After the Love is Gone
Asuka ver.
「男女の三角関係みたいですね。先生の体験ですかあ?」
たまたま通りかかった彫金の教室から聞こえた女性の声に思わずびくっとしてしまう。
「ノーコメント」
このおどけたような声は、さっき不意に彼の名前を口にした岡本さんという人だと分かる。
私が染織の講師として教壇のような一段高い場所で話したのはものの5分ほどでしかなかった。事実、私から染織の専門的な話を聞きたくて来ているだろう人もほとんどいなかったのだから納得はしている。あの講習室にいたほとんどの人は、こう言っては申し訳ないけれど“多岐川飛鳥”を珍しがって来ていた、それだけだ。ならば私は多くを話す必要はない。センターに来ているという事実だけで充分だった。
それからの私はというと、センターのお偉方と歓談した時間の方がゆうに長かった。外からはもう西日が差し込んでいる。
講師を引きうけた理由は、いつもとちがった仕事をしてみれば多少は気が紛れるだろうというそれだけだった。もう彼とのことが終わってどのくらい経つのか、いやまだそれほどの時間は経っていないのか、それすら分からなくなるほど私は普段の仕事に没頭した。それしか方法を知らないほどに、彼との破局はこれまでの恋とは比べものにならない痛手だったのだ。これまででは考えられないくらいの仕事をこなしてみても、彼の影は私の中から消えてはくれなかった。ならばいっそ、と、自ら客寄せパンダのような役割を演じてみようと思ったのだった。
私は自分を有名人とは思いたくはないが、そんなプライドよりも彼との痛手を振りきることの方が今の私には重要だった。あの日以来、彼が私に別れを告げ、最後に抱きしめられたあの日以来、私のつくりだす色たちは、どれも哀しみから這い出せずにいる私そのものだった。自分の手で染めた糸の色を見るたびにあの哀しみがフラッシュバックする、忘れようと糸を染める、哀しみがありありと浮かぶ色が出来あがる、それを見て彼を思い出し哀しむ……その繰り返し。
自暴自棄のようになってがむしゃらに糸を染め機を織った。癒されないままの私。
生徒さんたちがぞろぞろと教室になっている作業室から帰っていく姿を見てやっと、私はしばらく彫金の教室の前で立ち尽くしていたことに気づいた。私を振りかえる人はほとんど皆無だったことがありがたかった。
そっと引き戸にもたれかかり開け放たれたままの彫金の教室を覗くと、オレンジ色の西日が部屋中を埋め尽くしていた。しかも数々の作品に光が反射して、太陽の破片があちらこちらにばら撒かれたような部屋になっている。ひとりの女性のシルエットだけが浮かんで。
岡本さんだとすぐに分かった。後ろ姿の肩でそろえた髪が、OLだった頃の祥子を思い出させてまた私は胸を疼かせる。そしてすぐ首を左右に大きく振る。彼女は祥子ではない。いつまで祥子と彼の影につきまとわれる気なの?飛鳥……。
「多岐川さん……?」
ゆっくりと岡本さんが私を振りかえり声をかけてきた。後ろにずっといた私の気配に気づいたんだろう。見ると彼女が祥子に似ているのは髪形だけだ。それも祥子がだいぶ前にしていたヘアスタイル。物腰も表情も、岡本さんはずっと柔らかだ。
「彫金にも興味、おありですか?」
「きれいなものには目がないの、私」
「じゃあどうぞ見て。生徒さんの作品ばかりで格好はよくないのも正直あるけど、愛情はどれもあふれているのがここの生徒さんの特徴なんですよ」
言われるがまま、私は腰の高さの机に並べられている作品たちをそっと愛でていった。不恰好でも愛情があふれている、という彼女の表現は的を得ている。この西日の照明効果も最高に作品を引きたてていた。岡本さんは隣で、ゴールデンウィークは特別に子供教室も開いているという話をしている。手作りのアクセサリーをお母さんに、という子供たちのためだそうだ。
彫金の話題を嬉しそうに話す彼女からは、きらびやかなものを愛しているというよりもそれに込められた形のない愛を愛しているということがよく伝わってきた。涙に似たあたたかい感情が私の中にあふれてくるのが分かる。近頃誰かと話していてこんな気持ちになったことが私はあっただろうか。
ひとつ、ひときわ美しいレリーフを見つけ、私の足はそこで止まった。円環の中を縁取るように泳ぐ3匹の魚。うち1匹だけが違う方向を向いている。人で言う背泳ぎのように腹を上にしているのだ。
「あ、それが今日私の作ったものなんです。今朝私、不思議な夢を見て、それをなぜかモチーフにしてみて……」
「男女の三角関係、みたいですね……?」
レリーフから視線を外さないまま、私はさっき生徒さんの言った言葉を思い出して反芻していた。
「多岐川さんまで、そう感じたんですか?」
「さっきあなたにそう話していた人がおられたでしょ?それを聞いてしまっただけ」
あ、なんだ、と彼女は肩の力を抜いた笑みをこぼした。
「ほんと、自分でもおかしな夢を見るなあって思ったんですよ。夢の中で私、酸欠で死んだ魚になってたんだから」
ふふ、と軽く笑う岡本さんと一緒に笑えればよかったのだろう、そうは思ったけど、私の顔の筋肉は硬直したように動かない。かすかに口元を緩めるのが精一杯だった。
なのに気づけば、口が勝手にしゃべり出していた。
「心だけ、酸欠なのよ、今の私。いつまでも甘えていられないのに、強くいたいのに、心は決して嘘をついてくれない。どれだけの糸を染めても染めても、嘘のつけない私がすべて台無しにするのよ」
吐き出したものを後悔しても、元には戻らない。彼との終わりは誰にも言わずに、これまでの恋と同じようにひとりで葬れると思っていた。そうするつもりでずっと胸の奥深くできしませていた。
まさか私が人前で、それも今日会ったばかりの人の前で泣くだなんて……。
「はい」
彼女と最初に会った入り口近くのロビーにも西日が容赦なくあふれて輝いていた。彼女に手渡されたコーヒーを受け取る。
「本当はもっともっとおいしいコーヒーをごちそうしたかったんだけど、自販機のこれは間に合わせということで勘弁してね」
紙コップのコーヒーに口をつける。ほろ苦い香りがほてった心を少し慰めてくれるようだった。
「これでも充分よ」
「そんなあ、この程度でコーヒーを飲んだつもりになるなんてもったいないわよ。場所を教えるから、ほんっとうにおいしいコーヒーを飲める場所のね」
言うなり岡本さんはバッグからメモを取り出して、まず住所、それから地図を書き出した。
「この地図の商店街にある『風見鶏』。ここのマスターのコーヒーを飲んじゃったらもう他のは飲めないわよ?」
私も暇があればよくこの店にいてるから、と彼女は付け足して私にメモを握らせてくれた。
それ以上のことは聞かれなかった。
家に着くなり、どっと疲れが押し寄せる。こうなるのが分かっていたら断ればよかったのに、今回は自分で決めたことだからと誰を責めることもできなかった。
ベッドの上に座り壁にもたれかかって、飾っておいたトルコ石を手に取っていた。あの日ヴィンスがくれたこの石に、私はどれだけ救われただろうか。ときどきこうして石を握り締め、感謝する。
彼との――藤代一馬との恋の傷跡はこの石の力を借りても癒されはしなかったけれど。
私のこれまでで、あれほどの大きな出会いはなかった。惹かれあった瞬間のことも、抱きしめられた腕の匂いやぬくもりも、煙草に混じった汗の匂いも、彼に誘われやっと見つけた私のアフリカも――どれもちっとも色あせないまま、私の心に織り成されたまま。
今の私は、その大きな記憶の布に支配されて自分の色をすべて哀しみに染めるばかりだ。そこから抜け出すための、いわばショック療法のつもりで今日は出かけた。記憶が記憶として、まだ思い出にならずに居座っているのが歯がゆくて。
前に進んでいたかった。記憶の布に足元をすくわれずにいたい。あの時へはもう、死ぬほど望んでも戻れないのだから……。
シャツブラウスの胸ポケットに入っていたメモを思い出したのは、岡本さんのあのあたたかな声を思い出した夕暮れどきだった。ヴィンスのくれたトルコ石は普段どおりに飾って、そのメモを取り出す。彼女の物腰を思わせる、柔らかで力強い筆跡だった。鼻がつんとするのはあの日以来うちに居座っている猫のせいではないことは分かっていた。不覚にも涙を見せた自分が情けなかったのだ。
『この石が俺の代わりにあんたを守る』
今はその、もう過ぎ去ったヴィンスの言葉にすがりたかった。飾ったトルコ石をもう一度手に握り締めていた。
ストールを羽織り、光が丘まで再び足を向けていた。バッグの中には麻布の小さな袋にくるんだヴィンスからの石がある。
どうせもう会わない。だからこそ言えないことが言えるということもある。私は石の力を信じて電車の中で深呼吸をしていた。
私はどうしても前へ進みたい。いや、進まなければ。
見つけたしっくい塗りの建物のドアをそっと押すと、カウベルがカラコロと鳴って中にいる二人の人影が私を振り向いた。ひとりはスツールに腰掛けた岡本さんだった。カウンターの中のひげをたくわえた男性が、彼女の話したマスターだろうか。岡本さんが私ににっこりと微笑む。
「どうぞ」
そう言って席をすすめてくれたのは彼女だった。そしてすかさず、この人にとびっきりのをいれてね、とカウンターの中のマスターに声をかけてくれた。
「あの……」
もうすっかり日が暮れたことを心配して私は二人に問い掛けた。
「構わないですよ、もちろん私のおごり」
「ということは、俺におごれと言ってるのか?」
「あらやだ、ばれちゃった」
マスターの言葉に彼女がぺろっと舌をだした。
「あの、コーヒーのことじゃなくて、」
彼女は瞳だけで私に問い掛ける。『なんでも言ってね』という言葉の代わりに。
その瞳に包まれるような感覚で、私は時間も何もかも忘れ始めていた。目的だけを果たそう。そう、思った。
「あなたに、お願いがあったの。これを……」
私は言いながら、麻布でくるんだトルコ石を彼女に見せた。
「この石を使って、何か作っていただけないかしら?できるだけずっと身につけていられるようなものに」
「いい石だわ……特別なものですよね?」
「ええ。私にとっては、形に残るもののうちではかけがえのないもの」
コーヒー豆のいい香りの中で無言で手だけを動かすマスターの存在を感じられる。その存在が人をなごませる力を持つ、彼はそういう人かもしれない。
「ペンダントトップにするにはいいけど、普段から身につけるとなると重いわよね……どうするのがいいのかしら」
彼女は石と私を交互に見ながら、既に職人の目になっている。それが逆に、私によけいなことを話させずにいさせてくれた。あのまま放っておかれると、まだ忘れきれないあの恋のことを一部始終しゃべってしましそうだったから。
そのうちに岡本さんは、本気でう〜んと考え始めた。それを見かねたのか、カウンターから声がする。
「その人の許可がおりれば、その石を預かってもいいんじゃないか?」
低い声と同時に私たちの前にコーヒーのいれられたカップが置かれた。彼女もそれでカウンターに視線を戻す。
「さあ、これが魔法のコーヒーです、多岐川さん」
「なんだかお前、今朝の夢といい、やけに似合わないことを言うなあ」
押し殺した笑いを漏らすマスターと、ふーんだと彼をいたずらっぽくにらむ岡本さん。二人からは優しい信頼感が漂ってきた、そういう仲だということも。むしろそれに気づいてもこの二人からは見せつけがましさを感じない。見ているこちらが微笑ましいくらいだった。
そういったやさしい気持ちになれたのも、この“魔法のコーヒー”を飲んだからかもしれない。彼女の言ったとおり、このコーヒーを知ったら他のではもう太刀打ちできないだろう。
「今朝の夢、って、岡本さんの魚のこと?」
「あ、あなたも聞きましたか?」
「あ!」
カチャン、と音を立てて彼女がスツールからいきなり立ち上がったから、何事かと私は隣を凝視してしまった。
「あの、もしよかったら、なんですけれど……」
「はい?」
「もしよかったら、あの魚のレリーフとこの石を組み合わせる、というデザインはどうですか?もちろん身につけるものですから、もっともっと軽くできるようなデザインにしますけど」
こんな感じで……と彼女が紙に書き出した絵は、トルコ石を中心に魚たちが円環を描いている姿だった。このデザインでペンダントもしくはスカーフ止めに、ブローチでもいいかしら、という彼女のセンスに私は見とれていた。
「思い出も形になったものも、無駄なものは何もないんです。そうでしょう?」
彼女は誰に問い掛けるのでもなく、デザインの絵を見つめながらそう呟いた。そしてそれは、ストレートに私の胸に染みていった。
無駄なものは何もない。今私がとらわれて動けない彼との記憶すら、いつかはそう言えるだろうか……?今は正直自信がないけれど、その言葉に懸けてみたかった。
「そうね。じゃあ、そのデザインでお願いします」
私の心でずっとたまる一方だった涙が、この魚たちのように循環していつかは思い出という海へ、そして大地を潤す雨へとつながってゆくように、祈ろう――
〈END〉
あとがき、というより言い訳(^^;
書きあがりました〜!お目汚しなこんな作品に目を向けてくださった方、この程度のものを載せる対象としてお相手してくださった狩野さん&あおのさん、本当にありがとうございました!
SSとはいえ、小説の形式のものを書いたのが本当に初めてで、自分の文章力の至らなさをしみじみ感じました、そして大口たたいた自分にこりました(笑)
人の書いたものを見て口ではなんとでも言えるけど、書く方はほんとうに大変なんですねえ。
ちなみにタイトルの“After the Love is Gone”というのは、アース、ウィンド&ファイヤーの曲から借りました。こういうタイトルのきれいなバラードの曲です。原作の「野生の風」のラストからの飛鳥がどうなったのか?きっと立ちあがれるだろうと祈らずにいられないままの勢いでこんなものを書いた次第でございます<(_ _)>
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