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《北京之春》第69期−93(1999年 2月)より

中共とダライ・ラマとの対話に寄せて



徐 明旭(シュ・ミンシュ)


  先に中国とダライ・ラマ政府との対話の可能性についての討論番組を掲載しましたが、今回は引き続き中国側を代表する意見を一つご紹介したいと思います。

  相互理解ということ以前にまず自国の権益を主張したいのはどこも同じことですが、中国の場合、チベット独立運動に対する批判は国家の分裂に対する懸念であり、さらには西欧列強に侵食され半殖民地化されたという近代史とも無縁ではないようです。
  チベット側から問題を見つめる機会は比較的多いわたしたちですが、中国側から考えるとまた違った問題も出てくるものです。まずは先入観を捨てて著者の話に耳を傾けてみましょう。


【目 次】  



一、 中共はなぜダライ・ラマと対話しないのか?


  今年(1998年)6月27日、クリントン大統領は北京で江沢民主席との共同記者会見の席上、中国政府にダライ・ラマと話し合いをするよう要求し、中共とダライの双方に圧力を加えた。最近では中共はダライとの接触を試みているようであるが、いまだに正式な対話の兆しはないようである。

  中共は、1979年3月、自ら提案してダライの兄ギャロ・トゥンドゥプを北京に招きケ小平に引き合わせて以来、ダライ側との折衝を十四年間続けてきたが、1993年8月、“チベット亡命政府”によって中断された。話し合いが実を結ばなかった根本原因は、中共がチベットを中国の不可分の領土とするよう要求し、ダライがこれを拒絶したことにある。
  彼は、1987年及び88年に提案した《チベットに関する五項目和平案》と《ストラスブール提案》で中国に軍隊の撤退と求め、中共はこれを“形を変えた独立”(実際そのとおりである)と考えた。1991年にバルト三国が独立すると、それに勢いを得たダライは先述の提案を撤回すると発表し、断固として完全な独立を要求し、さらに新疆と内モンゴルにも呼応するよう呼びかけた。中共はなおもチベット側と話し合いを続けていたが、1993年8月11日、ダライは突然談話を発表し、「いままで“独立”を求めたことはなくただ“自治”を求めてきた。チベットの国防と外交は今までどおり中国が管轄し、チベットは“一国二制度”を実行し…」FONT COLOR="DARKGREEN">(同日のUPIニューデリー支局電より)と語った。聞いた感じではあたかも中共の条件を受け入れているかのようである。まさにこの時、“チベット亡命政府”は自ら話し合いを打ち切ったのである。
  話し合いを台無しにしたのは亡命チベット人の少壮グループによってコントロールされた“チベット亡命政府”である。彼らは、ダライがチベットを中国の一部分であると認め中共と妥協するのを恐れたがために、ダライの態度が軟化するやたちまち話し合いを打ち切り、ダライも為す術がなかったのであった。ダライは1959年以来、全力を注いで亡命チベット人たちに中国を憎むよう教育し独立を求めてきたのであったが、いまや彼自らがその教育を受けた亡命チベット人の人質になっているのだ。これ以後、ダライは何度も、「自分は独立を求めているのではなく、ただ自治を求めている」と声明を出し、中共との話し合いを求めている。中共は常に、「チベットが中国の一部であることを前提とする」と答え、これに対しダライは、「 “無条件の話し合い"という線で、チベットが中国の一部であるとは認めない」(新華社1997年11月4日電:“ダライ、北京の交渉条件を拒絶”)と譲らず、そのためいまだ話し合いを持つに至っていないのである。

  国連と世界のあらゆる国々はみな、チベットは中国の一部分であることを認めている。これは何人たりとも否認できない法的事実なのである。中共がダライにこの法的事実を認めさせようとすることは、まったく国際法の求めるところにかなったものである。江沢民が先の記者会見の席上でこの点を再度申し述べると、クリントンはすかさずこう言った:「わたしはチベットが中国の一部分であり、中国の自治区の一つであるということに異存はない。この点を認めることがなぜダライ・ラマと対話を始めるに当たってまず必要な条件でなければならないのかということも理解できる」と。 6月29日“チベット亡命政府”は、一方ではダライの「独立を求めない」ことを受け入れ、さらにもう一方で断固として中国政府との “無条件の話し合い”(“チベット亡命政府”刊《チベット通信》1998年7,8月号)を要求した。彼らがクリントンでさえも賛同したことを受け入れなかったことは、国際法とクリントン大統領を無視し、話し合おうという誠意がまったくないことを表しているのである。

  ダライ側は「独立ではなくただ自治を求める」と言いながらチベットが中国の一部分であることを認めない。これは自己矛盾というものだ。アメリカの政治学の教科書は、「自治の前提は中央政府の自治区に対する主権を認めることである」と指摘し、《合衆国政府政治学辞典》には、「自治は独立より低いレベルのもので、一つの主権国家に属するある地区がある程度の内政管理の権限を有するものである」とある。ダライが中国のチベットに対する主権を認めない以上は、彼らが言うところの自治とは実は形を変えただけの独立にすぎないということである。ダライの弟テンジン・ツォギャルはフランス人記者の取材を受けて、ダライの策略を暴露してしまった。「われわれはまず自治を求め、それから中国人を追い出す!イギリス人がインドから追い出されたように!…自治は必ずや現実となるだろう。」(《チベットの生と死》時報出版 台湾 1994年) ダライは、まずチベットが中国の一部であることを認めないままチベットに戻り“自治”に着手し、落ち着いた頃を見計らって独立を宣言し、1959年の出来事を再現する腹積もりなのだ。中共がダライと話し合いをもてない根本的な原因がここにある。ダライ側がなにものをも恐れないのは、西側の一部勢力がその後ろ盾になっているからである。



二、 民族自決の二重の基準


  冷戦の時代にはチベット問題は西側の中共攻撃の一翼を担っていた。1950年、中共がチベットに進軍したとき、西側にコントロールされていた国連は、国際法に妨げられて敢えて干渉しようとはせず、ダライは《十七条協定》を無理やり受け入れさせられた。1959年にダライが亡命すると、国連は第1353号決議を以ってチベットの人権を侵害したとして中共を譴責し、1961年には第1723号決議を採択してチベットに自決の権利を与えるよう中共に求めた。
  後者は、1960年に国連が採択した《植民地の国と国民に独立を与えることについての普遍的宣言》に基づいている。しかしながらこの宣言自身、自己矛盾している。この宣言の第二条には、「すべての人民は自決の権利を有する」と言いながら、第六条では、「主権国家は分裂してはならない」と言い、第七条では、「主権国家の内政に干渉してはならない」とも言っている。西側列強は自分たちの都合に合わせて、これを引用するかと思えばあれを引用するという具合に、二重の基準をつくりあげているのだ。たとえば彼らは、チベットの独立を支持するときには“すべての人民は自決の権利を有する”という部分を引用し、ボスニアのセルビア人独立を禁じようとして“主権国家は分裂してはならない”という一文を引用するのだ。
  アメリカ南部が独立を宣言したとき、リンカーン大統領はいささかもためらうことなくこれを武力で鎮圧した。リンカーン・メモリアルホールの壁には銘文が刻まれており、そこにはアメリカ国民がリンカーンを記念する唯一の理由が挙げられている。すなわち“彼は国家の統一を守った”と。しかし“黒人奴隷を解放した”とは未だに一言も刻まれていないのである。これを見れば、アメリカ人とて“国家の統一”を“自由”や“人権”より重視していたということがわかる。それならばなぜ中国政府に国家の統一を守る権利がないわけがあろうか? 昨年(1997年)アメリカではまたも“テキサス共和国”事件といったものが起こっている。アメリカ政府はこれに対して躊躇することなく武力鎮圧を行ったのだ。どうして中国政府にチベット独立運動を鎮圧する権利がないと言えるのだろうか?

  西側列強は、チベット問題で“自決”と“人権”(自決の代名詞)を振りかざし大騒ぎするわりには、いままで他の地域で起こっている自決の問題をないがしろにしている。イギリスの北アイルランド、スコットランド、ウェールズ、フランスのコルシカ島、バスク、ブリタニア、スペインのバスク、カタルーニヤ、インドのカシミールとシーク教徒、トルコとイラクのクルド人、スリランカのタミール人、キプロスのトルコ人、ウクライナ内にあるクリミア共和国、グルジヤのアブハズ人、モルドバの沿ドニエストル共和国、ロシアのチェチェン、アゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州などの自決のみならず、ユーゴスラビアのコソヴォ問題でさえ支持していないのだ。これが二重の基準でなくてなんだというのだろう?(“支持しない”という意味は、国連と西側列強の議会がチベット問題において行ってきたように、いままで決議を通してこうした国々に少数民族の自決を要求してこなかったということである。)



三、 人権問題の“Catch22”


  “Catch22”とはアメリカ英語のイディオムで、アメリカ人作家ジョゼフ・ハラー(Joseph Heller)の同名小説に由来している。中国語訳のタイトルは《第二十二条軍規》で、いわば「経験がないので仕事にありつけず、仕事に就けないからいつまでたっても経験を積めない」というような永遠に解決の可能性のないジレンマ状態を指している。

  1987年、アメリカの下院議会で可決された《中華人民共和国のチベットにおける人権侵害に関する修正案》第七条701項には−“(四)チベット人はその生活水準、衛生及び福祉においていずれも中国の他の地区に比べはるかに劣っている”、“(五)チベット人及びその他の有識者たちは、中国がチベットへの移民を奨励することでその政治、経済、文化にもたらす影響を懸念している”と議会が問題にしたことを取り上げている。この二項目をそれぞれ単独で取り上げるならいずれももっともなことであるが、これを一緒に取り沙汰するというのは大まちがいである。それというのも、まさにチベットの生活水準、衛生、福祉が後れているが故に、中共は大勢の技師、経済管理者、科学および文化の専門研究員、教員、医師や看護婦、その他開発援助人員をチベットに派遣し、チベット人たちを現代文明の恩恵に浴させるために病院、学校、発電所、送電設備、テレビ局、放送施設をつくり、放送網、道路、空港、商店、映画館、郵便局、銀行、アパート、給水施設、上下水道などを整備しているのである。その結果が、“大量移民”、“漢人によってチベット人を覆い尽くす”、“チベット族殲滅の陰謀”(1987年、ダライが行った米国議会人権委員会での講演)などと言われたのだ。アメリカの議員の方々は明らかに、中共が全チベット人ひとりひとりに、「電気、テレビ、映画、病院、学校、車、飛行機…」と欲しいものをただ一声言いさえすればそれらのものが自動的に出てくるような“アラジンの魔法のランプ”を与え、人をチベットに派遣しないよう望んでいるのである。しかし惜しいことには《アラビアンナイト》の時代が過ぎ去ってからというもの、イラクはもう“魔法のランプ”をつくることなく、中共も輸入しておらず自らつくることもできないので、ただ人をチベットに派遣して土木工事を行うほかないのである。それで“チベット族殲滅の陰謀”などと非難されるのだ。もしそうしないなら、また“民族差別”−チベット人をこんなに貧しく後れた状態に追いやった−と非難され、どんなにしても“人権侵害”の汚名は免れ得ないのだ。これがつまり“Catch22”ということである。

  またアメリカ国務省が1997年の《チベット人権報告》でも認めているように、中共は巨費を投じてチベット人の生活水準を高めた−先に挙げた米国議会の決議第(四)条に基づくなら当然チベットの人権を尊重した善い行いであるはずなのだが−ところがその報告はむしろ話の鉾先を変え、「中共はチベットの一部社会を近代化しチベットの伝統的生活様式を変え、チベット独特の文化を打ち壊してしまった」と言うのである。またしても“Catch22”なのだ。ならばあたりまえではないか! チベット人は以前、バター灯明を点し牛糞を燃料にしていたのだ。いまや電灯が点きガスコンロを使っている。以前はなかったテレビ、映画、電話、電灯、近代的な病院と学校、水道、自動車、飛行機…といったものも今はあるのだから、チベットの文化を滅ぼして伝統的生活様式を変えたとも言えるだろう。アメリカ映画《セブンイヤーズ・イン・チベット》には、中共がチベットに入るかなり以前から少年ダライが自動車、映写機、望遠鏡、テープレコーダーなどイギリスから入ってきた“洋もの”で遊んでいる様子を映しているが、こういったものはみなチベットの生活様式の中にはないものであった。なかでも自動車と映写機は当時、全チベット中でただダライのみが所有していた物である。アメリカ国務省の論理に照らせば、ダライがまずチベットの伝統的生活様式を変えチベット特有の文化を破壊したのである!

  ダライと西側の人権擁護者たちの論理によれば、チベットでは中世紀の生活様式を留めてこそはじめて人権を尊重しているということになる。彼らはたぶんこんにちのチベット人たち、特に若者たちがいかに近代物質文明と商業娯楽に飢え渇いているか知らないのだ。チベットの独立を強く支持し中共のチベットにおける人権侵害を鋭く批判している先のフランス人記者でさえ、「前の世代の人々はいまなおマニ車を手に念仏を唱えるが、若い世代の者たちに至っては神仏を敬おうとは夢にも思わず、ただ金やファッションといった物質的なものを楽しむ天国があるだけだ」(《チベットの生と死》より) 世界中の経済的に遅れているあらゆる民族はみなこういった状況を抱えている。アメリカの先住民(インディアン)、エスキモー、ハワイの土着民もその例外ではない。国連が1986年に決議した《発展の権利宣言》では、“発展の権利もまた奪い取ることのできない人権であることを確認する”とうたっている。発展とはすなわち近代化であるということを世界は認めている。ダライと人権擁護者たちは“チベットの伝統文化を守る”という口実のもとに、チベット人たちの発展の権利を奪っているのだ。これは形を変えたもう一つの人権侵害ではないだろうか?

  ダライは、チベットの中学校で漢語を用いて理数系科目を教えることがチベット語文化を滅ぼすことになると一貫して中共を譴責し、アメリカ国務省の先の報告もまた、漢語がチベット族の学生にとって高等教育を受けるために欠かせないということはチベット独自の言語文化を破壊することになると批判している。ダライは次の事実をごまかしているのだ。すなわち、古いチベット語には科学技術用語はなく、彼自身がインドに設立した亡命チベット人中学でも英語を用いて理数系科目を教えざるを得ないのである。なるほど、アメリカのチベット研究者グランフィルド(Grunfeld)は、「ダライ・ラマは、チベット自治区の学校で漢語で授業を行っていると中共を批判しているが、これはごまかしに聞こえる。というのもインドのチベット族学校で授業に使われているのは英語なのだから」(《The Making of Modern Tibet》より)。ダライ自身の論理によれば、彼自身もチベットの言語文化を滅ぼしていることになるのだ。アメリカ国務省の方々はこの点をご存知ないようである。しかし彼らはアメリカのインディアン居留地の学校でも授業には英語が使われているということを知るべきなのだ。ハワイの土着民たちとて同様である。ならば、インディアンの文化やハワイの土着文化を滅ぼしているとはたして言えるのだろうか?

  中共はチベット語を用いてチベット族学生を教えるために、1980年に専門組織を設けてチベット語の科学技術用語とチベット語に翻訳した理数系の教材を作成した。1994年には中共は歴史始まって以来初のチベット語科学技術用語辞典《藏漢英数学辞典》及び《藏漢英化学辞典》を出版した。ダライはチベット文化を愛していることを一貫して声高に主張し、唯一亡命チベット人だけがチベット文化を保存し発展させていると言っている。しかし亡命して三十九年このかた一冊のチベット語科学技術辞典も出していないのだ。このことから、1980年以来、中共はダライよりもさらにチベット文化の保存と発展を重視していると言えるだろう。

  古いチベット語には中学の理数系単語さえないのであるから、大学の理工、医科、農業及び現代社会科学用語がないのは言うまでもないことである。中共がチベットの中学で漢語を教えず、ただチベット語だけ教えるなら、チベット族の学生はいつまでも中国で大学に入ることはできない。ダライと西側の人権擁護者たちはこれを人種差別と言うだろう。またチベット語も漢語も教えれば、ダライと西側の人権擁護者たちはチベット独特の言語文化を滅ぼしていると言うのだ(この“独特”とは科学技術用語や現代社会科学用語をもたないということであり、科学技術の知識や現代社会科学の内容は訳しようがない)、これもまた“Catch22”なのである。



四、ダライの“民主”と“人権”


  ダライは、一貫して中共をチベットの人権を侵害し宗教を迫害していると批判しているが、1959年以前の農奴制が重大な人権侵害であったことについてはアメリカのチベット学者であるゴールドスタイン(Melvyn C. Goldstein)とグランフィルド(A.Tom Grunfeld)の著作に詳しく述べられており、彼も否認できないにもかかわらずあれこれと言い訳している(
茉莉【ダライ・ラマ訪問記】−《北京之春》1998年5月号)。彼には歴史上の人権侵害である農奴制を真正面から見据える勇気さえないというのに、“民主”だの“人権”だのと声を張り上げて、そこにどれほどの誠意があるというのだろうか。
  今年五月にダライがアメリカを訪問したとき、なんと意外なことに何度もチベット族とアメリカ人ラマ僧たちの抗議デモに出くわしたのである。彼らは“ダライ・ラマよ、わたしに宗教の自由を!”と書かれたプラカードをかかげ、ダライ・ラマがインドの亡命チベット社会において金剛派(チベット仏教の一宗派、下の訳注参照)の信徒たちを迫害していることに抗議したのである。アメリカの著名なニュースマガジンである《TIME》(1998年5月11日付p.70)と《ニューズウイーク》(1998年5月11日付p.64-65)はいずれもこれを報道し、《TIME》にはデモの写真も載せられ先のスローガンがはっきりと見て取れるほどであった。これは、ダライの“民主的指導者”、“人権のために闘う人”というイメージに対する最大の皮肉である。

(訳注:“金剛派”というのは、祠っている神の名がドルジェ・シュデンであることに由来する漢語訳。一般には“シュデン派”(シュクデン派)と呼ばれ、ゲルク派の中のカルト集団とされる。よくない神を祠っているということで法王によって禁止された。それを欧米人信者が「宗教弾圧」だと騒ぎ始めたのが発端で、ここ数年亡命社会で最大の問題になっている。亡命社会では「反ダライ・ラマ」ということで異端扱いされており実際に弾圧・差別されているらしい。法王の説法のときも、法王みずから「信者は立ち去るように」と言ったとのこと。昨年ダラムサラで、シュデン派信者らしき若者が法王側近の大ラマを殺害するという事件も起きた。中国はすかさずこれにつけこんで、《中国西蔵》などの雑誌でダライ・ラマ攻撃に利用している−以上、長田幸康氏からの情報)

  今年五月、インドが核実験を行ったとき、アメリカを含む世界各国が声をそろえてインドを批判したが、ダライだけは公にインドを弁護して「インドには核兵器を開発する権利がある」と言ったのである("His Holiness the Dalai Lama's View on India's Nuclear Tests", World Tibet Network News,1998年5月20日)

  1963年の“チベット憲法草案”には、チベットは政教一致の国家であると定められている。ダライは宗教的指導者であり、また“チベット国”の終身国家元首なのだ。彼はいまだにこの兼任指導者の身分で、到る所で政治及び宗教活動を行っているのだ。よく知られているように、政教一致は中世期特有のものでありその暗黒時代をつくった根源である。フランス大革命はまさに政教一致を打ち倒し政教分離を実行したものであった。政教分離はいまや世界のあらゆる民主国家が依りどころとする原則である。フランスの憲法第二条では、“フランスは政教分離の共和国である”と定められている。アメリカのケネディー大統領は、1960年9月12日、ヒューストンで行った演説で次のように述べている;「わたしは、政教分離が絶対的であるアメリカ合衆国においてはいかなる教会も宗派も政治的特権を得てはならないと考えている。…合衆国政府の役人は誰であれ、ローマ教皇や全米プロテスタント教会理事会、或いはその他プロテスタント教会組織の政治的な指示を仰いだり受けたりしてはならない。いかなる宗教組織も直接或いは間接的に自分たちの考えを大衆や政府の役人に押し付けてはならない。人の宗教の自由は切り離して考えることのできないものである。ある一つの教会に反対するなら、それはあらゆる教会に対する反対とみなされる。」(The Harper Collins Dictionary of American Government and Politics,1992年 p.519)
  ダライはただ“政治的特権をもつ”だけであろうか、彼は宗教的指導者として絶対的な政治的独裁権力をもっているのだ。ほとんどの人々はたぶん知らないだろうが、チベットの宗教はゲルク派、ニンマ派、サキャ派、カギュ派等の四大宗派に分かれており、その他にいくつかの小宗派があって、ダライはゲルク派の指導者にすぎないのである。彼は自らのゲルク派指導者としての意思を民衆や政府の役人に押し付けるのみならず、金剛派の信教の自由まで奪っているのだ。ケネディーの言い方を借りれば、これはあらゆる宗派に対する反対とみなされるべきである。

  たしかに中共は毛沢東の時代にチベットの宗教を滅ぼすような多くの悪事を働いた。しかし1977年以来、中共はチベット自治区に三億元を投じて1,787ヶ所の寺院を修復し、46,380名の僧尼を募集し手当を与えたのである。なるほど中共は寺における “愛国主義教育運動”によって僧尼たちにチベット独立運動に参加しないよう要求しているが、これはアメリカの民主制度に倣い政教分離の原則にのっとったものである。ダライがこれをたてにとって中共が“宗教迫害”を行ったと批判していることは、彼が宗教を利用して政治に干渉し国家を分裂させようと企んでいるということであり、それははじめから国際法に違反しているのだ。アメリカ国務省の先の報告にもあるように、中共は宗教活動の多くを認めているが、宗教の名を借りてチベット独立や国家の分裂を謀ることは許さない。ラマ僧や尼僧という伝統に盲従しチベット独立を扇動する、これは宗教活動ではなくケネディーが言った“宗教組織の意志を直接或は間接的に民衆と政府に押し付ける”という宗教の政治干渉活動なのである。
  ダライがラマ僧の人数を制限しているとして中共を非難するのはたしかに政治干渉活動である。ゴールドスタインはかつて、「チベットではラマ僧が多ければ多いほどよいとされ、尼僧はラマ僧に比べればやや少なく、旧チベットでは男子の四分の一強がラマ僧になった」と指摘している。四分の一の男子が出家し戒律に従って結婚も生産労働に携わることもできないとすれば、必然的に四分の一の女子は結婚相手を失い、しかも本来なら男子がなすべき肉体的重労働をせざるを得ないということになる。これはチベット女性の人権を侵害するものではないだろうか? ゴールドスタインはさらに、「宗教は旧チベット社会の発展にとって最大の障害であり、“ラマ王国”(旧チベットを指す)滅亡の根本的原因でもあった」(《A History of Modern Tibet》より)と言っている。中共がラマ僧の人数を制限しているにもかかわらず、チベットの僧尼の数は現在、チベット族の人口の2パーセント強を占めており、仏教国タイの0.5パーセントを大きく上回っているのである。

  ダライは一貫して、中共は120万人のチベット人を抹殺したと言っており、アメリカ議会でも幾度も、中共は100万人のチベット人を抹殺したと決議されてきた。以前に書かれた文章においてチベット族と中国の人口増加率を比較してみると、これはとんでもないいつわりであることがわかる。しかしダライは未だにこうした言い方(茉莉【ダライ・ラマ訪問記】−《北京之春》1998年5月号参照)に固執しているのだ。彼は1987年、アメリカ議会で「中国の大量移民によってチベット自治区のチベット人がマイノリティーになってしまったことを中国は認めている」と演説した。彼に“中国が認めた”という証拠を挙げることができるのだろうか?



五、 新たな冷戦とその結果


  ソ連の崩壊後、冷戦は終わったと人々は言っている。しかしチベット問題における冷戦は終わるどころか以前よりいっそうひどくなった感がある。西側の一部勢力はなにゆえこの新たな冷戦に火をつけようとするのだろうか? 原因は二つあるように思う。一つは、ソ連が崩壊して中共はほとんど唯一残された共産主義大国になったため、西側はチベット独立運動を利用して中共に打撃を与えようとしていること。二つ目は、西側は中共を打ちのめすだけでは事足りず、チベット独立運動を利用して内モンゴルや新疆の独立運動を誘発し中国を分裂させ、ソ連と同じ道を歩ませようとしているということである。というのも彼らは十数億もの黄色人種からなる中国が世界の新たなスーパー大国になるのを見たくないからなのだ。1989年にノーベル平和賞を受賞したダライは89年民主化運動の指導者ではない。ここ数年、西側が絶えず発しつづけている“中国を抑えろ”という叫びはまさしくその明らかな証拠なのである。このことは西側が、中国の民主化よりも中国が分裂することにさらに関心があることを物語っている。

  一部の中国人民主化運動活動家たちもチベット独立運動を利用して中共に打撃を与え、中国を民主化しようと考えている。その気持ちはわかるが、そうすることは百害あって一利なしというものだ。
  第一に、ダライが求めている独立、或は形を変えた独立(訳注:ダライ・ラマ側が望んでいる“完全な自治”を指す)とは、その総面積が中国の四分の一強を占める“大チベット”なのだ。ダライによれば、“大チベット”には600万人のチベット人、750万人の漢族、イ族、回族、チャン族、トゥー族、ペー族、ヌー族、モンゴル族、ナシ族、リス族、ユーグ族、トーロン族、トンシャン族、サラール族、バウナン族、カザフ族、ウィグル族といった十七の民族が生活している(ダライは彼らすべてが中共によって送り込まれた中国人移民だと言っているが、それは言うまでもなくでたらめである)。新疆のウィグル族人口も半数に満たず、内モンゴルのモンゴル族はさらに少数である。もし“大チベット”と“東トルキスタン”(訳注:ウィグルのこと)そして内モンゴルがほんとうに独立、或いは形を変えた独立をするとすれば、中国の半分以上の国土でボスニアのような民族戦争が勃発するだろう。“大チベット”の地図はさらに新疆の一部にも及んでいるから、チベット人とウィグル人の間でも領土をめぐる争いがおこり西側はすかさず中国に制裁を加えるにちがいない。しかし中共がこれによって崩れるとは限らず、なにより中国人民がまっさきにその被害を受けることになる。このようなやり方で中共に打撃を与えようとすれば、チベット族を含む中国人民が支払う代価はあまりに高く、それはあまりにも残酷なことではないだろうか?

(訳注:四川に住むイ族、チャン族、雲南のナシ族、リス族、ヌー族、ペー族、トールン族はチベット系、甘粛西部に住むバウナン族、青海のトゥー族はモンゴル系、カザフ族、ウィグル族、甘粛と青海の省境に分布するサラール族、トンシャン族、ユーグ族はトルコ系少数民族)

  第二に、中国とソ連の最大の違いは、ロシア民族の人口がソ連邦の半分であったのに対し、漢族は中国の92パーセントの人口を占めていることである。というわけで、漢族が内戦を起こさない限りいかなる少数民族も独立することはできないし、また中共が崩れない限り漢族は内戦を起こしえないのである。チベット独立運動はまさに中共の政権固めを助け、漢族をひとつにまとめる働きをしているのである。わたしがこういうのはたしかな事実があるからだ。

  昨年(1997年)の11月1日、江沢民がハーバード大学で演説した時、三つのグループ(チベット独立運動、台湾独立運動、中国民主化運動といういわゆる“3T”と呼ばれている運動)に属する人々が抗議のデモを行った。その総数は一千人、中でもチベット独立運動のグループは最も多く(その大部分はアメリカ人であったが)勢いも強かったが、これはなにも驚くほどのことではない。思いがけないことにはなんと四千人もの華人たちが五星紅旗を手に、「江主席、ようこそ!」と声も高らかに叫んでいたことである。その中の多くは“六四”(訳注:1989年6月4日の天安門事件)の折、大学生或いは大学院生や現職の職員だった人々で、大部分はきっと89年の民主化運動に参加したり共感していた人たちであっただろう。本科の留学生たちは当時その大部分が中学生であり、やはり89年の民主化運動に共鳴したことがあったであろう。彼らがその八年後に一斉に江主席を歓迎しにに集まったのはなぜだろうか? それは彼らが中共の独裁政治を歓迎しているからではなく、アメリカ人のチベット独立運動に対する支持が彼らの反抗を招いたからなのだと思う。
  ハーバード大学の一中国人留学生が語ってくれた:「もしこれほど多くのアメリカ人がチベット独立運動のデモに参加していなければ、こんなにも大勢の中国人が江沢民を歓迎することはなかったろう」と。江沢民がハーバードを訪れる数日前、ハーバード大学の中国人学生と学者たちからなる連絡会は“チベット問題”討論会−といっても実際にはチベット独立運動を糾弾する大会であったが−を召集した。会場いっぱいの参加者たちはひどく興奮し、会は江沢民歓迎のための激励会と化した。台湾から来た一人に至っては記者に向ってチベット独立運動を激しく非難した(以上は、1997年11月2日付《世界日報》、1997年11月7〜13日付《ボストン・ニュース》、1997年11月7日付《サンパン》紙上に見られる。わたしはボストンに住んでおりテレビの実況中継で参加者たちが様子を語るのを聞いた)。そこでは西側のチベット独立運動への強力な支持が煽り立てた民族主義が大きな働きをしていた。なるほど中共の駐ニューヨーク領事館もボストンに人を派遣して歓迎活動を行っていたが、民族主義にうったえる励ましがなければあれほど大勢の人を動員することは不可能であっただろう。
  こうして次のような矛盾した論理が出てくるのだ。即ち“西側はチベット独立運動やダライ・ラマを支持すればするほどますます活気付き−一部の中国人エリートたちはますます反感を抱くようになり、中共を擁護するようになる−中共の統治が確固たるものになればなるほど漢族はますます団結する”(これは漢族に限ったことではなく、回族もチベット独立運動にはきわめて反感を抱いている。1989年3月5日、ラサで暴動が起こった時、チベット独立派がラサのモスクを焼き払おうとしたのでイスラムの僧侶は彼らにこう言った:「われわれにはインドに数千万人のイスラム同胞がいる。おまえたちがわれわれのモスクに火をかけるというなら、われわれはインドの同胞たちにダライの住んでいるダラムサラの家を焼き討ちさせるぞ!」と。これを聞いたチベット独立派はためらったという)。西側の一部勢力とダライはもともと中共を潰し中国を分裂させようとして、客観的には逆に中共の統治を確固たるものとし合法性を強め中国が団結するよう手助けしているのだ。これは中国の民主化を進めていく上でもなんの益もなく、むしろありがた迷惑と言うものだ。


  わたしはこの機会に西側の方々にご忠告申し上げたい。もしほんとうに中国の民主化を望まれるのであれば、クリントンがダライに中国のチベットに対する主権を受け入れるようすすめたように中国の各民族の民族主義を煽るようなことは慎むべきである。それでもなお中国を分裂させたいなら、火遊びの代価がいかなるものになるか考えてみなければならない。《黄禍》が描写しているような数億の難民が漂流してきたらあなたがたはどのように対処なさるのか?

  わたしはダライにもおすすめしたい。もしチベットに戻りたいなら“亡命政府”の高ぶった感情を抑えて中国のチベットに対する主権を受け入れ、中共と話し合うべきである。さもなければこのまま異郷に骨を埋めるしかない。そうなればチベット独立運動は全世界が認めた指導者を失い、国際社会からもしだいに忘れ去られることだろう(“東トルキスタン独立運動”は半世紀に及んでいるが、世界的に知られた指導者を失った今となってはその勢いも途絶えてしまった)。チベット問題もこうして消え失せてしまうことだろう。


以 上


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