Dansomanieサイトのマチュー&カルフーニのDVDに関するインタビューの日本語訳
Dansomanieサイトのインタビューページはこちら

■<マチューへのインタビュー訳>■■■■■■■■■■■■■■■■


Q:始めはお母さんの方を撮影する予定だったのですか?この映画に出るよう薦められた時どのように感じましたか?

M:最初の内、撮影は母中心でした。少しずつ親子関係の思い出が出てきました。妹と僕は、彼女の人生の中で重要な役を演じています、二人ともダンサーで目的が並行しているのは興味深く思いました。
当初僕は自分のキャリアを見出し、母の方に特別な目を向けていなかった、人々が僕の年と少ない経験で、彼女の映画をとることをうぬぼれと思われるのが嫌でした。
しかし同時に、彼女に敬意を表す映画に出ることができて、とても幸せで誇りに思います。これはマレーヌ・イオネスコの本当に素晴らしい贈り物です。

Q:カルフーニはあなたにとって芸術的相談相手として位置づけていないのですが、あなたの目からみて彼女はあなたのダンサーのキャリアにおいてどういう役割をしていますか?

M:母の眼差しは、ダンサーであってもなくても、いつも重要です。個人的にそれを否定する事はできません。母はプロとしての目を持ち、場合によっては間違いを指摘してくれます。彼女をごまかすことはできないのです。ですから私にとって彼女が少し物事をまとめてくれることが重要です。彼女は私が選択したり決定したりする時に必要な人で、言わばガイドです。彼女は、日常にはいないけれども局部的にいて、決して私に無理じいしないんです。反対に、彼女の考えを求めるのは僕の方なんです。彼女はとても慎み深く、僕はそのことに感謝しています。僕が彼女に頼む時は本当に必要だからです。
彼女は練習しなければならない特別な点についてただ指摘します。それは、「五番で閉じて」とか「ピルエットに注意して」といった技術的な訂正ではなくて、彼女は僕が知っていることをよく理解していますから、しかしむしろ「胸をもっと使うこと」とか「役の中で本当の感情を掘り下げること」、それらは、オペラ座の教師の訂正よりもより一般的なコメントです。

Q:あなたはバレリーナとしての母親をどのように見ていますか?彼女が踊るのを見ましたか?

M:僕は彼女をほとんどローラン・プティのバレエの中で見ています。それにマレーヌ・イオネスコのおかげで、マルセイユバレエ以前の証言とビデオにアクセスできて、とても感動的でした。僕は、ノートルダム・ド・パリのようなプティのある作品の中でとても貴重な思い出があります。マ・パブロワはないですけれど(マチューは母のそばでまだ幼い頃に出た)。このビデオを見るのはとても不思議で、ほんとに実感の思い出がなくまあ無意識でした。
僕は、全く彼女の技術やキャリアを見ませんでした。僕が見るのは唯一思い出からだけだったから。説明するのは難しいけど、僕が見る時はダンサーを見てなくて、うまく形容できない・・・実のところ彼女はいつも僕の母親のままなんです。最初は感情と要求から舞台の上の母を見ているんです。

Q:あなた方二人の間で芸術的な親子関係について話すことができますか?

M:僕達の間で似ている点を見るのは面白いですね、外面ではなくて、というのはこれらの類似性は選択したものではないから。僕達は二人ともスジェからエトワールに任命されました。ロシアが僕達に芸術的豊かさを沢山もたらしました。僕達は若く深刻な事故も経験しました。多かれ少なかれ同じ芸術的感受性を分かち合っています。

Q:ところで、イオネスコはあなたがロシア、サントペテルブルクのマリインスキー祭典でオレシア・ノビコワと有名なジゼルを踊った長い映像を撮りました。これはイオネスコからあなたをそこで撮影したいと申し出たのですか?

M:イオネスコは僕を撮る必要がありました。僕がドキュメンタリーに出ることが決まった時点から、僕が必要と判断したこと、望むことを知らせるよう提案してくれました。ダンサーのキャリアにおいては、怪我や公演の変更に降伏し、時々先の事を予測するのが難しくなります。2007年マリインスキーの祭典に招待される事を知るとすぐに、このいい機会を撮影してもらおうと、これを活かさないと後悔すると思いました。最後の時点でそれが可能だとイオネスコに予告しました。ぎりぎりになって決めるのは確かに彼女にとってあまり現実的ではなく、僕はとても不安になり、しかし彼女はすぐに受け入れて、最終的に彼女は僕と合流することができました。

Q:あなたのキャリアにおいてロシアの経験はどのように役立ちましたか?

M:この経験は僕の目を開かせてくれ、キャリアの横這い状態を乗り越えることができました。それはある確信を強めるか揺るがすものです。家に帰った時、多分ダンスやキャリアに対する期待や願望をより早くと思うものです。僕は、進歩があったという感覚で帰ったことがなかった、しかしロシアではダンサーの日々の公演や仕事を検討する他の方法を見つけました。
そこでは、ダンサーは個人的なコーチなんです。つまり与えられた作品について練習させる教師がいなくて、一日彼らに適して練習すべき全てを教える教師がいるんです。僕はマリインスキーのディレクターであるユリ・ファテエフと自分のパートを練習しましたが、彼のコーチのやり方がとても気に入りました。彼は僕に自信をつけてくれ、僕の性格にあった振付けをしてくれたんです。パリではそんな事は全く問題にならなくて、しばしばオリジナルの振付けと全く同じく忠実にやっています。ロシアでは、伝統がとても強く振付けの細部に存在していて、パントマイムやヴァリアシオンにあり、より一層個人的な芸術的作業の特権を与えられています。 パリでは、状態を見て作業する特権がありますが、サントペテルブルクでスタジオの自由さはなく、ほとんどそこで練習しなかったですが、ダンサー達は舞台に上がると、公演を確実に本当の魔法になるよう全力を尽くすのです。多分日常的には難しい事ですが、いずれにせよ僕が感じたのはそのようなことです。パリに戻ってこの経験を自分のダンスやオペラ座で活かすように自分にいい聞かせました。
パートナーのオレシア・ノビコワとは全て順調に進みました。美しい出会いでした。以前から彼女を知っていたんです、というのは前年にも彼女とドン・キホーテを踊ったので。さらに言うと前回バジリオ役のために招待された事は少し奇妙に思いました、何故ならこの役が自分に合っていなかったからです。

Q:ウェイン・マクグレゴーのGENUSの抜粋でかなり長く踊るのを見ました。この経験はあなたにとって特別な重要性がありましたか?

M:イオネスコがこの抜粋を選びました、というのは映画の撮影時期と合っていたからです。ウェイン・マクグレゴーは重要な出会いです、何故なら彼は興味深く仕事ができる振付家なんです。不幸にもあまりに早く(ヘルニアで)故障してしまい、舞台で堪能する時間が本当にありませんでした。振付けは頭にとってとても苦しかったです、覚える事や数える事が多くて。例えばマクグレゴーは、構造を取り去る為に動きを習い、次に腕だけでまたは胸も一緒に動かせ、さらに胸と腕を同時に使って異なる動きを融合させる、ということを好みます。
この振付けは、僕達の頭脳をたくさん働かせ、さらに調整させるというものです。全く習慣になかった、新しい動き方に取り組まなければなりませんでした。言われた振付けに取り組む前に多くの作業をしました。

Q:映像は始め日本で発売されました。日本のファンに対するあなたの人気のためでしょうか?

M:日本人はビデオに興味を持ってくれた最初の方達でした。彼女達はとてもバレエが大好きで、それは本当で、毎回公演でとても良いもてなしを受けています。日本に行くのはとても快く、ダンスに対する文化や情熱があります。僕の人気については多分大袈裟でしょう、他のフランス人ダンサーも日本でとても素晴らしい踊りを披露しています。しかしおそらく母ドミニク・カルフーニとの関係から感動するのでしょう、彼女達は母のことも知っていますから。いずれにしても、日本ではいつも僕とキャリアにとって重要な出会いがあるのです。
(2008/12/16)

■<カルフーニのインタビュー訳>■■■■■■■■■■■■■■■■


Q:イオネスコが映画を撮る提案をどのように受け入れましたか?

K:先ず友情について、最初に出会いがありました。実はイオネスコが彼女の映画「オセロの夢」の試写会に招待してくれたんです。その後、撮影の際に気をきかせて私が赴かないで撮影されるようにしてくれて、実際撮影された時を知らなかった。私達は話し合い散歩したり、彼女は南仏の私達の古い家を再び見に誘ってくれました。本当は、この映画は他の人なら撮らなかったと思います、というのは彼女が芸術家で、物事を進めるやり方を心得ていたからです。もはやただ単にダンサーのキャリアの回顧というのではありません。私をとても喜ばせてくれたのは、息子との結びつきとそれを伝えるアイデアです。私達二人の方向性の共通点が明確になりました。最初にも言いましたが、映画にするという事です。

Q:ダンスは映画の中であなたにとって常に存在するもの、証しとして表現されています。しかし、あなたは、全ての引き金であった最初の思い出について触れていませんね。

K:実は、たくさん最初の思い出があります。4才の時両親が連れて行ってくれた、モイセーエフバレエ団で初めてバレエを見た思い出があります:音楽、衣装、踊る喜び、すぐに一目惚れしました。それで私は、その年末に公演を開催する小さなバレエ学校に入りました。レッスンも公演も正に私が望んでいたものでした。週のレッスンが私の幸せでした。そして4才半で始めて、他に何も知らないという事に気付きました。残りは話すことを覚える時のように、理論の勉強でした。 しかし、もし選べるとしたら、私は音楽家になっていたでしょう、というのは私はやはりダンスより音楽の方が好きなんです。ダンスと違って、音楽では年令制限がありません。音楽家は人々が聞き、ダンサーは人々が見るものです。私は他人の視線にいつも気詰まりを感じていました。 そしてダンスの基礎を復習するために、私の場合は自然とレッスンについていきました。オペラバレエ学校の通学の間、特に問題はありませんでした。時間と共に私は次第にダンスを愛するようになりました、そして後に経験した膝の怪我はダンスなしでは生きていけないことを教えてくれました。数カ月間、私は学業を続け他の事をやろうとしました、しかし時が経つほど、踊りたいという願望が募りました。

Q:映画の中であなたが語っている人物の中で、特にイヴェット・ショヴィレがいます。彼女はあなたのそばでどのような役割をしましたか?

K:私達は、マレーヌ・イオネスコとたくさん話しました、その会話の中で、映画に収めるいくつかの断片を最終的に残すことを話し合いました。私達の話し合いを通して、イヴェット・ショヴィレは 実際不可欠な人物と思われました、私は彼女のカリスマ性に強い印象を受けました。先ず私は彼女をオペラ座においてダンサーとして、それからバレエ教師として接しました。毎日彼女の午前中のクラスを受けました、というのは彼女のレッスンは任意だったので。彼女は多くの資質、詩的、叙情性またファンタジーやユーモアも持っていました。彼女は自然体で魅力的でした。彼女のクラスは他とは違っていました。彼女は私の性格や困難を忘れさせてくれました。私は彼女を通して夢を見ていました。

Q:映画ではあなたがロシアで影響を受けた舞台の事も紹介され、同時にあなたは既にオペラ座のダンサーでした。あなたの意志で一ヶ月研修でロシアのボリショイに行く事を、オペラ座に許可を求めました。そこであなたは何を探し何を見つけましたか?

K:モスクワで、私は先ず大きな混乱に陥り孤独に出会いました。この経験は私が知る最も辛いことの一つでした。私はそこにたった一人着いて何もわかりませんでした。会った事もない誰かの家に泊まりました。地下鉄を使わなければならず、文字を読む事も知らなかったのです。劇場では、誰も挨拶もしてくれませんでした。要するに、恐ろしい状況でした。同時に、私はたくさん舞台を見てとてもショックを受けました、ウラジミール・ワシリエフ、エカテリーナ・マクシーモワ、ナタリア・ベスメルトノワ、マイヤ・プリセツカヤ等でした。これらのダンサー達は私が夢に見ていたように踊っていました。私は彼女達がそこで練習していたのと同じダンスを見たかったのです、私は突然ダンサーの流儀としての共通点や人物の関係性に気付きました。勿論、私はフランスの学校を素晴らしいと思いますし、オペラ座を敬愛しています、しかし現実にロシアで私を自由にするような衝撃を感じたのです。突然私は母国で表現しなければならない何かを理解しました。この発見は本当に為になり目を開かせてくれたのです。

Q:あなたは、ユリ・グリゴローヴィチの作品、「イワン雷亭」のアナスタシアやエトワールに任命された役、に特に親近感を感じましたか?

K:全ての物語が私の目にとって素晴らしく写ります。毎回、冒険であり忘我の境地です。また振付家やパートナー、音楽、過去との出会いです、私は過去に生きていて、なぜなら未来は私を怯えさせるからです。グリゴローヴィチのヒロインは本当に皆類い稀な女性達で、私自身の人生よりもっと興味深く思えました。彼女達はある意味で慰め、逃げ道で、幸福を象徴しています。アナスタシアはこの場合とても遠い時代に現れた、妖精のような人物でした。

Q:あなたのエトワール任命にはどのような背景がありましたか?

K:私は先ず「白鳥の湖」を三回踊りました、記憶が正しければ、コールドバレエとしてルーブル宮殿で。さらに舞台に出ることはあまりなく、コンディション作りがとても難しかったんです。私はスジェに昇進したばかりで、カドリーユやコリフェのクラスを出ることに多くの不安を抱えていました。その直後、バカンスをとり戻ってくると、当時オペラ座のレパートリーになった「イワン雷亭」のアナスタシア役を踊ることになり驚きました。それは素晴らしいニュースでした。この役で私はエトワールに任命されたのです。

Q:あなたが特に注目したパートナーは誰ですか?

K:私は非常に優しく寛大なパートナー達と踊る機会に恵まれました。それぞれ個性があり、相応しい資質を持っていました。名前をあげることはしたくありません、というのは私のパートナー達と良い関係を持っていますから。それぞれと共に違った経験をしています。全てのパートナー達は、私を前進させてくれ、感情を掘り起こしてくれ、豊かにし何かを学ばせてくれました。 オペラ座以外のダンサーでは、ウラジミール・ワシリエフ、ミハイル・バリシニコフ、リシャール・クラガン、ピーター・ショファス・・・映画の中で選択しなければなりませんでした。特にワシリエフは私のロシアでの研修、話し合いにおいて重要でした。しかし、全てのパートナー達は私にとってお手本で、尊敬しています。私が若かった時、彼らはアイドルでした。いつかワシリエフやバリシニコフに面と向かうことになるとは想像もつきませんでした。しかし全ては主役と共に非常に早くやってきました。それがこの映画のタイトル「夢のように」の理由の一つです。今日また、彼らと出会えて、一緒に仕事をし、彼らの仕事と舞台をお見せできたことは素晴らしい機会に思えます。

Q:あなたはマルセイユバレエ団の為にオペラ座を辞めました。どのようにローラン・プティと出会いましたか?

K:「白鳥の湖」とエトワール任命の頃に、ローラン・プティが既に入団を薦めていました。私は既に招待公演で何度かマルセイユバレエに行きました。それから彼がオペラ座で「オペラ座の怪人」を上演しにやってきて、この作品を踊りました。私は移籍することにとても惹かれました。当時私はいつもオペラ座で少し居心地悪さを感じていました。このバレエ団はある意味で大き過ぎるように思えたのです。私は何もすることができず、交渉する術も知らなかった。でも私はこの劇場を心底愛しており、パートナー達も敬愛していて、やるべき事も解っていて、他へ移ることを考えたことはなかったのです。 そしてローラン・プティに再会する為に、私は彼の全ての公演と作品を見ました:特に「アルルの女」と「プルースト」はとても印象的でそれを踊りたいと思いました。その時代、ジョージ・フランソワ・ヒースとロゼラ・ハイタワーがオペラ座に着任しました。私はバカンスに一ヶ月間アメリカに研修に行く許可を申請しましたが、話し合いもなく却下されました。

Q:あなたの移籍後ヌレエフがオペラ座に着任しました。彼の元で踊れなかったことで後悔はありますか?

K:当時ヌレエフの作品はありませんでした。また私が憧れたのはジョン・ノイマイヤーや他の多くの振付家でした。私がいた頃のオペラ座には不幸にも数少ない振付家しかいませんでした。それを見た時正直がっかりしました。しかし、古典作品を踊り続ける為に他の振付家と仕事を並行してやらなければなりませんでした。特にバリシニコフはアメリカンバレエ団で続けることを提案してくれました。偶然にもマルセイユバレエ団の生活が、二人の子供達の教育はもとより、私を完全に満足させてくれました。マルセイユバレエ団はとてもうまくいっていました。私達は多くの公演で踊り世界中を回りました。他は、私はあまりお金がなく契約について話し合う事もしませんでした。

Q:その当時のオペラ座について、知らなかった事、知りえた事に関してどのように思いますか?

K:とても後悔しています。オペラ座はダンサーと同じく、外観が改築されました。刷新する必要がありました。私はヌレエフと少しパートナーとして踊りましたが、本当に彼と仕事をしたかった。

Q:あなたの時代のバレエと比べてオペラ座の変革はどのように写りましたか?

K:私は、もはや中にいなくて、外から見ると、やはりそこにいたかったと思います。 ダンスの変革については、ダンサー達にそれを求める必要があると思います。私は、ダンスは冒険であり、感情的なもので、唯一の点は、ダンサー達が観客にもたらすことのできる幸福だと思います。それが、私が個人的に期待していて、今日ダンスを学ぶ人々に望むことです。この芸術を通して、詩情や夢が続くことが必要です。間違いなく私達の世代は完全に技術的に追い越されていますが、その視点は一度も重要視されなかった。バレエ団で仕事をすることは非常に若い情熱を掻き立てました、しかし他の必要な仕事も、より一層の身体的、感情的な調整も避けて通れません。実際の変革は非常に技術的である事を否めません、しかし芸術的側面について、強く意見を述べることは控えます。私が唯一言える事は、舞台において毎回多大な幸福を得ることができたことです。私は日々公演を楽しみにしています、そして私が愛する子供達を見ると完全に豊かになります。

Q:あなたは息子さんの側でどのような役割をしていますか?映画の中では、あなたが柔軟体操の手助けをしていました。また彼の側で“芸術的助言者”でもあるのですか?

K:私は、単に今彼が生きているのと同じ経験を過去に受けた母親としての役割をしています。私は彼が通ってきたこと、彼が感じることを知っています。数多くの人々が既にオペラ座で彼を取り囲み、芸術的役割を果たすための専門的能力を保持しています。私はむしろ誰かが彼を励ましてくれることを信じています。次第に会うことが少なくなってきていますが、毎日連絡してたくさん話し合っています。私はまた公演を見に行き、ただあまり目立ち過ぎないようにしています。私が非常に残念なのは、スタジオの中には入れなくて、そこは子供達や他のダンサー達の世界です。完全にこの世界から排除されるのが辛いことは白状しなければなりません。私は幾分運命論者で、強く要求する方ではありません。私は人生の長い道程で、物事の良い方しか見ないように、人生の困難を忘れることを覚えました。しばしば述べたように、夢を見続けなければならないのです。



■<マレーヌ・イオネスコのインタビュー訳>■■■■■■■■■■■■■■■■

Q:どのような個人的経緯であなたはダンス映画を撮るようになったのですか?

I:私は初めに映画と演劇の研修をしました。私の最初の映画はまだ学生の頃で、ピアフの前の歌手、ダミアに捧げたフィクション・ドキュメントでした。その映画はカンヌに選ばれ非常に好評でした。同時にそれは売却され私はお金を得ることができて、それにより私はこのやり方を続けることができました。しかし、私は次にどのような種類の映画を撮るかというのは解っていませんでした。私の心の中では、次の映画は必ずしも歌手についてでなくてもよかったのです。それは、私の出会い、選択、または芸術的魅力によって特に意欲を起こさせるものでなくてはなりませんでした。私はまた多くの脚本を書きましたが、それらは助成金の委員会で拒否され、いわば阻止されてしまいました。

並行して他の出会いがありました、前夫でオペラ劇場の演出家です(ペトリカ・イオネスコ、特にヌレエフ演出のシンデレラの舞台装飾を行った)。そうして私は劇場の世界の情熱に深く入り込みました:私は主に演出の助手を務めました、俳優の指導等を習い、何年間か映画の方は離れていました。この劇場の世界で、私は二つの重要な出会いをしました、カロリン・カールソンとラリオ・エクソンです。彼らによって私はダンスの方へ戻ってきました。戻ったというのは、私は15才までダンスをやっていたからです。私はカロリン・カールソンの振付けに魅了されました、私の最初のダンス映画は彼女に捧げた「Blue Marine」という題の作品です。12分の短いフィクションで、オペラ座の地下で撮影され、もっぱら未編集フィルムとして作られました。

Q:そこからあなたは、ダンス映画を構成するこの肖像達のギャラリーの後ろで、長期間のプロジェクトを計画するようになるのでしょうか?

I:Blue Marineの後手がけた二作目は「La Barque sacrée」 (聖なる小舟)で、とても重要で成功した作品だと思います。私は多くの機会に恵まれました、というのは是非にと望んでいたチーフ・カメラマン、アンリ・アルカン(数多くの映画、特に「La Belle et la bête」(美女と野獣)のチーフ・カメラマン)と一緒に仕事ができたのです。この映画はエジプト神話、イリスとオシリスの神話を取り上げています。カロリン・カールソンがイリス役でラリオ・エクソンがオシリス役を、ヨルマ・ウオティネン(カールソンの劇団のダンサー)がセス役として演じました。この映画はFrance 3とla Septの協力により撮影されました、これが私の主な映画で、そこから本当にダンスの世界に入り込みました。

私の考えは、神話シリーズを全て作るというものでした、そこではダンサー達は喜劇役者に置き換えられ、毎回違う振付けが行われました。次の計画はまたギリシャ神話に基づいたものでした。映画は準備が整いタイトルは「Le Rêve d’Icare」(イカロスの夢)でしたが、最終的に制作できませんでした。私は財政的に立て直す時間をとらなければなりませんでした。この時期に沢山のプロジェクト、特にシャーマニズムやまたダンスについても書きました。

そして最後の方で上演されたラリオ・エクソンの振付作品「Le Rêve d’Othello」(オセロの夢)は彼とアニエス・ルテステュによって演じられ、私はオセロのテーマにそって短いフィクションを作るアイデアを思いつきました。私はモンタージュに多くの時間を費やし、この映画をオーバーラップで撮りました、このテクニックはダンスの世界ではバレエファンが純粋なイメージもつことを好む為に、リスクがあり滅多に使われていませんでした。しかし、この過程はオセロの狂気をテーマにしていました。アニエス・ルテステュはこの映画と彼の演出を非常に気に入ってくれました。
それから私は、ラリオ・エクソンのポートレート、タイトルが「Flight of Eagle Spirit」というのを撮影しました。映画は、パリ、ニューヨーク、そしてベニスで撮影されました。私はこの驚異的なダンサーの過程に出会いたかったのです、彼はハーレムの貧しい子供で16才でダンスを始め、ヨーロッパでイリ・キリアン、モーリス・ベジャール、ローラン・プティの主役を踊っているところを見出され、カロリン・カールソンの30年間のパートナーでした。私は後に彼をベニス・ビエンナーレの際にソロで撮影しました。

この映画は、アニエスもまた見て気に入り、そこから彼女のポートレートを描くプロジェクトが生まれ、彼女が2004から2005年の頃、演技の成熟期でした。それで私は彼女の後を1、2年パリだけでなくフローレンスとヴァレンスに追随して、その成果が映画「Regarde sur une étoile」(美のエトワール)です。

Q:それから、どのように「Comme un rêve」(夢のように:二人のエトワール)を撮影することになったのですか?

I:全て一つの出会いから始まりました。最初は、オセロの夢を一緒に撮影していたラリオ・エクソンが、私にドミニク・カルフーニを紹介してくれ、彼女についての映画を作ることを薦められました。この出会いはオセロの夢の試写会で、ドミニクがとても気に入ったことに関連しています。私はラリオのアイディアに反対はしませんでしたが、そのことは全て無視していました。そして少しずつ私はこの企画を受け入れるようになりました。

私はドミニクにこの撮影に興味を持ってもらうよう説得するのに少なくとも2年かかりました。それから、少しずつ彼女のことを発見していかなければなりませんでした、というのは彼女は簡単に心の内を明かさなかったからです。実はこの映画は全ての映画のように冒険ではありましたが、素晴らしい友情と同時に進歩的な冒険でもありました。すぐに、ドミニクの描写の中でマチューを連想することは明らかになり、つまり母から息子への伝達です。彼はエトワールになったばかりで、しかも二人の共通点で、跳び級でエトワールになったのです。

Q:撮影はどの位の期間繰り広げられましたか?

I:プロジェクトは2006年末に具体化されて、撮影は主に2007年半ばに行われました。私は最初のモンタージュを作りましたが、映画は完成していませんでした、というのは私は是非ミハイル・バリシニコフとウラジミール・ワシリエフの証言をとりたかったのです。私は特にウラジミールに感動しました、というのは彼がドミニク・カルフーニとの再会をとても喜んでいたのです。そのように、映画の完成にはほぼ2年かかりました。

私はまたマチュー・ガニオを、彼がマリンスキー祭典でオレシア・ノヴィコワとジゼルを踊る為に、サント・ペテルブルグに行くのについていきました。私はコンテンポラリーの振付で終わりたかったので、ウェイン・マクグレゴーに承諾をもらい、アニエスとGenusの公演(二分間)を撮影しました。これは、オペラ座のある変革を描くことになりました。私の眼には、正にアニエスとマチュー・ガニオを撮ることが重要でした、というのはアニエスはドン・キホーテで彼のエトワール任命をそばで見ていたからです。またそこが物語になっています。私はまたこれが多分彼らが一緒に踊る最後の回になるだろうと思いました。

ドミニク・カルフーニについては、彼女のポートレートを構成する資料を探しましたが、とても難しいことが明らかになりました。その一方で、いくつかの例えばヌレエフの資料はとても傷んでいました。またある意味で、この仕事は貴重な冒険でもありました。

Q:どのように証言人物を選びましたか?

I:私は、カルフーニに打診して証言人物の選択をしました。また撮影コースに変更もありましたが、人物選択は最終的に、先ずミカエル・ドナールにしました、というのは彼はしばしばカルフーニのパートナーでしたから。彼女は全てのパートナー達を尊敬していることを強調しておかなければなりません。またウラジミール・ワシリエフはとても重要な存在で、ドミニクに深い賛辞を送り、ロシアに対する称賛でもありました。
ミハイル・バリシニコフもまた証言人物で、というのは彼女はバリシニコフとABTと一緒に半年間公演をしました。さらに彼女は、アメリカとマルセイユバレエの間で二者択一を迫られ、最終的にマルセイユバレエに入る事を決めました、子供達が低学年でもあった為です。ピエール・ラコットについては、彼はカルフーニの熱烈な称賛者です。彼はカルフーニの為にパピヨンを作り、さよなら公演でパートナーとしてパドドゥを踊りました。詳しく言うと、それらは多分あまり知られていないけれど重要なことで、そのため私は映画で彼らを見せたかったのです。

Q:タイトルはどうして「Comme un rêve」(夢のように)なのですか?

I:ある日、モンタージュ室で、カルフーニが私に「この映画は夢のようだわ」と言いました。タイトルはそのようにとても簡単に決まりました。

Q:今ダンス映画の題材になるモデルはいますか?

I:いいえ、私に影響を与え、私が愛するのは映画製作者です。チェコ映画、イタリア映画、キューブリックも、特にロシア映画:ミハルコフ、特にチェーホフやコンチャロフスキーを。さらに、「Comme un rêve」は昨年11月モスクワでソルジェニツィン基金のドキュメンタリー祭に選ばれました。映画は基金の記録資料として保存され、私自身も世界におけるロシアの文化推進の賞を受賞しました。この点に関しては、私も全くドミニクのようにロシアに大変惹かれています。
例えば、マリンスキー祭のジゼルは映画の中で抜粋をお見せしましたが、素晴らしい経験でした:私はオレシア・ノヴィコワのマチューとの見事な踊りを見ることができました。この女性は本当に愛すべき人で、彼女はドミニクのことを考えていました。私は、マチューが今年またそこで公演をする事ができるようにと切に願っています。
質問に戻りますが、そうですね、私はダンス映画、特にドミニク・デルーシュの作品を見ました、その中には私が手掛けたものもあり、やはり自分の道を行くつもりです。

Q:全てのあなたの映画を結び付けているものは何ですか?

I:その質問に答えるとしたら、私の全ての映画の背景にはかなり芸術的一貫性があるということでしょう。毎回、多くの要因の結合があり: 人間的魅力を忘れない多くの機会、芸術的出会いがありました。私にとって、特別な感情なしにダンスやダンサー達の映画を作ることはできません、その感情が出発点になっているのです。ドミニク・カルフーニは私を感動させました、ある役の中で非凡なアニエス・ルテステュのように。この感情が私に芸術家を追い続けたいという欲求を与えてくれるのです。後にある人々は他の人よりも心の内を打ち明けるということが明らかになりました。
例えばラリオ・エクソンはとても簡単に打ち明けてくれます:多くの変化の必要性を受け入れるとても寛大な人です。ウラジミール・ヴァシリエフもまたそうです。他の人々については、アニエス・ルテステュとミハイル・バリシニコフは少し難しくなります。特にバリシニコフは映画の中で感情を表に出さず、殆ど打ち明けなくかったという印象があります。
単純に私が近づきたいというのがあります:例えばワシリエフやマクシーモワはすぐに撮影することができました、ダンスの美しいイメージを撮るだけでは十分ではなくて、私には感受性を高揚させる他のものが必要です。続編ですか?ナタリア・マカロワが私を非常に惹きつけていますが、実のところ、私はこれからすることが決まっていなくて、未来はまだ疑問符のまま残っています・・・


-------------------------------------------
Traduction par IKUKO
-------------------------------------------