歌舞伎の歴史


歌舞伎のそもそものはじまりは、出雲のお国という女性が一五九八年
(慶長三年)に「ややこ踊り」という子供の踊りを踊って人気を得た
ことからです。このお国が年頃になって子供の踊りが踊れなくなって
きて、一六〇三年に「歌舞伎踊り」と名を改めたのです。    

「歌舞伎」という言葉は「傾く」(かぶく)という言葉から来ていて
これは常識をはずれたもの、型破りなものを意味しています。
この頃、エネルギーにあふれた若者達の中に、派手な着物を着て奇抜
な髪型や持ち物を身に付けて、町を闊歩する者たちがいて彼等のこと
を「傾き者」(かぶきもの)と呼んでいました。

お国はそのような風俗を取り入れて、派手な着物を着、男髷に髪を結
い首から十字架をかけて、長い刀を差すという、所謂「男装の麗人」
の格好で茶屋(今で言う水商売)の女と戯れる踊りを踊ったのです。
抑圧された社会に対するエネルギーの放出を現したお国の踊りは、
人々の人気を得て京 都に常設の小屋を建てるまでになりました。  

この頃のかぶきは「歌舞妓」と書かれたように、女優中心のもので今
で言う宝塚のようなものだったのですがこの女優たちは遊女(身体を
売る女性)のような事もしていたために、幕府の取り合いまりに合い
いわゆる、「遊女歌舞伎」は禁止されてしまいました。

 代わって登場したのが女装した少年が演じる「若衆歌舞伎」です。
ところがこの時代は衆道(男同士の恋愛)が盛んな時で、役者をめぐ
るトラブルが多発した為またも幕府から禁止されてしまいました。
そこで若衆の色気がなければ、ということで前髪(若衆の象徴)を剃
り落とした成人の髪型(野郎頭)で舞台にあがる「野郎歌舞伎」の登
場となりました。
この形態が今の歌舞伎の原形となります。女形はこの髪型ではあまり
に色気がないので、剃った前髪を隠す為に布をかぶせたが、返って色
気が出て見えるということで「野郎帽子」と呼ばれ流行となりました。


 元禄時代に入ると庶民文化が全盛となり、歌舞伎も又江戸・京・大
坂に合わせて十一座がお上公認の劇場となり、興行として成り立つよ
うになって行きました。 江戸では市川団十郎が、顔に紅を使って筋
を描き、荒々しい超人を演じる「荒事」が大評判をとり、上方では坂
田藤十郎や、女形の芳澤あやめ達による「やつし事」(尊い身分の人
がみすぼらしい姿にやつしているという設定の芝居)のちの「和事」
(わごと)が流行しました。
近松門左衛門などによって狂言作者という地位が独立して行ったのも
この頃のことです。  

 享保になり徳川吉宗の治世、享保の改革による幕府の諸政策で緊縮
財政が進められ、更に「江島生島事件」(奥女中の江島(絵島ともい
う)が仕えていた月光院(七代将軍家継の生母)の代参で増上寺に参
詣の帰途山村座に寄り、役者生島新五郎と密会をしたのを咎められ江
島は信州高遠に、生島は三宅島に流され山村座は廃絶となった事件)
で、江戸四座のひとつ山村座が廃絶になり、歌舞伎人気が衰退して行
きました。
代わりに人形浄瑠璃が盛んになって行き、そこで人気を博した作品を
歌舞伎で演じると言う形がとられるようになりました。

 三、四十年ほど全盛を誇っていた人形浄瑠璃が、豊竹座・竹本座の
凋落で衰退すると再び歌舞伎が人気を取り戻してきました。並木正三
(人形浄瑠璃から歌舞伎に移った作者)が舞台機構の考案をし、写実
的な演技が創造されてきたのもこの頃のことです。又、浄瑠璃の発達
によって舞踊劇も盛んに演じられました。  

寛政の改革によって緊縮財政は更に徹底され、統制は一層厳しくなり
ましたが、歌舞伎は更に庶民の中に浸透して行きました。  

文化・文政になると爛熟した文化の時代と言われ、低所得者をも巻き
込んだ遊芸の稽古事熱も盛んになって行きます。歌舞伎も時代の要求
に応じ、鶴屋南北は残酷さ怪奇さを強調し、社会の底辺に生きる人達
の様子を現した写実的な芝居を描きました。この頃になると、一人で
男役(立ち役)と女形を演じる、いわゆる「兼ねる」役者も登場して
きます。


 天保年間になると鶴屋南北をはじめとする狂言作者や人気俳優が
次々他界し、新旧の交代期となり、興行的にも、中村座と市村座が火
事で焼失し幕府はこの機会に江戸三座に猿若町(今の浅草あたり)へ
の移転を命じり、海老蔵(後の七代目団十郎)が贅沢禁止の令に背い
た罪で戸を追放されるなど、落ち目になって行きました。  

 猿若町には歌舞伎の小屋だけではなく、人形芝居の小屋も建てられ
観客目当ての芝居茶屋も出来、また出演俳優や狂言作者、演奏者、裏
方達の住居も出来、芝居の町として幕末期急速に発展をとげて行きま
した。

 明治維新を迎えてそれまでの扇情的な題材から、外人や上流社会の
人々の観賞にも耐えうる作品を上演しようという「演劇改良運動」が
起こり明治二十四年には井上馨外務大臣宅で、天皇の御前で上演する
「天覧劇」が当時の名優を一同に会して行われました。この事によっ
て、「河原者」(河原など屋外で演じていたことから始まった歌舞伎
の役者をさげすんで呼ぶ蔑称)と蔑まれていた歌舞伎俳優の社会的地
位は向上して行きました。  

 明治二十二年に歌舞伎座が出来、九代目市川団十郎を座頭として五
代目尾上菊五郎らの名優が次々と名舞台を披露して行きました。  

 明治三十六年、団十郎・菊五郎の相次ぐ死と、その十年前の河竹黙
阿弥(狂言作者)の死によって江戸歌舞伎は終焉を迎えました。

 明治四十年代に入ると洋風劇場(有楽座・帝国劇場)が開場され、
新劇運動が起こり、旧派(歌舞伎)に対する新派が人気を得るなど、
ヨーロッパ近代文芸思想が普及し、自然主義文学が興って、大正初め
までの期間に歌舞伎も大きく変貌を遂げざるを得ませんでした。
大谷竹次郎により、新富座・歌舞伎座・明治座・市村座が買収され、
更に帝国劇場を十年間借りて東京・関西の歌舞伎俳優を掌握して歌舞
伎の近代化が実現されました。昭和三年には初の海外公演(ソ連)も
行われました。


 第二次世界大戦の足音が聞こえ始めた昭和十五年には大正十三年に
開場した築地小劇場が国民新劇場となり、翌年には日本移動演劇連盟
が出来て公演の合間に各地への慰問が行われるようになりました。
昭和十九年三月には全国の大劇場に閉鎖命令が出され、翌二十年には
空襲で歌舞伎座、新橋演舞場、明治座など多くの劇場が焼失してしま
いました。  

 終戦後九月には歌舞伎興行が再開されましたが、進駐軍の命令によ
り反民主主義的な演目や、仇討ち物の上演を禁止され、二十二年の終
わり頃にフォビアン・バワーズという歌舞伎に理解のある担当官が、
全面解除するまで古典的な演目を上演することが出来ませんでした。

 昭和二十四年末には「武智歌舞伎」(武智鉄二が役者中心主義を排
除して独自の演出理論で上演した歌舞伎)が始まり、歌舞伎座や新橋
演舞場でも新作歌舞伎が上演され若い観客にも受け入れられるものを
目指して行きました。この頃からはジャンルを越えた共演も行われ始
め映画や新劇に出演する歌舞伎俳優も相次ぎました。  

 昭和二十年代の終わりになると歌舞伎俳優自身が主催する会が次々
に行われるようになりました。 二十九年には東横劇場が出来、その
前年にはテレビ放送が始まり歌舞伎の舞台も中継されるようになりま
した。
三十年からは海外公演も再開され、国際化に拍車をかけました。
四十年には歌舞伎が無形文化財として制度化されました。翌年、帝国
劇場が再建され、国立劇場が開場しました。ここでは毎年夏に「歌舞
伎鑑賞教室」が開かれ、若い観客層の開拓に努める一方、地方にも公
演に出て歌舞伎に触れる機会を増やす努力を続けています。  

 メディアの発達によって、若手歌舞伎俳優のブームなども起こり、
若い観客層も歌舞伎に親しむ機会が増えました。歌舞伎を見ながら解
説が聞ける「イヤホンガイド」(歌舞伎座)も作られ、集客の努力を
する一方で、主演俳優以外の脇役や、裏方、技術者の払底などの問題
も年を追うごとに深刻になってきています。たくさんの若い人達が歌
舞伎に親しむ中で、そういった方面の仕事に進む人達が出て来てくれ
たらと願います。そういう人達が出てくる中で歌舞伎そのものが充実
し、感動的な舞台がたくさん見られれば自然と観客も増えるという良
い循環になってくれたら、子供の頃からの歌舞伎愛好者の私にとって
もこの上ない幸せです。



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