'99 2.28 up


《北京之春》第68期−64(1999年 1月)より

チベット人は民族自決の権利を有する

−自由アジア放送チベット部主任ンガポ・ジグメ氏単独インタビュー−


安 其(アン・チィ)


  ンガポ・ジグメ氏はその名前からも察せられるように、十七条協定調印で主役を演じ、ダライ・ラマ十四世のインド亡命後はチベットにおいて重要な役割を担ってきたンガポ・ンガワン・ジグメ氏の子息として中華人民共和国成立後の1951年ラサで生まれました。彼の成長期はまさに近代中国の激動の時代であり、荒れ狂う政治運動のさなか漢藏両民族の苦悩を身をもって体験してきたことは、彼をチベット問題解決において特別な使命を受けるに相応しい器につくりあげたとも言えるでしょう。
  今回のインタビューでは中国の対チベット政策の変遷について詳しく語られている点がとくに興味深いものとなっています。

  また、インタビュアーである安其氏の“其”は正しくは「王へんに其」と書きますがJISコードにないためこの字を充てました。ご了承ください。


【目 次】  



  古今を通じて、それぞれの民族にはある時期にその歴史を代表するような人物が登場している。もし、共産党政権のチベットに対する残酷な統治がチベットの精神的指導者であるダライ・ラマを国外亡命へと追いやり、中共の天安門事件鎮圧によって国際社会の一層の関心と連帯を得て、伝統的に“神格化”されてきたダライ・ラマに現代文明の光栄が授けられたというなら、ンガポ・ジグメはこの光輪の下で重要な役割を担っている人物であろう。この歴史的使命感を担った現代のインテリは、宗教に対するが如き敬虔と、その機敏と叡智を以って自らに生命と智恵を与えてくれたチベット民族と漢民族との間で現代文明の火種を振り撒いているのである。

  ンガポ・ジグメは1951年チベットのラサに生まれ、家庭の関係で幼少の頃からよい教育に恵まれてきた。1959年、小学校二年でラサから北京の民族学院付属小学校に転校し、64年には北京第四中学に進学する。“文革”期に出身家庭の影響で、68年内モンゴルの生産隊に入りその地に定住する。彼の人生経験はここに始まるのである。
  1972年、第一期工農兵学生(訳注:文革期の労働者、農民、兵士出身の学生)として内モンゴル師範学院外国語学科に学び、卒業後、西藏師範学院、ラサ中学で教鞭をとった。78年に大学院受験者の募集が再開され、ンガポ・ジグメは北京の中央民族学院(訳注:現在の中央民族大学)大学院に合格し、専らチベット民族史研究に没頭する。82年、修士号を取得すると中央民族学院に残りチベット学研究所の助手研究員になった。1985年には国外留学し、相次いでインド、ネパール、フィリピン、香港等を訪れている。1987年、米国バージニア大学の政治外交学科に入学、国際政治と外交政策を専攻する。
  1990年、ワシントンに本部を置く“国際チベット支援センター”で働くようになり、研究員と政治アナリストを勤めるかたわら、88年から《チベット論壇》の編集を長期にわたって兼任している。

  長年にわたって国家と民族の移り変わりを目の当たりにしてきたことに加え、さらにチベットの歴史と中国の文化に対する深い理解は、ンガポ・ジグメに、愛してやまぬ漢藏両民族の間に開いてしまった隙間を埋め合わせ、中共がつくった深い裂け目に掛け橋を渡すという決心をさせたのであった。こうしてチベット高原の血統と現代文明との橋渡しをすることで、彼は当代まれに見る卓越した天与の才を顕わしたのである。即ち、彼の思考と見通しは多種多様な現行の政治に惑わされることなく、彼の憂慮は民族と国境を超え、政治的な実用目的をも超えて、“中国”を仮想敵とせず“民族”を盾としないで、チベットを様々な政治的争いの場から救い出そうと試みることで、少なくとも、いつも政治の騒々しさの裏で安易に軽視されているチベット人たちのほんとうの思いと彼らの切実な利益−これこそはチベット民族が存在している真の証明である−に人々の注意を向けることができるのである。このことから、彼は反逆者と言うより、むしろまず建設者なのである。
  1996年、ンガポ・ジグメは米国の自由アジア放送チベット部主任となり、チベット向けの放送を担当している。ジャーナリストとして彼は初心に忠実であり、ダライ・ラマ政府とさえ一定の距離を保ち、ジャーナリズムの客観性独立性を守っている。

  先日、わたしは一個人としてワシントンのンガポ・ジグメ氏を訪ね、お話を伺う機会を得た。




−チベット問題が国際化した原因−

安 其: 近年、チベット問題はますます国際化の傾向を見せていますが、その原因はどこにあるのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: チベット問題の国際化は実は早くから始まっており、今世紀初めにはイギリスと帝政ロシアがチベットに介入していました。当時のいわゆる強権的国際政治の観点から言うなら、チベットというこの広大な高原に足場を築きさえすればアジア全域を押さえることができたのです。ロシア皇帝はチベットを支配しようとし、イギリス人はそれを阻もうとしました。その間、ロシアとイギリスが合意したこともありました。即ち、双方ともチベットに手出しせず、チベットの“宗主権”は大清帝国に帰するというものです。こういった大国間の奪い合いはすでに国際化していたのです。しかしこの国際化はその後の数十年、ある時は活発化しまたある時は停滞したりで、西洋はその後ますますチベットにかまけていられなくなり、第一次世界大戦後、彼らはなおさら自分たちのことで精一杯になりました。それで1920年〜30年代には彼らがチベット問題に介入することはまったくなかったのです。
  第二次大戦期間中、連合軍はビルマから中国の戦場へと戦火を移しました。ビルマが日本に占領されて輸送ルートが断ち切られると、連合軍はチベットに道路をつくり戦争物資を輸送することを考えましたが、チベット政府はこれに応じませんでした。というのも当時チベットはかなり保守的で、外部世界からの働きかけに対しては誰であれひどく用心していたのです。とりわけ西洋諸国に対してはなおさらのことでした。当時チベット政府は中立を守ることが多く、大戦参加国のどこにも肩入れしなかったのは、もし道路をつくれば人がやってくるだろうし、そうなれば将来持ちこたえられなくなることを恐れたためでした。話し合いの結果、ついにチベット側は空路を開いて、援助物資を中国の戦場に運ぶことにことに同意しました。
  50年代に中共がチベットに進軍し、59年、チベットに対する全面統治を行うようになって、チベットの最高指導者ダライ・ラマが国外へ逃れると、チベット問題は再び国際的な話題になりました。87年、チベットでは暴動が起こりましたが鎮圧され、89年には比較的大規模な抗議行動があり、これも当局によって軍事管制がしかれました。実は、60〜70年代にもチベットでは同様の抗議や暴動があったのですが、当時中国は外部に開かれておらず、内部でどれほどの騒ぎが起こっても外部には伝わらなかったのです。80年代の改革開放以後、多くの西洋人観光客がチベットを訪れ、テレビやビデオで紹介され、ニュースなどでも報道されるようになりました。こうしてチベットで起こったことがいち早く国際的に取り上げられるようになったのです。ここ数年で、国際世界ではチベット問題に対する関心がますます高まり、その最大のターニングポイントとなったのが89年の天安門事件でした。また、1959年にダライ・ラマが亡命してからそのあとに従って数十万人のチベット人が世界各地に散らばりましたが、チベットの宗教活動も世界各地で展開されるようになり、これが国際社会のチベット問題に対する理解を促したとも言えるでしょう。と同時にダライ・ラマ法王ご自身のイメージが世界中の多くの人々を引き付けていることも重要な原因の一つとなっています。

安 其: 現在の観点から、チベット問題の難しさはいったいどういうところにあるのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: チベット問題はきわめて複雑な問題です。総じて言えば、民族問題、宗教問題、文化の衝突の問題といった大きな問題であり、さらに何よりも政治問題であることです。この点において国際政治の影響も受けているのです。以前チベット人は伝統的にインドとある種の文化的関係もっていた外は、政治の上ではほとんど何の関係もありませんでした。西洋の植民地主義が盛んになってから、インドはイギリスの植民地となり、大英帝国の勢力範囲は拡大しつづけ、西洋の中国に対する門戸開放等の影響力は当時の清朝政府に大きな変化を引き起こしました。清朝は早くからチベットと一種の宗主国的な関係を維持していたので、チベットを完全に統治しようとしたわけではありませんでしたが、西洋列強が進出して清朝の為政者に大きな影響を及ぼすようになったため、チベットという地盤を安定化しておかないならこの地を押えることは困難になるだろうと考えたのです。チベット問題は単純な民族問題、或は他のいかなる問題でもなく、様々な矛盾といろいろな問題の絡み合いなのです。

安 其: ではチベット独立の訴えとはいったいどういうものなのですか? 政治的な表現に過ぎないのでしょうか、或いはほんとうに独立することを求めているのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: チベット独立の訴えもまた多様な意味を持っています。ある意味でははあなたのおっしゃるように一種の政治的な要求であり、またある意味では今の世界の民族独立という潮流でもあります。これもまた政治レベルにおける一種の要求です。さらにもう一つ、文化と民族の心理的なものからくる訴えがあります。
  チベットのような民族は、昔からあの高原に暮らしてきたのであり、外界との接触があったにせよ外部の人間が入ってくるのもチベット高原に住んでいる者が他の土地へ降りていくのも非常に困難なことでした。基本的に自分たちで成り立っていくというタイプの社会だったわけです。しかもこのような広大な高原で自分たち独自のまったくユニークな−世界のどんな文明とも大きくかけ離れている−一連の文化、文明を育んだのです。チベット人は歴史上、中国ともしばしば密接に関わってきました。しかし中国の皇帝たちは今までチベットを支配したことはなく、モンゴル人もチベットを征服しようとしましたが、やって来るとまた去っていきました。ですからチベット人は古来より外部民族に完全に占領されたり統治されたことはなかったのです。中共がチベットを全面的に支配していることは、チベット民族にしてみればまったくたまらない気持ちなのです。


−中共の対チベット政策の変遷−

安 其: 中共がチベットを支配するようになって、チベットに対する政策はどのような発展過程を辿ったのでしょう?

ンガポ・ジグメ: 中共のチベット政策は幾度も変わりました。50年代初期、中共のチベット政策はかなり慎重なもので、毛沢東は当時、チベット問題に対してかなり注意を払い言行の程合いをわきまえていました。59年までは中共のチベットに対するあらゆる政策に毛沢東自ら関わっていたということです。当時、中共のチベット政策は順を追って一歩一歩進められ、きわめて注意深く行われていたのです。
  現在ある人は、香港の一国二制度はチベットに適用できるのではないか、と言っています。実際、チベットは1950年から1959年までの間まさしく一国二制度でした。当時チベットは「祖国の懐に帰る」ということを受け入れ中国の統治を認め、中国政府もまたチベット地方政府を承認し、チベットは従来どおり現行の社会制度を維持し、現行の政府が引き続き政務を行い、ダライ・ラマ制度もそのまま引き継ぐことができたのです。もちろん中国政府も、チベットは一歩一歩民主改革を行わなければならない、と言いましたが、しかしそれはチベットの人民と上層の意思しだいで、彼らが改革を望まないなら遅らせてもよい、というものでした。そういうわけで、この時期チベットの改革はかなり安定したゆとりあるもので、一国二制度だったと言えるでしょう。59年以後、チベットでは“民主改革”が実行され、政策は年々左傾化していきました。これは当時の中国の情勢とも関係があります。57年の“反右派闘争”、58年の“大躍進”、59年には彭徳懐が党の左傾化路線に異議を唱えましたが、政府はさらに左傾化を強めました。この時、まだチベットにはダライ・ラマがいてチベット政府も機能していたので、多少は遠慮しないわけにもいかず、あまり行き過ぎたことはできませんでした。59年以後、ダライ・ラマが追われて亡命しチベット政府も解散すると、何はばかるところもなくなり手をつけ始めたのです。その結果、中国内地で推し進められていた地主追放と農地開放がチベットでも行われるようになり、チベット伝統の社会制度はすべて打ち砕かれ、これに続いてまた文化大革命等が起こったのです。
  80年代初めには改革開放政策が開始されました。80年、チベット視察に訪れた胡燿邦はその現状のあまりのひどさを知って一連の新たな政策を打ち出しましたが、ある政策は実行されたものの手をつけてほどなく止めたものや実行されないものもありました。例えば、胡燿邦が対チベット政策として打ち出した“民力回復”政策は、税金を三年間免除し、その後の状況次第でなお必要とあればさらに免税を考慮するというものでした。さらに彼は、チベットに派遣されている85パーセントの漢族幹部を引き上げさせることを打ち出しました。彼らもチベットにとどまることを望んではおらず、大部分は追いやられて赴任していましたから、こうした政策は皆から歓迎されました。しかし胡燿邦の政策を投降主義だと感じる人々も多く、この政策が実行されて数年後には打ち止めになってしまいまいした。胡燿邦が失脚した時、この事もまた彼の対チベット政策の誤ちとなってしまったのです。

安 其: 胡燿邦はなぜ赴任してまもなくチベット視察を行ったのですか? チベット人の彼に対する印象はどんなものだったのでしょう?

ンガポ・ジグメ: チベット人は胡燿邦の非常に寛大で度量の広い人となりにかなり好印象をもっていました。もちろん胡燿邦のチベット視察の初めの頃は、彼が何をしに来たのか理解しようとしない人たちもいました。それまでにチベットでは小規模な暴動がいくつか起こっていたのです。79年からになりますが、当時中央政府はダライ・ラマ側と接触を保っており、ケ小平はこう考えていました;ダライ・ラマは亡命して国外にありチベットの現状を知らない、チベットでは立ち上がった農奴たちがとっくに解放されたのだ、と。それで彼はダライ・ラマに帰還して現状を見るようにもちかけたのです。ダライ・ラマはすぐに代表団を派遣しました。代表団がまず甘粛省及び青海省のチベット区を訪れると、その一帯の幾千幾万のチベット人たちが拝謁しにやって来て彼らを歓迎しました。当時中央が派遣した同行者たちはみなこの事態に驚愕してさっそく中央に報告しました。代表団がすぐにラサへ向けて出発するために、中央は時を移さずチベット自治区の責任者に、「甘粛と青海ではこういう状況であったがそちらではどうか?事態を押さえきれるか?」と打電しました。自治区の責任者は「問題ありません、こちらの解放されたチベット人農奴たちの自覚は高く亡命した連中には目もくれませんから、彼らに対してどうということもないでしょう」と答えて、中央はようやく安心しました。しかし代表団がラサに到着するや自治区中が沸き立ったのです。当地のチベット人たちは代表団に拝謁するだけでなく、彼らに自分たちの苦境を訴えました。当時わたしは北京におり、こういった状況を耳にしてとても驚きました。こんなことが起こるなんてまったく想ってもみなかったからです。チベットが平定されてすでに二十年たっていたのにチベットの人心の向背という問題は未だ解決されておらず、チベットの民衆はなおダライ・ラマを待ち望み、その心はなおダライ・ラマに向けられていたのです。だからこそ胡燿邦の視察が行われたのです。


−ケ小平はチベットの“一国二制度”を阻み大禍を招いた−

安 其: 先ほどのお話では、49年から59年にかけて相対的に中央の政策は寛容であったということですが、それではなぜ59年の“暴動”が起こったのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: この問題は実のところ非常に複雑なものです。59年の“暴動”はチベット自治区から始まったものではなく、まず四川省、雲南省それに甘粛省、青海省のチベット区から起こったものなのです。どうしてこれらの地域で発生したのでしょうか? これらの地域では53、54年から“民主改革”(訳注:封建的社会制度からの解放を意味し具体的には土地、婚姻制度等の改革、及び農奴解放を指す)が実行されました。
  この問題においては当時中共指導部内に意見の相違があり、後に毛沢東も言っていることですが、チベット改革問題において毛沢東と李維漢は保守派であり、ケ小平と李井泉は急進派でした。ケ小平と李井泉は甘粛青海のチベット区に民主改革を推し進めようと極めて力を入れていましたが、毛沢東はむしろ慎重で、これらの地域にすぐに民主改革をすすめることにはけっして賛成していませんでした。第一に、これらの地域で民主改革を押し進めたならチベット自治区の安定に影響を及ぼしかねない。第二に、そうなれば中国のインドとの関係に影響が出る。50年代、中印関係は非常に良好で、インドの首相ネルーは中国に対してとても友好的で、この東洋の老大国が手を携えて共に西洋の植民地主義に反対するなら、全世界の帝国主義と植民地主義に対抗する新興勢力の代表になる、と考えていたのです。
  ケ小平は後に香港に一国二制度を打ち出しますが、しかし50年代、彼はチベットの一国二制度に最も強く反対したのでした。この事は誰も取り上げていませんが根拠はあるのです。ケ小平は当時、甘粛、青海、四川省のチベット区にまず民主改革を行うことを打ち出しました。民主改革が行われるや、それら地域の寺という寺はことごとく改革されました。寺はチベット人の伝統的な社会生活の中で非常に重要な役割を占めていました。寺は宗教的な中心であるばかりでなく、経済の中心でありまた交通の中心でもあったのです。寺はチベット人にとって精神的な導きを行うばかりでなく教育センターの役割も果たしており、人々はみな寺に来て教育を受けたのです。多くの寺は自分たちの土地と荘園を所有していましたから、これらの土地が改革でなくなってしまうとたくさんの住職たちが打撃を受けました。かくしてこれら地域で大規模な抵抗を引き起こすことになったのです。抵抗するや鎮圧され、鎮圧されればこんどは山にこもってゲリラ戦に出たのです。この地域のチベット人はみな、荒々しい気性で銃を帯び村と村で常にけんかの絶えないことで知られるカムパです。もちろん解放軍は彼らの敵う相手ではなく、すぐにチベット自治区方面へ逃れて行きました。

  中国政府は十七条協定で、チベットでは民主改革は行わないと言っています。そのチベットとはチベット自治区を指しておりその他のチベット区域を含んでいません。しかしチベット人の伝統的概念においては、チベットといえばこれらのチベット区域も含んでいるのです。川向こうもこちら側も行政区域としては分けられますが、しかしみな一つの家族です。兄弟が川向こうにいてわたしたちがこちら側にいるとして、わたしが殴られたらもちろん川向こうに逃げます。みな同じ民族、宗教、文化、伝統習慣なのです。どうして向こう側に影響が及ばないことがありましょう。その後事態はますますひどくなり、57、58年になると、四川、雲南、甘粛、青海一帯で叛乱が起こり始め、鎮圧されるとチベット自治区に逃れたのです。おそらく数十万人にのぼる武装難民が自治区へ逃げ込んだでしょう。

安 其: 国際的な介入はどのように役立ったのでしょう?

ンガポ・ジグメ: 国際的な介入もありましたがまったく役に立ちませんでした。アメリカのCIAが訓練したという特殊部隊が空から潜入しましたが、ほぼ全員捕まってしまい何の効果もありませんでした。主なものはやはり内部で自然発生した叛乱で、しまいにはますます抑えきれなくなり、結果として59年の大禍を招いたのです。

安 其: 59年の鎮圧に関するデータで詳細な統計が出されたことがありますか?

ンガポ・ジグメ: いいえ、データは混乱したものです。チベットでは60年代に辺境のゲリラ隊が解放軍の軍用車から公文書を奪ったことがあり、そこに叛乱が平定されるまでの間、八十九万人を殺害したとあるそうです。わたしはその文書を見たことはありませんが彼らが出版した写真を見ました。中国側は終始この方面のいかなるデータも出していません。亡命政府が後に出した死亡者数では百万人、また百二十万人とも言っています。もちろんその数字には、中国の軍隊に殺害された人たちだけではなく非自然死、及び自然災害に遭ったり飢え死にした人と中共統治下で様々な原因によって亡くなった人たちも含まれています。人口比率から計算するとこの数字はあまりにも多すぎるので、わたしは今まで保留にしてきました。わたし個人としては、チベット全域−ウ、ツァン、カムのチベット三区を含めて、三、四十万人くらいであったろうと推測しています。


−中央政府は金銭でチベット経済を歪めた−

安 其: ある人は、ケ小平は金でチベットの安定を買う政策を行った、と言っています。チベットには毎年十数億元もの大金がつぎ込まれていますからね。こういった情況はチベット人の意識変化を促しているのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: 80年代後期、とくに90年以後、ケ小平の政治における周到な支配がかなり明確に顕れてきました。その一方で、物質面での優遇が図られました。たとえばチベット自治区の現在の財政収支は90パーセント以上が中央政府からの割当金です。つまり、政府の毎年の予算収支は税金を徴収してこれに充てるのではなく、直接中央から割り当てられたもので、中央がチベット自治区を養っているに等しいのです。80年代初期、グラウンド、ホテル、大型発電所等の数十項の大規模プロジェクトが実行され、中央は多額の資金をつぎ込み、チベットにとってその影響は確かに大きなものでした。しかし経済における投資が大規模化するにつれてチベットの経済は偏って発展してしまったのです。というのも、もともとの基礎の上に自ずと発展形成され自分たちで市場を有し生産するという健全なものではなく、中央からの資金援助をただあてにするだけのものだからです。もし中央の資金援助がなければチベット全域の経済は麻痺してしまい、多くの人が食べていかれなくなってしまいます。しかも、金銭援助というこの方法はただ一部分の人々を富ませるだけで、社会においてあらゆる人が平均的に利を得るというものではありません。とくに農牧民や辺境の農民はおいてけぼりのままです。同時に、中央が金銭的援助を行うようになって内地からのたくさんの移民を養う結果となり、経済的な利益の多くは彼らが得て、チベットの民衆がその恩恵にあずかることはあまりありません。チベットから来た人たちと話してわかったことですが、ほとんどの人からこうした答えが返ってきました。チベット経済の偏った発展は一部の人たちを拝金主義にし、経済の勢いは道徳を腐敗させ、チベット民族の文化さえもその影響を受けているのです。

安 其: 近代化や発展ということ自体がチベットの宗教や言語にある程度の影響を及ぼすのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: 近代化、商業化の影響は相当にひどいものです。もし共産党のこの方面における政策が適切なものであれば、チベットの宗教文化が受けた影響もそれほど大きくはなかったでしょう。チベット文化には保守的な部分もありますが、かなり開放的な一面もあるのです。チベット文化は包容力に富んでいるので外来文化を吸収しやすく、それら外から入ってくるものを自らの中に包み込む性質があるのです。仏教はまさに外来文化から採り入れ吸収してきたものです。共産党がこの点で保護政策をとっていたなら、近代化の影響は避けられなかったにしてもそれほど破壊的なものにはならなかったでしょう。

安 其: 共産党は90年代、チベットの多くの寺院を修復したのではありませんか?

ンガポ・ジグメ: わたしは85年以来帰国していません。《人民日報》によれば、共産党は90年代に千七百個所のお寺を修復し相当のお金を費やしたということです。しかし多くの人たちは共産党の宣伝を信じてはいません。というのも共産党はすべてを明らかにしてはいないからです。例えば、いくらいくらかけてポタラ宮を修復したと言いますが、どうして修復しなければならなかったかということには触れません。1959年の共産党による砲火でポタラ宮が破壊されたとは言わないのです。また文革中、毛沢東が深く洞窟を掘って食糧を貯め込んだ時、ポタラ宮の建つ丘の麓にも穴を掘り、建物の基礎をまるっきり壊してしまったのですが、このことについてもまったく触れていませんでした。

安 其: チベットの言語と文化の継承という問題について、多くのチベット人たちはみな心配しており、チベットという民族が歴史の上から消え去るのではないかと危惧しています。彼らの心配には根拠があるのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: あります。しかしチベットという民族はそんなに簡単には消え去らないと思います。というのも、チベットは非常に古くからある民族で、自らの文化、宗教を有し比較的保守的な一面もありますから、それほど簡単に完全消滅してしまうことはありえません。しかし、現在受けている影響は非常に大きなものです。チベットは数百万人、内地は十二億の人口、千分の一の比率から見ればチベット人を呑み尽くすこともできるでしょう。

安 其: 西側のメディアは、中共はチベットに対して植民地政策をとっていると言っています。この事についてどうお考えになりますか?

ンガポ・ジグメ: チベット自治区については、いまのところ内地からの大量の移民はありません。しかし、四川、雲南、甘粛、青海などのチベット区域ではすでに民族構成に大きな変化が顕れており、四十年前とはまるで違ってきています。例えば、青海には六つのチベット族自治州があり、二つの自治州では現在チベット人が85パーセントという大多数を占めています。もう二つはだいたいチベット人が65パーセント。のこる二ヶ所の自治州ではすでに漢人が大多数を占めており、そのうちの一つでは80パーセントが漢人です。中央の政策では今のところあからさまな植民地政策というものはありませんが、しかしこの五年間に内地の人間がかなりたくさんチベット自治区へ商売や仕事にやって来て、様々な特典に与っているのです。もちろんこういった人たちも多くはチベットに留まりたいどころか帰りたいのですが、帰りたくないと思っている人たちもたくさんいます。帰郷してもそれほどお金を稼げるわけではなし、チベットほど簡単に稼げるところは他にないのです。来たばかりの頃はおそらく不慣れであっても、住んでいるうちに慣れてきます。こういう人はこれからどんどん増えてくるでしょう。それに、チベットは長年にわたって入ってくる人ばかりで出て行く人はほとんどいませんでした。今のところはそれほど人は多くないようですし、発展の勢いもちょっと見ただけではわかりませんが、もしこのまま五十年も続けば、たぶんまったく様変わりしてしまうことでしょう。その時には問題も大きくなっています。


−共産党に“邪悪な者とされたチベット”−

安 其: 海外でチベット問題について話し合うとき、話題の的となるのは漢族とチベット族の衝突の問題です。聞くところでは、実際ほとんどの漢人は、宗教に対する畏敬という点からチベット人に対して感情の上では近いとはいえ、チベットのことを理解していません。漢藏両民族衝突は何に起因しているとお考えですか?

ンガポ・ジグメ: 実は歴史的伝統の上では、漢族とチベット族の間に何らの衝突もありませんでした。さらにチベット人は漢民族を非常に高度の文明をもっているということで終始敬服し尊敬していたのでした。吐蕃の王が文成公主(訳注:唐太宗の皇女)を娶ろうとしたのはまさに大唐帝国の文化、文明に憧れたからであり、文成公主を妻とすることが自分の光栄であると思ったからでした。それにチベット人は漢族の文化から多くのもの学んでいます。例えば、チベット人がやっている食堂ではその料理の多くが中華料理の応用ですし、チベットの野菜の名称はジャガイモとエンドウがチベット名である以外、白菜、大根、にら、芹菜等、90パーセントが漢族の名称をそのまま使っています。ですから、歴史的にはチベット人は漢民族に対してなんら本気で衝突するとか恨みを抱くといったことはありませんでした。
  もちろん唐朝とチベットの間に最初の戦があったことも確かですが、それは仕掛けられればやり返すというというものでどちらにも責任があり、しかもチベット側の侵略性のほうがやや強かったのです。また仲の良かった時期も多くありました。明朝の頃などは、チベットのラマたちが我も我もと北京に上ったのです。なぜかと言えば、当時の明朝の皇帝は彼らにたくさんの贈り物をしたからです。それもわずかなものではありません。チベットのラマたちが満杯になった車を連ねて北京からチベットへ引いていくほどのものでした。それで彼らは特に喜んで北京の皇帝の元に挨拶に訪れたのです。そのため明の朝廷は、あまり来てもらっても困るので「年に一度だけ来朝すればよろしい」と指示を出したほどでした。
  漢族とチベット族との衝突は清朝に始まったことです。清朝政府がチベットに派遣した駐藏大臣はチベットで兵を動かし、清朝末期にはチベットの辺境で土地改革を行い、チベット人たちの生活区域を完全に破壊して彼らに漢字の姓を押し付けたのです。満州族の清朝がもたらしたこのような民族間の衝突で、チベット人は、満州人であれ漢人であれどっちみちみな中国人なのだ、とみなすようになったのです。

安 其: どうして現在、民族間の対立がこんなにも激しいのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: 共産党の政策が民族対立を激化させたのだ、と言えるでしょう。国民党はチベット本土を統治したことはなく、辺境のチベット区に対しては現地の部落長を通して間接的に治めていました。共産党が入ってきてから、チベットはまったく完全に歴史上はじめて外部民族による統治を受けるようになったのです。共産党は大々的にチベットの民族文化を破壊し、ダライ・ラマと数十万人のチベット難民がインドへ逃れるという事態を引き起こしました。これはまったくチベットの歴史始まって以来の出来事でした。

安 其: ずっと伺いたいと思っていたのですが、共産党が宣伝しているチベットは、わたしたちが子どもの頃見た《農奴》という映画に描かれています。その映画の中で、地主が自分の農奴チャンパに残酷な仕打ちを加えているのですが、ほんとうにそんなことがあったのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: 共産党のチベットについての宣伝の中で、59年から始まったものの多くはみな偽りです。現在、アメリカは“中国を邪悪視している”と言う人がいますが、実は、共産党はとっくに“チベットを邪悪視”していたのです。最近、「中共は三十年間チベットを邪悪視してきた」と語った論文が出ましたが、まさにそのとおりです。かつて言われてきた生皮を剥がすとか、眼球や頭蓋骨を抉り出すとか、さらには子どもを寺の塀の隅に生き埋めにするとか、そんなことはまったくありません。生皮を剥がすとか眼球を抉るといったことは絶対になかったというわけではなく、百年に一度か二度はあったでしょうが、いずれの場合も私刑です。似たような私刑はどの社会にもあります。このように追求するなら、どんな社会、民族にもこういった残酷なことはあるものです。漢人はつい最近まで女の子の纏足、男の子の去勢ということを行っていました。共産党は、チベットを最も野蛮で未開で愚昧な暗黒社会としたのです。このような宣伝を内地の人たちが耳にしたらどうなるでしょうか? 今日に至るまで多くの漢人が、チベットといえばまず野蛮さ、残酷さを連想するのです。


−チベット人に自決の権利があることを認めよ−

安 其: チベット伝統の宗教制度をどう思われますか?

ンガポ・ジグメ: かつてのチベットの僧侶制度は政教一致制で、決してよい制度とは言えず、ヨーロッパ中世の情況によく似たものでした。こういった神権政治、政教一致制はおそらく歴史においてなんらかの効果を発揮したことがあるのかもしれません。しかしこんにちの世界においてはすでにあまりにも時代遅れで、改めなければならないものです。チベットの活仏転生制度も改変しなければならないものでしょう。この制度は多くの問題をはらんでいるからです。この点でダライ・ラマもいろいろお考えをお持ちのようで、もしかすると自分が最後のダライ・ラマとなるかもしれない、と語られ、これからのダライ・ラマをいったいどうするのか、必要なのか不要なのか、、ダライ・ラマ制度は選挙を通して選出する方法をとるべきで、人々が自ら決定すべきものではないか、ともおっしゃっておられます。さらに、チベット人の寺院建立にかける執念があります。たくさんの人がラマ僧や尼僧になりたがり、一生かかって蓄えた蓄財もみなお寺に寄進してしまうのです。そうすればよい来世に生まれ変われると信じているからです。こういう人たちはとくにかわいそうです。この蓄財を生活のために役立ててもいいし家を建ててもいいのに、どうして寺に寄進しないと気が済まないのでしょうか? こういった点で確かに大きな変革が必要なのです。もちろんすぐにできるということではありませんが、少しずつ変えていかなければなりません。宗教というものは人類が生まれて以来、人の思いの中にいつも存在してきたものです。マルクス主義を信じていようと科学を信奉していようと、心の飢え渇きというものが常にあるのです。

安 其: ダライ・ラマは早くから政教分離の問題に触れていますが、しかし彼一人で決められる問題ではないようですね。例えば、ダライ・ラマはチベットにおける高度の自治を主張していますが、チベットには独立を主張している人たちもいます。現在チベット人のダライ・ラマに対する連帯意識はどの程度のものとお考えですか?

ンガポ・ジグメ: チベット人のダライ・ラマに対する連帯意識は非常に高いもので、チベットでは広範囲にわたって人々の中で比類ない信望を集めています。しかしこの四十数年の間に、中共もまたチベットにおいて多くのチベット人を育ててきました。こういった人たちがどの程度ダライ・ラマに従っていくかということも問題です。ダライ・ラマがおっしゃっておられる問題、例えばダライ・ラマ制度をチベットの多くの人々に決定してもらう等々ということに至っては、彼らがそれを受け入れるかどうか、わたしにははっきりしたことは言えません。ダライ・ラマ制度は歴史の中で生まれ、歴史の中で受け継がれてきたもので、チベットの遺産なのです。ですから、このことはダライ・ラマ制度の問題というだけにとどまらず、チベット民族全体の歴史的遺産の問題でもあるのです。わたしたちがどのように受け止めるか、どのように受け継いでいくか、受け継いでいく課程において現代の各民族のそれぞれ異なった文化をいかに排除することなく新しいものを吸収し、旧来の伝統にある良いもの悪いものをはっきり見分けていくか、これはチベット民族が直面している非常に重大な課題です。この挑戦に応じられるかどうか、これは大きな試練です。

安 其: 民族自決という方法はチベット問題に適用できるのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: 民族自決は民族問題を解決する上でとても重要な原則であり、民族抑圧を避けるには比較的理に適った解決方法です。この民族自決の権利があるからこそ、弱小民族は自らが当然有すべき権益を勝ち取り保持していくことができるのであって、宗主国であれ大きな勢力を持つ民族であれ、完全に意のままに弱小民族を抑圧することは不可能であり、小民族に対応してかなり慎重にその利益と権益を尊重するでしょう。さもなければ弱小民族は離れていってしまいます。民族自決というものは一種のバランスコントロールの方法なのです。民族自決が提起しているものはまさにこういった想定に基づくものであり、武力や強権に関わることなく民意を汲み取る方法で民族間の衝突を解決するということです。もちろん具体的に実行していくにあたって、民族自決といっても何を決めるのか?ということでそれぞれちがったやり方が出てくるでしょう。しかし一つの原則として、民族自決の原則はチベット問題にとっても適用できるものです。
  チベット民族は、その歴史、伝統、民族文化、特徴からいって絶対に民族自決の権利を有しています。チベット人にこの権利があることをまず認めなければなりません。彼らがどんな決定をするかについては、また別の問題です。民族自決の権利を認めてから、未来の中国の指導者でもチベットの指導者でも、各方面の利害、中国の利益、チベットの利益を考慮しなければなりません。チベットが中国のもとに留まっても留まらなくても、いずれにしても話し合いはできます。わたしはまず基本的な連帯意識をもつべきであると思っているのです。

安 其: 海外の亡命政府や亡命チベット人たちはチベットの発展にとってどんな役割を果たすことができるでしょうか?

ンガポ・ジグメ: 海外の亡命活動は今までのチベットの伝統を引き継ぎつつ将来の発展への道を開いていくことができる、とわたしは考えています、即ち、彼らは伝統を継承し守っていくと同時に、外の世界からもよいものを学び取りさらにそれを普及させていく、というマスメディア的役割を果たすことができます。しかし真の主役はこういった海外のチベット人ではなく、その大部分がチベット内地に生活しているチベット人たちなのです。


−チベット民族が公正な待遇を得られるように−

安 其: この過程においてあなたご自身が果たされる役割とはどのようなことでしょうか?

ンガポ・ジグメ: わたしの仕事は、チベット民族が公正な待遇を得られるよう努力すること、チベットの権利を尊重するように働きかけることです。これまでの経歴と受けてきた教育によって、わたしにはチベットの歴史、チベット人の心の動きがよくわかると同時に、中国文化にも引かれ、それを心から愛しており、中華民族をとてもすばらしい民族だと思っています。たとえ彼らに多くの欠点があり多くの困難を経てきたにせよ、彼らは悠久の歴史をもつ民族であり、また将来性のある民族なのです。ある方面においてはもしかすると漢藏両民族間の交流を促進することができるのではないか、両民族の掛け橋となって相互のつながりをつけることに役立てるのではないかと思っています。

安 其: あなたは現在、チベット向けの放送を担当されていますが、その主な目的はなんですか?

ンガポ・ジグメ: チベットには報道の自由がなく情報もないので、それでわたしたちは正確で客観的公正な情報やニュースを提供しているのです。チベットではこの数年、情報取得という点である程度の進歩が見られましたが、実際にはなんらの報道の自由もありません。人々が外の世界を知ることはかなり制限されており、チベット内部のことについても報道規制があるため放送されることはめったにありません。わたしたちの放送を通して人々にイデオロギーで歪められたものではない正確で客観的公正な報道を提供していけたら、と望んでいます。

安 其: 情報はどうやって手に入れているのですか?

ンガポ・ジグメ: 大手通信社のニュースを含む各方面の情報がすべてそろっています。わたしたちのところには主にインドから来たチベット人レポーターが数名おります。チベット内地にレポーターのネットワークをつくりたいと思っていますが、難しいですね。電話さえうまくかからないことがあります。

安 其: ジャーナリストとして、西側で主流となっているチベット問題のとらえ方、扱い方をどのように評価されますか?

ンガポ・ジグメ: わたしの見たところでは、西側の主要な社会でチベット問題を話題にすることはさほど多くないようで、近年に至ってようやく増え始めた感があります。一般的にいえば、西側の主な社会では、チベットの自由、民族自決、自分たちの文化、伝統、宗教を保持していこうとする努力に対しておおよそ同情的です。もちろん西側社会のチベットについての理解の程度もまちまちで、具体的な状況についてはっきり理解しているとは言えません。

安 其: チベット問題について西側が言っていることと中国側の宣伝はいずれも真実を欠いている、と言う人もいますが、ほんとうでしょうか?

ンガポ・ジグメ: そういうことはあります。表面的なこともわりと多いですが。その他、亡命チベット人たちの宣伝工作もかなりのもので、西側の報道はどちらかといえば亡命チベット人側の宣伝に偏っています。というのも中共はあまり信望がないので、多くの人はその宣伝を信じていないのです。チベット亡命政府の宣伝もある面において多くの問題があるとわたしは考えています。西側の報道は本質的にはむしろより真実を追求していくことを目指しており、故意に事実を曲げて報道することはありません。しかし彼らも多くの規制を受けており、今のところ中共は、チベットにおける西側メディアの取材や調査をほとんど受け入れていません。西側のジャーナリトたちは中国大陸の他のほとんどの地域へ行けるのに、ただチベットへ行くことだけは規制されているのです。こうして西側メディアがチベットについて正確で全体的客観的な報道を行うことが制約されてしまうのです。

安 其: 先ごろチベットに関する映画《セブンイヤーズ・イン・チベット》が上映されて波紋を投じましたが、その中に宗教に関する細かい部分やンガポ・ンガワン・ジグメの描き方について真実を欠いている部分がありました。あなたはこの映画をどう思われますか?

ンガポ・ジグメ: これはあまりにもお粗末な宣伝映画です。あまりにも粗雑で嘘だらけです。史実に基づく映画ということですがそこに描かれている多くは架空のものです。フィクションとノンフィクションが入り乱れたひどくいいかげんなもので、その手法は卑劣で多くの状況が実際とは異なっており、ほとんど歴史的事実を無視しています。例えば、原作者のハーラーが解放軍のチベット侵攻を目の当たりにしどんなに残酷であったかなどと語っていますが、実は彼は解放軍を見たこともなく、解放軍がラサに侵攻する以前に彼はラサを離れているのです。彼の原作にもそんな内容はありません。原作と映画さえも違っているのです。


以 上


ホームへ このページの表紙へ このページのトップへ