その十四 小菅之景

荒川を挟んで北千住の対岸にあたります。大正のころまでは、田畑の混在する農村地帯でした。消費地である北千住の宿場町に近かったので、野菜を栽培していました。生産者は、早朝から大八車に採りたての根菜類を山のように積んで、何台も車を重ねて行く姿が見られました。後に、東武鉄道が敷かれると、梅島駅周辺の商店街を中心にして、零細の町工場が次々できはじめました。下請け職人の住まい兼仕事場などが棟割長屋の中にできて、雑然とした建物が田畑を埋め尽くしていきました。昭和になると急激に都市化が進み、小規模の住宅団地があちこちにできはじめたため、共有できる都市空間として必要な公園も次第に整備されるようになりました。綾瀬川の支流が、元、古隅田川と呼ばれた堀づたいを歩くと、かつて船運で財を築いたと思われる蔵造りの建物が数軒残されています。これらの商人は、高瀬舟をあやつり、中川から古隅田川を経由して、鐘ヶ淵あたりから大川筋(隅田川)に入るルートで、さまざまな物産を運んでいたのです。今は、ひっそりとしていて往時の面影はありませんが、それと対照的に、JR常磐線・綾瀬駅の周辺が活気を見せています。新興繁華街とは一味違ったバイタリティが生んだ新しい町です。