覆い隠すことのできない歴史的事実
パンチェン・ラマが当時置かれていた情況ゆえに、“七万言の書”はかなりの紙面を共産党の民族政策をたたえることに費やし、その“愛国”と“愛党”を表明している。しかしその後に続く八章からなる文中には、中共がいわゆる“叛乱平定”、“民主改革”、“大躍進” といった運動の中でチベットに対して行った“民族と宗教の殲滅”政策を一つ一つ列挙しているのである。たとえば、パンチェン・ラマが“叛乱平定”拡大化の問題に触れる時には、
「悪人善人を問わず一律に逮捕し拘束する、これは世界中のあらゆる公正な法律に違反しています。」(P.102)
「たくさんの群集が不当にも無実の罪を着せられ、逮捕され投獄されています。所有財産も没収し、反乱罪の首謀者同様に扱うといったことには驚くばかりです。」(P.13)
この二つの話は、いわゆる“叛乱平定”後、中共が有無を言わさず“プロレタリア独裁”を実行していった様子を体現している。
「民主改革闘争が行われたところでは二つの嵐が吹き荒れました。例えば、もし闘争を進めたいと思えば、たとえその人に特別重大な過失がなくても重い罪を捏造し、かつ大げさに思うにまかせて無実の罪をなすりつける、なんら根拠もないばかりか、ますます激しく狂気じみたひどい攻撃を加え、あろうことかその人を無実の罪に陥れる。その結果、たくさんの善良な人々が濡れ衣を着せられたのです。しかもこのような狂気を行った人々をかえって褒美を与えて表彰し、事の真偽を調査することもなく、しかるべき実態の把握もなされなかった、これがその吹き荒れた嵐の一つです。…ひとたび闘争が始まれば、叫び声と怒号の下、殴る蹴るの残酷な肉体的暴力を一人一人から受ける、ある人々は大きな鍵や棍棒を使って闘争の犠牲者をひどく打ちのめします。それは彼が身体中から血を流し、気を失って倒れ、手足を骨折するなどの重症を負うほどのものでした。その場で絶命した人もいるほどです。これが二つ目の嵐です。」(P.24)
これは、チベットで行われたいわゆる“民主改革”における“プロレタリア独裁”の常軌を逸した狂気の場面であり、“文化大革命”のそれではないのである。
中共は、チベットに対して行った極端な政策の罪過をすすんで“文革”や“四人組”のせいにした。しかし、チベットの精神的財産と文化の源である聖なる仏の教えを滅ぼそうとする行為は、 “文革”以前にすでに大々的に始まっていたのであり、パンチェン・ラマの以下の話はそのすべてを証明するものである。
「仏像、仏典、仏塔等を滅ぼし尽くすという運動が怒涛の如くに湧き起こり、数知れぬ仏像、仏典、仏塔が焼かれ、あるものは水中にあるものは地面にうち捨てられ、ばらばらにされ融かされてしまいました。寺、仏堂、マニ壁、仏塔は次々に破壊され、…多くの仏像を飾る宝物や仏像や宝塔内に納められた尊い貴重な品々が盗まれてしまいました。…また、はばかることなく公然と宗教を侮辱し、“大蔵教”で堆肥をつくり、多くの仏画や経典をわざわざ靴作りの原料にしたのです。まったくひどい話です。」(P.51)
「民主改革以前、チベット(筆者注:チベット自治区を指す)には、大、中、小合わせて寺が2千5百ヶ所あまりありましたが、民主改革以降、政府によって残されたのはわずかに70数ヶ所で97パーセント以上も減ってしまいました。…また、以前は僧尼の数が11万人を越えていたのにに、改革以降寺で生活する僧尼は7千人と、93パーセントも減少したのです。」(P.51〜52)
「自治区以外のチベット族居住地区の寺院とラマ僧の数は、叛乱平定前に比べると98〜99パーセントも減少しています。」(P.104)
これがチベットの宗教文化を育んでいた寺院と僧尼たちが被った災禍なのである。
中共はチベットを占領して以来、旧チベットが暗黒と未開の状態にあり、共産党は窮乏していた人々に光明をもたらしたのだとさかんに吹聴してきた。しかしパンチェン・ラマはその“七万言の書”の中で共産党が新生チベットにおいて引き起こした惨状に言及し、次のように指摘している。
「チベットの一部地域ではそれぞれ餓死者が出るという情況で、それはあってはならぬことであり、劣悪な重大な問題なのです。かつてチベットは暗黒で野蛮な封建的社会でしたが、しかし食糧にはこれほどこと欠いたことはありませんでした。とりわけ仏教の教えが広く行き渡っていたため、貴賎を問わず如何なる人も貧しい人を助け施しをするという良い習慣を身につけており、乞食でも生きる術があり、餓死者が出るようなことはあり得ませんでしたし、わたしたちもいままで餓死ということを聞いたことはありませんでした。」(P.29)
パンチェン・ラマがチベット東部の青海地区を視察した時、多くの群集が現地幹部の妨害を乗り越えて彼を拝みにやって来た。そのなかの一部の勇気ある人々は涙ながらにこう訴えた;「飢えに苦しまないよう、仏教が滅ぼされないよう、我ら雪の国の民が滅びないようにどうかお祈りください!」(P.113)これは“新旧”チベット社会の明暗である。
続いて、チベット人に対する大規模な拘禁の惨状について“七万言の書”は単刀直入に言及している。
「それほど多くの人々を拘束し、しかも管理不行届きで、とりわけそれらの人々をわざと生活習慣の合わない地方へ送ったために大勢の人々が異常死し、その遺体をきちんと埋葬できないということも起こりました。」(P37,102)。
中共が思うままに拘禁しひどい虐待を加えた結果、民衆の生活は苦しく、数十万人の死者を出すというありさまで、「いまやチベットの人口は著しく減少し」(P.103)てしまったのである。
紙面の都合で、“七万言の書”の全内容を詳述することはできないが、しかし以上かいつまんでご紹介した語るも辛いいくつかの文章から、だいたい50〜60年代チベット人が共産党の“賢明なる”指導のもとで受けてきた前代未聞の災禍がどのようなものであったか知ることができる。これはまたパンチェン・ラマが共産党を褒め称えた後に中共のチベット政策について具体的に否定したということでもあるのだ。
悲惨な結末
1962年5月18日、パンチェンは“七万言の書”を周恩来総理に呈上した。当時、李維漢(訳注:リー・ウェイハン 1896〜1984、48年から64年まで党中央統一戦線部長。民族区域自治の成立、チベット問題にも関わる)、習仲勲(訳注:シー・ジョンシュン 1913〜、当時の国務院総理秘書長)等、中共の指導者たちは“七万言の書”の内容を仔細に検討し、ついにチベットの現状改善に関する政策性をもった文書と制定した。しかし形勢は突如急転換し、一ヶ月あまりの後に北戴河で党の工作会議が召集され、統一戦線部門が階級闘争をやらず投稿主義であるとの譴責を毛沢東から受け、しかももう一人の中共指導者も;「李維漢はこういった連中をいたくかわいがっているようだ。パンチェンの尻尾はUG2型飛行機より高く跳ね上がっているぞ。」 と責めたのである。
62年8月、チベット工作委員会の関係者がパンチェンに、こんどの政治協商会議に参加する時行う報告を検討するよう要求した。パンチェン・ラマは事実から自分の言葉を弁護しいかなる過ちも認めなかった。この時以来、パンチェンは中共によって自宅軟禁とされたのである。
1964年9月、いわゆるチベット自治区準備委員会第七回会議の折、パンチェンの“七万言の書”に対する批判が始まった。後に批判大会はチベット全土に及び、ラサ、シガツェ等において“パンチェン反党、反革命集団”の“罪証”なるものが展示された。パンチェンは“反党、反革命、反社会主義、祖国の裏切り者”という四大罪を被せられ、チベット自治区準備委員会主任等一切の職務を解かれた。
翌年末、パンチェンは首都に“迎え”られ北京の宿舎に幽閉の身となる。66年8月のある晩、十数名の紅衛兵が彼を縛り上げ中央民族学院に護送し、翌日の一万人批判闘争大会で我先にパンチェンを批判し、即日“パンチェン批判司令部”が成立した。この年の末、かつて人民代表大会副委員長兼チベット自治区準備委員会主任であった“国家指導者”は中共の闇の牢獄に九年八ヶ月という長きに渡って閉じ込められたのである。
この時以来、“七万言の書”もともに“行方不明”となり、パンチェン・ラマが亡くなられて久しい今日ようやく日の目を見たのである。
1998年4月2日 ワシントンにて