Nightview.
「よいしょ」
まるで自分の家の鍵でも開けるかのようにドアロックをあっさり解除して、雪尾はビルの屋上へ出た。
振り向き、スティーブをちょいちょいと手招きする。
「…ここは…」
扉をくぐり、ひらけた視界に目を細めて、満月のせいで見えにくくなっている満天の星空を見上げつつスティーブが呟くと、雪尾は中程へ進みながら大きく伸びをした。
「ホントは立ち入り禁止なんだけどね。うちと反対側の夜景が見えるんだ」
つまり不法侵入である。
しかし気にしない。
ごく普通のビルの立ち入り禁止の屋上なので、特別おもしろそうなものは置いていない。ボイラーか給水塔かがしまわれているらしい小屋と呼ぶような小さな部屋の他には、近く視界に入るものもない。
無機質なフェンスで囲われた場は、しかし夜空とは繋がっていた。
レグルスは水も空気も存在する自然惑星なので、見上げる空に輝く月や星と自分を遮るものは何もない。おまけにこのビルはそこそこの高さを持ち、周囲にこれほどの高さのビルも少ないため、近くの光に邪魔されずに夜空や夜景を楽しめた。足下が暗いのが難点だが、今夜のような満月ならばさほど問題ない。
このビルの屋上は、雪尾の癒しの場だった。 …いつからかは覚えていない。
雨が降っても雪が舞っても関係なかった。周囲よりぽつんと突き出たこのビルのてっぺんで、自分を呑み込むような夜空を見上げて星を見、雨を受け、雪を浴び、そうして向こう側にまばゆく瞬く人工の光を眺める。
センターの仕事や笑ってかわす浅い人間関係に息苦しくなると、ここへ上がって無心に過ごした。
この心をくつろがせる場へ、今日はもうひとつお気に入りを持ち込もうという算段で、スティーブを招いたのである。
フェンスに指をかけて遠い灯りを眺める雪尾の隣に、スティーブが並ぶ。
冷めにくい昼の地熱を奪うように風が吹いた。
心地よさそうに目をつぶり、軽く上向いて、夜風が髪をすりぬけてゆくままにしているスティーブを、雪尾はこっそり盗み見た。
今日は満月。月は強く清廉な光を降らせている。
青く白い輝きがスティーブの髪にまとい、瞳を閉じているためか表情は人形めいて精密な美しさを見せている。
目を細めて見惚れながら、面食いで良かったなぁ、と雪尾はしみじみ思った。
この美しいものを美しいと認識し、美しさを堪能する。これも癒しだ。別に今日は疲れてないけど。
触れてみたくなって、ふと雪尾は思いつき、周囲を見渡した。
フェンスの区切りに建っている柱の根元が段になっているのを見つけ、そこまで行くとフェンスに手をかけて段を上がる。
「スティ、スティ」
スティーブを呼んで手招いた。
呼ばれたスティーブは、トコトコと雪尾のほうまで歩み寄り、ブロックに上がっているせいで自分より目線の高くなっている雪尾へ、「?」と首を傾げる。
『またこーゆー仕草凶悪にかわゆいし』と、かわゆいスティーブも堪能しつつ、雪尾は機嫌の良い猫のような表情で、
「かわゆいから、キスしてもいい?」
言うと、スティーブの頬に空いた手を添えて、スマック。
スティーブはきょとんと目をまるくし、次いでひまわりのように笑った。
楽しそうな満面笑顔に気をよくして、雪尾もにいっと笑み返すと、もう一度、唇をつける。
一旦離し、今度は舌先で唇に触れてみた。
おとなしく上向いていたスティーブが、半歩身を引く。
「?」
唇がくっついたまま、半歩分フェンスから体の浮いた雪尾を、スティーブはひょいと抱き上げてブロックから降ろした。
「?」
平地に戻されると身長差は10cm強、スティーブのほうが高くなる。見上げる雪尾にスティーブはにっこり笑うと、軽く身を屈め、雪尾の頬に触れ、もう片方の手を腰に回して引き寄せて、くちづけた。
軽く唇を噛まれ、反射的に開いた中に舌がすべり込む。探るように口の中に触れ、雪尾の舌に触れた。
そこに激しさはない。けれど徐々に深くなってゆくくちづけに、雪尾はスティーブの背に手を回してしがみつく。 膝の力が抜けそうだった。
「――っ、ふ…」
雪尾を軽々と支えつつ、わずか唇を離して呼吸をさせてやりながら、今度は舌を吸って甘噛みする。
雪尾はスティーブのシャツを握るようにして、すがる指に力を込めた。意識が、体が、驚き躊躇う間もなく、とろかすような甘いキスに、引きずられて溺れさせられる――…
スティーブは気づいて、うすく目を開けた。
「誰かそこにいるのかっ?」
「!」
突然近い場所から浴びせられた険のある声に雪尾はビクリと体を竦ませた。
思考力が飛んで無防備なところへ認識していなかった第三者が急に現れ大声を出されて、咄嗟に体が戦闘態勢に入る。瞬時に身の内に膨れあがった殺気を押さえるのにパニックに落ちた。
スティーブは戸口で手にした灯りをこちらへ向けている警備員から雪尾を庇うようにきつく抱きしめて、
「すみませんっ」
大きな声で返事しながら、警備員に背を向ける。今にも飛び出して警備員を殺してしまいそうな己を必死に押さえる雪尾を、自分の腕と体でさらに抑えつけて抱きながら、
「! ここは立ち入り禁止だぞっ」
と叱ってくる警備員へ顔だけ向けるよう身を捩り、
「ちょっといちゃいちゃしてましたっ。夜景が綺麗だったものでっ」
と返す。
スティーブの台詞に雪尾は平静を取り戻し、全身の力とともに殺気を抜いた。細く息をつくと、スティーブが腕の中へ小声で、
「だいじょうぶ?」
と訊ねる。
「…うん。ごめん…ありがと」
スティが抑えてくれなかったら、うっかり警備員を攻撃していただろう。 …もっとも、スティといなければこんな状態にはならなかっただろうけど。
地を踏みしめて立つと、スティーブが支えていた腕を離した。かわりに腰を抱くように回される。いちゃいちゃしていたと宣言したためそれらしく見せないと、という配慮。しかし本当にいちゃいちゃはしていたのだが。
立ち入り禁止だと勇ましく怒鳴ってはみたものの、肌を刺すような鋭い圧力を感じて前へ進みたくなかった警備員は、力が消えたのを不思議に思いつつ、とりあえず今は眼前の事態を処理しようと気を取り直して進み出る。
向こうからもこちらへ歩いてきて、だだっ広い屋上の扉近くで会うと、
「まったく、どこの…っ」
手元の灯りを向けながら、言葉に詰まった。
「すみません、すぐ出ますから」
と軽く頭を下げる男の、なんという美貌。
そしてその美貌に支えられている男?女?の、なんという美貌。
スティーブに極上の笑顔を向けられ、なおかつ雪尾にちょっと恥じらいの笑顔を向けられた警備員は、月光、そして建物の内側から扉の外へ出る光と、手元のライトを淡く浴びているふたつの美貌の前に赤面して固まった。
「すみませんでした」
と再度会釈する金の髪の美貌に我に帰り、ゴホンとひとつ咳払いすると、
「…あー、ここのフェンスは一部老朽化が進んでいて危ないんです」
反省して頭を下げる、とても悪人には見えないカップルを大声で怒鳴りつけてしまったことになぜか逆に後ろめたさを感じ、言い訳のように説明する。
「ごめんなさい」
ダメ押しに、背の低いほうの美貌に恥ずかしそうにすまなそうに謝られ、警備員は困りうろたえて、
「いいいいいえ。いい以後気をつけてください」
それだけの注意で建物の中へ、早く行くように促した。
他に不審なものはないかと見回る警備員を後へ残し、階段を降りるスティーブと雪尾。
足下を見つめたまま唇を結んで歩く雪尾を、スティーブは横目で伺う。
視線に応えるかのように、雪尾が小さく息をつき、
「…びっくりした」
と呟いた。
野生動物並みに周囲の様子に敏感な雪尾は、生まれてこのかた人の気配を読み誤ったことがない。自分に近づく者を、親しければ誰であるかさえ当てることができる。
…声をかけられるまで相手の存在に気づかないなんて。
「うん、オレも悪かった。誰か来るな、とは思ったんだけど」
さらりと言うスティーブにも、こっそりクサい顔をする。
なんてこったい。自分だけか酔ってたのは。恥ずかしすぎるッ。
いたたまれなくて思わず俯き、額を押さえた雪尾の隣で、逆に天を見上げながら明るく軽く楽しげに、スティーブは続けた。
「気持ちよくてやめられなかった」
びたりと雪尾の足が止まる。
5、6歩先へ出たスティーブは、気づいて後ろを振り向いた。
目線は下のまま、雪尾は足だけでなく、全身が停止していた。
固まってしまった雪尾のところへ、スティーブもまた戻る。 にこっと無邪気に笑いかけて、
「雪尾も、よかった?」
首を傾げて問う。
表情さえも固まっている雪尾は、にこにこ見つめるスティーブに、熟れとまとのように真っ赤になって汗をだらだら流しながら、かろうじて首だけ、小さくこくりと肯いた。
「そう? それはよかった」
にこにことスティーブは言い、さらに一歩、雪尾へ近づく。
金縛りが解けて見上げる雪尾に、ニッ、と笑んだ。
天井のライトが斜め、やや逆光気味に浴びせられているスティーブのその表情は、不敵で余裕で。雪尾を忘我させるほど、悪魔的な魅力を持っていた。
見惚れる雪尾の耳元に、すっと屈んで声を落とす。
「また、しようね」
良質の声が耳を通って背骨を駆け、快感に鳥肌が立つ。再び硬直したが今度は先刻よりも早く我に帰ることができた。
もちろん、慣れなどではない。 強すぎる衝撃に、危機さえ覚えたからだ。
ふんふんと鼻歌をうたいながら先へ歩き出すスティーブの背中を、雪尾は好奇心に呆れに、そして畏怖と、それに対する闘志と。そんな複雑な思いで眺めやった。
『…いや…次回はぜひ…スティ受ってことでひとつ……』
と拳を握って誓うあたりにすでに勝敗見えてたり。