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信頼‥‥そして愛の形
「すべての雲は銀の…」より
thor
Up:2003.7.7 Mon


信頼‥‥そして愛の形
第二話「友情」
「すべての雲は銀の…」より



病院は静かだった。
 この総合病院は土日は休みで入院患者以外はほとんどいない。
 小児科の頃から僕はこの病院にお世話になっていたが、
産婦人科まであったとは知らなかった。
 だが、今僕たちが向かっている先は産婦人科ではない。
 他の病棟と別の奥まった所にある集中治療室に向かっているらしい。
 親父は何度も足を運んだのか、この複雑な通路を躊躇なく歩いていく。
 僕はといえば、その後をおどおどとついていくだけだ。
 こんな奥まった所に来たのは初めてだった。

 「どうしてくれるんだ、何故こんな事になった。」
 突然奥の方から怒鳴り声が聞こえてきた。
 「あんたは娘を幸せにすると誓ったんじゃなかったのか。」
 通路の奥で一人の男がもう一人の男の胸ぐらを掴み怒鳴りつけている。
 怒鳴りつけている男は泣きそうな声で叫んでいた。
 初老のその男は、僕の見知った人だった。
 「笠松さん。」
 思わず僕は呼びかけた。
 由美子の父親は最初僕のことが分からなかったようだった。
 だが、記憶の底に引っかかったのかまじまじと顔を見つめ、
ハッと気付く。
 「祐介君。」
 彼は驚いたように僕を見つめたが、ばつが悪そうに顔を背ける。
 以前彼女の家に招かれた時は、豪快な人だと思った。
 今は哀れなほど小さく見える。
 彼の娘が僕に与えた仕打ちを思えば当然だと思うものの、
気の毒な気がするのはおかしな事だろうか。
 「陽介、どうしたんだ。由美子さんの容態は。」
 親父は前に出ると兄貴に尋ねた。
 兄貴は笠松さんに乱されたシャツやスーツを整え、
また、ため息をつく。
 俯いたまま喋ろうとしない。

 「陽介、由美子さんの容態は。」
 親父は再度尋ねた。
 兄貴は目を開けると親父に目を向け、
そして僕にも目を向ける。
 「流産した。」
 足下がグラッと来たような気がした。
 それこそ膝の力が一気に無くなってしまう。
 親父がとっさに僕の右肩を掴む。
 「どういう事だよ。」
 「流産したんだ!」
 今度は吐き捨てるように叫んだ。
 「おまえを迎えに行った晩に容態が急変して集中治療室に送り込まれたんだが、ついさっき医者に言われたよ、お気の毒でしたってな。」
 呆然とするしかなかった。
 昨日、兄貴と一緒に帰って会っていればこういう事にならずに済んだんだろうか。

 「由美子さんの容態の方はどうなんだ。」
 親父はどこまでも冷静な声で尋ねた。
 「ついさっきまで危ない状態だったらしいけれど、危機は脱したそうだよ。 今、薬で眠っている。」
 思わずホッとした。
 「会えないのかな。」
 兄貴はキッと睨み付けてくる。
 『今頃、何を言っているんだ。』
 そう思っていることがありありと分かって少し怯んだ。

 だが同時に怒りが沸いてくる。
 誰のせいで、こんな状況に陥ったと思っているんだ。
 誰のせいで俺がここに来ていると思っているんだ。

 思わず睨み返すと、兄貴は怯んだように目を反らす。
 「今は無理だ。面会謝絶だからな。俺だって入れないんだ。」
 まして、おまえなど入れる訳がない。
とでも続きそうだったがあえて無視する。
 「どちらにせよ、今は麻酔で眠っている。 明日には安定するそうだから、その時来てくれないか。」
 笠松さんが長椅子に座って続けた。
 親父が僕の肩に手を置いて、代わって答えた。
 「分かりました、明日また出直してきます。」
 親父はそのまま僕を押すように後ろを向く。
 「帰ろう。」
 僕にようやく聞こえる声で呟き、歩き出した。
 後ろ髪を引かれる思いだったが、仕方なく親父の後に着いていく。
 途中で振り返ると、笠松さんは座って、兄貴は立ったまま、
顔に手を当てて俯いている。
 やりきれない思いで僕は前を向き親父を追いかけた。


 家に着くと、お袋がやや翳りのある笑顔で迎えてくれた。
 先に連絡が行っていたらしく、既に流産のことは知っていて、
 僕が先ほど病院を回っていったことを知ると、考えすぎないようにと
心配して声をかけてくれた。
 二階の僕の部屋はきれいに整頓されていた。
 どうやら留守の時も何度か掃除をしてくれたようだ。

 突然、胸の携帯が着信音を鳴らし出した。
 慌てて通話ボタンを押すと、悪友の声が聞こえてくる。
 『よう、お久しぶり。』
 相変わらず脳天気な声でタカハシは喋りだした。
 さっきまでの重苦しい気分が消え去っていくような気分だ。
 『おまえ、今こっちに来てるんだって。』
 さすがの早耳だと呆れた。
 どうせ美里ちゃんからでも聞いたのだろうが。
 だとするとあの一件も耳に入っているか、そう思ったら、
 『おまえ、健太のおと〜さんになるんだって。』
ときた。
 『美里が怒り狂ってたぜ、花綾ちゃんが可哀想だって。』
 「本気に取るなよ、その場の勢いに決まっているだろう。」
 『だからこそ本音が出たんじゃねえの。』
 穿ったことを言いやがる。
 確かに、その晩にああいうことになったんだから
まんざら的はずれでもない。
 だからといってこいつにそのことを話したら、
たちまち広がってしまうことは目に見えている。
 僕はともかく瞳子さんは困るだろう。
 園主さんの耳に入りでもしたらややこしいことになる。
 「妙なことを言うなよ、瞳子さんが困るだろう。 あの人も独身なんだし、変な噂でも広まっちまったら困ったことになるぞ。」
 『な〜るほど、片思いって部分で本音には違いないわけだな。』
 こいつ、なめたことを言いやがって。
 昨晩、瞳子さんとあ〜して、ど〜して、こ〜したことを微細に報告してやろうか。
 『それはいいとして、ちょっと出てこれねえ。』
 あっさりと話題転換しやがった。
 『ちょっとひさしぶりに会って話したいんだけどな。』
 「今か‥‥‥、電話じゃダメなのか。」
 お袋が今料理を作っているはずだ。 あまり遠出はできない。
 『いや、ちょっと込み入った話でさ。 実は今おまえんちの前まできてるんだ。』
 窓を開けると門の前に人影があった。
 『お〜い、見えるか。』
 人影が手を振った。

 「お〜さむ。」
 喫茶店『風見鶏』は家から歩いて数分の場所にある。
 マスターは今時珍しいひげの似合う年齢不詳の男だ。
 普段はもう一人僕と同じぐらいのアルバイトがいるのだが、
今はマスターしかいない。
 この二人のいれるコーヒーは実に美味い。
 本来紅茶党だったはずの僕が、由美子に飲まされて転向したほどだ。
 それ以来、ここは二人でよく来た場所の一つになった。

 「お〜い、祐介。 こっちだこっち。」
 中に入るなりヒーターの風がよく当たる奥の席に陣取ったタカハシは、僕を呼びつけた。
 「少しは静かにしろよ、迷惑なヤツだな。」
 僕は苦笑と共にコートを脱ぐとマスターに会釈した。
 「お久しぶり、マスター。」
 「おう、どうしたんだ。 しばらく来なかったな。」
 「ちょっと、いろいろゴタゴタしてましてね。」
 本来僕たちがいつも陣取っていたのは、外がよく見える窓際の席だった。
 由美子がそこから見える景色を見ながらカフェオレを飲むのが好きだったからだ。
 だがその席は、今の僕には用はない。
 「マスター、コーヒーを二つ頼みます。」
 「あれ、おまえ紅茶党じゃなかったっけ。」
 タカハシは意外そうに尋ねた。
 「前、コーヒーを飲むくらいなら泥水を飲んだ方がマシだとか言ってたろう。」
 よく覚えてるな、と思った。
 だてに親友を自称しちゃいない。
 「まあ、騙されたと思って飲んでみ。」
 マスター直々にいれてくれたコーヒーを久しぶりに飲んでみたかった。
 アルバイトのコーヒーもなかなか美味いのだけれど、やはり師匠の入れたコーヒーの方が何かひと味違うのだ。

 マスターが直々にお盆にカップをのせてテーブルに置いてくれた。
 タカハシは一口飲むと「へぇ〜」と呟く。
 「美味いよ、これ。」
 「だろう。」
 マスターの妙技は健在だった。
 僕は自分が褒められたみたいに嬉しくなる。

 そして‥‥‥思い出す。
 『騙されたと思って飲んでみてよ。』
 恐る恐る飲んだ僕は驚く。
 『へぇ〜、美味いなこれ。』
 『でしょ。』
 由美子は自分が褒められたように笑みを浮かべていた。
 あいつも今みたいな気持ちで笑っていたのだろうか。
 あの頃、まだ僕たちは恋人同士だったのだろうか。

 「おい、なにをぼーっとしてるんだよ。」
 タカハシが僕の顔の前に手の平をひらひらさせている。
 また、追憶に囚われていたらしい。
 つくづく情緒不安定でいけない。
 「実際美味いワ、よくこんな所を知ってたなあ。 通学路とかは別の方向だろう。」
 「由美子ご推薦の喫茶店なのさ。」
 タカハシは苦虫を噛み潰したような顔になった。
 砂糖を入れたつもりが塩だった、といった表情だ。
 「気にするな。 美味いモンに国境はねえよ。」
 そう言ってまた一口飲んだ。
 コーヒー独特の苦みが妙に快感だったりする。
 「そう思える程度には回復したのさ。」
 タカハシは意外そうな顔で尋ねる。
 「由美子が入院したのは知ってるだろう。 面会に行ったのか。」
 「いや、面会謝絶で会えんかった。 明日には安定するらしいから、もう一度行くさ。」
 流産したことまでは言えないな。 いずれ分かることでも。
 そう思うと、
 「責めたりするなよ、あいつすっげえ罪悪感に埋まっちまってるんだから。」
 と、タカハシは心配そうな顔で言う。
 「それぐらい覚悟の上だろう。 第一おまえの心配するような事じゃない。」
 すこし不機嫌になる。
 こいつ、いつも由美子の肩を持つような事を言いやがる。
 「だから‥‥‥」
 タカハシは大声を上げたが、ここがどこだか気になったらしい。
 マスターの方を向いて気にしたような顔をする。
 「心配するなよ。 ここのマスターは客のプライバシーに干渉するような人じゃない。」
 マスターはカップを洗っていたようだが、一段落したのか奥の方に出ていった。
 他に客はいない。 さりげなく気を使ってくれたようだ。
 安心したのか、タカハシは喋り始めた。
 「だから‥‥‥な、由美子の入院には、俺にも少し‥‥責任があるような気がしてさ。」
 こいつらしくもなく、奥歯にモノが挟まったような事を言う。
 「なんでおまえに責任があるんだ。 あいつが勝手にストレスをため込んだだけだろう。」
 「いや、‥‥‥由美子におまえのことについていろいろと話したからな。」
 「‥‥‥なんだそりゃ。」

 タカハシは由美子に頼まれて僕にバイトを世話した後も、
何度となく僕の携帯に連絡をしていた。
 他にも瞳子さんや美里ちゃんに聞いて僕の近況を確認していたらしい。
 そうやって知った話を、心配していた由美子に伝えていたらしいのだ。
 「もちろん、おまえの心情についてはオブラートに包む感じでぼかしていたさ。 ただでさえ罪悪感で苦しんでるのに、おまえに憎まれていることまで伝えられたら可哀想すぎるもんな。」
 そうやって、僕がこちらのことを忘れて徐々に元気になり仕事もばりばりやって充実した毎日を送っているように伝えていたらしい。
 「無論、由美子も分かっていると思っていたさ。 心変わりをしたのは自分の方なんだし、おまえは彼女を忘れられないからこそこの町を出ていった。 分かり切った話だよな。」
 やがて、由美子は妊娠していることが分かり兄貴にプロポーズされた。
 「今にして思うと不味いことをしたって思うんだけど、ちょうどその頃花綾ちゃんがおまえのことを想っていることを美里から聞いてさ、
おまえもまんざらじゃないようだし、このままなるようになるんじゃないかって話したんだ。」
 「なんでそんなでたらめを‥‥‥。」
 「いや、だってさ、‥‥もうおまえ達の仲は修復不可能なんだし、彼女もおまえの兄貴とそれなりに上手くやってたみたいだしさ。 後はどうやって区切りをつけるかって事だろう。 だからその方が彼女も安心できるだろうと思ったんだ。 まさか妊娠だの結婚だのといった状態だとは思ってもみなかったし。」

 その後、由美子は兄貴のプロポーズを受け入れ籍を入れた。
 式は行わなかったらしい。
 タカハシが言うには由美子も今の幸せを受け入れるつもりになったようで、表情も明るくなり徐々にだが笑うようになった。
 昔の由美子に戻ったようで、友達とも付き合ってショッピングにも出かけるようになっていたらしい。
 「もっとも、俺には面白くなかったさ。 おまえの苦しみを知っていたからな。 なんで祐介の方が血の吐くような苦しみを味わって、裏切った由美子の方が幸せになるんだろうって、そう思ったよ。」
 僕は少し驚いた。
 こいつがそんな風に僕のことを考えてくれていたとは思わなかった。

 「それからしばらくして、由美子が俺の家に訪ねてきたんだ。
祐介に会いに行くから一緒に来てくれないかってな。」
 「‥‥‥なんだって!」
 「由美子が言うには、このままおまえに忘れられて終わりたくはないんだとさ。 キチンと謝って許してもらって全てを終わらせてから、次のステップに移りたいって言うのさ。」
 「なにを勝手なことを‥‥‥‥、許してもらえるような事かよ。」
 「いや‥‥‥、由美子はおまえの心情についてはなにも聞いていないんだ。 忘れられてる、というか、そう思いたがっているんだからさ。 おまえの忘れたい過去の中で消え去ることが耐えられないって事らしいんだ。 おまえの兄貴との仲もどうにか取り持って修復したいって事もあったらしいし。」
 「なにを馬鹿な。‥‥‥で、どう答えたんだよ。」
 タカハシはコーヒーをぐいっと飲み干すとカップを戻してため息をついた。
 「そりゃ、慌てたさ。 由美子がおまえの苦しみと憎しみをよく分かってないことは何となく気が付いていたけどあえて言う事じゃないし、 結局の所時間が解決してくれるのを待つしかないと思っていたのに、今会ったりしたら何もかもぶち壊しになるかもしれないじゃないか。」

 タカハシは、それこそ必死になって止めたらしい。
 産まれてからでも遅くないとか、僕の忘れたい気持ちを察してやれとか、あげくには自分は用事があって今行くことができないとか、という風に。
 「でもダメだった。 彼女の決心、固くてさ。 俺がどうしても行きたくないなら住所を教えてくれって言うんだ。 一人でも行く気だったらしい。」
 「なんでそこまで‥‥‥‥。」
 「なんつうか、母の愛ってやつか。 自分の子供が家族から嫌われたまま産まれてしまうことが悲しかったみたいだな。 それもよりによっておまえに。」
 「‥‥‥‥‥‥‥」

 タカハシは諦めるしかなかったらしい。
 僕の今いる場所は親父達が知っている訳だし、それこそどうしようもなければ僕の携帯に電話してしまえばいいのだから。
 「教えるしかなかったんだ。 おまえがどれほど苦しんでるか、恨んでいるか。 由美子のことをこれっぽっちも忘れていないんだって事を。」
 「‥‥‥‥で、どうなったんだ、由美子は。」
 「愕然としてた‥‥‥。 それこそ顔面蒼白でさ。 でも、それでも会いたいって言うんだ。 なんとか謝りたいって。 今なら安定期に入っているから多少のショックには耐えられる、罵られても大丈夫だって言うんだ。 恨まれているんなら余計に会いたい、許されなくてもいいからって、それこそすがりつきそうなほど必死で頼んできた。」
 「‥‥‥‥‥‥そして、どうなった。」
 「可哀想だったけど、罵られるぐらいですむとは思えなかった。
おまえに結婚のことを話してから一ヶ月も経ってなかったからな。」
 「なんだよ、それ。」
 「あの時、おまえ胸を押さえたまま倒れちまっただろう。
そのときなんて呟いていたか覚えているか。」
 覚えていなかった。 というか倒れたことさえ記憶になかった。
気が遠くなったような気がしていたが‥‥‥‥‥‥、
「『殺してやる』、そう言っていたんだぞ。 何度も。」
 僕の方が愕然とする番だった。
 確かにあの時の苦しみで気が遠くなったけれど、憎しみがそこまで心を支配していたんだろうか。
「なんというか、怖くってさ。 殺意そのものの呟きが呪いそのものに聞こえたんだ。」
「まさか、そのことも言ったのか。」
「‥‥‥教えた。」
「おい、なんでそこまで話す必要が‥‥」
「へたすれば由美子が殺される。 おまえに。」
 絶句するしかなかった。
「確かに普段のおまえはそんなに簡単に理性をなくす人間じゃないことは知っているさ。 けど、あの頃のおまえが由美子を目の前にして理性的になれるとは思えなかったんだ。」
「‥‥‥‥‥‥」

「よくニュースとかで痴情のもつれで殺人事件があったりするだろう。 俺にはその気持ちがよく分からなかったんだ。 浮気されたぐらいで恋人を殺したくなる人間の気持ちが理解できなかった。 けどあの時、おまえを見て怖くなった。 おまえみたいに穏和な人間があんなに憎しみを燃やすことができるなんて信じられなかったんだ。」
 タカハシの話に呻くしかなかった。
 だが内心で納得する心があることに気付いていた。
 確かに由美子に、というよりその子供に殺意に近い感情があったことは確かだ。
 もし、赤ん坊の首をへし折った時、由美子がどんな風に嘆き悲しむか想像した夜もあった。
 おぞましい夢の中で、その姿を高笑いしながら見つめる僕の姿を、今でもハッキリと思い出せる。
 「由美子はホントに泣きそうな顔をして、そして諦めてくれた。
せめて帰ってこられるぐらい心の傷が回復してから許しを請うことを納得してくれたんだ。」

 それから由美子はタカハシに会いに来なくなった。
 以前は週に一度は僕の近況を尋ねに来ていたのに。
 それどころか外出もしなくなったらしい。
 友人との交流もなくなってしまった。
 「心配はしていたんだ。 ただ、もう六ヶ月にはなっているはずだから出かけるのもそろそろ苦痛な時期のはずだし、おまえの兄貴もいるんだから俺が心配する事じゃない。 そしたら今週の初め入院したって云うだろう。」

 先日見舞いに行って、由美子のあまりの消耗ぶりに驚いたらしい。
 「もう骨と皮っていうか、とても妊婦には見えなかった。 由美子は遅い悪阻が来たんだって弱々しく笑っていたけど、とてもそんな感じじゃなかったんだ。 あれは拒食症か何か、精神的な病気になってしまったんだと思う。」
 「そんなにひどいのか。」
 「ああ。あんな状態じゃいつ流産しても不思議じゃない。 それどころか命も危ない。 もうおまえに頼るしかない、そう思った。 そしたら美里から連絡が来ておまえが兄貴に言われてこちらに向かったっていうだろう。 正直ホッとしたんだ。」
 ‥‥‥遅かったよ、もう流産してしまったんだ。
 その言葉を飲み込んだ。
 「だからさ、優しくしてやってくれ。 不本意かもしれないけど許すと言ってやればいいんだ。 そうすれば由美子は罪悪感から逃れられる。 なっ‥‥‥。」
 「わかった、努力してみるよ。」
 タカハシはホッと一息ついた。
 「それから、俺が言ったことを否定してくれ。 あんなヤツのことを信じるなんてどうかしているってさ。 せいぜい貶していいから。 とにかく安心させてやってほしいんだ。」
 「いいのか。」
 「いいって、どうせ信用ないのが俺の魅力なんだから。 一つや二つ不信の種がばらまかれてもどうって事ないって。」

 タカハシはレシートを取るとマスターを呼んで僕の分まで払った。
 僕が遠慮すると、
 「いいって、払わしてくれよ。 俺のできる事なんてこれぐらいしかないんだからさ。」
 そう言ってドアの方に歩き出した。
 「俺さ‥‥‥。」
 ドアの前で立ち止まった。
 「おまえと由美子のつき合いが結構好きだったんだ。 ‥‥‥なんつうか理想のカップルつうか、‥‥‥‥憧れだったと言ってもいいか。 いずれおまえ達の結婚式で友人代表として恋愛時代を面白可笑しく暴露してやるのが楽しみだった。 こんな形で終わるなんて ‥‥‥‥残念でしょうがねえ。」
 「‥‥‥‥‥‥‥」

 「マスター、カフェオレとコーヒーをもらえる。」
 タカハシが帰った後、僕は窓際の席に移った。
 マスターは黙っていれてくれると僕の向かいの席にカフェオレを、
僕の前にはコーヒーを置いてくれた。
 僕はこの席で由美子が外を興味深そうに眺めている姿を
いつも見つめていた。
 由美子の嬉しそうな顔、驚いた顔、苦笑した顔、怒った顔、
いろんな表情が思い出される。
 だが、不思議と悲しそうな顔は思い出せなかった。
 由美子は僕の前ではけして泣かなかった。
 そういった所が僕にはあったのかもしれない。

 以前、タカハシが僕のことを薄情な人間だと言っていた事を
思い出す。
 ‥‥‥‥そうかもしれない。
 僕が由美子の話をなにも聞こうとせず逃げ出したのは、
僕自身が傷つきたくなかったからだ。
 彼女がどう思っていたかなんて考えたくもなかった。
 由美子は、僕が彼女のことを忘れてしまっていると信じていた。
 僕の気持ちは彼女にはその程度にしか思われていなかったんだろうか。
 僕は由美子から愛されていると信じていたけれど、由美子の方は僕から愛されていると信じることができなかったんだろうか。
 だとしたら、そんなアンバランスな恋愛が長続きするはずがない。
 愛し合っていたとしても信じ合っていなかったのなら破局を迎えたのは当然のことだ。

 由美子が僕を裏切ったと、そう信じ込んでいたけれど、
実は僕が由美子を裏切らせたんじゃなかったんだろうか。







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