つばめの日本飛行記             0675

 



「日本の宝」、大館市見聞  (Part 1,

大館に行ってみたい!

        

「大館市に行きたいなあ」。       

ハチ公前で待ち合わせをした時、友達にポツリと言いました。ベンチに腰をかけていた友人は、「大館市なら、ここにあるよ」と植え込みに潜んでいた小さな看板を指した。まさか!こうやって、日本語を習い始めた時の教科書に登場していた忠犬ハチ公が、大館の生まれだったことを初めて知りました。

   

【慰霊式が市の定例行事】

去年の夏、たまたま北京で行われた花岡事件60周年集会を取材しました。大館市郊外で行われた慰霊式の模様が、会場の大画面にインターネット中継を通して放映され、ここ20年来、大館市主催の慰霊式が毎年行われていることを初めて知りました。どんなところなのか、是非行ってみたいと、その時心に決めました。

What is「花岡事件」?

1945630日夜、花岡に強制連行された中国人が過酷な労働と虐待に耐えられず決起し、後に鎮圧された事件。中国から花岡の地へ、計986人が連行され、内、418人が虐殺された。戦後、明らかにされた日本外務省の統計資料によれば、戦時中、中国から4万人余りの中国人が日本に強制連行され、全国135ヶ所の作業場で強制労働を強いられた。この内、7000人余りが日本で命を失い、遺骨となり中国に返還され、残りの人は戦後、中国に帰国した。(写真は慰霊式会場・十瀬野公園墓地。)





聞くところ、強制労働で殉難した中国人のための慰霊式は、他の地方でも行われています。しかし、市主催の定例行事として毎年開催しているのは、現在、大館市のみだそうです。

花岡事件の戦後処理をめぐり、生存者11人の提訴による花岡裁判は、200011月、強制連行された986人全員を掬い上げた形で和解が成立しました。しかし、被害者側による「記念館建設」の要求は和解で満たされていません。これを受け、地元市民による花岡平和記念館を建設する運動が起こり、026月から、「NPO花岡平和記念会」として発足。毎年の慰霊式に、生存者や遺族たちが現地を訪れ、大館市民と直接交流するイベントを行ってきました。

中日往来の来し方を振り返れば、「花岡事件」に象徴された歴史は、生存者と家族らの心身の傷と悲哀を伴って、今を生きる私たちの眼前に突きつけられています。大館市は行政も市民も、いずれも、被害者と真摯に向き合っているところが素晴らしいと思います。

【おじいちゃん&おばあちゃんたちの中国】

大館随一の名所・「鳥潟会館」の前で、私は偶然に二人のお年寄りに出会いました。最初は、空っぽの乳母車を押しながら、昼食前の散歩をしていた、腰の曲がった87歳のおばあちゃん。

「こんにちは!」と声をかけると、おばあちゃんは腰が曲がったまま、頭をもたげて、にっこりと笑顔を綻ばせ、「あんた、どこからの観光客?」と聞いてきました。おばあちゃんの言葉は、まるで柳田国男の世界。タイムスリップした思いで、突然頭に浮かんだのは、自分の通っている民話朗読教室の稽古でした。なるほど、これぞ本源!と頷いたのでした。

「北京です」と答えると、おばあちゃんは、聞き慣れない音の組み合わせに、「へえー??」と意味が分からなかったようです。「中国の北京です」と付け加えると、「へえー!」と、それは、それは驚いた表情でした。

おばあちゃんの方言が濃厚で、私は完全に聞き取れないことが悔しい。ただ、会館対面の家に大家族で暮らし、1989年、家族全員で中国旅行をしたことがあること、そして、「今は日中友好というからね」と繰り返して言っていたことだけが、しっかり聞き取れました。

「おばあちゃんの写真撮ってもいい?」と聞くと、「はいよ〜!はいよ〜」、とまたもや柳田国男の世界になりました。

二人目は、昼食後、新鮮な空気を吸いに出てきたのだろうか、その辺の石碑の階段に腰掛けていた95歳の老人でした。

元々は下駄屋の息子だったが、「不幸ながら、兵隊で香港に行った」。その時の怪我で、「今も腰が痛い」。広州と香港で10年間過ごし、敗戦は香港で迎えたそうです。おじいちゃんが、震えた声で繰り返して言ったことが印象に残っています。「行きたくはなかった。やむを得なかった」、「政府の命令で、強制的に行かされた」。

「出発ですよ」との催促を受け、もっと時間があればと悔しい気持ちを抑え、おじいちゃんにさよならしました。車に乗った後も、おじいちゃんはずっと視線で追っかけてくれて、「気をつけてな!また来てね」と大きい声を出して手を振ってくれました。

お二人とは、いずれも数分間しか話ができず、頗る物足りなく思っています。しかし、何故か「中国人」と聞いたとたんの二人の表情に共通点があるように感じました。ひどく驚いたような、安心したような、思い出したくない何かを思い出し、後ろめたく思ったような、そんな表情を見て取ったからです。うまく表現はできませんが、何となく私にはそういう気配が伝わってきました。

お二人の年配者にとって私は、穏やかな生活の中で、突然遭遇した中国人です。「中国」と聞いた瞬間に、頭の中を何が掠めたのでしょうか。おじいちゃんは「香港は良いところ」とぼやかしましたが、今も痛い腰を揉んで、本当は何を語りたかったでしょうか。いつか、またじっくり話しを伺うチャンスがあること、そして、おじいちゃん、おばあちゃんの長生きを祈っています。

【心和むひと時】

 今年の慰霊式には、中国から生存者と遺族ら5人が来日しました。82歳の生存者(王さん)のほか、70代(胡さん)、50代、40代、30代の遺族たちでした。 慰霊式の参列、証言、フィールドワークなど、痛ましい歴史と向き合う時間が多かったこともあり、皆さんは厳しい表情をしている時が多かったです。そんな中で、全員が一斉に素敵な笑顔を綻ばせたひと時があり、その感動は私は今も覚えています。

       (写真:生存者 王世清さん、83歳)

慰霊式の行われた日の夜、NPO花岡平和記念会主催で歓迎会が行われ、東京から応援に駆けつけた在日韓国人シンガーソングライター・李政美さんが歌を歌い始めました。(李さんの歌は、私は花岡で初めて聞いた。仙女のような麗しい声の持ち主で、ギター一本の伴奏で自然や風景、子守歌、祈りを語るように歌い聞かせ、独自の歌の世界に人を引きこむ。たまに、民族楽器チャンゴを叩きながら歌う民謡も素晴らしい。)

 アンコールが続き、李さんはついに一部、中国語訳詞もある歌を歌い始めました。そして、ステージを降りて、満面の笑みで王さんと胡さんの手をとり、リズムに乗せて、社交ダンスを踊り始めました。踊るというよりも、おじいさんたちを踊らせたと言ったほうがふさわしい。あまり突然だったこともあり、王さんも胡さんも緊張した面持ちのままでした。

 

しかし、李さんは笑顔で歌い続け、踊り続けました。皆も一緒に輪になり踊り始めました。すっかり盛り上がった雰囲気の中で、王さんも胡さんもいつの間にか、緊張が解け、リラックスした表情になり、一緒に拍手したり、リズムに乗ろうとしていました。国籍も年齢も身分も忘れ、皆がただ心を一つにして、思いっきり、座の雰囲気を楽しんだ心和むひと時でした。

 李さんは笑顔と歌声、そして、差し伸べた両手で魔法を施しました。人間には共通した何かがある。彼女はきっとそう信じ続けて、魔法を効果的に使ったに違いありません。そんな彼女の思いが、中国人のおじいさんたちにしっかり届き、彼らの顔を微笑えませ、目をきらきら光らせました。私が大館で体験した、最もハーモニーの美しい楽章でした。

【大きな歴史を生きる小さな個人 

日本人おばあちゃんの中国人孫

〜張恩龍さんとその祖母・浅田智恵さん〜】

 

単純にびっくりしたこともあります。今回、大館市での遺族との話の中で、想像だにしなかった「花岡」のもう一つの側面、それも極めて特殊な例があったことを知りました。大きな歴史の流れに翻弄され、一個人の人生の小ささをただ嘆くばかりです。そして、「生きる」ことの意味とは何か、改めて考えさせられました。

 花岡に強制連行された約千名の中国人の内、569人が生きて帰国できました。その内の12人が横浜で開かれたBC級戦犯裁判で証人出廷のため、1948年まで日本に滞在。この内、日本人女性と結婚して帰国した人が3人いたとのことです。張金亭さん(19111981)がその中の一人です。以下は、張金亭さんの孫・張恩龍さん(30歳、河南省安陽市在住)とその日本人祖母・浅田智恵さん(19242004)の話です。

Part1  【祖父母のこと】

    恩龍さんの祖父と祖母

張金亭さん1911年、河南省社旗県の農家の生まれ。子どもの頃から体格が良く、義理堅く、義侠心に富んだ人であった。ある時、小作農を虐待した地主を殴り殺したため、村から脱走し、国民党の軍隊に入隊した。軍隊で読み書きの教育を受け、後に特務連隊の小隊長にまで昇進。1944年、日本軍との戦いで包囲に遭い、洛陽で捕虜になり、その後、石家荘、青島経由で花岡に連行された。

 ちなみに、花岡には1944年から、三回に分けて、計986人の中国人が連行されていた。これらの人々には国民党軍隊の捕虜、共産党地下組織のメンバー、一般民衆がいて、3つの中隊に編成管理されていた。張金亭さんは第一陣で送り込まれ、第一中隊長だった。蜂起失敗後、晒しの刑に罰せられ、秋田地方裁判所で首謀者の一人として有罪判決が下された。

 戦後、BC級戦犯法廷で証言するため、1948年まで日本に滞在。その傍ら、当時の国民党政権の駐日本大使館で警備の仕事に当たり、知人の計らいで、日本人女性浅田智恵さんと結婚した。

 1948年、中国に帰国後、引き続き国民党軍に戻ったが、その所属部隊は後に共産党側に転向した。新中国建国後に兵役を退き、生まれ故郷に戻り、農業に従事していた。1981年、食道ガンのため逝去。浅田さんとの間に、三男一女がいる。

 一方、浅田智恵さん1924年東京・浅草の生まれ。智恵さんの祖父は農林水産相を務めたことがあり、父親はミシガン大学留学経験者であるらしい。本人は高等女学校の出で、英語が堪能で、ギターを弾きながら歌を歌うことが好きだったらしい。

 1948年、夫と一緒に中国へ渡った後、1972年まで河南省農村で暮らし、河南訛りの中国語が話せるようになっていた。中日国交正常化した1972年、智恵さんは中国政府の日僑優遇政策により都市戸籍を獲得して、社旗県の紡績工場で働くチャンスに恵まれた。その後、一家を連れて、町部に引っ越した。智恵さんは紡織工場で定年まで勤務し、退職後、毎月105元の年金が支給されていた。

智恵さんの両親は1960年に死去。本人は1981年に、ただ一度帰省したことがある。家を出発する直前、夫の金亭さんにガンが検出された。大変面倒な手続きを経てようやく成功した帰省は、夫の強い意思で計画通りに実施され、智恵さんは予定通り、長男(恩龍さんの父親)を連れて、日本に三ヶ月間滞在した。しかし、その間に夫は死亡。

智恵さんには兄が一人いて、帰省前まではよく文通し、日本語の書籍などを送ってもらったりしていたが、帰省後、何故だか二人の文通がそれっきり途絶えてしまった。恩龍さんは、「祖母の兄は自分の子供の世帯と一緒に暮らしていることもあって」と言う。

 夫の死後、智恵さんは長男夫婦と近い所で、一人暮らしをしていた。恩龍さんの話では、祖母は村で暮らしていた頃から、めったに外部と交流をせず、他人に迷惑をかけることは極力避けていた。ただ、ひたすら部屋の中に閉じこもって、静かに読書にふけていた。晩年、日本語を習得した恩龍さんとの文通が、何よりの心の慰めだったようだ。2004年、心臓病発作で死去する。

    思い出の中の祖父母

張恩龍さんが5歳の時、祖父が亡くなった。祖父は180センチの長身で、『三国演義』が好きで、よくその物語を聞かせてくれ、また、よく恩龍さんを膝に座らせ、一緒に遊んでくれた。「両手の親指の根元の部分に、たいへん深い傷が残っていた。10本指の先にも、尖ったもので刺された跡が鮮明に残っていた」。これが、恩龍さんの忘れられない祖父の思い出だ。

聞くところでは、祖父は蜂起で捕まった後、両手を縛り、つるし上げるという拷問を受け、10本指に悉く細い竹串で刺された、という酷刑を受けた。軍人出の祖父は、一生、軍隊で培った厳しい性格を保っていたらしい。短気で、怒りっぽく、ややもすれば、祖母に厳しく当たっていたようだった。しかし、家族の中で、祖父は唯一日本語が話せる人で、祖母とはよく日本語で話していたようだ。

一方、祖母は河南訛りの中国語が話せたが、中国人のようにしゃべれるようにはならなかった。容姿端正な方で、身なりのことをいつも気にし、部屋の中をいつも清潔に掃除した。洋服の枚数は多くはなかったが、どれも念入りに選んだものだった。祖母が和服を持っていた記憶はない。

恩龍さんの両親はたいへん親孝行で、祖父母とは別々に暮らしているが、家でご馳走を作ると、お椀に入れて、恩龍さんに届けさせた。その度に、配達役の恩龍は必ずお小遣いをもらった。「とにかく、他人の恩恵を一方的に蒙りたくない性格だった。たとえ、孫である私に対しても」と、振り返る。智恵さんは餃子なども作っていたが、その作った餃子が「とても小さかった」と恩龍さんは言う。

文革の頃、智恵さんは迫害を受けることはなかった。しかし、村人の蔑視を受け、「小日本」と呼ばれたりしていた。しかし、河南省の農村地帯でひたすら、ひっそり暮らしていた智恵さんには、たいへん忘れられない思い出もあった。長女(恩龍さんの父の妹)を孕んでいた頃、在中国の日本人として、南京に呼ばれたことがあるらしい。その時、大文豪の氷心さんと会い、これから生まれてくる赤ちゃんに「氷芳」と名前をつけてもらうことができた。このような特別な待遇を受けたのは、当時の周恩来総理の特別な配慮があり、きっかけは、ラストエンペラー・溥儀の弟である溥傑の妻が日本人だったからだと言われている。

    解け合う:たっちゃんとおばあちゃん

恩龍さんは小学校3年の時、5年生の子から「ハイブリッド稲」と呼ばれ、それがきっかけで、大喧嘩したことがある。そのため、皆のいる前で、祖母のことに触れられたくなかった。一時期、祖母と話したくなく思う時もあった。しかし、大人になった後、あるきっかけで、祖母とかつてないほど親しくなり、祖母の気持ちの一番良き理解者になった。晩年の智恵さんは、そんな孫との交流により、どれだけ心が慰められたか、容易に想像できる。

きっかけは恩龍さんの訪日研修だった。1999年、彼は勤務先の工場の許可を得て、研修生として訪日。その後2003年まで、静岡県富士市で3年間の研修生活を送っていた。

「一人ぼっちの外国生活。工場と寮の間で往復するだけの暮らし。寂しくてならなかった。」そんな中、ふっといつも部屋の中に閉じこもって読書する祖母のことを思い出した。「その時、やっと祖母の気持ちが理解できた気がした」。

とりあえず、祖母に日本語で近況報告の手紙を出した。日本語は夜遅くまで残業をして寮に戻った後、テレビの語学講座で独学していたものだった。すぐにたいへん綺麗な字体で祖母から返信が来て、彼女の嬉しさが伝わってきた手紙だった。冒頭には、「たっちゃん」で始まっている。祖母は恩龍さんの「龍」の字をとり、日本語風にそう読んでいたのである。そうやって、恩龍さんは祖母と文通を始めた。祖母との距離もそれまでにないほど近くなり、今まで知らなかったことをたくさん聞かせてもらったという。

「祖母の祖父は農林水産相だったこと、祖母の父親はミシガン大学で留学していたこと、そして、天皇家の花は菊で、桜ではないこと。祖母は自分の祖父が亡くなった時、天皇から菊の花でできた花輪が贈られ、新聞でも写真入りで掲載されていたと言っていた。それから、祖母の家には、天皇から授かった柔らかい布団があることも。天皇が一晩寝た後、布団を臣下に授けていた布団らしい。」

3年間、一度も帰省することもできず、ただ単純労働を繰り返し、少しでも多くの残業代を稼ごうと頑張っていた。決して楽ではなかった日本での研修生活。祖母との文通は同じく、恩龍さんにとっても心の慰めであった。「ばあちゃん、私はばあちゃんの孫ですが、どうか息子と思ってください」と恩龍さんは手紙に書いた。

日本での研修生活を終え、郷里に戻る前、恩龍さんは祖母に「好きな食べ物を教えてください」と手紙を出した。祖母に思いっきり懐かしい日本の味を食べてもらいたかったのだ。

「梅干が一番の大好物で、それからカレーライス、のり、鰹節、マヨネーズも。のりのサイズには特にうるさかった。細くちぎれたものではなく、まとまったサイズのものを注文した。巻き寿司を作りたかったのだ。」

中には、長持ちできない食べ物もある。しかし、河南省の恩龍さんの家も祖母の家にも、冷蔵庫はない。とりあえず、冷蔵庫を買う金を先に送金した。それから、スーパーのバーゲン情報を集め、バーゲンがある度に、少しずつ買い貯めておいた。

こうして、恩龍さんは山のような食料を抱えて帰国した。初めて日本語で会話できた祖母の目は、「優しくなっていることが分かった」。

智恵さんは親孝行の子どもたちに恵まれ、その後も、ずっと健康に暮らしていたが、2004年、心臓病の発作で突然逝去した。あっという間の出来事だったため、恩龍さんは祖母の最期を看取れなかった。残念なことだったが、「他人に迷惑をかけたくない祖母らしい死に方だったかもしれない」と言う。(つづく)

つばめ便り     7月号PartA

張恩龍さんの日本と中国

〜 一中国人の喜怒哀楽 〜

 張恩龍さん、1976年河南省の敬虔なクリスチャンの家に生まれる。祖父は元国民党軍中隊長、「花岡事件」の生存者。祖母は浅草生まれの日本人。本人は2000年〜03年まで、静岡県富士市で研修生として滞在。現在、知人の立ち上げた労務公司でビジネスパートナーとして参入し、日本や韓国向けに研修生を送り出す仕事をしている。今、鄭州で妻と4ヶ月になる娘と3人暮らし。

日本人を祖母に生まれた彼にとって、「日本」がどのようなを意義を持っている存在なのか。彼の人生を支える芯となるものとは何か。30歳の張恩龍さんの人生を興味深く伺った。

張さんの涙

 張さんとは秋田県大館市でお会いした。花岡事件61周年慰霊式のため、張さんは遺族代表として招かれ、大館市にやってきた。私が彼の生い立ちに興味を持ち始めたのは、遺族代表の中で、際立っていた彼の若さ、そして、日本語が話せることだけでなく、大館で関係者との内輪の食事会で、彼が涙を流しながら、一生懸命何かを訴えようとした姿を遠目で見たからである。

その時、彼が話をしていた相手は、花岡訴訟を長年サポートしてくれた日本在住の華僑と大館の労働組合関係者だった。何かをめぐり意見が対立し、張さんは一生懸命何かを弁明しようとしていたようだった。

 後から知ったことだが、彼らの議題は「研修生派遣制度」と呼ばれる中国人労働者の日本派遣の是非についてだった。日本側は過去の中国人強制労働の記憶から、現在、派遣元と受入仲介機構の双方から給料がピンはねされていることに触れ、ひどく怒りを感じていた。それに対し、張さんは自分自身の体験に基づき、「物事には良い面と悪い面がある。両者を比べてみれば、たとえ良い面が1%しか高くなくても、やはりやってみる価値があるのだ」という信念を堅持していた。相手の勢いに押されて、外国語である日本語を使って説明しなければならない張さん。どうしても自分の考えを相手に理解してもらえないもどかしさに、悔しい思いがこみ上げて思わず涙していたようだった。

「大学に行きたかった」、現状打破に研修生募集に応募

 日本研修に行く前、張さんは南陽市某機械工場の労働者だった。入社3年目の1999年のある日、工場に「日本への労務輸出、労働者募集」のチラシが張られた。当時、南陽では、労務輸出はまだ馴染みが薄く、「何も遠い外国にまで行かなくても、眼前の安定した職を守りたい」と思う人のほうが多かったようだ。工場内で応募者が少なかったため、張さんの申請は直ちに許可された。最終的に、工場以外の応募者も含め、合わせて120人が面接を受けたが、張さんを含めた20人が研修生派遣に決定した。

ところで、彼が躊躇せず募集に応じたのは、ある強い思いに絡まれたからである。現状を打破したい思いだった。

その6年前、彼は中学を卒業した。高校入試では優秀な成績を挙げたものの、家庭に静かに起こった異変のため、一般高校の入学を断念せざるを得なかった。同じ職場で共働きをしていた両親が、同時にレイオフされたことだった。両親の職場は「供?合作社」(社会主義計画経済体制下に作られた、主として、農村における生産と生活の需要を満たすための商業機構)と呼ばれている集団所有制の組合だった。一昔前までは様々な物資が調達できるため、花形職業とされていたが、市場経済への移行に伴い、今やすっかり時代に立ち遅れた仕事になってしまった。

張さんは成績が優秀な生徒だった。先生も高い期待を寄せ、本人も市の重点高校に入学して、大学で勉強したい夢を抱いていた。受験勉強に没頭していた彼に、両親はついに事情を明かせず、後になって知ったことだった。

レイオフされた両親は、叔父の小さなラーメン屋台で手伝うことになった。朝早く起きて仕事に出、帰宅するのは深夜だった。汗でエプロンがびっしょり濡れ、スピーカー代わりに物売りの声を出していた母親は帰宅した後、のどがガラガラに枯れていた。へとへとになって帰宅した両親に、張さんのできることは、大きな琺瑯びきのマグカップをそっと差し出すだけだった。コップには張さんの入れたお茶が入っていた。冷蔵庫がないため、数時間前に入れて、冷ましておいたお茶だった。

結局、重点高校への入学を断念し、工業高校に入ることにした。工業高校だと学費負担がない上、毎月36元の手当てがもらえた。その3年後に、彼は機械工場に配属され、月収500600元(約8000円)の労働者になった。自分の生活を維持するには問題ないが、両親の暮らしを楽にできるほどの額ではなかった。そして、張さんに5歳下の弟がいて、当時高校二年生だった。弟にこそ何としても大学に入らせたいと心を決めた。

現状打破の突破口はどこか。そんな中で、彼はあのチラシを見た。彼の心には、様々な思いが掠められていたのだ。

研修生活:ひたすら働く、ひたすら節約する、ひたすら我慢する

 「日本へ行く。日本に行けば、苦労はするけど、中国よりたくさんお金が稼げる。そのお金があれば、両親に楽な暮らしをしてもらい、弟を大学にやることができる。」

 張さんは心を決めた。が、出国費用のやりくりには苦労した。保証金や手続きの費用は、全部で4万元(約50万円)にも達する。自分の貯金、そして、両親にありったけのお金を出してもらい、やっと日本行きが現実になった。

 鄭州で半年間日本語を勉強した後、張さんは初めて海の向こうにある祖母の母国でもある日本の土を踏んだ。富士市では同じく機械加工の現場で働いた。給料代わり支払われていた手取り手当ては月7万円だった。この金額は契約書に書かれていたものなので、それ以上の賃上げは期待できない。ひたすら残業代の稼ぎに賭けていた。毎日4時間残業し、宿舎に戻る時間はいつも夜10時過ぎだったという。その後、テレビをつけて、語学番組を見て日本語を独学した。あまりにの寂しさから、祖母と日本語で文通を始めた。

 その節約ぶりも並大抵のものではなかった。

「家にいた時は、ビールが好きだった。しかし、日本で飲むビールの一杯は、母親の一月分のミルク代になる」ことを考え、ビールを選択肢から外した。さらに、「食事は自炊。三年間、一日三食マントウ(蒸しパン)を食べ続けた。米の値段が高すぎる。小麦粉なら、1キロ98円で買える。」

 3年間、身を削る思いでひたすら働いて、ひたすら節約して、ひたすら頑張り続けた。30歳にしては薄すぎる頭をなでて、「髪は日本にいた時に抜けた」と言う。幸い、努力が実り、帰国までに人民元に換算すれば30万元(約400万円)の貯金ができた。

「両親に住宅を購入してあげ、弟に学費の心配なく、大学に入学させることができた」と何よりも安堵の表情を見せた。その弟は2000年に国家重点大学の吉林大学に受かり、今は卒業して大学のコンピューターの教師になっている。「この前のコンピューター資格試験で、地域トップの成績をとったんだ」、と自分のことのように喜び、自慢を隠さない。

そして、精神的な支えになった祖母には、前文でも述べたように、冷蔵庫と山のような日本の食材をお土産に担いで帰国したのである。

日本は修行の場だったのか  日本と日本人イメージ

 張さんの3年間の日本生活は、あまりにも余裕に欠け、あまりにも温もりになる思い出が少なかったことは、残念としか言いようがない。彼の思い出の中に、祖母の母国である親しみやすい日本、または、祖母という極めて心の通じ合う身近な日本人があるものの、滞在中、ついに心の通う日本人の友人を作ることができなかったようである。彼の語る日本と日本人は近くて遠い、親切で冷酷、礼儀正しくて傲慢、温和で極端という両極端のものが複雑に入り混じっていた。

「日本には中国が学ぶべきことがたいへん多い」。

「日本人はとても親切な民族だ。みな優しそうに笑っている。作り笑いをしている場合もあるが、見た目、どの人も君子に見える。」

 「日本人は両面性が強い。マスクをかぶっている時が多い。商談の時、口では“はい”と言いながら、内心全然そう思っていないことが多い。」

 しかし、それでも、確実に言えることがある。それは、日本での研修生活は彼にとって、精神力の良い鍛えになり、人間として、彼は一層成熟し、一層しぶとくなったことである。

「寂しくて、寂しくて」と連発した日本生活を通して、彼は自分の得た一番大事なものについて、こう語る。

「とにかく、何があってもしぶとく生きること、命を大事にしなければならない。人生には様々な艱難辛苦が待ち伏せている。これからもどんなことが起きても、それに耐えられ、生き抜いていく力はついた。」

結婚 人間は自分の分を全うすべき

 故郷に錦を飾って帰国した翌年の暮れ、張さんは幸せな家庭を築くことができた。妻は看護婦。170センチの長身で、美貌と優しさを兼ね備えた良妻賢母型の女性である。知人の紹介で知り合ったが、異国の厳しい研修生活で磨かれた男の顔には、同世代の男性の持っていない気質があり、それに妻は一目ぼれした。同僚たちの前で彼の話題をすれば、たちまち自慢話をしていたほどだ。

「こんなに愛されたことはない。妻さえいれば、もう何もいらないと思った」。惚れ惚れ状態で二人は結ばれ、5ヶ月前に、二人の間にかわいい女の子が生まれた。しかし、子どもが生まれても、夫婦の愛は冷めてはいない。

 「これからも彼女を一途に愛し、彼女の厚い信頼に報えるように、彼女に私のことを誇りに思ってもらえるように頑張ります」と熱く語った。

 かくも大事とする「しぶとく生きる」ことは、自分のためというよりも、家族のため、自分を頼りにしている人たちのため、良く生きなければならないという。

 「一人の人間にいくつもの身分がある。そのどちらも全うしなければならない。私の場合、息子として、兄として、夫として、父としてしっかり生きることだと心得ている。そうしてこそ、まともな人間と言える。」

 

主よ母よ! 「房檐滴水滴滴照」

 一番尊敬している人は母だという。父は農村生まれで、祖母の年戸籍の取得で後から町部に入り、仕事を見つけた。一方、母は町部で生まれ育った人間だ。30年前は、都市戸籍か農村戸籍かで待遇が丸きり違っていた時代だった。二人の結婚は、稀なケースだったと言えよう。

 その母はクリスチャンの家庭で生まれ、本人も敬虔な信者である。母方の祖父は文革中、政府の宗教取締りで牢獄に十一年間投じられていた。祖母が病弱で、他の兄弟は農村部に行かされたため、張さんの母は14歳の時から、手編みで靴下を編んで、それを売って、月78元の収入を稼ぎ、母親と二人の生計を立てていた。

「故郷では、房檐滴水滴滴照(軒下に落ちてきた雨粒の一つ一つは鏡のように周囲を映し出している。上の代が良いことをすれば、下の代が自ずとそれを見習うことのたとえ)という言い回しがある。このような母の血を私が受け継いでいると思う。」

母の影響で、今家族全員がカトリックの信者である。結婚相手を選ぶ時、まず確認したことは「クリスチャンですか」だった。仕事が多忙で、毎週教会に通えるとは限らないが、心の中で常にキリストのことを忘れていないという。

張さんの感化で、祖母もキリストに帰依したようだ。

「私は祖母に言った。『おばあちゃん、「主よ、私の支えになれ」と唱えて』。祖母が本当にその通りに唱えてくれた」。

小学生の頃、上の子から「ハイブリッド稲」と嘲られ、祖母が日本人であることがトラウマだった張さん。祖母の言葉を喋れるようになるにつれ、互いの心が通じ合えるようになり、ついに信仰まで共有することができた。張さんにとって、何よりの心の慰めだったようだ。

転職 娘にこそ良い生活をしてほしい

 日本から帰国後、張さんは元の工場に戻り、引き続き労働者の仕事をしていた。月給のほうは少し値上がりして、700元(約1万円)になった。

それまでの自分の夢、両親に家を購入し、弟に教育費を出し、そして自分が家庭を築くことは一つずつ実現させた。人生に、何一つ欠けるものがないように見えた張さんが、娘誕生二ヵ月後に、新しい決定をし、踏み出した。工場の仕事を止め、新しい仕事に着くことである。

同じく海外研修を経て帰国した若者が、今度は自分たちが人員を派遣する会社を立ち上げた。そのビジネスパートナーにならないかと話が舞い込んだ。張さんは誘いに応じることにした。子どもの頃、なりたい順に俳優、作家、軍人という夢を抱いていた自分が、不本意にも労働者になった。わが軌跡を振り返って、話に応じた理由を明かす。

「このまま工場で働いていても、旧態然とした人生になってしまう。労働者の給料はいくら値上げされても、たかが知れている。昔、私は家にお金がなくて、大学に行く夢を諦めざるを得なかった。娘にこそ、そのようなことが絶対に起こってほしくない!」

研修生派遣制度は昔、政府背景の会社に独占された業務だった。今は規制緩和により、個人の企業でもしかるべき手続きを踏み、商務省に100万元の保証金さえ払えれば、業務展開ができるようになっている。今、河南省には労務公司が全部で13社あるが、その大部分が個人の会社という。(蛇足だが、張恩龍さん情報によると、河南省の労務輸出で最も多い職種は船乗りだ。海から遠く離れている河南人だが、訓練を経れば、遠洋の良き船乗りとして重宝されているようである。一説によれば、その数は20万人に達しているという。最も河南省は人口9200万もいる人口大省である)。

研修生派遣制度について、「しっかり実行できれば、たいへん良い制度だ。ただし、制度通りには半分ほどしか実行できない」と問題点があることを隠さない。しかし、昔の自分は、曲がりなりにも、この制度のお陰で、中国にとどまっていれば、一生かけても稼げない収入を手にいれることができ、家族に希望と夢を与えることができた。「物事には裏表があり、両方を見て判断する必要がある」。新しく設立した今の会社は第一陣の研修生を送り出したばかりのようだ。とにかく人材選定にこだわっているという。派遣が決定したら、辺鄙な農村部も含めて、自宅まで訪れて両親に話を聞くようにしている。「一人っ子、頭の良すぎる人、悪すぎる人をまず、対象からはずすね」と冗談とも本気ともとれる話し方をした。

長所と短所を持ち合わせている今の制度は、実行する意義があると彼は確信している。面接にやってきた若者たちを前に、彼は6年前の自分を思い出さざるを得なかった。当時の自分と同じ境地に立っている若者がいるはず。研修生派遣制度を彼らに閉塞感を打開するツールにしたいと抱負を語る。一方、自分にとっては、研修生の先輩としてこれをビジネスでやっている以上、もらう分はもらう。言ってみれば、WinWin関係の構築を目指している。

ちなみに、研修生制度に関して、韓国と比べて、日本をより厳しい目で見ている。韓国では、教会や人権組織の働きかけもあり、すでに研修生制度の廃止が決定し、代わって雇用制度に切り替わることになったが、日本はこの面に関して、新しい動きが見えないという。

「世の中に役立つことをしたい。とにかく楽しく働き、お金を稼いで、娘の将来に備えたい」。父親5ヶ月目の真剣な目。

 

補足)張さんにとっての花岡事件

元々、父が受難者連誼会の遺族代表だった。父は外交的な性格ではなく、内気な性格。日本から帰った息子に、「お前は日本語も話せるし、若い。代わりにやってくれ」と言われ、さっそく連誼会関係者に、その可否について確認した結果、恩龍さんの参加が認められた。

「花岡事件」とのかかわりについて、冷静だが、足元を据えた視線で見ている。

「日本社会への理解を深めるにつれ、訴訟で勝訴する可能性が1%しかないことがよく理解できた。しかし、勝訴かどうかよりも、訴訟を通して、より多くの人にこの史実の存在を知ってもらうことが大事である。かつて、尊厳のために立ち上がり、戦った中国人がいたという史実を。」

 遺族の最年少代表として、張さんは連誼会の先輩から、バトンを受け継いでくれる人として高い期待を寄せられている。その期待の視線を浴びながら、彼は正直、現段階、約束はできないと話す。会社は発足したばかりで、ビジネスの基盤もまだ固まっていない。そして、所帯持ちになって、まだ日が浅い。こんな自分にとって、まず何よりも大事なことは、生計を立てることである。もちろん、余裕の許す限り、連誼会の諸活動に積極的にかかわりたいという。