問い合わせ:東京福中・福高同窓会 
         〒160-0023 東京都新宿区西新宿7-21-21
         西新宿成和ビル3F 黒永会計事務所内
         

または (株)トロント 港区北青山1-4-1-808 電話03−3408−1521
              担当:福士、村田
「あとがき」に替えて  未来につながる希望と信じる力が人を強く、やさしくする

 貴重な「青春と時代の記録」である「寺井日記」が私たち同窓生の目にふれ、知られることになったのには、以下のような経緯と寺井さんの決断がありました。
 もう30年以上前のこと、同期生たちの集まり(多々交会)の折に、寺井さんは話題、思い出話のきっかけになればと、大事に保管していた古い日記から特にプライベートな記述を除いて新しいノートに書き出して持っていったのです。
 福中時代を思い起こさせる克明な「青春と時代の記録」は同期生たちの心を揺さぶり、ノートは次々と回し読みされ、「ここに出ていないところも読みたい」とリクエストが出るほどで、その後、寺井さんが新しく追加した個所は、いつの間にか同期生が費用を出し合って簡易印刷され、多くの人に配られ、同窓会にも届けられたのです。
 しかし、私的な日記が思いもしないほど大きな関心を呼び、広がってしまったことは寺井さんの本意ではありませんでした。それでも寺井さんは、「日記が私個人の考えを超えて広がり、社会的な意味合いをもったものになってしまった以上、同窓生、同窓会のお役に立てるなら、公開も含めてすべてお任せします」と決断され、同窓会に託したのでした。「寺井日記」の記述は一部、1987(昭和62)年6月に刊行された『福中・福高七十年史』にも活用されています。

 私が寺井さんに初めてお会いしたのは、もう11年以上前の2005(平成17)年の夏のことです。武蔵野市のご自宅から港区にある私たちの事務所までわざわざ「寺井日記」を持参してくださったのです。それをお借りして一晩で読み終えた時の私の心に浮かんだ想いが、冒頭の「未来につながる希望と、それを信じる力が人を強く、やさしくする」でした。同時に、「創立100周年には、寺井さんの想いと決断を大切に受け止めながら、寺井日記と未来をつなぐような記念出版をしたい」という気持ちがふくらんだのです。 
 そう思ったのには、新聞記者時代からの自分の取材体験や見聞きした出来事がありました。もう50年近く前、同期の記者が、当時「世界最貧国」といわれていた国の子どもたちを取材した「特派員記事」の最後を、「君たちの将来の希望は? と尋ねたが、誰も返事をしてくれなかった。彼らの日々の暮らしの中に希望という言葉の居場所はなかったのだ」といった言葉で締めくくっていたのです。
 取材体験の中に、17歳で逝った若者がいます。戦争が終わったはずの昭和20(1945)年8月20日、引揚船・泰東丸(880トン)は780人を乗せて日本領だった樺太(サハリン)から北海道に向かったのですが、2日後の22日朝、上陸を目前にして留萌沖でソ連潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、667人が亡くなるという大惨事が起きたのです。その乗船者の中に、母と13歳だった長男の彼と4人の妹・弟の6人家族がいました。そして、彼を除く5人が亡くなったのですが、遺体は見つかりませんでした。
 彼はその後、東北にあるお父さんの実家に預けられ、樺太に残り残務整理などしていたお父さんの帰りを待ったのです。しかしお父さんは、シベリアに抑留され、昭和24年2月、厳冬の強制収容所で亡くなり、その報を耳にしたであろう、ただ一人生き残った彼も同じ年の9月、この世を去り、一家は全滅してしまったのです。
彼が亡くなるまでの4年間、どんな思いで過ごしたかを知りたくて、7年ほど前、私は当時を知っていそうな親戚などに取材したのですが、「もう当時を知る関係者はいませんから」という言葉以外に何も聞けませんでした。「信じる人をすべて奪い、信じる力を奪った戦争」への怒りを新たにした辛い思い出です。

 それでも、いや、それだからこそ、「未来・希望・信じる力」は信じるに値すると思うのです。最近、あらためてそう思える嬉しい知らせが届きました。大隅良典さんのノーベル医学・生理学賞受賞ももちろんそうですが、こちらは、マツタケ(松茸=子実体)の話です。
 国産の松茸の生産はピーク時には年間1万トンを超えていたのですが、現在はその100分の1以下に落ち込んでいます。外材の輸入と薪や炭を使わなくなった生活習慣の変化に中山間地の急激な過疎化が拍車を掛け、松茸の育つ赤松(アカマツ)林(山)が放置され荒れてしまったのです。人手不足で山の手入れができなくなると、山には落ち葉や倒木が放置され、それによって土壌がマツタケ菌の嫌いな富栄養化するだけでなく、アカマツ以外の樹木が増えてアカマツを弱らせ、他の木に負けてしまっていっそう松茸の採れない山が増えています。悪循環が続いているのです。
 そこにさらに、マツノザイセンチュウ(いわゆる松くい虫)というマツの外来感染症の蔓延が重なった結果といわれています。
 そんな中、わが国のマツタケ研究・マツタケ栽培の第一人者として知られる微生物生態学者の吉村文彦さんが、かつての松茸の名産地、京都市左京区岩倉にある何十年も手入れされず荒れ放題になり、全く松茸の出なくなっていたアカマツ林を松茸の採れる山に再生させようと、2005年6月、「まつたけ山復活させ隊」というボランティア活動を呼び掛けたのです。
 かつて岩手県岩泉町にあった世界で唯一の「まつたけ研究所」の所長として招かれた吉村さんは、山に堆積した腐葉土などの腐植層を地掻き作業で徹底的に取り除き、またアカマツ以外の樹種は極力伐採して山を明るく風通しよくし、さらに若いアカマツを植えることで、5年で成果を上げ、10年後には同町を松茸の名産地として復活させたのです。
 しかし京都の山は、岩泉に比べて一段と荒れていて、京都府ではマツタケが「準絶滅危惧種」として府のレッドデータブックに載せられるほど減っているのです。マツタケは、胞子を飛ばして増えるのですが、胞子を受け入れる山の状態、環境が改善されても、肝心の飛ぶ胞子の量が少なければ当然、松茸発生の可能性も低くなります。
 そうした困難も抱えながら「まつたけ山復活させ隊」は船出したのです。そして、吉村さんの予想通り、5年を過ぎても松茸は出ませんでした。それでも、「楽しい夢の実現」のため、また環境問題も見据えた「この国と人のあり方ともかかわる活動」という吉村さんの基本方針は全く揺らぎません。広い人脈を生かして今もよく松茸が採れている和歌山や岩手、長野などの山にみんなで見学に行ったり、活動に参加して山の診断や手入れの仕方を身につけたベテラン参加者たちは、各地で新たに始まった、まつたけ山の再生運動の応援に出掛けたり、運動のベースキャンプに畑を作って野菜の栽培を始めたり、お茶好きは茶の木を植えて、自前の緑茶や紅茶も作るほど。シイタケやハタワサビの栽培も本格的に稼働しています。交代で作る昼食では、近くの休耕田に山から下ろした腐葉土などを入れて栽培し、収穫した米を使っています。伐採した木は薪にして炊事だけでなく、これまた自分たちで造った立派な窯で「岩倉焼」まで始めてしまいました。山の木を伐り出して建てたベースキャンプは一種「文化村」です。独特の文化を育み、楽しみながら諦めることなく、松茸が出るのを待っているのです。
 雨の日も風の日も毎週1回の活動の参加者は平均30人ほど。近畿一円から集まるのですが、さまざまな社会経験を積んだシニアたちが、個人で、また夫婦で参加しています。時に大学生や若い社会人、近所の子どもたち、更には夏休みの自由研究のために東京から来た小学生も。その子の研究は区のトップに選ばれた、とシニアたちは身内のことのように喜んでいました。参加者たちの「信じる力」「信じあう力」は揺るがないどころか、一段と強くなっているのです。

 そして、開催回数はすでに約560回、12回目の秋を迎えた2016年10月、山の何カ所かで待ちに待った松茸が一挙に14本も顔を出したのです。マツタケは地下にシロと呼ばれる円形の菌糸のネットワークを作って成長するのですが、初松茸が出る時のシロの大きさは直径30センチほどだそうですから、この14本の松茸はそれぞれずっと離れているので、新しいシロが幾つも発生したことになります。それだけに、シロがさらに成長するであろう13回目の秋にどれだけ多くの松茸が出てくるか、参加者たちの顔は緩みっぱなしでした。

 鎌倉時代に56年間にわたって綴られた藤原定家の日記である『明月記』は国宝にもなっていますが、この日記は息子の為家によって他に譲られ、その時の譲り状に為家は「一身のたから(宝)とも思う」と記したと聞きました。
 ひるがえって、「福中・福高の歴史と文化」に想いをめぐらせる時、「寺井日記」は、まさに私たち同窓生の大事な歴史の記録であり、宝だと思うのです。その「寺井日記」の生みの親である88歳を迎えられた寺井俊一さんに感謝申し上げますとともに、「寺井日記」を基にした、この本の作成と出版を承認し、激励してくださった東京福中・福高同窓会と編集委員会の仲間のみなさんに深謝いたします。

2017(平成29)年1月 「寺井日記&未来日記」編集委員会 福士 義彦(高14回)