闇-darkness-
春先とはいえ、0時をまわった真夜中の公園の空気は、細く尖った刃先でちくちくと頬を刺した。
サイクリングコースに沿って植えられた広葉樹の葉は、ひっそりと息をひそめるように沈黙を守って身を寄せ合っている。
等間隔に灯っている街灯はもうだれも通らないサイクリングコースをただ、辛抱強く照らし続けていた。
時が止まってしまったかのように見えるその公園の一角とは対照的に、遠くに見えるビル街は、真夜中を過ぎてなお一層輝きを増したようなネオンに彩られて、不夜城の様相を呈していた。
不意に、木々の葉が微かにざわめいた。
春風というにはあまりにも冷え冷えとした空気に頬をなでられ、匡は着ていたウォームアップスーツのジッパーを顎のラインまで引き上げた。レーサーパンツの後についているポケットから、指先の出るレース用の革のグロ一ブを取り出すと、きっちりと両手にはめる。
ギュ、ギュ、と2、3度両手を握ったり、開いたりしてグローブのなじみ具合を確かめると、腰のあたりに寄りかからせておいた自転車のグリップを握った。
もう一度、遠く目の前にそびえる不夜城の灯りに目をやってから、今度はウォームアップスーツの右ポケットから、夜間練習用に赤外線を通すグラスを取り出して掛ける。スピードからくる風の直撃を避けるという本来の目的のほかに、顔を隠すという目的もあった。
大きく足を後ろに振り上げて自転車にまたがると、匡はゆっくりとペダルを踏んで、もう
だれも人が通らなくなったサイクリングコースを走り始めた。
オフィスビルの建ち並ぶビジネス街を遥かに見上げるこの公園は、どこにでもある郊外の公園らしく、円形の広場の中央に大きな噴水があり、その広場のまわりをまた取り囲むようにして木々が植えられていた。
ウィークデーの昼間には、ランチ帰りのサラリーマンや若者たちで賑わい、夕暮れ時ともなればカップルや、ペットの散歩に歩く人などが目につくようになる。
そしてさらに、その広場の周りの緑の中を縫うようにしてジョギングコースが設けられ、公園の外苑をぐるりと取り囲むようにして、1周6キロにもなるサイクリングコースが作られていた。
あたりを宵闇が包むころになっても、それらのジョギングコースや、サイクリングコースを利用する人々で、かなり遅くなっても人影が途切れることはなかった。
しかし、さすがに0時を過ぎたサイクリングコースで、人に出会うことはほとんどない。それでも走り始めてから2回ほど、匡と同じようなスタイルでペダルを踏んでいる人問とすれ違った。おそらく、自転車競技選手かトライアスリートだろう。
そして、すれ違った相手も匡をその両者のうちのどちらかだと思ったはずである。
徐々に強くペダルを踏み、スピードに乗りながら、匡は今夜の「仕事」のことに思いを巡らせていた。
もうしばらくこのコースを走って行くと分岐点がくる。
一方の道は全周6キロのこのコースであり、もう一方の道はコースから外れ、川沿いをビジネス街まで続く別のサイクリングロードだった。
匡は体重をペダルにかけ、その分岐点へと一気に加速した。
上体をぐっと右に傾け、体ごと大きく倒すようにしながら、コースを外れて川沿いのサイクリングロードに入る。
匡の目的地は眼前にそびえるビル群だった。
あのビル群の一つに、匡の仕事相手の人物がいる。今日、初めて顔を合わせる人物、そしてもう二度と会うことのない人物である。
匡の「仕事」の相手。
匡に消されるべき人物が。
なぜ、奴が消されなければならないか。その理由はごく単純だ。
見解の相違。
それだけだ。
しかし、たったそれだけのことが一人の命を奪うどころか、時には国を挙げての殺しあいの理由にもなり得るのである。
物騒な世の中だ。
自分がそのひとりであるにもかかわらず、匡は胸の中でつぶやいた。
匡の標的である彼は、プロジェクトチーム――通称『Pチーム』の中の、匡たち『Z』に敵対する位置にあるグループを掌る官僚の中でも、最右翼の人物だった。
40代半ばにさしかかったばかりで、目の上のコブともいうべき連邦政府の長老たちの下で中堅的存在の彼は、実質的にはまだ、彼の考えひとつで『Pチーム』の中の右翼全体を動かす力は持っていない。しかし、それでもその一部の人間を把握し、自分の計画に協力させるくらいの権力と財力、そして話術は持ち合わせていた。
奴がその巧みな話術と財力で集めた「精鋭部隊」に命じた任務。
それは、Dr.ウェーブナーの暗殺だった。
Dr.ウェーブナーはESP研究の第一人者であり、同時に連邦政府の最有力官僚の人でもあった。そして、『表』と『裏』を行き来する能力を持つ者たちを集めた『Pチーム』結成の発案者でもあり、一方でその『Pチーム』の安全弁ともいうべき『Z』というチームを、極秘のうちに直属に結成した人物でもある。
ESPチェックにより、中でも特にそのESP値の高い5歳以下の子供を集めて直属のチームを作ることが可能だったのは、Dr.がそのESPチェックの発案者であったからである。
彼は『Pチーム』を結成し、互いに影響を与えあう『表』での非常事態に備える一方で、『裏』から『表』へ干渉することを強固に反対した。
『表』と『裏』は互いに対をなすが、本来は独立した2つの世界である。
一方の利益のためにもう一方にむやみに干渉することがあってはならない。
それがDr.の主張であった。
しかし、連邦会議の一部、『Pチーム』の中には反対の見解を持つ者がいた。
見解の相違である。
そしてその中でも強固に『表』世界への干渉を主張する人物、それがDr.の暗殺を謀った人物である。
消される前に消す。
理屈はごく簡単なことだった。
川沿いのサイクリングロードでは、川から吹き上げてくる風が匡の右頬を刺すように吹きつけていた。
匡はただ黙々と一定のリズムを保ったままペダルを踏み続ける。
少しずつ体が暖まってきているため、もう寒さは感じない。むしろその冷たさが心地よく感じられていた。
匡はペダルを踏む足に力を加えた。自転車はスピードを増す。
このままのスピードでもうあと10分もこぎ進めて行けば、目的日たどり着くはずだ。
匡の脳裏にこれから彼がその命をたとうとしている男の顔が一瞬よぎった。
雄也に渡された写真に写っていたのは、40を越えているとは思えないほど若々しく見える「青年」だった。その姿形が、というのではなく、おそらく気力に満ちあふれるそのまなざしと、自信がこぼれ落ちてくるようなその笑みのせいなのだろう。
政治家としてまさに油が乗り切り、これから来る自分の時代に野心を膨らませている。
その写真の中の笑顔は匡にそんな印象を与えた。
けれど。
匡は声には出さず、その笑顔に語りかけた。
あんたの時代は、永遠にやってこないんだぜ。
あんたの仕事も、家族も、野心も、未来も、希望も、何もかも、これから俺があんたから奪うんだから。
そう、すべて、なにもかも。
今まで、何度かこの手の仕事を匡はこなしてきた。
『Z』の中では暗黙の了解のようにそれぞれの持ち場が決まっていて、この手の仕事の時はたいてい、匡にその役割が回ってくることになっていた。
そもそもその始まりが、自分から買って出たことだったのか、それとも無理やり回って来た役だったのか、それはもう忘れてしまったし、そんなことはどうでもいいことだった。
重要なのは、与えられた仕事を無事に終えることだった。
それ以外は何も考えるべきじゃない。それが何よりもこの仕事を成功させるために必要だった。
しかし、なぜだか今日はその男のことが妙に頭から離れなかった。いや、それは自分自身に対する疑問だったのかも知れない。
奴をいま消さなかったら、こちらがそう遠くないうちに消されるのは間違いない。先手を打っておくのはごく当然であり、理屈にかなっていることだ。同じような状況におかれれば誰だって同じ選択をするだろう。
しかし。
一人の人間の何もかもを奪うのに、本当に理屈にかなうなどどいうことがありえるのだろうか。
そんな思いが不意に匡の胸に沸き上がって来た。
もちろんこのまま奴の思想を野放しにしておいたら、確実にたくさんの人間の血が流れるだろう。それが分かっていながら手をこまねいていたとしたら、それは明らかに罪悪だ。彼らが『Z』である以上は。
しかし、奴の思想はともかくとして、奴にも奴の死を悲しむ人間がいることも事実だ。
なにをいまさら。
匡の中で、そんなことを考えている自分を笑う、もうひとりの匡がいた。
なにをいまさら安っぽい感傷に浸っているんだ。思わず口元に苦笑が浮かぶ。
俺にもヤキがまわったのだろうか。考えてもどうしようもないことをぐだぐだ考えるのは俺の性分じゃないはずなんだが。
今までも何度となく同じような仕事をこなしてきた。今度の仕事も同じことだ。
俺は奴を消すように指示をうけた。あとは自分に与えられた仕事をこなすだけだ。
何も考えることはない。
匡は袋小路に迷い込んだ思いから抜け出すように腰をサドルから浮かすと、一気に全体重を右足にかけた。
グンという手ごたえが腕に伝わり、正面からさらに強く体当たりをかけてくる風の抵抗を全身で受け止める。
雄也なら。
雄也ならこんなふうに迷ったりすることはないのだろうか。
一瞬よぎったその疑問符を振り払うように、匡は身を低くしてグリップをぐっと胸元に近づけると、目の前に迫ってきたビルの明かりをグラスごしに見上げた。
何も考えないことだ。
呪文のようにもう一度、その言葉を心の中で咳きながら。
匡はもう明かりの消えたオフィスビルの谷間に自転車を止めた。
表通りから漏れてくるネオンやヘッドライトの明かりで、あたりは薄闇に包まれていた。
自転車から降りて壁にもたれ掛からせると、ウォームアップスーツの袖口をまくって時計を覗き込む。少し背をかがめるようにして時計のライトをつけると、「0:45」というデジタルの文字が浮かび上がった。
時間を確認して袖口を戻すと、匡は外耳の裏につけてある超小型無線のスイッチをいれる。近くのビルの一室で匡に指示を出すために待機している雄也に、スタンバイ完了を知らせるためである。
匡がスイッチを入れてから30秒と待たずに、無線から雄也の声が匡の耳に直接届いた。
外耳にじかに張り付いているので、たとえ満員電車の中でもほかの人間に聞かれる心配はない。
「2人だ」
すぐ耳元で話しているかのような雄也の声は短く、それだけを伝えるとすぐに途切れた。
狭い路地にまた静寂が戻る。
2人か。計画どおりだな。
匡は腕組みをして壁に寄りかかると、瞼を閉じてもう一度動きの手順を確認した。状況によってはその場の判断で動きを変えるのはもちろんだったが、再度計画の確認をすることで、仕事にすべての神経を集中させる、これは一種の儀式のようなものだった。
雄也の伝えてきた2人という人数は、奴についているSPの数だった。
運転手が1人、護衛が1人。
奴のポストから考えれば決して多い数ではない。それもそのはずである。
奴は今日、彼の「精鋭部隊」とDr.ウェーブナー暗殺についての最終的な打ち合わせをしているのである。人目につくほどSPをつけるわけにいかないのも道理だろう。
ご苦労なことだ。
匡はグローブをはめた手をゆっくりと握ったり開いたりしながら、時がくるのを待っていた。ウォーミングアップをかねて自転車をこいできたおかげで体は十分に暖まっていたが、川風をずっと受けながら走ってきた手は冷気にかじかんでいた。それをほぐすように辛抱強く何度も手を握ったり開いたりと繰り返す。
つくづく用心深い男だ。自らが暗殺の打ち合わせをするなんて。よほど周りの人間を信用していないのか。
1度きりのチャンス、失敗は許されないとなれば、用心深くなるもの無理はなかったが。
もう少し、別のところにその用心深さを働かせるべきだったな。
それは先手を取ったと思っている奴の油断だった。匡にとっては願ってもないことだ。
匡は手の動きを止めて、裏通りを伺った。
匡の待機している路地からちょうど50メートルほど離れたところに、どこにでもあるようなありふれたフォルムのセダンが止まっていた。遠目だが運転席に男が乗っているのが見える。車の横付けしてある建物の中では、いま奴が「精鋭部隊」との打ち合わせに余念がないころだろう。
匡はもう一度腕の時計に目をやった。
闇の中で浮かび上がった文字は「0:50」を示していた。グラスをかけ直す。自転車のグリップを握った。雄也からの指示を待つ。
「匡、行動開始だ」
無線から雄也の低い声が響いた。
匡の中でカチリとスイッチの入った音がした。
もう何も考えない。奴は既に匡の中では抹消すべき標的でしかなくなっていた。そこには何の感情も介存しない。してはならない。
匡は自転車のサドルにまたがると、勢いよくペダルを踏んで路地から滑り出た。近づいてくるセダンに向かって一直線にタイヤを走らせる。
セダンの脇を擦り抜ける時、不意に匡の体が自転車ごとグラリと傾いた。そのまま左に横倒しになる。
派手な音を立てて自転車とセダンの横腹が接触した。そのまま自転車が地面にずり落ち、金属が塗料を削るにぶい音がした。
「おいっ、おまえ何やってんだっ」
車の中から男が血相をかえて飛び出してくる。
「あ…す、すみません。あの俺…」
車体についた傷と男の顔を交互に見比べながらしどろもどろになっている匡の様子に、相手はますます勢いづいて匡の胸倉を掴んだ。
「謝ってもらってもしょうがないんだよ、お兄さん」
全く、人間ってのはおもしろい。常に無意識のうちに、相手との力関係をはかっている。
自分が優勢だと判断するとその後の行動まで違ってくるのだ。
だから匡はその男の言葉に、ますます気弱な青年の顔を見せた。
「あの、で、でも」
グラスごしに不安げな視線を泳がせる。
匡が小刻みに震えていることが分かると、男の口元にみるみるうちに暴力的な笑みがのぼってきた。
「おとしまえを、つけてもらおうか」
趣味の悪い男だ。3流映画で散々使い古されたようなせりふに、内心匡は苦笑を漏らす。
もう少し気の利いた台詞は思いつかないのだろうか。
「お、おとしまえって…」
体の震えが声にも現れている匡の様子に、男は満足そうに笑い声を上げた。
「まあそうびびるなよ、何も取って食おうってわけじゃないんだから」
匡の肩に腕を回して抱くようにすると、近くの路地裏へと匡を促して行く。
少しは腕っ節に自信があるらしい。よほどおつきの運転手という役割に退屈していたのか、男は匡の肩をポンポン叩きながら上機嫌に口笛まで吹き始めた。
匡は震える足取りで男に促されるまま路地裏に入って行く。
「さて、と」
男の手が匡の肩から離れ、再び匡の胸倉を掴む。男の目にどす黒い光がよぎり、口もとが凶悪に歪む。
固められたその拳がものすごいスピードで匡の左頬を捕らえようとしたその瞬間。
男の体が向かい側の壁に叩きつけられた。そのまま拳の入った下顎をのけぞらせてずるずると壁をずり落ちる。
男は既に意識を失っている。見開かれたその瞳にもう一瞬前のにぶい光りはなかった。
おそらく、形勢が逆転したことさえ知らないだろう。
匡は握っていた右手の拳をゆっくりとほどくと、その手で光を失った目で暗い空を見上げている男の襟元を掴んで引き上げた。
180cmはあろうかという大柄な男の体が、あっさりと宙に浮かぶ。
匡は男が完全に気を失っているのを確認すると、その体を再び壁にもたれ掛からせた。
あたりを見回すと、ホテルの裏手に位置するこの狭く薄暗い路地には、ゴミ用のポリタンクやら酒瓶なとが無造作に置かれ、ゴロゴロ転がっていた。
それらに目をやってから、匡は右手のグローブを直し、反対側の壁に背をつけて息をひそめた。瞼を閉じてただじっと次の指示を待つ。
「来るぞ」
5分ほど待っただろうか。予告もなしに雄也の声が匡の耳を刺激した。
匡は伏せていた瞳を上げた。裏通りの様子に耳をすます。
裏通りから、奴とそのSPが密談をすませて建物の裏口から出てきた気配が感じられた。
もうしばらく息をひそめて裏通りの気配を伺う。
奴らは車に乗り込もうとしたところで運転手がいないことに気が付いたようだった。
「どこいったんだ、あいつは」
SPの男が苛立った声を上げるのが聞こえる。
匡はおもむろに側にあった、ゴミの入ったポリタンクを蹴り止げた。派手な音が狭い路地に響き渡る。
「もうやめてくださいっ」
悲痛な叫び声を上げて、今度は積み重ねてあった酒瓶のケースを足で蹴って突き崩す。
ガラス同士がこすれあってひしめき、次々に割れる音がする。
「かんべんしてくださいよお」
今にも泣き出しそうな情けない声で叫びながら、匡は目の前に伸びている男の体を片手で持ち上げた。そのままその体を一部分だけ、路地から裏通りへとチラリとのぞかせる。
全く笑えてしまうほど子供だましの手だったが、これで奴らに対する状況説明は十分なはずだった。
奴らは車の脇に転がっている自転車と車の傷、そして匡がやった陳腐な小細工で、だいたいの状況把握はできたはずである。
「なにやってんだ」
男が舌打ちして駆け寄ってくる。足音が近づいて来た。
匡は気を失っている男の体を自分の目の前に持ち上げると、路地の入り口に背を向けて立たせた。
もう一人の男が路地に飛び込んでくる。気絶した男の陰になって、ちょうど匡の姿は飛び込んで来た男の死角になった。
「おい、いいかげんにしろ」
男が背を向けている男の肩に手をかけようとした瞬間、匡は掴んでいた男の襟首を離した。
男の体が崩れ落ち、何が起こったのか把握できずに目を見開いている間抜けな男の顔が匡の目に前に現れる。
匡は無表情のまま、間髪入れずにその男の腹部に拳を入れた。
男は喉に何かが詰まったようなくぐもった声を短く漏らすと、その場に前のめりに崩れ、動かなくなった。
それからの匡の行動も、全くよどみがなかった。
匡はもう1ダース、空ビンのケースをひっくり返した。
そして次の瞬間、路地から前のめりにつまずきながら転げ出た。路地裏を気にしながら息を弾ませて、必死の表情でその場から逃げ出す。
車の停まっている方向に向かって走り出しながら見ると、奴はもう車に乗り込んで葉巻をくゆらせていた。匡の走ってくる気配を感じて、けげんな顔付きで窓から顔を覗かせる。
そこで奴は、必死に逃げてくる匡と目が合った。
そしてそれが奴の最後の一瞬になった。
匡は駆け抜けざまに、窓から突き出した奴の首を横抱きに抱えるようにして掴むと、その勢いのままその首を車のボディにぶつけた。抱えている腕に全体重をかける。
にぶい感触が腕に伝わって、奴の視界はすべての世界から遮断された。
匡はまだその二度と動くことのない頭を抱えたまま、奴の懐を探って財布を捜し当てると、それを素早く抜き取った。
それからようやくその腕をほどくと、車の脇に転がっていた自転車を抱え起こしてそれにまたがる。
財布を抜き取ったのは物取りの犯行に見せかけるためだった。これもお粗末すぎるほどの小細工だが、奴が死んだとなれば何らかの理由づけは必要だ。
議会の中でもそのあまりにも過激な思想ゆえに異端児されていた奴のことである。
こうしておけば、十中八九、奴の死は通りがかりの強盗事件として処理されるだろう。
匡は全速力で闇の中を滑り出した。
完壁に逃げ切って初めて本当に仕事が終わったと言える。
ふと、背中に見えなくなったはずの奴の視線を感じたような妙な錯覚に捕らわれて、匡はさらに強くペダルを踏んだ。
闇が匡の目の前で2つに避けて、後ろへと音をたてて流れて行った。
川沿いのサイクリングロードに出て、ようやく匡はペダルから足を離した。自転車はしばらく滑るように進み、やがてそのスピードを失ってその場にゆるやかに止まった。
匡は自転車から降りると、それを押しながら土手を下って川縁まで歩いていった。
その場に自転車を放り投げると、きれいに整備された芝生の上に両足を投げ出す。
ひどく喉が渇いているような気がした。
匡は両手から、はめていたグローブを外した。ウォームアップスーツの内ポケットからさっき抜き取った財布を取り出す。まだ最後の仕上げが残っていた。
匡はしばらく持ち主を失ったその財布を手に持って、眺めながら弄ぶ。
随分分厚い財布だった。ほとんどことがカードですませられるこの時代に、現金をこれだけ持ち歩くところからも、生きていたころの奴の人格が伺えた。
自分で見たものしか信じない、ひどく現実的な男だったのだろう。カードなどどいう実態のあやふやなものはあまり信用してないらしい。
自分の信念、自分の考えしか信用しない。そんな男は死ぬ間際、自分の死に直面して一体何を考えたのだろう。
匡の口元から自嘲のような短い笑い声が漏れた。
自分が殺した男のことなどいまさら考えてどうなるというのだ。
匡は財布を弄ぶのを止めて、その分厚い財布の中から現金だけを引き抜く。
抜き取ってしまった財布は、目の前の流れの中に投げ捨てた。
胸ポケットから取り出したライターで、その現金に火を付ける。
匡の目の前で、札束は炎をあげて燃え上がった。かけ直した匡のグラスに炎の揺らめきがうつる。匡は無言のまましばらくその炎の照り返しを受けていた。
炎が、もう何の意味も持たなくなったその紙切れの束を少しづつ飲み込んでいき、匡の手元に迫って来た。
指先に炎が移りそうになって初めて、匡は掴んでいた札束を離し、闇に紙片を放り投げる。
火の灯った紙吹雪がふわふわと揺れながら、真っ暗な川面に落ちて行った。
全てが完了した。
今夜奴は通りがかりの強盗に襲われて死んだ。それだけのことだった。
犯人は永遠に捕まらない。
全ては夜の底で起こった、ただ一瞬の出来事だ。
匡はゆっくりと立ち上がった。何事もなかったように暗く静かに流れている川面をしばらく見つめる。その手が無意識のうちに握ったり、開いたりという運動を繰り返していた。
匡はそれに気が付いて、まるで不思議なものでも見るような目付きで自分の手を眺めた。
かすかに眉根が寄る。ぐっと力を込めて拳を握った。爪が手のひらに痛いほど食い込んだ。
何も考えないことだ。
自分の中でまただれかが囁いたように思った。
そうだ。何も考えないことだ。
もう一度、今度ははっきりと自分自身に言い聞かせる。
明日がどうなるかわからないのなら。
うっすらと血がにじんだ手のひらにグローブをはめ直すと、匡は倒していた自転車を起こしてまたがった。
もうしばらく川沿いを走っていれば、全てが元どおりになるはずだった。
匡はゆっくりとペダルに体重をかけた。
何もかも漆黒に塗りつぶしてしまいそうな暗闇が、滑り出した2つの車輪と、匡の背中に覆いかぶさって、その姿を完全に消した。