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「はるひ」
「天使の卵」より
四方堂
Up:2001.6.24 Sun


「はるひ」
 「天使の卵」より

彼女の名を呼ぶのが、僕は本当に好きだった。

「はるひ」

春妃──漢字ではそうに書く彼女の名前を、僕はいつしか意識してひらがなの発音で呼ぶようになっていた。 もちろん、「春妃」というその名前も好きだ。
『春』という字はまさしく彼女そのものだし、『妃』という字だって彼女にしては少し印象がきついけれど、凛とした真っ直ぐさを持つ彼女にぴったりだと思う。
でも、僕にとっての彼女は──そう、まるで暖かな春の太陽のようにいつでも優しく包んでくれる、そんな存在で。 だから、『春』の『陽射し』で「はるひ」。
それは僕が名付けた、世界で僕だけが呼ぶことの出来る彼女の名前だった。

「はるひ」
『もぉ……なに?』

そして何よりも、僕がそうやって名前を呼ぶ度に、決まってくすぐったそうに微笑む彼女のことが、僕は本当に大好きだった。

事実、彼女は僕にとっての春そのものだった。
その声も、仕草も、彼女の何もかもが僕のことを暖かくしてくれた。
時には、暖かすぎて着ている服をいますぐ脱ぎ捨ててしまいたくなるほどで、手と足の指を使えばなんとか数えられてしまうぐらいの何度かを除いては、僕はその衝動を我慢しなければならなかった。
もっとも、それに耐えている間でさえも、僕にとっては幸せな時間だったのだが。

 ぱぁぁんっ…………

ふと、遠く響いた車のクラクションの音に顔を上げると、いつかのように遠く近く桜が揺れていた。
いつの間にかうたた寝してしまっていたらしい。窓の桟に置いていたビールもすっかりぬるくなっていた。
あまりにも居心地のよい夢から突然現実に引き戻されて、僕は苦笑しながら気の抜 けたビールを一気にあおる。
息苦しさを感じてほんの少し窓を開けると、アルコールの匂いと入れ替わりにするりと桜の香りが部屋の中に滑り込んで来た。
桜を乗せた風はまだほんの少し冷たくて、僕は一度小さく身震いをする。
そうして僕は、またこの季節がやってきたことを身体中で感じるのだった。
彼女と初めて出逢った、そして、彼女と二度と逢えなくなった、この春という季節を。

思い切って窓を大きく開けると、僕は身を乗り出した。雲一つ無い夜空には、今にもこぼれ落ちてきそうなほどの星空があった。
そのあふれる星たちの中に一つだけ淡い桜色に輝く星を見つけ、僕はそっと手を伸ばす。
こうして目の前に手をかざしてみれば掴めそうなほどに近く感じるのに、いざ手にしようとすると決して手の届かないほどに遠い。

「はるひ」

もう一度だけ僕は、そらに向かって彼女の名前を口ずさんでみる。
さっきと同じように僕の身体を撫でていった夜風は、なんだかさっきほどは冷たくなかった。



***あとがき***

口にするだけで、その時の光景や感情が色鮮やかに蘇ってくる。
そんな「言葉」が、誰にも一つくらいはあるのではないでしょうか。
私にも、あります。
そしてそれは、今はまだ口にするには辛い「言葉」です。
いつか、全てを越えて再び口ずさめるようになりたい。
そんな気持ちを乗せたこの『はるひ』が、あなたの心にも優しい風を届けてくれることを願いつつ。
読んで頂いて、どうもありがとうございました。

2001.6.21 四方堂拝



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