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《北京之春》第60期−47(1998年 5月)より

流言を暴く鋭い矢―パンチェン・ラマの《七万言の書》



ツェ・ギャ


   この文章は昨年(1998年)春、パンチェン・ラマによる《七万言の書》発刊記念として《北京之春》5月号に寄せられたものです。

   故パンチェン・ラマ十世は、1938年、青海省循化県に生まれ、49年にダライ・ラマに次ぐ最高位活仏として即位しました。先代から尾を引くダライ、パンチェンの対立をダライ・ラマ十四世との和解をもって終わらせ、中共によるチベット侵攻後は、その統治と政治的混乱の中で苦しむチベットの人々のために身を呈して働きました。ここに語られる“七万言の書”はそれを訴えて国務院に提出された上書です。そのため彼は“反動派”として批判の矢面に立たされ、続く文化大革命で迫害の憂き目に遭い、十年近くを獄中に過ごしました。名誉回復後も中央とチベットの橋渡しとして活躍しましたが、1989年1月28日、心臓発作のため惜しくも亡くなりました。
   チベット自治区シガツェにあるタシルンポ寺には彼の遺体を収めた豪華な霊塔が国費で建造されましたが、パンチェン・ラマという宗教的権威を利用しようとする中共は自らその後継を選出し、チベットの人々の間に新たな悲憤を引き起こしています。


【目 次】  


訳文の一部に誤訳がありました。 《七万言の書》(P37,102)からの引用部分で
“到使千万人遭到了非正常死亡”の“千万人”を「1千万人」と翻訳しましたが、この場合の“千万”は具体的な数字ではなく概数を表すもので「非常に多くの」という意味になります。
したがってこの部分を以下のように訂正いたしました。
とりわけそれらの人々をわざと生活習慣の合わない地方へ送ったために大勢の人々が異常死し、その遺体をきちんと埋葬できないということも起こりました。」(P37,102)。

ご指摘まことにありがとうございました。誤訳を掲載しましたこと謹んでお詫び申し上げます。




   英国ロンドンにあるチベット・ニュース・ネットワークは先ごろ、チベットの高僧パンチェン・ラマ十世によって1962年にチベット全土の苦難を中共に訴えた意見報告“七万言の書”を刊行した。この英語と中国語による本の書名は《一本の毒矢》といい、表紙は、共産党がパンチェン・ラマを批判闘争にかけている写真である。《七万言の書》チベット語版も最近、チベット亡命政府保安部チベット研究センターによってインドで発行された。長い間中共によって“トップシークレット”とされてきた文書が公にされたことは、チベット現代史に関心をもって研究している専門学者たちにまたとない材料を提供することになった。
   “七万言の書”は1962年に脱稿し、1960年から62年に至るチベット全土の人々が舐めた苦難を収め、パンチェン・ラマ自らチベットの大部分の地区を視察した後、“党中央”に報告した意見をまとめた文書でもある。



“七万言の書”が作成された課程


   1949年、中共の軍隊はチベットに侵入し、数世紀にわたって仏の慈悲と静けさの中に閉じられた世界は一瞬にして動揺と不安の只中に突き落とされてしまった。

   中共の高圧的な支配と情け容赦ない暴力的行為に耐えきれなくなったチベット民衆は、50年代末にチベット東部のカム、アムド地区で相次いで武装蜂起し、このレジスタンス運動はチベット全土に広まっていき、終にはチベットの首都ラサで全世界が注目した民族蜂起(中共はこれを“叛乱”と言っている)が起こったのである。中共は大規模な軍隊を動員しただちに鎮圧へと乗り出した。蜂起はチベット人に数万人という大きな犠牲を払わせて終わった。しかしチベット人にとって政治的な指導者であったダライ・ラマは、1959年3月17日の晩にラサを離れインドへと亡命したのである。

   中共は、チベットのもう一人の精神的指導者パンチェン・ラマを擁して再度ラサに兵を差し向け、彼をチベット自治区準備委員会主任という新たな職務に就かせ、最後には彼を北京に“留め”たのである。チベット人の精神的指導者として、パンチェン・ラマは中共側が目論んだような酒色に耽る生活に溺れる気などなく、かえってチベットの人々を襲っている災難に心を痛めるばかりであった。こうした現実を前に、彼はチベット民族を救い出す手だてを探り始めていたのである。

   60年代初め、パンチェン・ラマは中央の指導者という身分でチベット各地へ視察に向かった。その結果、過去数年間のいわゆる“叛乱平定”、“民主改革”、“大躍進”等の政治運動においてチベット人は甚大な苦難を被り、しかもこの苦難はいまだ蔓延し続いているということを発見したのである。パンチェン・ラマはあまりの悲しみに耐え切れず、その見聞きしたことを意見書として書面にしたため、当時の劣悪な状況を改めてもらうよう党中央に報告することにした。彼はこうしたことを自分が負うべき当然の責任であると考えたのである。

   1962年初め、北京で民族問題に関する会議が招集された、この機にパンチェン・ラマはチベット各地から訪れた代表たちに接見し偽らざる現場の状況を報告させたが、結果は彼自身が目にしたものと同様で、チベットの状況はすこしもよくなってはいなかった。会議終了後、彼は外部の人間に煩わされるのを避けて北京の宿舎に閉じこもり意見報告を書いたのであった。

   いざ意見報告の原稿作成と整理を始めると、多方面からの妨害を受けることになった。彼の家庭教師であったングルチュ・ラマもその一人である。ラマは中共の悪辣な本姓をよくわかっていたので自分たちの大ラマがその毒牙にかかることを恐れ、涙ながらにこう願った;
「法王様はすでに亡命され、いまや残されたのはあなたお一人となりました。あなたにもしものことがあれば、あなただけではありません、わたしたちタシルンポ寺とチベットの今後のみならずチベット全土の政治と宗教に関わるすべてがその影響を受け、数百万のチベットの民が依る辺を失なうことになるでしょう。」(ジャンベル・ギャツォ著《パンチェン・ラマ》)

   パンチェン・ラマはしかしこれにやさしく応えて言った;
「民族が元気づき人々が幸福になり仏法が栄えるならば、わたし一人がしばしの間多少不当な扱いを受けようとも、それを悔やんだり後ろめたく思うことはありません。」

   これがパンチェン・ラマの彼の師に対する答えであり、彼の生涯の生き様であった。それは彼の崇高な理念と民族のために捧げた精神を総括しているものである。

   師は逆にパンチェン・ラマに説得され、さらに意見報告の文字を大幅に手直しした。報告書の原稿はチベット語で書かれたものであったが、パンチェン・ラマが当時の翻訳担当官に中国語に翻訳させた。中国語の漢字数にして約七万字ほどあったので“七万言の書”と呼ばれたのである。

   中共政治局局員たちの中でパンチェン・ラマと比較的密接な関係にあったのは周恩来であった。そのため彼は “七万言の書”を“党中央”に渡して欲しいと周恩来に願い出たのであった。

   “七万言の書”の正式の標題は、《敬愛する周恩来総理を通じて、チベット及びその他のチベット区域人民の苦難についての中央への報告と今後の政策に対する提案》という。



覆い隠すことのできない歴史的事実


   パンチェン・ラマが当時置かれていた情況ゆえに、“七万言の書”はかなりの紙面を共産党の民族政策をたたえることに費やし、その“愛国”と“愛党”を表明している。しかしその後に続く八章からなる文中には、中共がいわゆる“叛乱平定”、“民主改革”、“大躍進” といった運動の中でチベットに対して行った“民族と宗教の殲滅”政策を一つ一つ列挙しているのである。たとえば、パンチェン・ラマが“叛乱平定”拡大化の問題に触れる時には、
「悪人善人を問わず一律に逮捕し拘束する、これは世界中のあらゆる公正な法律に違反しています。」(P.102)

「たくさんの群集が不当にも無実の罪を着せられ、逮捕され投獄されています。所有財産も没収し、反乱罪の首謀者同様に扱うといったことには驚くばかりです。」(P.13)

   この二つの話は、いわゆる“叛乱平定”後、中共が有無を言わさず“プロレタリア独裁”を実行していった様子を体現している。

「民主改革闘争が行われたところでは二つの嵐が吹き荒れました。例えば、もし闘争を進めたいと思えば、たとえその人に特別重大な過失がなくても重い罪を捏造し、かつ大げさに思うにまかせて無実の罪をなすりつける、なんら根拠もないばかりか、ますます激しく狂気じみたひどい攻撃を加え、あろうことかその人を無実の罪に陥れる。その結果、たくさんの善良な人々が濡れ衣を着せられたのです。しかもこのような狂気を行った人々をかえって褒美を与えて表彰し、事の真偽を調査することもなく、しかるべき実態の把握もなされなかった、これがその吹き荒れた嵐の一つです。…ひとたび闘争が始まれば、叫び声と怒号の下、殴る蹴るの残酷な肉体的暴力を一人一人から受ける、ある人々は大きな鍵や棍棒を使って闘争の犠牲者をひどく打ちのめします。それは彼が身体中から血を流し、気を失って倒れ、手足を骨折するなどの重症を負うほどのものでした。その場で絶命した人もいるほどです。これが二つ目の嵐です。」(P.24)

   これは、チベットで行われたいわゆる“民主改革”における“プロレタリア独裁”の常軌を逸した狂気の場面であり、“文化大革命”のそれではないのである。

   中共は、チベットに対して行った極端な政策の罪過をすすんで“文革”や“四人組”のせいにした。しかし、チベットの精神的財産と文化の源である聖なる仏の教えを滅ぼそうとする行為は、 “文革”以前にすでに大々的に始まっていたのであり、パンチェン・ラマの以下の話はそのすべてを証明するものである。
「仏像、仏典、仏塔等を滅ぼし尽くすという運動が怒涛の如くに湧き起こり、数知れぬ仏像、仏典、仏塔が焼かれ、あるものは水中にあるものは地面にうち捨てられ、ばらばらにされ融かされてしまいました。寺、仏堂、マニ壁、仏塔は次々に破壊され、…多くの仏像を飾る宝物や仏像や宝塔内に納められた尊い貴重な品々が盗まれてしまいました。…また、はばかることなく公然と宗教を侮辱し、“大蔵教”で堆肥をつくり、多くの仏画や経典をわざわざ靴作りの原料にしたのです。まったくひどい話です。」(P.51)

「民主改革以前、チベット(筆者注:チベット自治区を指す)には、大、中、小合わせて寺が2千5百ヶ所あまりありましたが、民主改革以降、政府によって残されたのはわずかに70数ヶ所で97パーセント以上も減ってしまいました。…また、以前は僧尼の数が11万人を越えていたのにに、改革以降寺で生活する僧尼は7千人と、93パーセントも減少したのです。」(P.51〜52)

「自治区以外のチベット族居住地区の寺院とラマ僧の数は、叛乱平定前に比べると98〜99パーセントも減少しています。」(P.104)

   これがチベットの宗教文化を育んでいた寺院と僧尼たちが被った災禍なのである。

   中共はチベットを占領して以来、旧チベットが暗黒と未開の状態にあり、共産党は窮乏していた人々に光明をもたらしたのだとさかんに吹聴してきた。しかしパンチェン・ラマはその“七万言の書”の中で共産党が新生チベットにおいて引き起こした惨状に言及し、次のように指摘している。
「チベットの一部地域ではそれぞれ餓死者が出るという情況で、それはあってはならぬことであり、劣悪な重大な問題なのです。かつてチベットは暗黒で野蛮な封建的社会でしたが、しかし食糧にはこれほどこと欠いたことはありませんでした。とりわけ仏教の教えが広く行き渡っていたため、貴賎を問わず如何なる人も貧しい人を助け施しをするという良い習慣を身につけており、乞食でも生きる術があり、餓死者が出るようなことはあり得ませんでしたし、わたしたちもいままで餓死ということを聞いたことはありませんでした。」(P.29)

   パンチェン・ラマがチベット東部の青海地区を視察した時、多くの群集が現地幹部の妨害を乗り越えて彼を拝みにやって来た。そのなかの一部の勇気ある人々は涙ながらにこう訴えた;「飢えに苦しまないよう、仏教が滅ぼされないよう、我ら雪の国の民が滅びないようにどうかお祈りください!」(P.113)これは“新旧”チベット社会の明暗である。

   続いて、チベット人に対する大規模な拘禁の惨状について“七万言の書”は単刀直入に言及している。
「それほど多くの人々を拘束し、しかも管理不行届きで、とりわけそれらの人々をわざと生活習慣の合わない地方へ送ったために大勢の人々が異常死し、その遺体をきちんと埋葬できないということも起こりました。」(P37,102)。

   中共が思うままに拘禁しひどい虐待を加えた結果、民衆の生活は苦しく、数十万人の死者を出すというありさまで、「いまやチベットの人口は著しく減少し」(P.103)てしまったのである。

   紙面の都合で、“七万言の書”の全内容を詳述することはできないが、しかし以上かいつまんでご紹介した語るも辛いいくつかの文章から、だいたい50〜60年代チベット人が共産党の“賢明なる”指導のもとで受けてきた前代未聞の災禍がどのようなものであったか知ることができる。これはまたパンチェン・ラマが共産党を褒め称えた後に中共のチベット政策について具体的に否定したということでもあるのだ。



悲惨な結末


   1962年5月18日、パンチェンは“七万言の書”を周恩来総理に呈上した。当時、李維漢(訳注:リー・ウェイハン 1896〜1984、48年から64年まで党中央統一戦線部長。民族区域自治の成立、チベット問題にも関わる)、習仲勲(訳注:シー・ジョンシュン 1913〜、当時の国務院総理秘書長)等、中共の指導者たちは“七万言の書”の内容を仔細に検討し、ついにチベットの現状改善に関する政策性をもった文書と制定した。しかし形勢は突如急転換し、一ヶ月あまりの後に北戴河で党の工作会議が召集され、統一戦線部門が階級闘争をやらず投稿主義であるとの譴責を毛沢東から受け、しかももう一人の中共指導者も;「李維漢はこういった連中をいたくかわいがっているようだ。パンチェンの尻尾はUG2型飛行機より高く跳ね上がっているぞ。」 と責めたのである。

   62年8月、チベット工作委員会の関係者がパンチェンに、こんどの政治協商会議に参加する時行う報告を検討するよう要求した。パンチェン・ラマは事実から自分の言葉を弁護しいかなる過ちも認めなかった。この時以来、パンチェンは中共によって自宅軟禁とされたのである。

   1964年9月、いわゆるチベット自治区準備委員会第七回会議の折、パンチェンの“七万言の書”に対する批判が始まった。後に批判大会はチベット全土に及び、ラサ、シガツェ等において“パンチェン反党、反革命集団”の“罪証”なるものが展示された。パンチェンは“反党、反革命、反社会主義、祖国の裏切り者”という四大罪を被せられ、チベット自治区準備委員会主任等一切の職務を解かれた。

   翌年末、パンチェンは首都に“迎え”られ北京の宿舎に幽閉の身となる。66年8月のある晩、十数名の紅衛兵が彼を縛り上げ中央民族学院に護送し、翌日の一万人批判闘争大会で我先にパンチェンを批判し、即日“パンチェン批判司令部”が成立した。この年の末、かつて人民代表大会副委員長兼チベット自治区準備委員会主任であった“国家指導者”は中共の闇の牢獄に九年八ヶ月という長きに渡って閉じ込められたのである。

   この時以来、“七万言の書”もともに“行方不明”となり、パンチェン・ラマが亡くなられて久しい今日ようやく日の目を見たのである。


1998年4月2日 ワシントンにて


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