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Overture 〜春雨〜
「天使の卵」より
いぬすけ
Up:2003.8.10 Sun


Overture 〜春雨〜
「天使の卵」より

雨が、降っている。
立ち込める雲。
しとしとと天から雫が零れ落ちる。
それは春妃の涙。
悲しい?
僕は、嬉しい。
春妃。君がこの世を去った十年前から今日まで、いろいろな事があったんだよ。
夏姫が、君の死は自分の責任だと思って言葉を失ってしまったこと。
君の両親が、娘に優しくしてあげられなかったことを、悔やみに悔やんで、鬱病になってしまったこと。
春妃。君は幸せな人だ。こんなにみんなが君のことを大切に思ってくれてたんだ。
君の家族だけじゃない。二股あごのあいつや、君の同僚や友人。僕の母さんだって、泣いてくれた。
だから、ごめん。
ごめん、春妃。
僕らは君のことを、記憶の片隅に、追いやってしまった。
春妃。もう一つ君に言う事があるんだ。
僕は、カウンセラーになった。
初めてわかったよ。
君の経験した悲しみが。
悔しさが。
絶望が。
愛しい人を失うという事がどれほどつらいか、初めてわかったよ。
そして、君の勇気も。
最愛の人を失って生きていくことは、とても勇気のいることだったんだね。
僕は、死のうと思った。でも、できなかったんだ。
君は、生き抜いたから。
君は、最後まで生き抜いたから。
だから、僕も死ぬわけにはいかなかったんだ。
生きよう。
そう思った。
空の青に溶けこんだ君を、堂々と見上げられるように。
いつか君に出会った時、君を抱きしめることができるように。
その思いは君の両親も夏姫も、一緒だ。いつか君と出会ったとき、泣き腫らした目なんて見せたくないはずだ。君も、そんなこと望んじゃいないだろ?
僕は君の家族の家へ通った。なんとか立ち直ってもらおうと僕なりに考えたやり方だったんだ。一番傷ついたはずの僕が人生を再出発しようとしているのを見れば、みんなももう一度頑張れるかもしれないと思ったんだ。
もちろん、最初は追い返されたよ。でも、何度も通ってるうちに、僕が真剣に君の家族のことや君のことを思ってしていることをわかってくれたんだ。
僕らもだいぶ勉強した。
失語症のこと。
鬱病のこと。
その他いろいろの精神病。
僕らはひたすらに五年間、頑張った。
互いの傷口から目をそらさず、協力し合い、助け合った。
今では君の家族も僕も、ほぼ完治と言ってもいいところまで来ている。
君の両親は毎朝7時に出勤。
夏姫は少しずつ声が出るようになった。
僕はそうして人の心の傷が癒えていくのを見ていくうちに、感じていくうちに、画家になる夢を捨ててでも、叶えたい夢を見つけた。

カウンセラーになろう。

世の中には君の家族のように、君のように、傷ついた人がたくさんいる。そんな人たちが君のように最後まで人生を生き抜いてくれたら、それは素晴らしいことだと思ったんだ。
これは、君が命をかけて、僕に教えてくれたことだ。君の一生を教科書として、傷ついた人を救いたい。
僕は、そう思った。
僕は、嬉しい。
君が今の僕を、この鴨川沿いの小さな診療所にいる僕を、描いてくれたから。
僕は、嬉しい。
今、僕は君と同じ道を歩いているから。

雨が、降っている。
狐の嫁入り。
しとしとと零れ落ちる雫の隙間を縫って 春日が差し込んでくる。
それは、春妃の笑顔。

嬉しい?

僕も、嬉しい。

              終

  〜あとがき〜
 
愛する者の死。
残された者。
心の傷。
癒し。
時は無常にも流れて行きます。
それはある者には幸福を。
またある者には不幸を。
歩太や春妃や夏姫たちはどちらだったのでしょうか。
きっと両方だったと思います。
心の傷が癒されていくうちに止めど無く溢れていた春妃への想いは、幾重にも折り重なった時のかさぶたに閉じ込められます。
それは幸でも不幸でもない。
いつか、随分と時が経ったいつか、彼らはそれに気付き、そして、思い出すでしょう。
自らの内に流れる、遠い過去の濁流を。
それは数々の思い出に濾過され、そっと零れ落ちるのです。
瞳という「今」を仕切る壁の向こうへ。



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