その三 東砂之景
北砂2丁目の明治通りから東へ、丸八通りに抜ける
砂町銀座、通称「おかず横丁」があります。毎夕、買い物客がぶつかり合うほどのにぎわいです。近くに住む人たちが勤め帰りに、手間をかけずに食べられるおかずが豊富にあります。このあたりは昭和7年(1932)、東京市制が35区になるまでは「砂村」といいました。
かつては東京湾の入江と沼地が複雑に入り組んだ土地で、水田しか用途がありませんでした。それも塩害で良質米の収穫はのぞめませんでした。
そこで東京という大消費地を控えた地の利を生かして、畑作に転じてネギの栽培を行い、「砂村ネギ」として小名木川の水運を利用して市場に運ばれました。この地に伝わる「砂町囃子」は、こうした農村風土から生まれました。
その後、地価が安いのと豊富な地下水が利用できることで工場の進出が始まり、江東工業地帯を形成し、日本経済の一翼を担うほど活気に満ちました。ところが大量の地下水を使用したので、地盤沈下が起こり、さらに環境汚染が社会問題になり、地価も高騰したために工場は地方に移転しました。
その跡地には大型の住宅団地が建設されて、消費都市に生まれ変わりました。今では生粋の江戸っ子と新しい都民が共存して、伝統と現在の下町を形成しています。