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After the Love is Gone
Yuriko ver.

「おいしいコーヒーのいれ方」「野生の風」より
真夏
Up:2000.4.27 Thu


 夢をみた。増えつづける魚たちで飽和状態になってしまったアクアリウムの夢。
その水槽の中で、腹を横向きに漂わせながらぷかりと浮き上がってくる一匹の魚がいた。
 澄みきったあおいあおい世界での、彼女は犠牲者だった。一定数以上の個体が同じ空間にいれば、誰かが犠牲をはらわなければならない。多くのいのちを守るために選ばれた殉教者。それが、ぷかりと浮かぶ彼女の亡骸――夢での私の姿だったのだ。
 どこか不思議な、それでいてやるせない気分になった夢のあと、私は目を覚まし、いつもと何も変わらない朝日の中で仕方なく伸びをしていた。複雑によじれた気分のままで。

  After the Love is Gone
  Yuriko ver.

 まったく、どうしてあんな夢をみてしまったのか、自分でよく分からない。
 もう外の光は既に、夜が明けて白みきったまばゆさで覆われていた。まるでマリーゴールドの花の色に似ている光。けれど時計は7時を半ば過ぎたあたりを指している。
「今朝は早いな」
 窓とは反対側の風景に目を向ける。彼がいつものようにコーヒーをいれていた。自宅ではさすがにお店ほどの凝ったいれ方はせず、かといってまったくの手抜きではないものを二人分。それを二つのカップに注ぐ視線は外さずに私へと声をかけてくれるところが、私にすれば、いかにも彼らしくて微笑ましい。
 私はベッドをするりと抜け出したそのままの流れで、彼の背中から腕を回してそっと抱きつきながら寄り添った。普段はそんなことしないのに。
「お、おいおい、どうした?」
 面食らったうえに照れている彼の声が、その身体を震わせて私へ届く。
「ごめんなさい、しばらくだけこうさせていて……?」
「何か、あったのか?」
「ええ、少しだけおかしな夢を見たの。そのせいよ」
 続けざまに私は彼に、さっきまで見ていたアクアリウムの夢の話をした。彼は小さく噛み殺すような笑い方で、
「お前にしては、えらく少女趣味な夢だなあ」
「眠っているときの夢なんて自分で選べないわよ」だから、こんな甘え方をしているのに。私らしくもなく。
「もうっ、いい。私も支度するから」
 彼の背中から身体を離してパジャマを脱ぎはじめる。そこに彼は決して視線は向けない。声だけを向けるのだ、いつも。
「コーヒー飲んでいけよ。おかしな夢を覚まさせる自信はあるぞ」
「ありがとう。もちろんいただくわよ」
 言葉の最後の方が少しおどけた口調になれたのを確認できると、自分でもやっとおかしな夢から抜け出せた気分になれた。
 彼のいれるコーヒーには不思議な魔法を感じてしまう、いつだって。

 黒のサブリナパンツに身を包んで外の陽射しに飛び出したとき、今日が日曜なのだと肌で実感した。今年の初めにこの町で開かれたばかりのクラフトセンターで週に一度の講師を頼まれている日だ。これまで趣味でしかなかった彫金でやっとギャラをもらえるようになった私の噂を町の誰かが聞きつけ、持ってきてくれた話なのだった。もちろん、「私でお役に立てるなら」と快諾した。改めて、この町はいい所だと思わずにはいられない。
 しかも今日はあの多岐川飛鳥が特別講師として来ると、先週からセンターでは噂でもちきりだった。

 ジャンルは違えど、私も彼女のことは知識として知っていた。「知識として」なんて言い方がおこがましいくらいの、染織の世界では一流の人だということも。
 彫金と染織。分野は違えど「ものを作る」という点では、クラフトセンターでの講師には適任だろう。私に関してはそう胸を張れるけど、彼女を講師として招くことは、センターどまりでは正直もったいないなんてことを考えてしまう。どちらかといえば、センターのお偉方が客寄せパンダのような扱いで彼女を招いた気がして仕方ない。
 自由奔放な女性。それでいて個展はいつだって大成功を収め、自分のほんとうの故郷はアフリカの大地だと言いきるひと――私の知る“多岐川飛鳥”のイメージ、知識はこの程度。だからこそ先入観なく彼女に会えそうな気もしている。それにアフリカなら私も行ったことがあった。彫金だけに生活のウェイトを置いていなかった会社勤めの頃にアフリカ配属を言い渡されたことがあったからだ。ケニヤの国ではキリマンジャロのふもとのコーヒー畑で作業をしている人々の衣服さえもが美しく輝きを放っていて、あの太陽に照らされた国では目にうつるすべてのものが細工を施された金であり宝石だった。
 やぁ岡本さん、なんて挨拶を常連のおじいさんにかけられ、私は微笑んでそれに答える。クラフトセンターの休憩所は全面ガラス張りのビニールハウスのように暖かい。おじいさんはそこでまどろみつつ自動販売機のジュースを飲むのが楽しみで来ているような穏やかな人だ。陶芸を習いに来ているそうだけど見せてもらう作品はどれも人柄のにじみ出た暖かなものばかりだった。隣に腰掛けてしばらくおしゃべり相手をさせてもらうのもまた楽しくて、今日も講義まで一緒に日向ぼっこをしていた。
 長い髪の女性が通りすぎるのを、「どこかで見たような」と思いつつ横目で見ながら。

 ケニヤから日本に配属が移った頃に出版されたのが藤代一馬という写真家がケニヤの自然を撮ったという写真集で、アイドルグラビア以外でベストセラーをとった写真集だと私のいた会社でもみんなして回し読みをしたくらいだ。その中には私の知っている風景も知らないままの風景もあり――いや、9割が知らないで過ぎたアフリカだった。野生のあらゆる動物を写す彼の眼差しの優しさは、ラストの写真にも現れていた。マサイの子供を抱き上げている白いワンピースの日本人らしき女性。彼女への藤代一馬の視線はものすごく優しい。まったくの素人にもそれが伝わるほどだ。
 思い出したのは偶然おじいさんとその写真集の話題になったところで、だった。
 そうだ、さっきここを通りすぎていったきれいな女性……。あのラストのひとではなかった?
(まさか……どうして?)
「岡本さん、どこへ行くんだね?講義までまだ時間はあるだろうに」
「ごめんねおじいちゃん、ちょっと急用思い出しちゃったの。またおしゃべりしましょうね」
 彼女の後ろ姿に引かれるようにして私は駆け出した。なぜかは分からないけど、確かめたかった、あのひとなのかどうか。
「あ、あのっ、ちょっと待って」
 私が背後から声をかけるとそのひとは驚いたように振りかえった。あの写真集の人と間違いなかった。
「……何か?」
 想像よりもクールなトーンの問いかけが返ってくる。
「あの、あなたは……誰ですか?」
 少し息のあがったままで私が聞くと、彼女はぽかんとした表情を浮かべた後、ぷぷっとふきだした。
「どこの誰かも分からない人を呼びとめる人なんて初めてお目にかかったわ」
「ごめんなさい……ただその、気になって。あなたそっくりの人の写真を見たことがあったから。いや、きっとあなたに間違いない」
「写真って、個展の会場に飾られるやつ?それならもちろん私ですけど」
「個展?」
 私が聞き返すと彼女はきょとんとした顔で私を見つめ返してきた。もちろん私も心の中できょとんとしている。
「他にどこで私の写真を?」「あなたはいったい誰?」
 二人で同時に尋ねていた。少しの間の後、長い髪の女性が静かに言った。
「私は、多岐川飛鳥といいます。今日だけの特別講師で来ました。あなたは?」

「お、岡本由里子です。週に一度ここで彫金の講師を……」
 頭の中が一瞬かたまった。彼女は――多岐川飛鳥はメディアに出ることを嫌う人だと聞いたことがある。それがどうしていち写真家の写真集に……?
「そうなのね、じゃあ今日はよろしくお願いします。岡本さん」
「い、いえ、こちらこそ。いきなり失礼なこと聞いちゃってごめんなさい」
「ところで、あなたはどこで私の写真をごらんになったの?よければ教えて。何かの雑誌でかしら?」
 彼女の声色は変わらずクールさを保っている。
「藤代一馬って写真家を知ってますか?彼の写真集のラストに載っていた女性があなたにうりふたつだったので」
 微妙な変化だったけれど、私が『藤代一馬』という名前を出したとたんに彼女の顔は強張った。怒りではなく哀しみをこらえるような強張り方で。
「藤代さんは、友人の旦那さまなの」
 それじゃ、という声とともに彼女は私の隣をすり抜け、センターの奥へと向かっていった。

(いきなりマズイこと聞いちゃったかな、私ってば)
 心の中で私は頭を抱え込んだ。その背中から声が聞こえる。さっきまでおしゃべりしていたおじいさんだった。
「えらくべっぴんさんだったの、さっきの人は。あれじゃ男が放っておかんな。わしがもう30若ければ…ふぉふぉふぉ」
「なにヘンな想像してるの?」
 微笑みながら言葉を交わすうち、私の脳裏に今朝の奇妙な夢が戻ってきた。
 飽和状態のアクアリウム。それとつながったのが、なぜかさっきの多岐川さんの台詞。
『友人の旦那さまなの』
 あの写真集を会社で回し読みしていたのはたしか5年前だった。

 センターでは講義の後、生徒さんに混じって講師も作品を作ることが時々ある。今日の私はシルバーでペンダントトップを細工していた。 3匹の魚をモチーフに、そのうち1匹は腹を上にして反り返る姿で。
「岡本先生、それおもしろいデザインですね。3匹の魚のうち1匹だけちがう方向を向いてるなんて」
 平日はOLをしているという私の生徒さんが私の手元をのぞいて言った。
「ちがう向きの1匹は死んでるのよ。定員オーバーでね」
「なんだか男女の三角関係みたいですね。先生の体験ですかあ?」
「ノーコメント」
 おどけるようにそう言うと彼女はつまんないなあ、とつぶやいて自分の作品づくりに戻っていった。
(男女の三角関係、かあ……)
 多岐川さんの憂いを帯びた顔を思い出していた。ケニアでの写真とは別人のように輝きを失った表情。
 彼女は、死んだ魚だったのだろうか……?

〈前編・END〉  



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