド・ミュージックになってしまう
ところですが、ガムランの響きがとても自然に音楽に溶け込み、
出来上がりは紛れもないケンソー・サウンドです。
ヴォイス、弦楽器アンサンブルの使用もごく僅かしか出てこないだけに、
たいへん効果的。
ツェッペリン、地中海、ガムラン、コラージュ、フリップ&イーノ、フォーカス、
ジャズ・ロックそしてジェントル・ジャイアント…
ケンソーの音楽が醸し出す豊かなイメージの数々。
そして、これだけは変わっていない、初期の作品から一貫して受け継がれて
いるのは、複雑な曲調・展開の中から、すっと浮かび上がってくる印象的な
メロディ・ライン。良い音楽を聴かせてもらいました、本当に有難う。

追伸 ライヴ楽しみにしています。
でも清水さん、これ本当にライヴでできるんですか? 
どんな風に演奏されるのか、想像するだけでワクワクしてきます。
_______________________________________
「天鵞絨症綺譚」の一連の作業と「Kenso II」のリマスタリングを終えてみて
「Kenso」の凄さを改めて確認した次第です。
「KENSO II」素晴らしいです!8chで録ったとは思えない。
演奏している音楽を予め理解してないと、あんな感じにはなりません。
「音楽が見えてくる」ミックスでした。
私自身反省することしきりですが「KENSO」は全てトラックが出てみないと解らない
のですよ。
色々な意見があるでしょうが、これぐらいのバンドになると、それぞれの(しかも
最近の特に強烈な)個性を尊重した上で
それぞれの曲を舵取りしていくのは大変ですよ。結局、これからも清水さんが
プロデュースしていくしかないんですよね。
天鵞絨症綺譚は各メンバーのトラックにマジックがいっぱいありました。
みんな愛を込めて「KENSO」してますね。
取り敢えずはライブにむけて頑張ってください。
______________________________________
といった感じだ。
福島さんは、リマスタリングするまで「KENSO SECOND」をまともに聞いたことは
なかったらしい。いや失礼しました。
「KENSO SECOND」も生きかえりましたよ。お陰さまで。
また、ライナーがいいんですよ。
難波弘之さん、アクアポリスの中潟氏、坂本理氏、他、KENSOのことのみならず、
1980年代のシーンが浮き彫りにされてます。
私の毒舌もありまっせ!なにしろ、自分のレーベルからのリリースですから、
言いたいことはいいますぜ、旦那。
なにしろ、あの時代は頭にくることがたくさんあったからねっ!!!!!!
では、本日はこれにて失礼。

5月3日
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●「天鵞絨症綺譚」完成にあたって

ああ、ついにこの作品が私の手を離れる時がきた。
おととい、ジャケット関係の色校正を終えたのだ。
藤田さんのイラスト、白水さんのデザイン、
ともに心のこもった素晴らしいできばえだ。

前回のこのコラム:参考文献で、後は来週のマスタリングだけで完成と
のんきなことを言っていたが、そのマスタリングが大変だったのです。
ある意味、このレコーディングで一番疲れたなあ。
そりゃ作曲の段階でも録音の段階でも苦労はした。メンバーのみんなも
同じだろう。しかし、それは良い作品につながる、つまり先に希望のある
苦労、苦労しがいのある苦労だったと思うのだ。
しかし、マスタリングは違った。
ただもう憔悴、どうしていいかわからなくなった。

今は、私自身の気持ちの整理ができていないので、真実はライブが終って
少し時間ができ、冷静になってから書こうかと思う。
今、書くと、感情的になってしまうかもしれないし。

ともかく、まず最初のマスタリングはうまくいかず、
「この音では、出したくありません」とディレクターに頼んだ結果、
再マスタリングをやらせてもらうことになった。
翌週火曜の夜、診療終了後に、1時間半かけてスタジオへ行き、
まさに老体に鞭打って始まった再マスタリングも、決して良い結果は
生み出せなかった。同席した光田、レコーディングエンジニア福島も
「これも、ダメだ」と感じていた。
メンバーやスタッフが1年以上もかけて情熱を注ぎこんだ作品の
最後にこんな躓きがあるなんて、思ってもみなかった。

しかし、CDをプレスする工場への納品期限はあと9日しかない。
不眠になり、頭が混乱してきた私は、ディレクターに
「初回プレスは、この音でしかたないが、2回目のプレスから、
私達が満足した音でやらせてくれないか?」などと自主制作なら
ともかく、、、、の質問さえしていた事を思い出す。

再マスタリングから2日後の木曜日、私はかねてより予定していた
家族との一日をサンリオピュ−ロランドですごしたが、
再々マスタリングの可能性はないのか、
頭の中はそればっかりで、アトラクションの合間や食事の時にも
福島さんに別なマスタリングエンジニアについての相談を携帯電話で
していた。(ここで断っておくが、レコーディングエンジニアとマスタリング
エンジニアは別人である)
不眠、懊悩、焦り、混乱、絶望、のあまり、ピュ−ロランドで
女装した写真まで撮ってしまったよ!私は!(光田、福島はこれを見た)

しかし、天は我を見捨てなかった。

ピュ−ロランドから帰ってメールチェックしてみると、そこにはなんと
「小泉さん、来週木曜、入っていた仕事がキャンセルになって
空いているそうです。もう、仮おさえしておきました」という福島さんからの
メール!

小泉さんというのは、業界でも大変評判のよいマスタリングエンジニアで、
前述の再マスタリングの帰り路、光田と福島さんの間で名前がでていた方、
更に村石くんに「誰か、マスタリングエンジニアを探してくれないか」と
頼んでリストアップしてもらった中にも小泉さんの名前があった。
しかし、ともかく売れっ子なのでスケジュールは一杯で、とても来週なんて
無理だと思っていた。それが、それが、である。しかも、私の休診日の木曜が
偶然空いたなんて!!!!!!!!!!
何かの意志を感じた。またしても背中を押された。
希望が見えた。

そして、緊張しつつも安心して臨んだ背水の陣マスタリング(工場への納品
締めきりは翌日金曜だった)は、驚異と歓喜にみちたものだった。
技術とセンスはもちろん、スタジオの雰囲気、コミュニケーションのとりかた、
スタッフの対応すべてが素晴らしかった。
「これじゃあ、仕事くるはずだよな」光田と帰り路に話した。

私は、自分の歯科医としての仕事にもこの体験は生きてくるだろうなと思った。
それくらい、見習うべきところが多く、当然音楽的にも実りの多い
マスタリングだった。
もちろん、音の好みというのはメンバー、スタッフ全員まちまちであるから、
もうちょっと低音がでているほうが、などという意見はでるだろうが、
それを全部聞いていったら、作品なんてできません。
それにしても、やはり噂通りの辣腕女性エンジニアだった。
せこいスピーカーで小さい音量で聞いても迫力を感じるのが凄いと思うし、
バンドっぽい一体感を強めつつも、繊細なプレイも埋もれさせないという
マジックのようなサウンドだ。
また、長いつきあいのレコーディングエンジニア福島さんが目指した方向と
小泉さんの方向のマッチングが良かったこともあるだろう。
小泉さんが、福島さんのやってきたTDの方向を的確に捉えたということかもしれない。
福島さん、苦労が報われましたね。
小泉さんもTDの処理、ほめてましたもんね。
「小泉さん、今後○○の仕事、たくさん持ってきますから、
今日のマスタリング料金、よろしくお願いします。」の一言も、
マスタリング費用を出す私としては嬉しかったです、福島さん。
私だって、議員さんみたいに秘書給与をピンハネして潤っているわけではなく、
限り無く肉体労働に近い頭脳労働で日々、地道に働いた結果
のお金ですから、、、、、。まだ、請求書来てませんが。

ともかく、全てが終った。
奇跡が最後に起こり、結果的にはよかったよかった。
最初の2回のマスタリング失敗も、こちら側の緊張感を高め、
叩き台となったという点において、無駄にはならなかったとも思う。
特に一回目はkensoサイドに「お任せ」的な姿勢や甘えがあったかもしれない。
ただ、慣れないスピーカーでは、お任せにせざるを得ない部分もあるのだが。

閑話休題

1989年、岡山大学医学部の研修生をしていたころ、
自分の学位論文を書くための文献検索の時に偶然目にした奇病の症状が、
頭のどこかにひっかかっていた。
それが、まさか、こうしてkensoの作品をまとめる上で浮上してくるとは
思わなかった。
そう言えば、その翌年、学位審査の口頭試問会場の待ち合い室で、
自分の番がくるのを緊張して待ちながら、作曲中だった「月の位相」や
「アルファマ」を口ずさんでいた事を思い出す。
「夢の丘」前夜から「天鵞絨症綺譚」まで、本当に様々なことがあった。
そして、それは、やはり全て導かれ、繋がっていたのだと感じている。

4月14日
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●天鵞絨症綺譚:参考文献

昨日、新作「天鵞絨症綺譚」のトラックダウンをすべて終了した。
後は、来週キングレコードのスタジオでマスタリング作業をして完成だ。
kensoHPのオフィシャルCDショップで購入された方には、この新作の制作日記を おまけでつけようということになっているが、まあとにかく、かれこれ1年間この 作品に費やしたことになる。先程も小口と電話で話したが、これ以上のものが 今後できるのかが心配になるほどの出来に仕上がった。

さて、本日は「天鵞絨症綺譚」をより楽しみ深く理解していただくための参考文献を お知らせしておく。
発売まで約2か月あるので、ぜひ予習しておいてもらいたい。
もちろん、これらを読まなくても、絶対に楽しんでいただけるアルバムになって いる。GENESISの奇跡的傑作「幻惑のブロードウェイ」が、歌詞も読まず、 ユングや「天路歴程」や精神分裂病(最近、この呼称は統合失調症と改められたのだったかな?) について知らなくても楽しめるように。
ただ、マニアがいるでしょ?あなたのことですよ。そう!あなた。

文献は多岐にわたるが、入手しやすいもののみ順不同で挙げておく。
中公文庫の「潤一郎ラビリンス」シリーズのうち
初期短編集/異国綺談/少年の王国/怪奇幻想倶楽部/分身物語/銀幕の彼方/ 犯罪小説集(この巻の解説がまた良いのだ)

著者はもちろん谷崎潤一郎であるが、谷崎でもう一冊、「人魚の嘆き」これも 中公文庫で読める。
更に有名な「春琴抄」は、古書店でカバーにATG映画の写真が印刷された 昭和40年代の新潮文庫ものを探すと趣きがあってよい。というよりコワい。 紙質も良い感じだ。

尾崎翠著「第七官界彷徨」、これは「ちくま日本文学全集」で読める。

斉藤茂太著「噪と鬱」中公新書

春日武彦著「顔面考」紀伊国屋書店

ハラルト・シュテンプケ「鼻行類」平凡社、、上田国際部長に教えてもらった。

小泉文夫「音楽の根源にあるもの」平凡社

ヤスパ−ス「精神病理学原論」みすず書房、、、これは友人の精神科医に教えてもらったが難しいです.。

以上、宿題がんばってね!
怠慢はだめよ。

おりゃー!タイマンはってんじゃねえよ!
「えっ?”たいまん”て何ですか?ちょっと辞書ひっぱって調べてみましょうか?」
中学時代の友人の戸塚くんは、とても大人しい少年だったが、 なぜか不良中学生からは、”つっぱっている”ように見えるらしく、 たびたびからまれて、とてもかわいそうだった。
上は、関西に修学旅行に行った際に、他校の不良に突然からまれた時に 戸塚くんが勇気をふりしぼって答えた台詞なのだ。
私は、それを、それを、、、見て見ぬふりをしてしまったんだ〜〜〜!!
汚い俺、友だちを見捨てた俺、でも「天鵞絨症綺譚」を作った30年後の俺。

3月24日
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●エソプトロンと私の青春  

ソルトレイク、見てますか?
 素晴らしいですね、スポーツって。
「漁夫の利」という言葉を、こんなにも具体的に示してくれるものが、 他にあるでしょうか。
素晴らしいですね、スポーツって。
汗臭くて、脂ぎっていて、性欲のもっとも健全な昇華のしかたで、
各国の思惑が混じっていて、どす黒い欲望も見え隠れしていて。

なんてね、スポーツファンのみなさん、まあそんなに むかつかないで。冗談ですよ、冗談。

でも、 いやだなあ、サッカーのワールドカップって。
私の家から国際競技場まで比較的近いので、開催期間中は道路も 混むだろうし、
モラルの低い連中がうろうろしそうだし、 駅の混雑も予想されるし、
本当にワールドカップなんて 国後のムネオ・ハウスの前ででもやってほしいよ。
以前に何かの大会が開かれた時に迷惑をこうむった私は、 これはホント、そう思う。

さて、  中学生のころ、女子生徒に「どんな男の子が好き?」って聞くと、
だいたい「スポーツマン」て応えが返ってきた。
えっ!?違った?
はいはいはい、どうせ私は相模原の田舎育ちですよ、そっ、田舎の女生徒は そうだったの!

同級生に三Xくんて男の子がいて、これがバレー部のキャプテンでさ、
しかもフォークギターが弾けたんだよね。
当時は、吉田拓郎さんがもの凄い人気を 誇っていて、その他にもフォーク歌手が台頭していた。
(今聞くと、ボブ・ディランの露骨なパクリも多いけどね。)
フォークギターを弾きながら歌えたりしたら、もうそれだけで人気ものさ。

だから三Xくんはスポーツマンでありながら相模原市上溝中学の拓郎、
その後彼は歯科大入試がうまくいかず宅浪、いや、これは拙いギャグでごわしたが、
とにかくもてたと思いねえ。
しかし、この三Xくんは私がギターを始める上で、かなり重要な役割を果たすのだから、
人生の巡り合わせってやつは、、、。

私は当時、ブラスバンド部でフルートを吹いていたが、
同じブラバンのSさんという 女性に淡い恋心をいだいていた。
そのSさんも、三xくんにお熱をあげていた。
でも、私は、自分のフルート技術に自信を持っていたし、第一とても好きだったな、 フルート。
だからギターを弾こうとは思わなかった。
あの忌わしい時まではの話だが。

中学2年の夏、山中湖畔に学年でキャンプに行った。
私のクラスはキャンプファイヤーの出し物としてジローズの「戦争を知らない子供たち」を
合唱することになっていた。もちろん三Xくんはギター、私はフルートで伴奏だ。

ここで、断っておきたいのだが、三xくんはギターのチューニングが上手くできなかった。
いや、ほとんどできなかったと言ってよい。
当時は、電子チューナーなんてものはないから、 音叉をたたいてそれにあわせたり、
チューニング笛にあわせたりしたのだが、 それすらできなくて、じゃあどうしてたかっていうと、
クラシックギターをひけるDくん という人に、チューニングだけ頼んでいたのだ。

Dくんは、 誰もいないところで「禁じられた遊び」や「アルハンブラの想い出」「ピックマンのモデル」
などを弾いている目立たないタイプの子であり、 嫌な顔ひとつせず、内心は憎悪の塊だったはずだが、
家畜人ヤプーならぬ調弦人Dに あまんじていたのであり、
都会出身の人は”さがみっぱら”などといって馬鹿にするかもしれぬが、
そこにはそこで、こうした凄惨な青春が在ったのです。

もし、もしもだよ、今、私に三xくんが「清水君、チューニングしてくれ」とギターを 手渡したら、
私には考えがある。レギュラーチューニングはしてやらない。
ファーストチョイスは、ジミ−ペイジ直伝のDADGADチューニングだ。
「これでブラックマウンテンサイドでも、弾いてくんろ。後期ヤードバースのホワイトサマーも これでOK。
ケンソ−にもたくさん使われているよ。麻酔パート1やってみっか?」
面喰らっている三xくんに私はたたみかけるね。
「じゃ、これでどう? これはジョニ・ミッチェルが良く使っていたチューニングで、
kensoの”湖畔にて”でも 少しだけモディファイして、7カポで使っているけど」
更に、狼狽する三Xを前にして、おもむろに弦を張り替える私。
「これは、パットメセニーが”サンロレンツオ”で使ったチューニングの高音部ね。
あれは12弦ギターだから、三xくんのギターでは全部は無理だけど。」

話がそれましたね。 で、話は山中湖畔にもどる。
湖畔にて。

三Xが、湖畔にすわりギターを弾きながら歌う、 女子生徒たちが
「キャー、三xくん、もっとやって〜〜」って 文字にするといささか卑猥な感じであるが、
ともかく三Xはモテモテであった。

さて、ついにキャンプのハイライト、キャンプファイヤーの時間だ。
「燃えろよ、燃えろ〜〜よ、炎よ燃えろ」と歌い、
なんとなく田舎の中学生にも”青春”の2文字が甘美な感情を 惹起し始めた時、各クラスの出し物が始まった。
私も、自分のフルートが、三Xのギターと同様、
大きなセンセーションを 巻き起こすことを確信していた、、、、のに!

湖畔には、本来なら心地よいと感じるほどの風が吹いており、
また炎によって巻き起こされた気流もあって、フルートの音はかき消されて しまったのである。
それに、考えてみれば、歌とユニゾンするしかないフルートは、もともと目立たないのだ。
クラス全員のそれこそ音痴もいればガラ声のやつもいる大合唱とユニゾンなんて。
うかつだった。
無謀だった。
ところが、三xのギターは、少なくともシャカシャカいうカッティングの音だけは 聞こえてくる、
それに加え歌の1番、2番、3番のつなぎ部分の印象的な F,F#、Gのコードが、
田舎中学生の心を、さらに高揚させる効果も持っていた。
完敗であった。

キャンプファイヤー終了後、私にほのかな想いを抱いていた女子生徒が
あきらかに落ち込んでいる私のところにきて、
「清水くんのフルート、よかったわよ」と慰めてくれた。
「俺は、ギターみたいな、汚い荒っぽい音って、どうも好きになれないんだ。」

負け惜しみであった。

それから数日後、自宅の物置きにあった、古いギターを出してきて、
サビだらけの弦で、もちろんチューニングもできなかった私が弾いた曲、
それは昨年逝去した偉大な作曲家、
団いくま先生の、、、、 「ぞうさん」だった。

時をほぼ同じくして、テレビで、若きエリック・クラプトンを見た。
クリームの解散コンサートのドキュメント番組だった。
衝撃を受けた。

なななな、なんだ、こいつは!
「フットボール(サッカーだったかも)はボールに怒りを ぶつけることができる。
怒りをギターで表現してみると、、、」
グワワ、グワワ、ギュイン、ギュイン、キュ〜〜〜〜ン(ウーマントーン)
かっこいい!!!!!!!!!!!!

三Xに勝ちたいという気持ちは消え、エリック・クラプトンみたいに ギターを弾きたいと思った。
ジロ−ズよりクラプトンが目標となった。

やはりテレビで見て大きな衝撃を受けていたビートルズ、
そのコピーバンドで私はピアノを弾いていたが、 こういう経緯で私はギターにスイッチした。

「エソプトロン」は、こんなことがあってから数年間の、私の夢を実現した アルバムなのである。
(ただし収録曲”湖畔にて”の湖畔は、ブックレットにも書いた北海道の湖畔のこと であって、
山中湖の湖畔ではありません)

ちなみに、その頃NHKでは、たて続けに ローリングストーンズのハイドパークのコンサートやら、
ピンクフロイドのポンペイの映像やらを流す番組があって、 どれも興奮させられた。
私は、テレビのスピーカーからマイク録りしたそのストーンズの番組の カセットテープを今も持っている。
私にロック衝動を与えてくれた多くのバンドに感謝!

今日、新聞のTV欄で、若者むけ音楽番組の出演者を調べてみた。
う〜〜ン、私は本当にしあわせな時代に青春をすごしたようです。
こんな音楽を”良いもの”として洗脳される人たちは、 可哀想ですね。
その歌詞が、もしかして自分の気持ちを代弁していると しても。

しかし、自分の気持ちって、そんなに単純なのかな?
もっと、多層に入り組んでいると思うけど。
逆に、みんな歌詞に、自分の感情をあてはめているのではないのかな?
マークシートの答みたいに、「あっ、俺の気持ちはbだ!」って、、、

もちろん、優れた歌もあると思うよ。
本当に時代を切り取っていると思えるような。

先日、ある裁判官が、さだまさし氏の歌を 判決の後に読み上げたってことがあったでしょう。
あれ自体は、なかなか味なことをやるなあ、と感心したのだ けれど、
TVのワイドショーとかで、あの曲を2回もたて続けに流して、
それを聞きながら涙ぐんでいる司会者とかゲストとかを、
「どう?感動的でしょ」って映し出すのには、げんなりした。
まあ、ワイドショーなんて見てる自分が、いけないんだけど。

2月24日


●kensoライブの告知  

kensoの新作発表にともなう6月の東京でのライブのお知らせは、 3月初旬にこのHPにて行います。
DMによる御案内をするかどうかは未定ですので、
ぜひ3月10日前後は、このHPをチェックしてください。

2月14日
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●至宝 藤城清治氏の世界を体験

ついにkensoはレコーディングの最終ステップであるトラックダウンに入りました。
発売も数カ月後にせまり、ジャケットデザイン関係の打ち合わせも始まりました。
また、HPやライブ会場での販促用の小冊子の原稿も書いているし、
清水歯科には新しい従業員が入り、、、これは関係ないか。
ともかく、大変な忙しさです!

さて、 私は先日、影絵の至宝、藤城清治さんの喜寿のお祝もかねた 公演に行ってきました。
3時間以上の長丁場でしたが、ひとりの天才の情熱と才能に 圧倒され、また感動しました。
御存知ですか?みなさん、藤城さんを。
多分、子どものころに一度は目にしたことがあったと思いますよ。
そして、きっと懐かしい感じがすることでしょう、よほど鈍感でなければ。

以前にも藤城さんの公演は拝見していましたが、 それは今回ほど大がかりなステージではありませんでした。
また、藤城さんご自身が舞台挨拶されたのも、私にとっては今回が初めてでした。

まだ、慶應の大学生だったころに作られた素朴な味わいの作品から、
影絵というイメージを覆すような斬新でダイナミックな作品まで、 時代を追って見ることが出来ました。
特に、 名作中の名作「泣いた赤鬼」では、会場から すすり泣きが起こり
(それが、面白いことに泣いているのは、 子どもより大人が多かった、、、私と妻も含めて)
以前、なんとか言う割と若いオーケストラの指揮者が ハンガリーでバルトークのシンフォニー
(所謂、オケコンか、弦チェレのどちらかだったと思う) を演奏すると、
「ある箇所にくると必ず客席からすすり泣きが起こる。
きっと、ハンガリーの人たちの心の深層にある何かに 触れるに違いないのだが、
日本人の私にはそれが何だか 分らないのです。」と言うような話をしていたのが 思い出されました。

日本人の心の深層にある何か、、、

藤城さんの作品には、それがあり、 多分それが、会場のすすり泣きになったのでしょう。
その他の作品も見事で、学生時代にキリスト教会を 影絵の上映会場として借りていたとのことを
御本人が 話されていましたが、
祈りの童話といわれ、キリスト教から 多くの影響を受けている宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」も
影絵でなければ表現できないものを感じ、 大変心を動かされました。

音楽と影絵だけの「海に落ちたピアノ」も素晴らしかった!
教会で拙いオルガンを弾かせていただいている私にとって、
特に讃美歌の使われ方は背筋がぞくぞくするほど絶妙でした。

2日間の公演に対して、3日間も会場をおさえての仕込みだった そうです。
スタッフの御苦労も並み大抵のことではなかったでしょう。

演出補佐の女性が司会もされており、その方が
「藤城先生の作品は、影絵というより光絵」と話されてましたが、 さすが、その通りだと思いました。
微妙な心理状態の揺らぎを、光と影の変化で こんなに多彩に表現できることに驚きました。

そうした作品そのものも素晴らしいものでしたが、
私が思わず泣けてしまったのは、 公演の最後に藤城さんが舞台にでてこられて、
特にその日は全国公演の最終日であったこともあったのでしょうが、
或いは、もうこんな大掛かりな公演は体力的に難しいと 御自分でも感じていたのかもしれませんが、
(これは私の勝手な解釈です) 感極まった声で
「今回は、これが精一杯の公演でした!ありがとうございました」 と叫ばれた時でした。

自分の命をかけた創造、人生そのものであった作品の数々、、、
創作者の端くれである私にとって教えられるものが多かったです。

出口へ向かう途中、私同様、子連れのオヤジが何人も、目をウルウルさせて いました。
本当に、よかった!
素晴らしかった!
私も見習わねばならないことが、たくさんありました。

本日、私は会場で500円で買ったポスター(ポスターにしては 印刷がとても綺麗)に合う額を
12000円でオーダーメイドしました。 (ポスターの大きさが既製品に合わなかったため)

1月31日

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今年の予定概要

みなさん、明けましておめでとうございます。
本年も、というより、本年はCDリリース、およびライブの予定も あるので特によろしくお願いします。
新年明けても、何やら忙しく、本当は冬休みに訪れた沖縄日記でも 書きたいところなのだが、
とりあえず本日は業務連絡のみ。

(1)新作CDは5月の後半にキングレコードよりリリースされる。   
   KENSOのオフィシャルHPで購入(つまりミュージック・プラント から購入)された方には、
    ファン垂涎のオマケがつく予定。
(2)CD発売記念ライブを6月後半に予定している。
   もちろん「夢の丘」バンド、全員出演する。
   チケット発売日等については、このHPでまず紹介する予定。
(3)初期の代表作「KENSO SECOND」を再発する予定。
   これまたファン垂涎だらだらべたべたのボーナストラック入り。
   6月のライブでの即売にむけて現在、準備中。

ところで、その「kenso second」のライナーノートに、
このアルバムを オンタイムで聞いた人がどう感じたかを載せようと思い、 今、各方面 に依頼している。

ファンの方々のなかには、「夢の丘」がでようが、「エソプトロン」がでようが、
「kenso second」がマイ・ベストだという方がいらっしゃる。
それはそれで、いいと思うよ。
私もあのアルバムは、”若かったなあ”と思いつつも勢いがあって好きですから。
キーボーディストの厚見レイさんも「ケンソ−は、セカンドが一番好きだね」 と話されていた。

そんな方の中で(つまり、セカンドになみなみならぬ思い入れのある方で)
当時、このアルバムをどう思ったかを100字〜200字くらいに書いて くれる方がいらっしゃったら、
メールにてこのHPに送ってください。
締めきりは2月半ばくらいまで。

ただし、自分の人生をだらだら書いてきたりはしないでください。
「あのアルバムを聞いた時、僕は大学生で、失恋した直後だった。」 とかは、御勘弁。
そんなこと聞いてないのです。
1980年代初期、プログレがまったく盛り下がっていた時代、
古臭い音楽として虐げられて いた時代に、
あの作品がどう受け取られていたのかが、若い世代にも 伝わるような文章を求めています。

そうした文章は、ライナーに掲載させていただき、もちろんサンプル盤も差し上げます。
どうか、よろしくお願いします。

新作は、光田くんの新曲のキーボード・ダビングが終了次第、トラックダウンに入ります。
昨日、光田くんと電話で打ち合わせした時彼が、
「いや〜〜すごいですね今回。昨日、”陰鬱な日記”をダビングしながら、そう思いましたよ。」
ということで、”陰鬱な日記”という曲が収録されることをほのめかしつつ、ソダラバ・アジャ!

1月12日
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