チベット青年会議による抗議のハンガーストライキにおいて一人のチベット人が焼身自殺で亡くなると いう悲劇から、はや三ヶ月が過ぎようとしています。以下に紹介するダワ・ツェリン氏の論説は焼身自殺 で亡くなったトゥプテン・ングドゥプ氏の葬儀の翌日に発表されたものですが、亡命チベット社会の今後 の動向を占う上で一つの視点を示しているものといえます。 ダワ・ツェリン氏はチベット亡命政府機関紙の編集長を務めるかたわら、中国民主化運動グループとの 関わりも深く、これまでも多くの論説を発表してきました。昨年11月に《北京之春》記者の単独インタビ ュー応じ、自身の経歴や観点等をその中で紹介しています。興味のある方は【亡命チベット人たちを早く 故郷へ!】をご参照下さい。
《北京之春》98年6月号 第61期 88より【ハンストから焼身自殺へ】− 揺れ動く亡命チベット社会
ダワ・ツェリン
4月28日の早朝六時、インドの首都ニューデリーの中心部にあるジャンタル・マンタルという小さな 公園に、突然数百人のインド人警官が押しかけた。ジャンタル・マンタルとは数百年の歴史をもつある家 の名であり、そこはある時期、観測所であった。むかし時計がなかったころ、皇帝や人々はこの家の中の 器具と太陽の光のさし具合によって何時か決めたのだった。その後、この旧い家を取り囲むように小さな 公園ができ、この公園は反体制派や在野の政治家たちが演説や集会をする場所となったのである。インド は民主国家であるが、あの日、あれほどに多くの警官が出動し“人命救助”という大義名分のもとで、チ ベット人の表現と抗議の権利行動を阻んだのである。というのも、この公園構内でチベット青年会議が組 織した亡命チベット人によるハンガーストライキがすでに四十九日目になっていたからであった。 警官たちが殴ったり蹴ったりしながらそれを阻止しようとしたチベット青年会議のメンバーやボランティ アたちを押さえつけ、残る三名のハンスト参加者をベッドごと車に放りこんだ時、突然燃え盛る火の塊が 群集の中へ転がり込んだ。一人のチベット人が悲しみと憤りのあまり焼身自殺を図ったのだった。 〈チベット青年会議の活動〉 チベット青年会議は13,000名あまりのメンバーを有し世界各地に65ヶ所の支部を持つ亡命チベット人 の組織で、以前より外部からは血の気の多い急進派のグループであると言われてきた。 彼らの求めると ころはチベットの独立であり、それと同時にチベットの政治と宗教の指導者であるダライ・ラマの指導に 服することをはっきりと表明している。ダライ・ラマは中庸の道を主張しており、この見地から実際には チベットが独立を求めることを否定している。それで人々は、彼らがチベット独立を引き続き堅持すると 同時にどんなことがあってもダライ・ラマについていくと表明するのは矛盾ではないか、と疑問を投げか けている。これに対して彼らは、民主制度下にあってはさまざまな見方が出現してよいのだと主張するだ けでなく、またさまざまな場において繰り返し、けっしてダライ・ラマに反対する意志はないことを説明 している。これ以外にも彼らにはもう一つの釈明がある。彼らの本部は執行機関であっても、それはあく までもチベット青年会議の大会で可決された決議を執行するだけであり、チベット青年会議の原則等の決 定権及び最高権力機構は代表大会にあり、通常の最高権力機構は支部の連絡会議であって、青年会議の常 任委員は代表大会が可決した決議等を改めることはできないのだ、と言っている。 なぜこの時期にハンストを行うのかと訊ねると、青年会議は次のように語った。;これまでの青年会議 代表大会においては常に、関係者は行動をおこさねばならずもはや傍観していることなどできないという 決議が可決されていたのだが、数年前チベットの前途は全チベット人が公に決定するという問題が起こっ たため、この件について青年会は全力で反対し、そのために組織人力が亡命チベット人の中で宣伝活動を 行い、代表大会が可決した方策を有効的に執行することが未だできなかったのである、と。その後各方面 からの関心も強まったため、チベット議会は民意調査を通して、将来のチベットの前途はダライ・ラマの 英明なる判断と決断にその全権を委ねるという決定を下したのである。このことによって彼らはようやく 時を得て、チベット青年会議が代表大会において可決した決議を実行することになったのであった。 1997年12月国際法学家協会が発布したチベットに関する第三部報告がきっかけとなり、青年会議はこの 期を逃さず組織的なハンスト行動を開始した。彼らの説明によれば、ハンストをチベット国内で行うか、 または国外、インドで行うか、その実行性とメリット、デメリットを繰り返し検討したが、ついにインド のニューデリーで行うことに決定したという。というのも、チベットでは中共統治下にあるため非暴力活 動を展開することは難しく、また国際的には経費、人員、ビザなどの問題があり、ただインドだけはこう いった困難がなかったのである。彼らはまず始めに国連と幾度か交渉を重ねたが、むろんなんの結果も得 られずハンストの開始を宣言した。インド警察と国連の駐インド代表が事務所の門前においてハンストを 行うという要求を拒絶したため、彼らはジャンタル・マンタル公園を挙行の場に選んだのである。 ハンストを行う者は多くの希望者の中から選ばれた人々であった。青年会議議長は追悼集会の席上次の ように語った。;我々のもとには多くのハンスト参加希望者が選ばれようとして集まった。これらの希望 者たちは書面で青年会議宛てに、いかなる状況下にあろうとも、時と場所を選ばず、闘いの必要があれば 自らの命を投げ出す覚悟である、と決意を表明した。チベット青年会議はそういう人々の中からハンスト に臨む者を選び出し、いくつかの隊に組み分けした。それは第一隊の者が死んでも次の者がそれを引き継 いで長期にわたってハンストの抗議行動を行うためである。 第一隊の六名のハンスト参加者が確定した後、3月10日、彼らと他のチベット人たちは一帯となって ニューデリーのチベット人居住区マジュヌカティラからジャンタル・マンタルまでデモ行進し、到着する とテントを張ってハンスト行動を開始した。彼らが国連に提出した三項からなる要求は次の通りである。 (1)国連が、それぞれ1959年、61年、 62年に可決したチベットに関する決議をもとに引き続き討議 を展開するよう求める。 (2)チベットの人権状況を調査するため、国連は特別代表を一人そのために任命すること。 (3)チベット問題の平和解決のために、国連の監督下においてチベット人民の希望と考えを収集でき るよう対策を講じるべきである。 ハンストに臨む者はなぜ毎回六人なのか、彼らが“六”という数字を選んだのは、 チベットの代表的な 伝説においてチベット民族はもともと猿と羅刹女の六人の子どもであって、それが六つの氏族を形成して しだいに増えて今日の六百万人チベット人となったからである。 ハンストが開始されてはじめのうちはさほど大きな注意は引かなかった。当時インドは大選挙戦の真っ 只中であり、全国的に選挙戦に忙しかったのである。今年の選挙は経費にも制限が加えられたため、以前 のように鳴り物入りで騒ぎ立てるということはなかったが、しかし人々の関心は依然として選挙の行方に あったのである。この巨大な国において選挙を行うということはけっして容易なことではない。選挙の結 果、人民党が勝利し、組閣の後信任案が議会で可決された。ハンスト参加者たちはあたかもさらなる確信 を得たかのようであった。というのも、インドの総理となったA.P.VAJPAYEEと国防大臣 GEORGE FERNANDES は、野党時代いずれも熱烈にチベットを支持していた人物だったからである。しかし現実とは 残酷なものである。青年会議議長が追悼集会の席上で語ったように、政治において我々は依然として国際 社会の捨て子なのである。インド政府の政策は、総理がチベットを支持したからといって根本的な変化が 起こるというものではけっしてない。利益、それは永遠に彼らが第一に考え、選択するものなのである。 だが、ハンスト参加者の身体が日益しに衰弱していくにつれて、人々もしだいにこのか弱く小さな民族 の命をかけて発している瀕死の叫び声を聞き取り始めたのであった。著名な人士たちがまずハンスト参加 者にねぎらいの気持を表した。野党になったインド国民会議派の総裁である前総理ラジーブ・ガンディー の夫人と映画スターのリチャード・ギア等、多くの国際的名士たちがつぎつぎに見舞に訪れた。アメリカ やヨーロッパの多くの議会議員たちも電報で慰問の気持を表した。しかし鍵となる国連のアナン事務総長 は書面をもってハンストの停止を求め、彼らの健康状態に関心を示した以外、彼らの要求に対してはなん ら具体的な回答もなかったのである。それでハンストは引き続き行われた。期間中、チベットの政治と宗 教の指導者ダライ・ラマもハンスト参加者たちを見舞に訪れたが、彼らがダライ・ラマに見えたときの最 初のことばは; 「法王様、けっしてわたしたちにハンストを止めるようにとはおっしゃらないでくださ い。これはチベットのためにわたしたちができる唯一のやり方なのです。」というものであった。それよ り以前、彼らは個人と青年会議の名義でそれぞれダライ・ラマに、以前のようにハンストを中止する命令 を下さないよう請願を出している。こういった行動は以前から多く行われていたが、ダライ・ラマは生命 を大切にするという観点に立ってチベット人たちの行動を抑えてきたのであった。その中にはインド政府 の圧力によって中止せざるを得なかったチベット内地での平和行進活動も含まれている。 ハンスト参加者の身体が日に日に弱まっていくにつれ世界的な関心を引き寄せたが、 インド政府もま たますます中国政府と国連からの圧力を受けることになった。 中国共産党人民解放軍総参謀長の傅全有 (フー・ チュアンヨウ)はチベット人がハンストをしている最中にインドを訪問したのである。 それでハンスト 行動四十八日目に、インド警察は突如行動をおこし、すでに重態に陥っていた三名のチベット人を強制入 院させ、二日目の早朝、本稿の最初に述べたあの一幕が起こったのである。インド人の警官が以前と同じ くチベット人に暴行を加え、ハンスト参加者たちを車にのせて運び去ろうとしたとき、傍らで交替の命令 を待ちうけていた第二隊ハンストメンバーのトゥプテン・ングドゥプ氏は、もはやこれまでと見てとるや 突然焼身自殺を決行したのである。彼はぼうぼうと燃え盛る巨大な炎を引きずりながら群集の中に転がり 込み、走りながらチベット語とヒンディー語で声高く叫んだ。;「ダライ・ラマ万歳!」、「チベットは 必ず勝利する!」といったスローガンを。突然の出来事であったため、チベット人とインド人警官が慌て て燃え盛る炎を消しとめ病院に収容したときには、彼の生命はすでに風前の灯火であった。医師の診断で は火傷が全体の90パーセント以上を占めていた。ダライ・ラマは彼の命がもはや長くないことを知って彼 を見舞うためにすぐに病院に駆けつけた。 ダライ・ラマは記者たちに語ったことの中で指摘している。;「わたしは死に至るようなハンストや焼身 自殺は一種の暴力であると考えています。しかしこれもまた追いつめられたあげくのしかたのないことな のです。久しい以前からのことで、こういった行動はたぶんエスカレートしていくことでしょう。憂慮す べきことです。」 4月29日未明、零時十五分、トゥプテン・ングドゥプ氏はデリーの病院で息を引きとった。彼が残し た遺書には次のように書かれていた。;「わたしはチベット青年会議の今回の活動に心から賛同します。 わたしは心を一つにして六名のチベット人の中に加わりたい。そしてチベット国内の独立を勝ち取る闘争 においてこのように奉仕する機会を得て嬉しく思っており、いささかも悔やんではおりません。法王様の 中庸の道に対するわたしの信頼は揺るぎ無いもので、他のチベット人もこれを支持することを望んでいま す。」 トゥプテン・ングドゥプ氏は1938年、シガツェのギャツォ地方に生まれ、幼くしてタシルンポ寺(パン チェン・ラマ直属の寺院)で僧侶となる。1959年にシッキムを経由してインドに亡命し、その後他のチベ ット人同様、自活していくために道路づくりの大軍に加わり、後にマイソールのチベット人第三居住区に 定住する。1963年3月、チベット人の軍団に加わりインドの東パキスタン(現バングラデシュ)に対する 戦役等に参加、二十三年を軍隊で過ごし、1986年10月に退役してからダラムサラのツェチョリン寺院でコ ックとなる。チベット青年会議が組織したチベットでの平和デモ行進に参加する者の中に名を連ね、かつ 自らの軍人年金等の蓄財をすべてチベット子ども村に寄付した。普段は食を切りつめ倹約して三人のチベ ット人学生の学費を支払い、さらに第一回チベット平和行進に参加したのである。この活動はインド政府 の圧力を受けて途中で挫折したが、その後もインド各地に赴くデモ行進に参加している。インドには身寄 りはなく独身であった。 (人々の思いに耳を傾けなければ) この度の活動において明らかになった人々の献身的精神と矢もたてもたまらぬ思いは、すでに深く亡命 チベット社会に浸透しているものなのである。追悼大会では、青年会議議長の講話に二度熱い拍手が送ら れた。一つは、彼が議会と政府に向かって指摘したことである。;「ハンストその他のチベットのための 献身的活動への参加を申し込んできた人々は非常に多かった。彼らはいつでもチベットのために自らの命 を捧げる覚悟ができていると言ってくれたのだ。カシャ(駐:チベットの内閣)はなぜその人々の気持を 無駄にするのか? カシャは地位や選挙に勝つために表面的にうまくやることばかり考えないで、”行動 を起こして”もらいたい。」もう一つ彼は次のように指摘した。;「我々チベット人には施主に頼るとい う習慣がある。独立の問題においてさえ施主(国際社会の支援)を待っているのだ。しかしこの問題にお いては頼れる施主などいるはずがない。独立は我々一人一人のチベット人が自らの血肉をもって闘い取ら なければならないのだ。」 昨日の葬儀において人々のこうした思いはすでにピークに達し、顔中涙で濡らしたチベット人たちはお 経を唱えながら遺体を荼毘に付した後、そのまま自発的にデモ行進を開始した。ダラムサラのチベット人 たちが感情を激昂させるということは普段めったにないことである。当日は十五人のチベット人が極度の 興奮とショック等の原因で病院に運びこまれた。その中の一人の青年は刃物で自分の胸に“FREE TIBET” と刻み付け、鮮血を滴らせてかつぎこまれたのであった。こういう表現を借りて人々が表した憤懣と“行 動を起こさなければ”ならないという思いは心にしっかりと刻みつけられたのである。そしてこの思いは けっして一時の感情ではなく、長期にわたって蓄積された結果なのである。若者も老人も壮年層も、皆こ の時あたかも共通のことばを見出したかのようであった。日ごろ寡黙な人たちさえ、この日は激昂して演 説を発表したのである。いまやチベット亡命社会はまさに“行動を起こそう”、“もう待てない”という 心の内に深く潜んでいる感情に揺れ動いている最中なのだ。ダライ・ラマはアメリカで記者会見の席上、 こういった動きに憂慮を示し、中庸の道に賛同してチベット問題を解決しようとする人があたかも減少し たかのように指摘したが、もちろんわたしは信じている。ダライ・ラマの指導の下で人々は冷静さをとり もどし、ダライ・ラマの“中庸の道”あるいはその他の、ダライ・ラマが提言する限りにおいてどんな道 でも人々は引き続き支持するであろうということを。しかし問題は、人々が支持しているのはダライ・ラ マであって、彼のうち出している“道”に智慧があるかどうかに至っては、実は彼らにはっきりと識別で きるわけではないのである。このことがまさに不幸の要因なのかもしれない。ダライ・ラマは宗教或いは 政治の指導者というだけでなく、それ以上に無上の智慧を具えた偉大なる人物なのであって、これこそが 最も重要なことなのである。しかし、人々にこの偉大さがはたして理解できるであろうか? 以 上