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《中国の春》第170期−16(1997年11月)より

“一国二制度”−チベット問題解決の鍵



徐 明旭(シュ・ミンシュ)


  今回は民主化運動グループの一つである《中国之春》から、前回の【中共とダライ・ラマとの対話に寄せて】に引き続き徐明旭氏の論説をご紹介します。

  この文章は香港返還の年、1997年11月に《中国之春》が企画した特集“漢藏対話”の一つとして掲載されたものですが、中国国内のいくつかのサイトでも転載紹介されており、その反響はかなり大きかったようです。
  中国国内のインテリ層には、香港とはケースが異なるとしてチベットに一国二制度を適用することには否定的な見方が多いようですが、徐氏の見解はその意味でもかなり開かれたものであると思います。
  また、中共の対チベット政策については、自由アジア放送のンガポ・ジグメ氏が詳しく語っておられるので、興味のある方はそちらも合わせてご覧ください。


【目 次】  



(一) はじめに―現実に目を向けて


  チベット問題の平和的解決は双方の理性をぶつけ合うことにかかっている。ボスニア紛争の教訓はこんにちの世界に、極端な民族主義では民族問題を解決できないということを示しているのだ。
  さあ、現実に向き合ってみよう。国連と全世界の国々はみな、チベットが中国の分かつことのできない一部であることを認めている。チベットの独立と“チベット亡命政府”を承認している国はどこにもない。こんにちのチベット人は半世紀前のチベット人とは違うのだ。上述の事実を軽んじるなら、いかなる対話もなんの意味もないものとなる。



(二) チベット問題の根源


  チベット問題の根源は非常に複雑で、政治、経済、文化、宗教、国際情勢などさまざまな要素が絡み合っている。ダライ・ラマはチベットの文化と宗教の特異性を強調してチベットの独立を求めているが(訳注:著者は別著でダライ・ラマが主張している“完全な自治”も結局は形を変えた独立要求にすぎないと言っている―
【中共とダライとの対話に寄せて】、その理屈に従えば、アメリカをはじめ、インド、イギリス、ベルギー、スイス等、世界中のあらゆる多民族国家は解体することになる。十三世ダライ・ラマは非仏教徒であるイギリス人の手先となり、仏教を信奉していた清朝皇帝に反旗を翻した。しかもそれは宗教や文化によるものではなく政治的、経済的利益から出たものであったのだ。文化と宗教の特異性を強調することは単にチベット人を扇動するだけでなく、国際的な同情を奪い取るための言い訳でもある。

  チベット問題はそもそもイギリスの植民地政策に端を発している。今世紀はじめの五十年間、イギリス人は武力と金の力にものを言わせてチベットの上流階層に親英派をつくり、彼らをそそのかしてチベット独立運動をひき起こさせた。1914年、十三世ダライの代表シェー・ダワとイギリス代表マクマホンは悪名高いシムラ条約とその二項からなる付加協定に調印したが、中国歴代政府はいずれも承認してはいない。
  これらの条約によれば、イギリス領インドは9万平方キロ以上に及ぶ中国の領土(訳注:チベットを指す)を併合し、イギリスとインドの商人は十三世ダライの管轄下にあるチベット(ほぼ現在のチベット自治区に相当する)で関税その他各種の税、及び治外法権等の特権を得ることになる。イギリス領インド当局はさらにチベットの多くの通商拠点をその支配下におさめた。十三世ダライはイギリスがチベットの独立を援助してくれることを期待していたが、その結果チベットはイギリスの“植民地”と成り下がったのである。これこそなによりの皮肉というものであろう。

  1950年に中共がチャムドへ向けて進軍すると、独立を自称するチベットのカシャ(訳注:旧チベットにおける内閣)政府は国連に“中国に侵略をやめさせる”よう呼びかけたが、イギリス、インド、アメリカの代表はみな国連がこの件を取り上げるのに反対し、国連総会はその旨決定したのであった。現ダライは“十七条協定”を受けいれる他なく、中国のチベットに対する主権を認めたのである。(ついでながら、97年4月17日、アメリカの註中国大使がチベットを訪れたとき、「アメリカは孫中山の時代以来チベットが中国の分かち得ない一部であることを認めている」と語った。詳しくは1997年4月18日付《世界日報》参照)
  十七条協定によれば、チベット(現自治区)は政教一致体制、農奴制及びダライ、パンチェンの権力、チベットの国防については従来どおりとし、外交は中国政府が担当し、内政はダライとその内閣“カシャ”が管理するというもので、実際にはまさしく“一国二制度”であった。一国二制度はケ小平の発明ではなく毛沢東が考え出したものなのである。

  しかしながら、常に農奴制の排除をめざし無神論と階級闘争でチベットを改造しようとした毛沢東の試みは、1959年の事件を招くことになる。ダライも後に、チベットの旧来の社会制度はヨーロッパ中世の封建制度に類似したもので(詳しくは、チベット亡命政府駐米国連主席代表ロディ・ギャリ氏が1993年9月27日、アメリカ平和研究所におけるチベット問題討論会の会場で発表した論文参照)、すでに時代後れであると認めている。さりながらチベットの農奴制はチベット人自身が取り除くべきものであって、毛沢東がでしゃばるべき問題ではなかった。動乱が平定され民主改革から文化大革命に至るまで、毛沢東は多くのチベット人を迫害し多くの寺院を破壊して、漢族とチベット族の対立を激化させ、ダライと多くのチベット人たちを追いやり、国際社会の注目と批判を浴びることになった。チベット問題はこうして国際政治の場で関心を集めるようになったのである。



(三) ケ小平の福利政策とその結果


  1980年からケ小平はチベットで福利政策を始めた。その主な内容は次のようなものである。「政治的宗教的な原因で迫害を受けたチベット人の名誉回復、並びにもとチベット上流階級(農奴主、役人、活仏)に高官級の俸禄と各種特権を与える」。かつての大農奴主はいまやチベット自治区の副主席であり、1959年に反乱軍の副司令官だったラル・ツェはチベット政治協商会の副主席である。「人民公社の土地をチベット農牧民に分配し自由経営に任せ、農牧税、工商税及び郷鎮企業税を徴収せず、農作物の売買基準も設けない。さらに農牧民を含む全チベット人の公費、医療及び教育費を支給する」、これは中国のどの民族にもない特例であった。また大勢の漢族幹部と漢族職員及び労働者を引き上げさせ、チベット族に取って代わらせた。
  いまやチベットの85パーセントの政府役人はすでにチベット族で占められている。宗教の自由は回復され、政府の出資で千七百あまりの寺院が修復され、46,000人以上の僧尼たちが養われており、彼らの医療費は公費でまかなわれているのだ。ダライ・ラマも「チベット人はすでに寺院への参拝を許されている」(1995年アメリカ訪問時の演説《Tibet Press Watch 1995年10号》)と認めないわけにはいかなかった。チベットの民族混合学校では漢語とチベット語が教えられ、各種政府機関及び様々なニュースメディアもまた漢語、チベット語二種類の言語を使用する制度が採用されており、チベットの文化遺産を収集、整理、研究し広める多くの専門機関が設立されている。
  巨費を投じてチベット人の生活レベルを高めた結果、いまやチベット族市民の平均収入は全中国市民のそれを上回っており、ラサ市民の生活レベルは北京市民の生活レベルにも劣らないものとなり、一人当たりの平均住宅面積は全国でも第一位(市民15平米、農民20平米)である。アメリカのチベット学者ゴールドスタイン(Goldstein)教授はチベットを訪れた後次のように語っている:「ラサは田舎と言ってもチベット人たちの物質面での生活レベルは驚くほど向上していた。ラサ市民はいまや政治運動に関わりさえしなければ自由に行動できるし、友人たちと会ったり、ラマ僧を家に招いて法事を行ったり、お客を自分たちの家に招くことなどもできる」(1995年アメリカ・アトランティック委員会に提出された論文《チベット、中国、アメリカ》より)

  チベット人たちの生活レベルが大幅に向上したにもかかわらず、80年代の末、チベットでは大規模な独立要求デモが三回も勃発しており、参加者の動機は一様ではなかった。一部のチベット族共産党幹部たちは密にデモを扇動し、そうすることで中共の漢族幹部引き上げとチベット族幹部の採用をさらに早めさせようとしたのである。多くのチベット族職員たちがデモに参加したのは、中共に給料、ポスト、住宅といった労働条件の向上を迫るためであり、求職状態にある若者たちは中共に保証された仕事を求めたのであった。給料、ポスト、住宅、物価、就職といった様々な問題で政府に不満を抱いていた人々はデモに参加することでうっぷん晴らしをし、処罰された経験のある刑事犯たちはこの機に復習を図った。僧尼たちの宗教意識はとくに強烈なもので、とりわけ仏を信仰しない漢人たちへの憎しみは深く、ダライ時代の政教一致神権制度に特別の憧れを抱いており(その時代、僧職にあった者は多くの政治的経済的特権をもっていた。政教分離を実施している中共で政教一致神権制度を復帰させるのは不可能なことである)、デモになるといつもその先鋒に立つのであった。面白いことに、チベット人口の85パーセントを占める農牧民たちはダライに対して最大の敬虔を示しながらも、ほとんどデモに参加していなかったのである。というのも彼らがデモに参加しても何の益も得られなかったからだ。

  デモには毎回暴力がつきもので、これはダライ自身も認めざるを得なかった(詳しくは1993年5月25日付ダライの声明を参照。彼はその声明の中で中共がデモを追い散らしたことを批判しながらも、デモ参加者が漢族の個人経営商店を襲ったことに遺憾の意を表明している)。デモ参加者たちが暴力に訴えたことは中共に鎮圧の口実を与えることになった。毎回鎮圧後、中共はチベット人たちに給料、ポスト、住宅の便宜をはかってやり、こうして“デモ―暴力―鎮圧―給与のアップと住宅提供―再びデモ”という悪循環が出現した。ケ小平の福利政策はかくして“飴と鞭”政策へと変貌していったのである。

  ケ小平の福利政策が招いたもう一つの問題は、現代消費文化をチベットに入りこませたことだ。現代物質文明は、まさにあっという間にチベット人の文化生活と社会風俗を変えてしまった。チベットの若者たちの多くが拝金主義者、享楽主義者、西洋崇拝者になってしまい、彼らの宗教的観念は日一日と薄れつつある。商売で金儲けするために、彼らは熱心に漢語と英語を勉強し、チベット語については学ぼうとしないどころか話そうともしないのだ。かつてチベット人は暇さえあれば寺院に参拝しマニ車を回していたものだが、いまや都会のチベット族若者たちは暇ができるとダンスホール、バー、カラオケ、ビリヤード、映画館、劇場、喫茶店、ナイトクラブ、ホテルへ繰り出し、狂ったように思いっきり歌い踊っている。中年、老年の人々と子どもたちは家にこもってテレビに釘付け(チベットの都市部では現在96パーセントの家庭にカラーテレビがある)になり、ダライや菩薩に対する信仰も同時に冷めてしまった。今やチベット族の若者たちは洋服を好んでチベット服を着なくなり、ディスコで踊ってもタップを踏むフォークダンス(チベット族の民族舞踊で足を地面に着けたまますり足を繰り返す)は踊らず、ビールを飲んでもチンコー酒は飲まず、ケーキは口にするがツァンパ(チンコー麦粉を炒ったもの)は嫌い、車や飛行機には乗りたがっても馬には乗りたがらない、ガスは使っても牛糞を燃料にはしたがらない、電灯を愛用しバターランプは使わない、水道設備のある鉄筋コンクリートのアパートに憧れ、石と木で造られたチベット式家屋には住みたがらない、といった有様である……。ダライは一貫して中共を、漢族文化を用いてチベット文化を台無しにしていると非難しているが、実際に入りこんだのは欧米資本主義の消費文化なのであって、それが漢族文化にもたらした影響はチベット文化に対するものよりはるかに甚だしく、北極のエスキモーでさえ抵抗し得なかったほどのものなのである。

  もう一つの問題はいわゆる移民ブームである。現在のところチベットの戸籍を持つ漢人は総数でも全体の2パーセント程度である。彼らの大部分は科学者、エンジニア、経済師(訳注:経済担当の幹部)、教師、医師、農芸師(訳注:農業技術者の職階の一つ)、獣医、技術職員、文化活動に従事する者であり、彼らの知識と技術がなければチベット人には現代物質文明は手の届かないものであった。

  1994年から中共は33億元を投じてチベットに六十二のプロジェクト(その中の一つは、一本の河川を二つの支流に分ける工事で、チベットの農牧生産量と農牧民の収入を高めることを目的としている)を興し、これが内地の大勢の技術者や民間の職人、小規模な商売に携わる人々をチベットに引き寄せることになった。彼らはチベットに戸籍を移すわけではなくチベットに定住する気もなかったのであるが、プロジェクトが完成しても金の無い者は儲けてから立ち去らねばならない。ダライはそういった人々をもみな移民と呼んでいるが、それは中国に商売に来ている欧米人や日本人をみな移民と呼ぶほどでたらめなことなのである。



(四) チベット独立の災難


  毛沢東の強硬政策とケ小平の福利政策はいずれもチベット問題を解決できなかったが、では解決の糸口はいったいどこにあるのだろうか? ある者は、チベットが独立することに解決の糸口がある、と言うだろう。チベットの独立に法的根拠のあるなしはさておいて、とりあえず独立実現の可能性を見てみよう。

  ダライが言うところのチベットとは“大チベット”のことである。彼の自伝及び“亡命政府”が公表している地図によれば“大チベット”とは西藏自治区と青海省、そして四川、甘粛、雲南、さらには新疆ウィグル自治区の一部を含む総面積250万平方キロメートルに及ぶ中国の四分の一強を占める地域である。“大チベット”には600万人のチベット人が暮らしているが、他にも750万人に上るチベット族ではない漢族、回族、カザフ族、ウィグル族、トンシャン族、サラール族、バウナン族、ユーグ族、リス族、ヌー族、トーロン族、イ族、ペー族、モンゴル族、トゥー族、チャン族、ナシ族といった十七の民族も生活しているのである。もし“大チベット”が独立するなら、これら十七民族は立ち上がって反対するだろう。そうなれば “大チベット”は“大ボスニア”となってしまう。 “大チベット”とはいわばロシアの風変わりな政治家ジリノフスキー(訳注:1992年末に極端な民族愛国主義を掲げて正式登録された極右政党“ロシア自由民主党”の党首)が言った“大ロシア”(ソ連全域と東欧、アラスカを含む)の焼き直しにすぎないのである。アメリカのチベット学者ゴールドスタイン(Goldstein)さえも次のように語っている:「大チベット国の目指しているものは非現実的なものである。チベットはすでに一世紀以上も前からそれらの地域を統治してはいなかった。中国政府が四川、甘粛、青海、雲南の広大な土地を手放すとはとても考えられない。そこには多くの漢人やイスラム教徒が暮らしており、彼らは1949年中共が政権を掌握する以前からすでにその地に定住していたのである」(前掲の《チベット、中国、アメリカ》より)

  ダライは常々、チベット人が“大チベット”内で少数化しているのは中共が大量移民を行った結果であると言っているが、これはまったく事実にそぐわないことである。漢人と回族が最も集中している青海省を例にとれば、紀元前121年(ソンツェンガムボがラサを都として吐蕃王朝を打ちたてる七百五十四年前)にすでに前漢王朝が青海に県を設け役人を派遣していたのである。紀元9年に王莽が新たな王朝を建てると青海に西海郡を設けた。後漢はチベットに西平郡を設け、その下に七つの県を置いた(当時ソンツェンガムボはまだ生まれていなかった)。唐朝の頃、吐蕃は武力によって青海へと領土拡大したが、まもなく吐蕃は滅びる。北宋は青海に西寧州を設け、元代になると西寧州は甘粛省に属した。明代には西寧は陝西行郡司に属し、清代には青海の東部は甘粛省に、西部は“欽差青海大臣”が管轄していた。1929年、民国政府は青海を省とした。というのも当時、青海の人口の半数以上は漢人であったからで、チベット人は30パーセントにも満たず、残りの大部分は回族であった。こうしたことから青海は昔から漢人の多い土地であったということがわかる。ダライが古くからチベット族ではない十七の民族に属してきた広大な土地を“大チベット”に繰入れ、後になって逆に彼らが“中共による移民”だなどと事実無根のでっち上げをするのは、優れたやり方とは言えないし、残念ながら決して正当なものではなく歴史的検証にも耐え得ないものなのである。

  ではチベット自治区を独立させることはできるのだろうか? 自治区には六万人のチベット族共産党員と五万人のチベット族幹部、それに彼らの家族がおり、チベット族人口の2パーセント、都市部住民の半数を占めている。彼らはもちろん共産主義なぞ信奉してはいないが、中共から与えられる権力と特権をダライ・ラマ以上に崇拝しているのだ。もしチベットが独立すれば彼らはその権力と特権を失うのであるから、反抗して立ち上がるだろう。彼らが無学無能で退廃した生活を送り、仕事にはずぶの素人であろうとも、階級闘争にかけてはプロの腕前なのだ。これは中共に教わった“奥の手”なのである! 彼らは、自分たちの既得権益を守るために五万人規模の軍隊を組織することもできるのだ。かつての農奴主で今や中共の“統一戦線人士”たちは彼らを支持するだろう。そうなればチベット族内戦の火蓋が切って落されるのだ。1950年のチャムド戦役で中共に投降したチベット軍第九師団の師団長デルゲは、1959年には部隊を率いて叛乱軍の鎮圧にあたった(80年代にはチベット自治区人民代表常務委員会副主任に昇格するが、まもなく病没した)。80年代末にチベット族共産党幹部、武装警察、兵士たちが独立要求デモを鎮圧したときにもいささかの手加減も加えなかったのであるから、ダライがチベット族共産党幹部を抑えられるかどうかいささか疑問である。

  中国政府はチベット自治区に毎年15億元を財政援助しており、大部分はチベット人たちに給料として与えられるものだ。もしチベットが独立すれば、十数万にのぼるチベット族職員たちが後ろ盾を失い、彼らはダライに生活の糧を求めることになるだろう。彼らに従来の待遇を与える財力がないなら、彼らはダライに対して抗議デモを起こすにちがいない。チベット農牧民たちはすでに十七年間税金を納めていないが、ダライは何度も、チベットが独立すれば税金を徴収しなければならない、と言っている。チベット農牧民たちがどんなに敬虔でも、甘んじて税金を納めるとは限らない。徴税できなければ、ダライはどうやってその政府と軍隊を養うのだろうか? 外国の援助はあてにはならない(ソ連、東欧が民主化した後、西側はどれほどの援助をしてくれたか?)。財政収入がなければ、独立はただの夢物語なのである。



(五) 一国二制度:現実的な解決策


  チベットの独立は民族、宗教そしてチベット族同士の内戦を引き起こすだろう。平和を愛する人はこのようなことは望まない。ゴールドスタイン(Goldstein)教授は、すべての漢族幹部を引き上げさせチベット族幹部に自治区を任せることを提案しているが、はたしてダライがこのやり方を受け入れるだろうか?

  幸いにもダライはチベットが独立することには無理があるとして、1993年8月11日、記者たちに向けて「自分はいままでただ自治を求めてきたのであって独立は求めない」との声明を出したのである。彼が言うところの“中道路線”とは即ち“一国二制度”であり、「わたしにとっては自治が与えられるならそれで十分」と言い、北京政府がチベットの国防と外交を担当してもかまわないと語った。同年10月3日、彼は重ねて、中国国内に留まる制限付きの自治を受け入れ、中国からの完全独立は求めないと言明している。
  ダライが現在のチベット自治区の範囲で自治を求めているなら、彼のこのプランはチベット問題を解決するのによい方法である。この方法は“十七条協定”及び香港のモデルと決して別個のものではない。中国政府はチベット自治区からすべての漢族一般人を引き上げさせ、ダライにチベットへ戻ってもらい自治区を任せ、どんな主義、制度であろうと彼のやり方に従うべきである。中国政府はチベット自治区の国防、外交及びダライ、パンチェンの後継者を認可する権限のみを留保し、ダライには自治区の内政を任せるのである。この方法なら民族、宗教による戦争やチベット族の内戦を避けることができ、ダライの権限を元どおりにしチベットの伝統文化を復興させることができる。つまり中国政府は大幅な出費を節約でき、国際的にも“チベットの人権を尊重している”という美名を得ることができ、すべて円く収まって皆が喜ぶというものだ。


  冷戦後、世界各国は社会の安定と国際協力、そして経済発展に関心を注ぐようになり、ケ小平以後、中共の指導者は国家の統一と経済発展を重んじざるを得なくなってきている。中央の政権を掌握するのが誰であれ、またどんな党派であろうと、敢えて内戦の危険を冒してまでチベットを独立させようとはするまい。いずれにしても、現行の“飴と鞭”政策の政治的経済的コストを改めて評価しないわけにはいかないだろう。一国二制度はまさに選択しうる最高のプランなのである。


以 上


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