発起人 関榮四郎氏の名誉の戦死を悼み讃える
発起人代表 中島省治
当会会員名簿で既報の通り、関氏は6月13日、僅か半月足らずの療養、緊急入院で急逝された。
月例の5月22日の発起人打合せには直前まで出席のつもりで、当日待ち合わせの所へ携帯電話に「歩けないので欠席」との連絡があった。
その後も新入会員の連絡などで2回(5月28,30日)電話したが、声も特に変わりなく、しばらく加療されれば恢復されると考えていた。当人は「慢性膵炎による腎臓圧迫−歩行困難」と言っておられた。その後緊急入院、面会謝絶となり、情報も途切れる中、痛恨の報せとなった。
関さんとは僅か1年5ヶ月の交わりだった。私が神奈川「世論の会」や「つくる会」で朝日不買運動の話をしたご縁で、教科書問題で知り合った大和市の谷辺勝啓氏より紹介され、小田急線町田駅で出会ったのが、昨14年2月19日だった。
そば屋でビール、焼酎を呑みつつ話が弾み、次ぎに3月21日、東京は有楽町、読売ホールの「つくる会シンポジウム」に参加のあと、記念すべき本会発足の席となった。
新たに町田市の高山龍雄氏と三人である。
高山さんは関さんと東大・電気/電子工学科の同級生(仲間の夫人が文科相)で、当会ホームページ「徒然草」の筆者、玄人はだしの先見的評論を書かれる筋金入り愛国者である。
相模原、大和、町田と数km圏の中に、1ヶ月位の間に3人の同志が固く結ばれるなど、考えも及ばない絶妙なお導きと唯々、感謝している。
こうして「朝日糾明の会」の名称、構想、進め方など骨格が見えてきた。年長の故に私が推されて代表に、発起人3名で祝杯をあげた。ニュートーキョー2階である。
以降の詳細は機を見て話したいが、それからの関さんの活躍はすさまじかった。
第三者から見たら一銭の得にもならぬどころか、全て持ち出しで、超巨大組織・天下の朝日に、徒手空拳(?)たかだか3人で、糾明にのりだす常識を超えた運動に、関さんは文字通り真剣に取り組まれた。それ以前の歴史を全く存ぜぬ私は圧倒される思いだった。
流石は都立日比谷高校からのエリートと言うべきか、ひたむきにパソコンに打ち込み、資料をあつめ、ホームページを起ち上げ、返信はがきの局留めの設営、入会者の処理、応対と、パソコン音痴の小生の分まで恐縮も言えない活躍であった。研究熱心も。
毎月のそば屋の会合(前半1時間余はお茶一杯で事務的に、あとはジョッキとキープボトル)は若者以上に純に情熱的に盛り上がり、生き甲斐があった。
3月には一周年記念とて、関さんの設営で大和の中華料理屋の個室で近くの同志4氏が加わり、初志達成を約した。
今にして思えば、関さん期する処あったのか・・・・。関さんは上機嫌だった。
同じく今にして思えば、神ならぬ身の余命を知らぬ氏ながら、心中のある予知(超)能力に命ぜられ、最後のご奉公との覚悟に導かれ、自らは知らずして全力投球されたのでは・・・・。それ故に反って寿命を縮められた、と身内の方からは言われるやも知れぬ。
この会に誘った小生としては、悩ましい処である。氏は如何にも楽し気であったが、氏の仕事ぶりに、鬼気迫るものが(霊視者には)見えたかもしれない。
関さんは小生が支部長の日本会議相模原支部に入会され、市北の橋本での会合にも、大和から何回も出席された。
4月27日、『武士道解題』李登輝著の読書会でも発表された。この時がお会いした最後となる。
支部行事の武蔵野御陵参拝、昭和の遺産巡り・バスツアーにも奥様と参加された。その折紹介され入手された軍歌集『雄叫(おたけび)』(A6判400頁)は、後にわざわざ九段の発行所までカーナビの車で行かれて数十部を求め、知人友人に普及しておられた。余程気に入られたらしい。読書家であった。
尚支部では香淳皇后のご命日の前日6月15日に御陵参拝の折にこの日が偶々関氏のお通夜の日でもあり黙祷した。
5月7日、有楽町国際フォーラムの超満員集会「拉致はテロだ」にもご夫婦で車で参加、「入れずに帰った」と電話で話された。死の38日前である。膵臓ガンの進行状況から推察すれば、最期の生命力、情熱を、憂国の思い、に凝縮され、忠実に嬉々として、痛みを忘れて行動された。ガンも氏の気迫に押されてギリギリまで沈潜していたが。
64歳と言えば気力・体力(智力は申すまでもなく)ともに男盛り、その絶頂のとき、朝日新聞糾明に精魂を集中し、散華された。『雄叫』のどの歌を唱って往生されたか。
”壮絶なる名誉の戦死”と悼む所以である。
氏の一年有余にわたる”いのち懸け”の努力・奉仕を継承し、その御意志達成に取り組みますことを改めて御霊に誓うものである。
如是合掌
7月18日 5週目の金曜日