KIZU TO KISS 




 初夏、昼下がり。
 BL棟の第2資料室では、雪尾と冬青が情報処理端末のメンテナンスをやっていた。
 双方コンピュータにはかなり強いが、雪尾はソフト、冬青はハード関係とその得意が別れている。ケイティもソフトに、ディレッガーもハードに強い方だが、現在ケイティはかけもちの研究課が忙しく、ものぐさでめんどくさがりのディレッガーが冬青がいる横で機械をいじったりするはずがない。結局この2ヶ月に1度の端末メンテナンスは、誰が決めるともなく雪尾と冬青の担当になっていた。
 屈み込んで床下の配線を覗いている冬青が、ドライバーを突っ込んでガリガリ掻き回しながら、中腰でキーボードをつついている雪尾に、
「どう?」
「うん、だいじょうぶみたい」
「っしゃ」
 床板を直して冬青は立ち上がり、大きく伸びをする。冬青が好んで着込む白い作業用のツナギが、あちこちすすけて汚れていた。床に腹這いになったせいだろう。全部で4時間弱、6台の端末のメンテを行った。これはその6台目。
「ごめんなさいね」
 冬青に比べ、埃ひとつ服についていないことを気にしてか、雪尾が薄く笑んで言う。雪尾はこれから人に会わねばならず、そのために淡いパープルのブラウス、黒い膝上タイト、黒いパンプスにイヤリングは黒曜石、といったきわめて普通の『女性』の姿だった。
「ううん全然。あたしこの後も内勤だし」
 冬青はひらひらと手を振る。どのみち冬青はハード担当なので、床に腹這いになるのはしかたない。そのためのツナギ姿なのだし。
 雪尾の方へ歩いていって、端末画面を覗き込む。机の脇に広げてあるファイルにもちらりと視線を走らせて、
「人事?」
「そう」
 メンテの確認としてテストしたデータ、呼び出した人事ファイル。”B.L.”メンバーのプロフィールが表示されている。画面を眺める冬青を雪尾は横目で伺ったが、現在表示されているのは機密度中レベルの情報だし、同僚としてはレベル中くらいなら互いに知っていても問題ないだろう。(自分の情報でないのなら。)
 ま、いっか、と口の中で呟く雪尾の横で、画面を眺める冬青の視線が止まった。
「…雪尾さん」
「ん?」
 冬青を放っておき、テーブルの上に散乱したファイルを片づけにかかっていた雪尾は生返事状態。
「Livizard=K=Rendaって」
「ああ、それがリヴくんの本名よ」
「リヴ?」
「そうそう、リヴィザード=K=レンダくん」
「リヴィザード=K=レンダ」
「そうそうそう」
 機械的な冬青の声。雪尾はページをたたんだファイルを積み上げながら3回頷く。
「って誰?」
 氷より冷たい冬青の声に、雪尾は振り返りかけて動きを止めた。
「…え?」
 止めた動きを再開して冬青を振り向く。彼女は微笑んでいた。納得したようにゆっくりと頷く。普段瞳がキツく、冷たい印象を与える美人であるだけに、笑うと雰囲気が変わる。穏やかな優しい笑顔。
 その声は完璧に地を這っていた。
「…そう」
「……冬青」
「本名なのね。それが」
「………あのね、あの」
「知らなかったなあ」
「…………」
 冬青は雪尾にニコッと笑い、必要以上に力の入っているその肩をぽんぽん叩いた。
「やだなあ雪尾さん。そんな顔しないでよ。あたし気にしてないわ。全然」
「………そう?」
「ええ」
 にこにこ笑う冬青。その微笑みはケイティ並の暖かさを醸し出している。
……冬青の性格からいって、笑顔の方が恐ろしい。
 雪尾は息を飲んで冬青の微笑を見つめ、自分も愛想ごまかしなだめ笑いを唇に浮かべる。そして極力顔に出さないようにしながら奥歯でギリギリ歯ぎしりした。
『あの馬鹿…』
 
 
 隣の第3資料室。
 噂の馬鹿者、麻直京はひとりで端末と格闘していた。
 もともと彼はこの手の仕事が不得手である。体が先に動くタイプのため、机に向かって何かをするというのが嫌いだ。嫌いだが、『嫌いだ』の一言で済ませられない事態もままあるわけで、京は悪態をつきながらばちばちとキーボードを叩いていた。パネル型のコンソールではなく、キーが沈むタイプのボードを好むのは、コンソールパネルを指を滑らせるように扱うことが出来ない京ならでは、だろうか。
 情報処理をカバーしている本庁直結の『性格保持コンピュータ』、TOYが茶々を入れてくる。
≪手伝いましょうか?≫
「うるせえからちっと黙ってろ」
≪だって、キョウの作業能率じゃ明日までかかりますよきっと≫
「うるせえっつってんだろ」
≪あ、そこ綴り間違い。LでなくてR。ワタシがサポートしない場合の所要時間、予測するに最短であと4時間08分≫
「回線切んぞてめえ。俺は雪尾ごとまとめてお前も嫌いなんだよ。LでなくてRと」
 TOYは、情報処理課の特別プロジェクトが2年がかりで『作成』したものである。メンバーには雪尾も含まれていた。
 喧嘩しながらじりじりと仕事を進める京の背中の向こうで、かすかな電子音がした。自動扉が開く音である。
 閉じるための電子音が聞こえる前に靴音が近づき、扉が閉じる前に声がかけられた。
「京」
「ん?」
 冬青の声。京は振り返らずに反応する。
「リヴ」
「ん?」
「…リヴィザード=K=レンダ」
 冬青の声が低まった。京は気づいて不審に思い、ようやく顔を上げて上半身をひねる。振り返った冬青は、仁王立ちになって腕を組んでいた。瞳が、冷たい。
 全身から冷気を発している冬青に、京は、
「なに?」
 冬青の瞳が細められ、凍気が増した。
 そして京に答えることなく、踵を返して肩を怒らせたまま足早に出て行ってしまった。
「?」
 京は見送り首を傾げる。
≪ソヨゴですね。声に怒りが含まれていましたね。低いけどうわずってる感じって言うんですか≫
 京は視線だけを端末の画面に戻す。
≪またなにか怒らせたんでしょ≫
 瞳を閉じて精神を統一させると、京は手を伸ばしてTOYの接続スイッチをOFFにした。
 
 
 一方。
 第3資料室から去った冬青はどかどか靴音を響かせて歩いていた。エレベーターを使わず、階段を必要以上に力を込めて踏みしめる。まるで段を蹴りつけるかのように。
 踊り場の壁をめいっぱい蹴飛ばす。怒りはハッキリと顔に出ていた。
――どうして不思議に思わない。
 噛みしめた奥歯が鳴る。
――あたしが、もう京の本名をとっくの昔に知っていると思ってたのか。
 もう一度、壁を蹴った。足を壁につけたまま、天井を睨む。天井の、その向こうを。
――違う。
――あたしが京の本名を知っていようがいまいが。
――あいつにとっちゃどうでもいいことだからだ。
 考えているうちにどんどん頭に血が上った。冬青は壁から足を下ろし、腕を広げて深呼吸を3回繰り返す。深く息を吐いて肩を下ろすと、そのままロビーに向かって一気にダッシュをかけた。
 酒でも飲んで暴れれば、でなければ高速を200キロでぶっ飛ばせば気が晴れるだろうか。でも今は勤務時間内だから喫茶店でお茶飲むくらいにしておこう。
 いかにも模範的な社会人思考にますます腹が立ち、冬青は走る速度を上げて階段10段を一気に飛び降りた。
 
 
 「すげえ馬鹿」
 ことの次第を雪尾から聞き、呆れ半目で腕を組んだマフィの第一声がそれだった。
 「…なんでだよ」
 口の中で呟く京。冬青と雪尾以外の4人は今司令室におり、その中で京はマフィとケイティの攻撃を受けていた。
 「どうしてそういう大事なことをつきあって4年以上も経ってる『彼女』に言わないかなぁ」
 鼻の上に皺を寄せてケイティが言う。いつも笑顔を絶やさない彼女の奥に秘めてあるキツさは親しい者しか知らないが、普段の微笑みを見慣れているだけに言葉は鋭く突き刺さる。本来彼女はこういう人だ。まっすぐで、真摯。
「冬青の性格からわかりそうなもんなのに」
 と、言葉そのものにも言い方にも京を冷たく見やるその態度にもばっちり性格の出ているマフィ。
「そうね。相手のプロフィールとか、冬青はそのへんとても敏感だから」
「自分から突っ込んで知りたがらない。突っ込まれるとイヤな思いする人間がセンターには多いし」
「だから冬青は『本人が与えてくれた』情報しか持ってないのよ」
「それなのに」
「誰かさんは」
「『本名』なんて超大切な情報を」
「レベル2なんだろ? じゃあ」
「機密事項でもないのに」
「知らせてなかったなんて」
 ケイティとマフィに代わる代わる追いつめられ、京は二人の顔を上目で交互に見ながらもぐもぐと反論する。
「名前なんて記号じゃないか」
 ケイティは片眉を上げ、マフィは顔をしかめる。
「トマトの名前がトマトでなくたって中身は『トマト』に違いないじゃないか。地方言語なんてそういうことだろ。名前だってそうだろ。俺は俺であって麻直京でもリヴィザードでも『俺』に違いないじゃないか」
 いっこうに緊迫感の解けない3人の間に、ディレッガーの声が静かに割り込んだ。
「文化の違いだろ」
 3人が振り返る。
 ディレッガーはケイティが先ほど入れてくれた、キンキンに冷えた茶を飲みながら、足を組み直して3人の方へ体の向きを変える。
「まあ俺は心情的には京と一緒だけど。名前なんざ個々を区別するただの記号だと思う。でも冬青の気持ちも分からなくもない。彼女、地球だろ」
 別に諭すわけでもない、講釈するわけでもない口調。ディレッガーはもう一口グラスを傾けた。
「地球の日系は名前に意味を持たせてつけることが多いらしい。京や俺にはただの識別記号でも、冬青にとっては意味のあることなんだろう」
「…文化の違い、ね」
 マフィが顎に手を当てて頷いた。ケイティはふんと鼻を鳴らし、横目で京を見下ろす。
「正論だわディー。そういうことなのよ」
 無言の圧力。
そのつもりが全然なくても傷つけたことには変わりない、という。
 京は気まずく頭をガリガリと掻いた。
 
 
 あたりがゆるやかに闇色に近づいてきたのに気づいて、冬青は我に返った。
 センターから少し離れた喫茶店。メインストリートから1本裏道に入ったところにあるこの店は、インテリアも木材を使いシックにまとめてあって、冬青の気に入りの場所だった。夜遅くまで開いていて、軽い酒類も置いてある。
――ケーキセットで1時間。
 その前には気晴らしに、ショッピングモールをはしごして服を買った。久しぶりの街と、頭に血が上っていたのとで、衝動買いは結構な量と額になった。4人掛けテーブルの隣の椅子に積んである戦利品を見下ろして品を回想しても、そんなにハズレた買い物はしなかったと少し満足する。ただこの量は少し問題かもしれない。なにせ大きな紙袋に5つだ。窓側のテーブルだが、通りからは自分の姿は見えないだろう。この高く積まれた5つの袋によって。
 冬青は頬杖をつき、斜めの視線で窓の外を眺める。2階窓側の席からは、仕事を終えて家に、街に、闇にそれぞれ散ってゆく人々のあわただしく無秩序な流れが見える。
――サボっちゃったなあ。
 そのへんはきわめて規則の緩い(勝手に緩くしてしまった)”B.L.”だが、後ろめたさは微かにつきまとう。重要度の高い仕事が入れば何をしていても連絡が届くはずだ。それがないということは心配することもないだろうが、なにしろ、くどいようだが、この5つの紙袋。
「…文化の違いなのよねえ」
 小さく呟いて、息をついた。
 頭は冷えた。自分にとっては結構なことでも、相手にとってはそうじゃない。逆もまた然り。
 そんなことで腹を立ててみても仕方ない。どうしても大事なことなら、そのように表現主張しなければならないのだ。心でこっそり思っていることを表に出さずにわかって欲しいというのは甘えだろう。たとえそれが、つきあいも長くて何も言わなくてもわかってくれる相手だとしても。
――帰るか。
 席を立とうと腰を浮かした目の前に、グラスがひょいと差し出された。
「ハイ彼女、ひとり? 一緒に飲まない?」
 差し出されたグラスはソルティ・ドッグ。冬青は再び腰を落ち着けながら、
「…奢ってくれるんならね」
「奢るとも」
 グラスを冬青に渡し、自分の分ドライビールをテーブルに置きながら、京は向かいの椅子に腰を下ろした。 
「…よくわかったわね、ここにいるって」
「2軒目。探し当てた確率としてはいいセンだろ?」
 少し笑って京はビールを一口あおる。
「…勤務中…」
「いいいい。俺が許可する」
「京の許可ってのもな。どうかな」
 言いつつ冬青もグラスを持ち上げた。傾ける彼女をまっすぐ見つめて京は小さく、
「…ごめん。悪かった」
 冬青はグラスを傾けたまま、優しい苦笑いを堪えるのに苦労する。
――文化の違いなのに。
「謝ってくれるのね」
 京は少し目を上げ、それから窓の外を眺めたあと、自分のビールに視線を落とす。
「まあ、傷つけたのは確かだから」
 そしてまた顔を上げる。軽い響きの中に、わからないほど微かに真面目な声も混ぜて。
「知りたいことがあれば答えるけども?」
 冬青は京を見つめ返す。その視線が一瞬自分の左目に止まったのを見過ごさずに、京は微苦笑した。もともと長めの前髪だが、特にさらさないようにしている左目。かぶる前髪をかき上げて、両の瞳を少し細め、
「視力が違うんだ。左の方がいい。まあ、大した差じゃないけど。あとは、トラウマかな」
「トラウマ?」
 無意識に少し身を乗り出し、目を見開いて京を見返す。なんかすごく意外な言葉を聞いたような?
「俺の母親、行処課だったんだ。ESPERでね。…これは知ってたっけ?」
 京は静かに、冬青にしか聞き取れないほどの声で言った。街に人工の灯がともるにつれ、店の中も微妙に賑わしさが増したようだ。2階は変わらないが、下では人の気配が波のように行き来している。
「殉職で…俺の、目の前で死んだんだ。8才かそのへんの頃。そのとき、左の目の中に都の…母親の血が入って、ほんの一瞬、世界が真っ赤になった。赤いスクリーングラスをかけたときのように。…だから、まあ、はっきり言ってしまうと、左目で直にものを見るのが怖いんだ。特に、右目を閉じて、左目だけで世界を見るのはね」
 冬青は京のビールグラスを見つめながら、身動きせずに聞いていた。
 瞳を閉じる。
「…あ。そんなに気にしてくれた?」
 京は笑って手を伸ばし、冬青の眉間を人差し指でついた。しかめっ面になっていたと気づいた冬青は、口をへの字に曲げたまま眉間をゴシゴシさする。
「親父はけっこう純愛でさ、あれでも。再婚しなかったのはしたくなかったからだと思うよ。普通はまだ小さい子どもがいるんだし、母親がいた方がいいかなとかチラッとでも考えるもんだと思わないか? 全然考えなかったんだぜ。あとで聞いた」
 喉の奥で笑いながら京は言って、ビールを飲む。
「わがままで自分の方が子どもみたいなところがあるしな」
 冬青は京の父親で、なおかつ自分たちの上司である局長の顔を思い浮かべる。ふ、と息をつき、唇をとがらせてグラスを持ち上げ、
「誰かさんそっくり」
 京は目をまるくして背筋を伸ばす。そしてシブい顔で重々しく首を横に振った。
「似てない。似てない絶対」
「さずが親子よねー」
「似てないって」
 冬青は氷を溶かすように回していたグラスを止めて、上目でじっと京を見つめた。
「今でも、怖い?」
 京は自嘲気味に微かに笑って、
「全然平気と言えば嘘かな。さすがに仕事中はそんな余裕はないけど、普段は」
 そしておどけて両肩をそびやかす。
「キスしてくれたら治るかも」
 冬青は真顔で呆れを示し、
「そんなことでいちいち心の傷が治ってたらカウンセラーや精神科医の立場がないでしょうが」
「カウンセラーや精神科医の立場なんか俺には関係ないじゃん」
 ケロリと京は言い放つ。右手で頬杖をつき、残りのビールを一気に傾けて、呑気な顔で。
 半目の呆れ目で冬青も京に倣って頬杖でグラスを干す。からにすると、ゆっくりと席を立ち、
「帰る」
「え、もう?」
 驚き不満を声に表し、立ち上がった冬青を未練たらしくそのままの姿勢で見上げる。冬青はそれを冷たく見下ろして、左手をテーブルにつき、右手を伸ばして京の前髪をかき上げる。かき上げたまま頭を押さえるようにして、屈み込んだ。
 京の、左の瞼に、唇を押し当てる。
 舌の先に力を入れて目頭をなぞり、目尻に軽く触れる。
 手を離す。
 そのまま京の顔を見ずに背を向けて、すたすたと歩き出した。紙袋5つの買い物も置き去りにして。
 京は頬杖をついたままの姿勢で冬青を見送り、長い溜息をついた。
「…ったく」
 そんなかわいい態度に出られても、こんなとこじゃ押し倒すこともできない。
「っんと、その気にさせて肩すかし食らわせるのがうまい女だよな」
 冬青は全然振り向きもせず、階段を下りていってとうとう視界から消えてしまった。
 一人で座ってても全くつまらないので、京は諦めて立ち上がる。彼女の性格からいって店の扉口で待っててくれてるとかいうことはないだろうから、追いかけるなら早く行かないと見失うだろう。
 冬青の残した荷物を抱え、カウンターでカードをチェッカーに通して料金を支払う。
街の空は、ようやく闇一色になった頃だ。ネオンと音の乱舞はこの街の狂気をゆっくりと煽ってゆく。
 裏通りの人並みに紛れて遙か彼方に見える冬青の栗色の髪を、京は足早に追いかけた。
 







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