「獄中書簡−チベット問題解決への提言−魏京生」


以下に紹介するのは、 1997年11月に仮釈放され現在アメリカで療養中の魏京生氏が、 1992年10月に故 ケ小平氏に宛てて書いたチベット問題についての書簡です。                     魏氏は1979年に“反革命的宣伝と扇動を通じて社会主義体制の転覆を謀った”という罪状で十五年の懲役 刑を受け、この書簡を執筆した当時は河北省唐山の労働改造所で服役中でした。彼のチベットとの関わり は1970年代の初め頃、チベット共産党の指導者であったプンツォ・ワンギェルの娘と婚約したことに始ま り、以後、逮捕、投獄されるに及んで自ら青海省の労働改造所への移送を願い出、そこで五年間の収容生 活をおくりました。                                       彼はこの書簡において、 まず、中国国務院が提出した白書《西藏(チベット)の主権帰属と人権状況》 (1992年、北京の民族出版社より刊行)の内容に対して近代史におけるチベットと中国との関係を挙げて 反論し、ロシアやユーゴスラビアの例に言及してチベット問題解決に向けての提言をしています。    翻訳原文は《華夏文摘》1994年1月23日刊 #31 zk9401b1によりましたが、訳出にあたっては、     《THE COURAGE TO STAND ALONE by Wei Jingsheng》Penguin Books USA(1997) の邦訳版《勇気−獄中 からの手紙 魏京生》鈴木主税 訳(1998年 集英社刊)を参考にしました。魏京生氏の経歴等については 同書をご参照ください。                                     またチベット関係の訳註作成にあたっては、一部《チベットの現実》チベット亡命政府情報国際関係省編 南野善三郎 訳(風彩社発行 1995年)を参考にしました。                      【獄中書簡】ケ小平氏に宛てた手紙                                魏 京生       
拝啓、ケ小平 殿                                        貴殿の“口ラッパ”の宣伝攻撃から見うけますに、貴殿は最近、ご自身で選定された“後継者”に甚だご 不満であられるばかりか、自らこれまで取り組んでこられた西藏(チベット)のことについてもかなり不 安を感じておられるようです。そこで貴殿の取り巻きたちはあわてて《西藏の主権帰属と人権状況》なる 白書をつくりあげ、彼らの、すなわち貴殿の無知無能を粉飾し、あいかわらず古臭い嘘と歪曲で自身と中 国のさらに多くの人々を欺き、以って彼らの地位と権勢を保持したのでした。このことは必ずや、多くの 国民が大いなる夢から目覚めた時には西藏はもはや中国の版図には存在しない、という結果を招くことで しょう。それによって引き起こされる反応は 120万平方キロの版図に止まらず、ドミノ倒しの勢いでさら に遠くへと影響を及ぼし、かくして貴殿は永遠に歴史の恥辱の柱に釘付けられ、嘲笑と唾罵の対象となる でありましょう。もしこのような状況を改めんと欲するなら、チベットの問題を解決することです。まず どのような問題があるのか知らなければなりません。ただ耳に心地よい虚言のみを聞こうとするなら、そ れは現実を認識し問題の所在をつきとめる助けにはならず、問題の解決もまったく不可能になります。私 は、チベット史の研究においてはただうわべをかじったのみで浅学な者に過ぎませんが、貴殿とその取り 巻きの方々よりはやや冷静な見方ができると思いましたので、ぶしつけをかえりみずこの手紙をしたため る次第です。貴殿が自由に意見を交わす学術的環境を造られ、天下の有識者たちに正確かつ透徹した見解 をもっと多く発表させることを私は望んでおります。こうしてはじめて問題の所在は明らかになり、歪め られ捏造された事ではなく真実を把握できるのであり、最後のチャンスを逸してソ連やユーゴスラビアの ような局面を招いてしまうなどということにならないですむのです。                 チベット問題が難しいのは、その特殊性と主権帰属の不明確さにあります。実は、現行の国際法ではもは やこと足りず、その上、その国際法はしばしば自己矛盾し、自説のつじつまを合わせることもできないの です。故にそれをもって現代世界の様々な複雑な事象を簡単に判断することはできません。こういった時 代遅れで拘束力のない事柄を強調しすぎることは、問題解決の糸口を求めるのにいささかの助けにもなり ません。例えば、カナダとオーストラリアは実際上、確かに完全な独立した主権をもっています。もし単 に、その国家元首が英国女王であり、総理等高級官僚は英国女王の“册封”によって任ぜられるという儀 礼的な“事実”によるなら、それは英国の植民地、“英国の領土”ということになり、笑止千万ではあり ませんか。問題を解決しようとするなら現実に直面しなければならず、ただ書物の中に“証拠と事実”を 求めるだけではいけないのです。                                 チベットの状況は上に述べた例よりさらに特殊で複雑です。中国(清朝、民国)との連合形体に到っては 極めて独特であり、それ故に多くの学者たちも理解に苦しむのです。しかるに、貴殿の《白書》の作者に 至っては一般の学者にも及ばず、その掲げる理由は、根本的に事の真相を明らかにしていないのです。金 瓶掣籖(註1 )は、外部の権威勢力によって宗教の権力をめぐる紛争を解決する一助にすぎず、行政の管 轄とは関わりのないものです。例えば、貴殿の家庭内で紛争があったとして、劉さんにその調停をお願い するとすれば、貴殿の家はこのことによって劉氏の管理を受けていると言えます。それでケ家も劉家に所 属してしまったのでしょうか? これは無知というだけでなく事実を歪曲し詭弁を弄することです。貴殿 のかつてのお知り合いだった牙含章(註2)、プンツォ・ワンギェル(註3)氏等はこのことにはっきりと 答えています。しかし貴殿は彼らの意見さえも聞きいれようとしないのです。そうでないなら、どうして くだらぬ連中の嘘などに騙されるものですか!                           註1) 金瓶掣籖:高位転生活仏を最終的に選出するためのくじ引き。黄金の瓶の中に入れた候補者の名札 を黄金の箸で摘み出すのでこの名がある。最近ではパンチェン・ラマ十世の後継問題で、中国側が自ら選 んだ転生者を正当化するために1995年11月ラサのジョカン寺において行われた。            註2)牙 含章:(1916−1989)漢族、甘粛省臨夏の人。20歳でラブロン寺保安部の書記となり、チベット 語およびチベット文化の研究に専心する。後に延安の中国共産党に投じ、中国のチベット併合に理論的裏 付けを与えるなど大きな役割を果たした。                             註3)プンツォ・ワンギェル:(1921-)チベット族、前チベット共産党指導者。1960年から18年間、民族 主義の傾向を問われ拘留された。魏京生氏の元婚約者の父でもある。1988年に全人代常務委員に選出され 、現在は全人代民族委員会顧問を務めている。                           駐藏大臣(アンバン)とは《白書》に書かれているような“モンゴル・ジュンガル部の叛乱後に置かれた 西藏(チベット)を管理する最高行政長官”といったものではなく、当時チベットの属国であったネパー ルの叛乱平定後に同様の叛乱に対処する目的で派遣された“連絡使節”なのです。その地位に至っては植 民地総督どころか、文莱(註4) の英国大使同様、“チベットの軍事と外交に携わる”ことができるとい う程度のものでした。実際、駐藏大臣はチベットに対して行政と軍事のいかなる権限も有したことはなく、 その権限は文莱の英国大使以下のものでした。駐藏大臣が管轄していた清軍と四川軍は、《白書》の作者 が思わず漏らしてしまったようにチベット政府ではなく清朝朝廷に扶養されていた軍隊だったのです。ま た《白書》の作者は、この軍隊の名義が“駐藏大臣の護衛軍”であったことを故意に隠したのでした。ま さか米軍がヨーロッパに進駐したからといって、ヨーロッパ各国の主権がアメリカに移ってしまうとでも 言うのでしょうか?                                       註4)文莱(Wenlai) :山東半島にある地名。山東半島の一部は清朝末期にドイツの祖借地だったが、そ こに英国大使が駐留していたかどうか、魏氏の痛烈な皮肉なのか訳者には確認できない。詳しいことをご 存知の方、ぜひご教示ください。                                 自身の方法で国家元首を選び行政機構を制定し、自らの方法と意志によって統治を行い、さらに自身の軍 隊を有し、自分たちでその軍隊を指揮していたという点から見れば、チベットは疑いもなく主権を有する 一つの国家であります。しかもクロアチアやウクライナのような主権を失ってしまった国家ではないので す。たとえ主権を失った国といえども、依然として宗主国から離脱する権利は有しているのです。“チベ ットが独立国家であると認めた者はいまだかつていない”ということが問題解決の理由になり得ましょう か?この言葉を使って大学の講堂で詭弁を弄すれば少なからぬ人々をごまかすことはできるでしょうが、 問題の認識と解決にとってはいささかの助けにもならないのです。貴殿は認めなくても、現実は現として 存在しているのです。ですから、誠実に相手の権利を尊重し、信頼を勝ち取ることでイニシアティヴを保 持しているほうがよいのです。                                  チベットの特殊な地位は、いまだ主権を失ってはいないが、かといって独立国ではなく、独立はしていな いが、また植民地や属国というわけでもなかったという点にあるのです。チベットは、独立した主権国家 のように完全に自国を統治していたのでもなく、“中国の一つの省”のように朝廷から派遣された官吏が 治めていたわけでもありません。しかも、内政は完全に自己の管轄下におきながら、外交上の主権は清の 朝廷に委ねていました。だからこそ、真相を知らない多くの中国や外国の人士たちは、チベットは“中華 帝国の一省”であると誤解してしまうのです。このような連合形体は他になかなか例を見いだせません。 法的な角度から見れば、  ブリテン連合王国(イギリス)や後の欧州共同体(EC)即ち現在の欧州連合 (EU)に似ていますが、全く同じというわけでもありません。似ている点は、人々は一つの連合国家    (イギリス、 ヨーロッパ或いは中国)における一員であると同時に、それぞれ独立した国の一員であると認識 していることです。連合は自由意志によるものであり、もし望まないなら離脱する権利を有します。異な る点は、イギリスは国王によって、ヨーロッパは平等な民主連合によって一つの主権連合体を形成したこ とです。しかしチベットと中国はむしろ最高権力者の相互参与によって実際の主権連合体が形成されたの でした。ヨーロッパと中国における連合は法律的な意味で同じものではないのです。          というわけで、清朝或いはその後継の政府は協議と慣例に従い、ただダライ・ラマが要請した時に初めて チベットに派兵し、その軍隊は任務が終わればただちに四川や青海へ帰ったのでした。形式上はチベット に常駐する軍隊というものはなかったのですが、ただ、名義上、駐藏大臣の護衛部隊である四川軍がラサ の指定の兵営に駐屯していました。清朝政府は部分的かつ不定期にチベットの外交と軍事における保安、 叛乱鎮圧等の責任を負っていましたが、その一方で、ダライ・ラマを宗教勢力のトップにして、同一の宗 教によって各民族の統一を維持するという清帝国の重責を担わせたのでした。ダライ・ラマは清帝国の国 教における最高の精神的指導者−国の師となったのです。この“国の師”は昔の“皇帝の教師”とはちが います。ダライ・ラマは国教における最高の精神的指導者であり、当時の清帝国の四分の三を占める領土 (チベット、新彊、青海、甘粛、四川、雲南の一部と内・外モンゴル、東北各省及びロシアの極東地域等) と辺境のモンゴル族が統治していた地域において、皇帝よりもさらに偉大な影響力をもっていたのです。 ホンタイジ(註5)の時代にラマ教(註6)に改宗した主たる理由はすなわち、“モンゴルを安堵するには ラマ教を統合しなければならない” (モンゴルとはモンゴル各部による統治地域を指します)。こうして ラマ教は中国史上最大の、今のロシア(註7) よりも大きな版図を維持するための大切な支柱の一つとな ったのでした。それとは逆に、清の朝廷は軍事力と毎年巨額の財物を供して、ダライ・ラマのチベットに おける至高無上の地位と権力を保障し、かつ現在よりもはるかに広大な領土の主権を保持したのでした。 註 5) ホンタイジ:清朝第二代皇帝太宗(在位1627-1643)                     註 6)ラマ教:ラマ教というのは、ラマ(上師の意)に絶対帰依を求めるところからきた俗称で正式には チベット仏教というべきだが、魏氏の原文に従った。                        註 7)この書簡が書かれたのは1992年のことである。                        このような連合形体において双方が得た利益は、もはや“莫大な”などということばでは形容できないほ どのもので、両者は互いに依存し合っていたのです。それゆえにこそ、この連合は確固たるものとして長 く続いたのでした。この連合において双方の法的地位は平等なものでした。(これこそが皇帝を代表する 駐藏大臣はダライと“その地位は平等である”という条文の真の意味です。さもなくば、駐藏大臣はダラ イの命に服さねばなりませんでした)。双方の実際の権力は同等ではありませんでしたが、駐藏大臣、金 瓶掣籖、そして内地において毎年チベットに供された巨額の財物等は、即ち双方の関係において均衡を維 持するための措置でした。さもなければ、宗教的指導者の影響力と自由度は、世俗の皇帝を超えて双方の 関係に不均衡をもたらし、皇帝とダライの地位は平等ではなくなってしまうのでした。時代の変遷にとも なって両者の関係も少なからずさまざまに変化しましたが、この基本的な構造は清朝末期まで維持され続 け、その関係は極めて安定していました。だからこそチベットは、外国の脅しや甘い誘い、武力による干 渉下にあっても、朝鮮、ベトナム、ラオス、ビルマそしてモンゴルのように中国から分離独立することは なかったのです。イギリス軍が首都ラサを占領するという事態にあってさえ、中国と命運を共にするとい うチベット側の態度が揺らぐことはなかったのでした。                       その主な原因は、共同の利益という基礎の上に立った自由意志による連合は、他のいかなる様式の統合よ りも人類社会の法則に合っていたということに他なりません。この法則とは即ち、今日の社会理論で言う ところの“主権在民”、“人民の利益はすべてに優先する”という原則です。この原則に反するなら、たと え駐藏大臣や金瓶掣籖にまさる理由があろうとも、何の役にも立ちません。ソ連とユーゴスラビアのこの 数年の状況はまさにそのよい例ではありませんか? 同じ言語を持つ同一の民族でさえいくつもの国に分 かれるのです。“国際法”がいかなる評価をするかなどと論じてはなりません。まさか、アメリカ、イギ リス、アイルランド、オーストラリア、カナダという国の独立した主権に対して、人々が何らかの異議を 唱えるとか慣習でないということがありえましょうか? このことは、人々の意志と主体的な望みは主権 を構成する大切な要素であり、たとえ一部分の人々でもその自主的な望みを失えば、その一部分の主権を 失ってしまうということであり、しかも、いわゆる“主権法”に規定されているその他各項の条件が人々 の自由意志と民族自決の基礎の上に打ち立てられなければならないということを意味しています。その他 の様々な様式をとっている主権がもしこの最も大切な基礎を失うとすれば、いずれはその効力を失ってし まうでしょう。武力による占領や行政による管理がそれを改変することはできません。とりわけ現代にお いてはそうなのです。                                      1949年(註8) 以前のチベットと中国の関係は、武力による占領や行政による管理ではなく、まさに完全 に自由意志と民族自決を基盤にした連合の上に打ち立てられていたのであり、それゆえ堅固であったので す。清末から民国に至る百年あまりの間、中国は自らの弱体化ゆえにチベットの安全を守るという責任を なおざりにしてきましたが、ダライ・ラマ政府は一貫して条約を守り続け、主権連合に反するいかなる行 いもしたことはありませんでした。ダライ・ラマ政府は中国に対して終始誠実でした。実のところ、中国 国内は内乱状態でしたし列強はチベットが独立することをさかんに煽り立てていた折りでもあり、彼らに “分離独立”の意志さえあれば、外モンゴルのように、たいした苦労もなくとうに中国からの分離独立を 果たすことができたのです。実際、《白書》の“チベットが独立国家であると認めた者はいまだかつてい ない”というくだりはけっして正確ではありません。イギリスがインドを統治していた時期、特にシムラ 会議開催中に、正式にチベットに独立国としての席を用意していましたが、それは非公式な方法でチベッ トの独立を既成事実とするためでした。それが成功しなかったのは、ただダライ・ラマ政府がこういった 待遇を拒絶したからに他なりません。また、弱体化した中国政府代表の抗議等は後に言われるほどには重 要な役割を果たしたわけではありませんでした。特に、当時の中国政府はすでに長いこと義務を怠ってい たにもかかわらず、その大部分の領土を侵略占領され“外国に従属”するという状況下においてチベット がとったこうした態度は、さらに高く評価されるべきものとなったのです。              註 8) 1949年10月1日、毛沢東は天安門楼上で中華人民共和国の成立を宣言した。           まさにこの時期、中国とチベットの関係は疎遠になったのでした。その理由は第一に、中国がしだいに現 代社会への歩みを進めるにつれ、宗教の人々を引きつける力も弱まり、もはや元、明、清朝初期、中期の 頃ほど重要ではなくなったからです。しかしその影響力にはいまだ見くびれないものがありました。一方、 中国自身が弱体化し西域を顧みる力もなくなったいま、チベットはすでに、ただ中国の“旗印”に頼るだ けでなく自らの安全は自ら守るということを学んでいたのでした。中国の軍事援助はもはやどうしても必 要というものではなくなり、また当てにすることもできなかったからです。第三は、チベットと中国の密 接な市場関係が、他でもないイギリスとインドの商品が入り込むことによってしだいに損なわれていった ことです。第四は、中国文化がすでにその周辺文化に対する優勢を失い、チベット民族を引きつけていた 魅力に陰りが出てきたことです。このような過程を通して、人々の間における疎遠は政府間のそれよりも 大きなものとなり、心の隔たりもまた、その他各方面におけるそれに勝るものとなってしまったのでした。 チベット人の考えの中で、漢人のイメージは、それまでの同盟者そして保護者というものから、ずる賢く 信用できない(主にあなたがた四川人や西北地方の回民です)といったイメージに取って代わり、逆に、 自分は文化的であると思い込んでいる漢人の頭の中では、チベット人のイメージは、“活仏の臣民”とい う高貴なものから、たちおくれた愚かで野蛮な“半畜生”というものに代わってしまったのです。こうい った互いの差別と蔑視は、すぐに分裂という結果を招いたわけではありませんが、後の恨みによる殺人や 将来おこりうる分裂の基盤をつくってしまったのです。この悲劇を演出したのは、まさに貴殿、ケ小平殿、 あなたなのですよ。                                       四十年代には早くも、チベット政府上層部の統治者たちはすでに社会制度を改革する下準備を始めていま した。しかし彼らが望んだのは、イギリス或いはインドのようなタイプの社会制度であり、穏やかで宗教 的色彩の濃い改革でした。また、数千年来の慣例に則って自らの手で改革を行いたいと望んだのであり、 外国人、或いは彼らの概念においては“外国人”に近い存在の“漢人”による改革を望んだのではありま せん(国民党はこの伝統を尊重したので、チベットとは比較的うまくやっていました)。ましてや“地主 を打倒し、田畑を分配し、階級の敵を殺す”という革命のやり方はさらに望ましくないものでした。こう いった事はただ上層部の意志というだけでなく、チベット社会全体の意志でもあったのです。 いわゆる ”解放されて立ち上がった農奴は共産党を待ち望む”とは貴殿の口先だけの宣伝にすぎず、けっして当時 の農奴たちの真の心情ではないのです。この点については、貴殿の長年の部下であった牙含章とプンツォ ・ワンギェル両氏に、彼らがチベットで農奴たちを扇動してどのような“偉大なる功績”をあげたかお尋 ねになれば、私の申し上げていることがいささかも偏っていないことをおわかりいただけるでしょう。実 は、これこそが正常なのであって、大多数の国(たとえばドイツやロシアなど)で“農奴解放”において その最大の障害となったのは農奴たち自身の反対によるものだったのです。まさにこういったチベットに おける上層部と農奴たちに共通した意志と中国共産党の当時のやり方は、チベット政府に国民党との連合 に反対せず、むしろ断固として共産党のチベット入りを拒絶するという立場をとらせたのであり、 漢人 追放”の名目でプンツォ・ワンギェルに率いられたチベット共産党を追い払ったのでした。こうした“外 交措置”は、当時チベットが完全に主権(外交権と国防権を含む)を行使していたことをうまく語ってい ます。追放された四川軍とチベット共産党は“外交ルート”を通じてインドから“帰国”することになっ たのでした。                                          しかし当時の中国共産党はその最盛期を迎えており、また各国の共産党同様、“党の利益と共産主義の拡 大はすべてに優先される”という考えのもとに、主権や民族自決の権利というものはたいして尊重されま せんでした。しかもインドはイギリスの統治下から独立したばかりであり、チベットの反中共を支援でき る状態ではありませんでした。それで共産党のチベット入りを拒絶することは失敗に終わったのです。当 時まだ年若かったダライがきわめてごまかされやすく、またチベット官僚の腐敗無能といったものも、た しかに共産党軍が難なくラサに侵攻することができた主要な条件となったのでした。これはかなり皮肉な ことです。もし1960年の“チベット民族蜂起”(註9) があと十年早かったら…、貴殿のように幾度も戦 場を経験してきたベテラン軍人なら、その結末がどのようなものになったかご想像に難くないでしょう。 この過程において、貴殿と毛沢東等が合意した“平和解放”の方策はむしろ非常に的を得たものでした。 《平和解決の方法に関する協定》にはいささか“城下の盟”(註10)“緩兵の計”(註11)の嫌いがあ り、あなたがたが好んで引用する国際法に照らせば、これは当然無効とされるべきものですが、しかしも しこの方法をほんとうに守り通したならば、ダライ政府もそれを受け入れたことでしょうし、嘘から出た まことは既成事実となり、中国とチベットの主権連合は引き続き確固として維持され続け、国際社会もこ の現実を受け入れないわけにはいかなかったことでしょう。このような局面なら今よりずっとやりやすく 、チベットはたぶん中国の大きな悩みのタネとはならなかったはずです。というのも、チベット族は非常 に信義を重んじ本分を守る民族であって、いささかのずる賢い謀もないからです。           註 9) 魏氏は“チベット民族蜂起”を1960年と書いているが、正確には1959年。これに先んずる1956年 には、すでにカム、アムド地区でレジスタンスが始まっていたが、 1959年3月10日、ラサの民衆がダライ ・ラマを中国側の拉致から守るために起こしたデモが、漢人追放、 チベット完全独立を求めて大規模な 衝突に発展していった。一週間後、ダライ・ラマはインドへ亡命、チベット政府は周恩来の国務院命令に よって解散させられた。人民解放軍の報告書によれば、“蜂起”の 3月から10月にかけてラサ及びその周 辺で八万七千人ものチベット人を殺害したという。ダライ・ラマ亡命後、数ヵ月で八万人に上るチベット 人たちがその後を追い国外へ逃れ難民となった。次に続く文章の中で、魏氏はこの民族蜂起に至る原因に 触れている。                                          註10)城下の盟:敵に城下まで攻められてやむなく結んだ講和条約。転じて屈辱的な条約を意味する。  註11)緩兵の計:敵の攻撃を遅らせ時間稼ぎする計略。引き延ばし策。                残念なことに、朝鮮戦争の“勝利”と経済回復の成功によって、毛沢東と貴殿を含む中国共産党の幹部た ちの思い上がりは膨れ上がり、あらゆる方面において有頂天になりだしたのでした。中国本土が”大躍進 ”と極端な左傾化(註12)に走ると同時に、対チベット政策においても“左病”がまきおこり、いわゆる ”民主改革の促進”決定が出され、《平和解決の方法に関する協定》を破棄(註13)したのでした。   かくして共産党の高圧的政策に対するチベット各層の人々の不満は、外部民族の異教徒たちに反抗すると いうスローガンのもと極左政策に反対する人民蜂起となって爆発したのです。即ち“西藏叛乱”(チベッ ト民族蜂起)と言われているものです。この戦争中、そしてその後も長期にわたって、チベット族と漢族 の間に横たわる差別と蔑視の悪感情はさらにその勢いを増し、軍隊が罪もない人をやたらに殺したり、役 人が一般庶民を虐待するまでに至りました。それは民族間の溝を一層深め、民族独立の闘争へと向かわせ る主要な原因の一つとなったのです。このような局面においてむやみに主権の何たるかを語ることは、た だ火に油を注ぐようなものです。チベットの人々は、共産党が以前のやり方を改めるつもりがないなら独 立以外にこの“苦しみ”から逃れる方法はないと考えるようになるでしょう。両者の対立の構造と語り口 は、かつての植民地国家のようであり、また今日のユーゴスラビアのようでもあります。どうやらこの道 は決して通りぬけできるものではないようです。まさかとり返しがつかなくなってから後悔してもはじま りますまい。                                          註12)“反右派闘争”と“大躍進”:1956年にポーランドとハンガリーで圧政に抗議した市民による暴動 が発生すると、毛沢東はそれに注目して、人民と党政府の間の矛盾を敵対関係に発展させないために、そ の翌年、党政府、官僚に対する人民の批判を奨励すべきであると提唱し、非共産党諸派の指導者や知識人 たちに共産党の自己改革のために批判意見を出すよう呼びかけた。しかし党批判が毛の予想を越えて発展 しはじめると、これに対し「反右派闘争」を呼びかけ、多くの人々が「右派」狩りの犠牲となった。   1957年11月にモスクワで世界共産党会議が開かれると、毛沢東はフルシチョフらの西側への妥協に反対  し、「中国は十五年前後で、主な工業生産高でイギリスに追いつきそれを追い越すだろう」と豪語した。 帰国後、大衆動員による経済建設の「大躍進」を主張し周恩来や陳雲らの慎重論を排除、農村における原 始的な鉄鋼生産や虚偽の成果報告による悪循環、各地の人民公社化による労働意欲の低下は自然災害に加 えて深刻な食糧難を引き起こし、農村では多数の餓死者を出すに至った。               註13)1954年、第一期全国人民代表大会による中華人民共和国新憲法採択によって、 チベット行政の中 国への編入が公然と行われるようになった。1956年に西藏自治区準備委員会が設立されると、 それまで チベット政府にあった寺領地や直轄地の管理権が準備委員会に移された。しかもダライ・ラマを名目上の 委員長としたこの委員会の権限は、すべて中国共産党西藏委員会という別組織に握られていたのであった 。社会、政治における改革と農地改革は先ず、四川省と青海省に編入されていたカムとアムドにおいて実 施されたが、急激な社会主義化と中国人官吏の高圧的な態度はチベット人たちの反抗を招き、各地でゲリ ラ戦が勃発した。 抵抗運動は中央チベットにまで波及し、 1959年の民族蜂起へと発展していったので ある。                                             最近、国際世界でおこった成功と失敗を表す二つのタイプの例は、我が国にとってこうした問題を考える 際によい参考となるものです。一つはユーゴスラビアで、あなたがたと同様の立場をとっていました。最 終的な段階に至らなければ決して他の民族の自決権を認めようとはせず、果ては武力を用いて最後まで拒 否し続けKその結果、莫大な損害を被り、目的を達せられなかったばかりでなく大量のの恨みの種をまい たのでした。これからの長い間そのための代価を支払わなければなりません。もう一つはロシアです。合 わさるも離れるも、各民族の自決自主の権利を尊重した結果、連合体(独立国家共同体)を維持したばか りでなく、将来もっと緊密な関係を回復するための余地も残し、民族間に代々受け継がれた親密で信頼で きる感情を保持したのです。時間が経つにつれ、ユーゴスラビアとロシアの間の隔差はますます大きくな るでしょう。しかもセルビアの条件はロシアにはるかに勝るものであり、ロシアは民族を抑圧するという 悪事を為し他の民族の不評を買うことセルビアよりもずっと深刻だったのです。ただ問題の処理方法が違 っただけで、明らかに違う結果をもたらしたのでした。他の条件がすべて似通った状況下にありながら、 最大の違いは、ロシアが人類社会の法則に従い各民族の自決と自主の権利を尊重したことでした。それゆ えにこそ、その他各種の統合に有利な条件を発揮させることができたのです。現代の人類社会においては 、一つにまとまろうとする勢いのほうが、結局、分裂へと向かう勢いよりも強いのです。まさに事の成否 は人のやり方いかんにかかっているのであり、“主権”或いは“某の某民族に対する行政権”を強調しす ぎることは、まぎれもなく統一ではなく分裂を促すものなのです。                  現代人類社会において、すでに、或いはまさに分裂しようとしている社会を総じて見てみると、そういっ た社会は、まぎれもなくある民族が他の民族に対する“一切の制限を受けない行政権”の行使を強調しす ぎており、また、すでに統一している、或いは今まさに統一の過程にある社会が直面する最大の障害もま た、まさに“主権”、自決権を失ったこと、他者の意志に従わされたということを強調しすぎるところに あるのです。このように統一のメリットが明確であるように、分裂の理由もまた依然として根強いものが あります。どうしてわざわざ分裂の理由を強調して、心にある思いと正反対の行動をとらなければならな いのでしょうか? この現代社会において、ただ高圧的な政策に頼って分裂をくい止めている例がいった いどこにあるというのですか? たとえそういう例があるにしても、 もはや末期状態に至っているにすぎ ません。あなたがたは生涯をかけて反植民地化と民族独立を叫びながら、その実それがどういうものなの か、なぜ反植民地化と民族独立が必要なのか、まったくおわかりになっておられないのです。こういった ものはあなたがたの他のスローガン同様、ただ“現実主義の道具”とみなされ利用されただけなのです。 理解する必要もなく信じる必要もないのです。これこそまさにあなたがたの“左病”の病根です。    中国とチベットの関係は、ロシアやユーゴスラビアに比べればはるかによいものでした。 1949年まで中 国はチベットを抑圧したことはなく、従うよう強制したこともありませんでした。しかも両者は完全に自 由意志に基づいて主権連合の形体を選び取ったのでした。今に至っても尚、統一に有利な条件はドイツ連 邦や欧州共同体(EC)にはるかに勝っています。それゆえダライ・ラマが追われて亡命した初めの頃、決 して独立ということを口にせず、今に至るまでその状態を守っています(註14)。これは統一への見込み が非常に大きいことを示しています。しかしあなたがたはなおも頑なに旧い思想や政策を堅持し旧い官僚 を信用して、まさにチベットが分離するようにと一歩一歩努力しているのです。私は心配のあまりいても 立ってもいられません。清朝の祖先が残してくれた国境は、すでに代々の放蕩息子たちによって食いつぶ され半分近く減ってしまいました。このようなことを続けていけば、我々の子孫たちはただ“海外への出 稼ぎ”で日々の生計を立てねばならなくなり、“中華復興”の希望などなくなってしまうでしょう。   註14) 1988年6月15日、 ストラスブールで開かれた欧州議会においてダライ・ラマは、中国から分離せ ず協調していく意向を表明している−《ストラスブール提案》。しかしチベット側の度重なる会談要請に もかかわらず中国側からの誠実な回答はいまだに得られていない。                  今、四十年来の抑圧と虐殺がもたらした悪の因果を取り除き、チベット人と漢人の関係をかつての軌道に 戻しさらに一歩前進させたいと願うなら、多くの事をしなければなりません。その中で最も重要且つ急を 要する事は、以下に述べる三点です。                               まず、チベット人と漢人の心に巣食っている憎しみと差別の感情を取り除かねばなりません。その中でも 特に、四十年来の“誤った指導”の宣伝によって漢人たちの心に刻みつけられた“チベットの民は全く家 畜並みに立ち後れている”という誤った観念を取り除くことです。四十年前の宣伝は党の幹部階級を対象 にしたもので、特にチベット区域の幹部たちは強い差別観念を持つに至りました。それは逆に、チベット 人の漢人に対する敵視を一層深めたのでした。その実際の状況は貴殿の理解の及ぶところではなく、また 貴殿の取り巻きたちが説明したものとは明らかに対立するものです。貴殿が事の重大性を理解できるよう にいくつか例を挙げて説明しましょう。                              例1:私の両親はチベット人と付き合ったこともなく、またチベット族について学んだこともありません でした。彼らのチベット族についての理解といえばすべて党内の文書と公の宣伝によるもので、それらの 宣伝が彼らに与えた印象はまさしく“半畜生”のイメージでした。それで私があるチベット族のお嬢さん と結婚の準備をしていた時、両親の猛烈な反対にあったのです。“親子の縁を切る”とまで言われました 。もちろん彼らも、あとでそのチベット族の女性と知り合ってからは全く考え方を改めましたが。しかし その誇り高いチベット族一家はこのような“親戚関係”には我慢ができなかったので、私は結局チベット 族の婿にはならなかったのでした。                                例2:私がチベット地区(青海牧区)に収容されていた頃(註15)、たくさんの話を耳にしましたが、そ こから私は、チベットに派遣されている漢族幹部のチベット族に対する差別と蔑視がほとんど病的と言え るほどのものであることをはっきりと感じたのでした。およそチベット族に関係のあるものは、ただそれ だけの理由で蔑まれたのです。例えば、チベット犬といえば極めて高価で貴重な犬ですが、漢族の幹部た ちはわざわざ内地から連れてきた犬を飼おうとしました。私が、チベット犬がどれほど高価で貴重なもの であるか説明してもかえって嘲笑われたのです。外国人が大金をはたいてチベット犬を買ったというニュ ースが公にテレビで放映されてはじめて、彼らも私の話を信じたのでした。また私が、“黄油(バター) ”と“酥油”は同じ物だと言っても、彼らはどうしても信じません。西洋レストランで出される“黄油” は外国人が食する高級な食べ物で、未開のチベットの民が大量に食用にする一般の食べ物がそれと同じ“ 高級食品”であるはずがないと思っていたからです。また、ヤクの肉は最高級の牛肉で、その柔かくてジ ューシーな味わいと栄養価の高さは他の牛肉の比ではありません。にもかかわらずチベット地区の漢族幹 部たちはそろって「今日はどの肉も手に入らなくて、ヤク肉を食うはめになった」と言うのです。それで 、私を看てくれていたチベット族の刑務所付き医師は、私がヤク肉が好きなだけでなくおまけに“酥油” を買ってきてほしいと頼んだので、驚いて目をしばたいて私の言葉を信じなかったほどでした。それから は私のことを“身内なみ”に扱ってくれるようになり、一袋のツァンパ(註16)と皮袋に入れたバターを 差し入れてくれました。こういった例は、以前耳にした多くの事例を裏付けるものですが、ここでは他の 例までいちいち挙げますまい。こんな小さなことからでも、チベット地区の共産党幹部たちがチベット族 の人々をどのように扱っていたかがわかるのです。このような差別の心理は、白人の黒人やインディアン に対する差別に比べても、その質と量のいずれにおいても勝るとも劣らじです。率直に言わせてもらえば 、あなたがた自身、心の中でチベット族を蔑視しているのであり、その文書、話、宣伝の中で、知らず知 らずのうちに部下たちにこういった“精神”を吹き込んでいるのです。こうして上がやれば下はその真似 といった具合に互いに感染し増幅作用を生じて、チベット、漢の両民族の心の溝はますます深まっていく のです。最後にはもう分裂するしかありません。                          註15)1979年から93年までの13年間にわたる服役中に、魏氏は北京、青海省塘格木(Tanggemu)、唐山と 収容先を三度移動している。この書簡は唐山の労働改造所で1992年に書かれたものだが、青海の塘格木に いたのは1984年晩秋から1989年の夏まで。                             註16)ツァンパ:チンコー麦(ハダカムギ)の粉を炒ったもの。チベット人はこれにバターを溶かし込ん だ湯または茶を注いで蕎麦がきのように練って主食とする。                     四十年にわたる氷雪は一朝一夕に融かすことはできません。しかし日々 “功徳”を積んでその蓄積され た怨みを解いていく必要があります。まず、幹部クラスは中央から地方に至るまで、こういった口先では 少数民族の人格を尊重すると言いながら実はその裏腹のことをしている幹部たちの入れ替えを(それもた だの“政策”だけに終わらず)しなければなりません。同時に、“少数民族の特殊化”をせず、すべての 民族を一律に平等に扱うべきです。特殊化はかえってよそ者者扱いされている感じがするものです。各種 の宣伝において大漢族主義を一掃することは更に大切なことです。この四十年の間、偏狭な民族主義と民 族的ショービニズム(排外主義)を一種の“愛国主義教育”と見なしてきた傾向こそ、まさに民族間にお ける差別主義の思想的根底をなすものなのです。あなたがたは口を開けばすぐ“文成公主のチベット降嫁 ”などと言います。あたかも漢族の皇女がチベットの救世主にでもなったかのように。でたらめを言って はなりません。これは言い過ぎです。しかも歴史の事実にも則していないのです。私が収容されていた青 海の労改農場は、他でもない吐蕃王国(チベット)の軍が少数で唐の薛仁貴率いる十万の大軍を全滅させ 勝利を得たところでしたが、かくして文成公主(註17)は吐蕃(チベット)王のもとにに輿入れしたので した。しかし、そこの幹部たちは皆このことを知らず、チベット族は漢族の皇女のおかげで“文化的にな った”のであり、今日、再び、チベット族が代々にわたって居住してきた“蛮族の不毛の地”を“開拓” しにやって来たのだと思い込んでいたのです。それは植民地の支配者のような口ぶりでした。まさにあな たがたのこういった一方的な指導こそが、幹部たちの中に人種差別の病的とも言える心理を蔓延させたの です。その誤った心理は矯正しなければならず、《白書》の作者たちにとって習慣となっているあの大う そもまた徹底的に改める必要があります。                             註17)文成公主:(625頃〜680)唐の第二代皇帝太宗の娘。チベットを統一し当時最強を誇った吐蕃王国 はしばしば唐朝を脅かす存在であった。ために太宗は、文成公主を吐蕃王ソンツェン・ガムボのもとに嫁 がせ縁戚関係を結んだのである。やはり政治的理由でネパールから嫁したティツィン王妃とともに彼女は チベットに仏教興隆の基を築いた。チベットではこの二人の王妃をターラー菩薩(観音菩薩の慈悲の涙か ら生まれた女性の菩薩)の生まれかわりとして崇敬してきた。                    第二は、チベットの市場経済の確立と発展を早め、内地の経済とチベットの市場における関係をさらに緊 密なものにすることです。この百年来、チベットの市場にはイギリスとインドの商品があふれ、ここ四十 年でまた多大なダメージを受けました。特に、チベット地区の畜産品と鉱産物の“社会主義計画価格”は まるで宗主国が植民地を搾取しているかのようで、このためにチベットの経済はたいへんな損失を被って いるのです。貴殿のあの程度の“援助”では全くその損失を贖うことはできません。いわんやその“援助 ”たるやチベット人たちにとって抑圧の機構を支えるために用いられ、或いは“漢族の科学研究”の実験 のために使われているのです。例えば、各クラスの機関、漢族専用の病院やホテル、軍事施設、天文実験 台、地熱発電所、水力発電所など、これらはチベットの経済にとってすぐに必要なものとは言えません。 貴殿がいかに弁解しようと、チベット人たちは貴殿が考えているほど愚かではありません。彼らは貴殿の 援助が真心からのものではないことを見抜いており、当然、貴殿を信用するはずがないのです。方策決定 層のチベットは自分の故郷ではないのだからという無責任な態度は徹底的に改めるべきです。自分の故郷 に対するようにチベット援助資金を最も必要とされているところに用い、真にその資金をチベット経済の 発展に活かすなら、チベット人にも貴殿の意図が理解されることでしょう。各種の検問と“管理価格”を 撤廃し、チベットの産物が内地の市場に入るルートを開き、かつ価格を優遇し、チベットとその他すべて の漢族地域の経済及び取り引きを密接にするような措置を採らなければなりません。チベットと漢族地域 の市場関係が緊密さを増せば、チベットと漢族の関係を確固たるものにする重要な基礎になります。   第三は、チベットの宗教指導者を人質にとるという伝統的な政策を放棄することです。過去においてこの 種のやり方には、信仰心の篤いチベット人だけでなく信仰をもたないチベット人たちも大きな反感を抱い てきました。しかも貴殿の“人権尊重”にも反しています。あなたがたは“大漢族王朝”などというひど くうぬぼれた気持を徹底的に捨て去り、腰を据えてダライ・ラマと話し合うべきなのです。彼は警戒して います。それは貴殿が彼の信頼を得ていないということです。それなら彼に話し合いの場所を選ばせ、ラ サに戻りたいというなら彼の民のもとに帰らせてやればよいのです。これはすべて情理にかなう最低限度 の条件であり、理解できないことなどありましょうか? なんの権利があって同意できないと言うのです か? 彼の代理人が誰であっても貴殿の許可が必要とは!横暴にもほどがあります。実のところ、このよ うな言い訳で交渉を引き延ばしているのは、ただ貴殿の取り巻きたちに自信がなく臆病であることの表わ れなのです。能力もないくせにあるかのように見せかけている彼らは、自分たちの大うそが暴露されるの ではないかと内心びくびくしているのです。しかも貴殿は、彼らのこのような非道の行いを放置し、国家 と民族の利益に供したとしてご自分の腹心を褒賞されたのです。これは国家と民族に対する極めて無責任 な行為です。話し合いを始めさえすれば、チベットが中国に残る可能性は一段と増します。ですから一切 の前提条件を放棄して会談に臨むべきです。できることならダライ・ラマにラサへ戻ってもらうのがよい でしょう。これは危険な冒険家たちの中に彼を置いておくよりはずっとよいことです。実際、漢族との同 盟を離脱しても、野心に満ちたインド人とて漢族よりましというわけではないということを、彼にははっ きりわかってもらうべきなのです。シッキムやブータン、ネパールは将来独立したチベットの極めてよい 手本です。もし我々がもっとうまく表現できるなら、チベット人たちもすでに数百年にわたって存在して きた連合体を離れて自ら苦しむ必要などありましょうか? いわんや今の時代の趨勢はすでに申し上げた ように、遅かれ早かれ一つにまとまる方向へと動いており、統一の利点はその弊害を被ってあまりあるも のです。ダライの昨今の言動を見るところ、彼は決して愚かではなく、むしろ私などよりこういった道理 をよくわきまえています。ただ身は外国にあって自身のどうしようもない苦衷を抱えていることも確かで す。我々は彼をこれ以上追いつめて、他者の懐に追いやってはならないのです。 敬具 魏 京生 九二年十月三日
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