番外編


 本稿は、現在の自分が好んで聴いたりしている音楽に至る転機やら道のりを、分析というほどでもなく、ただただダラダラと追ってみようというモノです。いわば自分内ダラダラ音楽史。どこにアップするか考えたんだけど、超々々々個人的な内容が、同じく超(中略)個人的感覚で書かれているため昭乃さんのライヴレポと同じところに。

 自分の音楽的なルーツは、クラシックとオールディーズなアメリカンポップスとビートルズと一部の歌謡曲、あたりであると思う。これはつまり子どもの頃、親が聴いていた音楽だ。そんな親たちは現在もあまり音楽的嗜好は変わっていないようだが、それはさておき(笑)。

 また、通っていた幼稚園が(なんでも園長先生の趣味とかで)音楽に力を入れており、園児だからといって手を抜かぬ指導で、毎月(毎週か?)替わりの歌においても「音程無視で怒鳴ってるようなガキ」は粛清(笑)されたし、運動会などで披露する鼓笛隊の演奏も非常に高次元の(あくまで幼稚園児としては、ですよ?)ものを要求されていた。これらのことも恐らく、のちのちの自分の音楽的嗜好(この場合は志向?)に潜在的な影響を及ぼしているだろうと思う。

 小学校1年からピアノを習い始めた。まぁ、もちろん自分の意志ということはなく(笑)、姉が既に習っていた後追いという感じだ。最初は徒歩で通える近所のピアノ教室。もう先生の名前も顔も覚えていないが、印象としては「褒めて伸ばす」ヒトだったと記憶している。

 それから程なく、車で20分程度の場所にある先生に師事(と呼んで良いのか・笑)することになる(姉も同時に移籍)。この人は某市の交響楽団のピアニストをされており、子供ゴコロにもピアノ教室の次元の異なる感じがあった。指導もそれなりに厳しく、僕のように「まぁピアノを鳴らすのは好きだが練習は嫌い」という男子には肩身が狭かった(笑)。とゆーか小学生男子は基本、学校から帰って来て選択肢「1:遊ぶ」、「2:ピアノの練習をする」とあったら、ほぼ迷うことなく全面的に「1」を選ぶ生き物なのである(笑)。

 小学生のころ、家の中の風潮として「日本の音楽はダメ」的なものがあった。これは特に母親がアメリカ合衆国に傾倒したヒトであり、姉が直にその影響を受けていたことに起因すると言える。よって高学年になり、自分の責任でモノを考えたり判断することを覚えるようになるまで、僕はほとんど冒頭近くに書いたルーツ的な音楽を聴いて育った。

 それまで自分で選んで音楽を聴くことをしなかった状況が変化した要素は、さしあたって2つ。ドラゴンクエストとTMNetworkである。あ、宮崎駿作品の久石譲もか?

 ドラクエは、友人宅へ行った時に皆で遊んでいた「V」の影響が最も大きい。各職業に仲間内の名前を付けて「あぁっ、●●が死んだ!」とか「オマエよえ〜よ(弱い、ね)」などと言って1本のゲームを「皆で」プレイしていたのだが、そこで流れる音楽が非常に耳に残った。そんなわけで友人の1人がCDを持っていたのを借りてカセットテープに録音(今だと違法って言われるんだよね。いや、当時もなのか・・・さすがに時効だと思うけど)。やがては自分も誕生日だか何かのタイミングでCDを買って貰った。ちなみに、人生最初に自分のものとなったCDはシングルで、ドラクエのメインテーマが収録されたものだった。続いてドラクエのコンサート録音のアルバム(金管が音を外したりしてるんだ・笑)。好きな曲のメロディラインをピアノで(右手だけ)合わせて弾いたりも、ぼちぼち始めていた。

 TMの方は、基本シティハンターからのスタートである。しかも『Get Wild』ではなく『Still Love Her 〜失われた風景〜』から。どちらかといえばTVを見せてもらえない家庭環境だったこともあり、リアルタイムの基準が少しおかしいのである(笑)。
 宇都宮隆のヴォーカルは、既に当時、姉と姉の友人らから「ヘタ」という評を受けており(^-^;)、当時の自分としても巧いとは思わなかったのだが、それでもなお何か途轍もない魅力を感じていた。それはTMというユニットの持つ魔力だったのだろう。その後も自分は宇都宮隆・小室哲哉・木根尚登それぞれ個別の活動をチェックしつつも、メンバー誰かの突出したファンにはならなかった。しかし、TMファンとしては、それなりに年季も筋金も入っていると思うのだ。このあたりが魔力。
 TMは中学に入ってからの方が頻繁に聴くようになり、高校〜大学と進むにつれファンの度合いが増して行くことになる。しかしその事象の他に、TMには「日本の歌モノを聴くようになったきっかけのひとつ」としての意味合いも自分にはあるのだ。

 中学に入ったころから、恐らくそれまでの家で聴いていた音楽への反発的な意味合いもあったことだろうが、日本の歌モノをそれなりに聴くようになっていった。もちろんそれでも、流行やら発売日やらをチェックしてCDを買って、というようなスタイルではない。友達が持っているCDを聴かせてもらう、観たTV番組やら映画やらアニメやらの主題歌などを調べる、といった程度である。中学生当時、母方の祖父母が営んでいた製綱業の工場で手伝うとお小遣いをもらえるようになっており、そのお金でちょこちょこと自分でCDを買い始めたのもこのころだ。

 やや脱線するが、このころから僕はあまり外国語の歌を聴かなくなって行く。理由は自分の力不足だ。要するに「歌ってる意味が判らないから」ってコト。以前も日記か何かに書いた気がするが、僕としては、やはり歌モノは歌詞もしっかり聴いて、意味も合わせて味わいたいのである。例えば新居昭乃さんが二人いたとしよう(日本人とギリシア人で、音楽的な才能やセンスは全く同じ。としよう)。そして、何らかの理由で、どちらか一方だけを選ばざるを得なくなったとしたら。僕は日本人の昭乃さんを選ぶことだろう。素晴らしい声(1点)、素晴らしい曲(1点)、素晴らしい歌詞(1点)、そして愛(1点)。日本人の昭乃さんは4点満点である。ところがギリシア人の昭乃さんは素晴らしい声(1点)、素晴らしい曲(1点)、そして愛(1点)。歌詞分だけマイナスとなり、3点になってしまうわけだ。
 判りやすいよう安易に数値化したのでビミョウな感じがするし、実際にそうだったら自分は恐らく両方ともハマってて「選ぶなんて出来ない」と言うのだろうが(笑)、ここは例え話なので。

 ある日、洋楽に目覚めて邦楽が馬鹿馬鹿しく思えるようになる、ってヒトはいるだろう(カッコつけの人も含めてね)。しかし自分の場合は逆で(いや、洋楽が馬鹿馬鹿しいなんてことは全然ないのだが)、小さいころに英語の歌を聴きながら、ひょっとしたら「意味」に飢えていたのかも知れない。
 現在も自分は、例えば英語の歌で好きになったものがあったら意味を調べ、歌詞を丸暗記するくらいのイキオイで聴く。そのまま洋楽に走ったら外国語マスターになりそうなのだが、幸か不幸か自分は日本語の歌に価値を見出しているので、そう成ってはいない(笑)。

 それはさておき。中学当時の嗜好としては、男性ヴォーカルはTM(笑)。女性ヴォーカルは当初、基本的に「高くて澄んだ声」が好きだった。たとえばガンダムF91の主題歌として知った森口博子の『ETERNAL WIND 〜ほほえみは光る風の中〜』あたりも、その嗜好から外れていない。そこで訪れたひとつの転機が、今となっては知る人ぞ知るTHE TOPSの山際祥子の歌声。ハスキーで低くクセのある声の持ち主だ。初めて聴いたときは、なんじゃこりゃ、と思った。しかし、聴いているうちにクセになってしまった感があり(笑)、『雨が3日続くと』は今も自分のオールタイムベストな1曲。同時に、ハスキーヴォイスの魅力も・・・まぁ清水咲斗子とかは聴いていたが、本当の意味ではここで知ったように思う。のちに『MEN OF DESTINY』でMIO(現MIQ)の魅力に一発でオちたのも、ここに伏線があるのだろう。

 あと、当時は自分で選んで聴いてる音楽の半分以上はアニメのものだったと思う。思い切ってワンフレーズで表現すると、TMとアニソンの時代である(笑)。

 TMとアニソン、と書くと若干ビミョウな感じも漂うのだが(笑)、実のところ、この期間は自分内音楽史において非常に大きい意味合いを持っている。それは楽曲的要素で言うなら「似非ヨーロッパ風味の輸入」であり、アーティストで言うなら新居昭乃さんである。僕の「太陽より月、昼より夜、春・夏より秋・冬、オープニングテーマよりエンディングテーマ」という印象の楽曲的嗜好のルーツは、この辺りで萌芽していることだろう(笑)。

 ここで似非ヨーロッパ風味、というのは小室のユーロロック・ユーロビート趣味ならびに、アニメ系楽曲の目指した「異なる世界を表現する」ことが行き着いたモノを示している。アメリカンロック的に突き抜けて開放的なイメージではなく、どこかに翳を持ち、マイナーコードが存在感を示す楽曲への嗜好。
 そして新居昭乃さんは――シングル『風と鳥と空/Eternity』を聴いた時点での一目惚れ(一聴惚れ)ではないのだが、のちに他のどのアーティストとも異なる存在になった。その人との出逢いを、特別と呼ばないわけには行かない。

 さて、ピアノの方は、中学に入ってもしばし状況は変わることなく続いていた。ロクに練習せずに先生のところへ行き、怒られて帰ってくる。今にして思えば、やる気の見受けられない生徒を教えるのは先生からしてもさぞかし苦痛であったろうと思うのだが(笑)、まぁそれで収入があったのならギリギリOKだったのかなぁ(^-^;)。

 ピアノは基本、バイエルから入り、ハノンなどを交えつつブルグミューラーに進む人が多かった。
 しかし僕は、あまりに練習しないため「この子にハノンなんてやらせたら今以上に練習して来ないに違いない」と先生が判断した(であろう)結果、バイエル一筋ののち、ブルグミューラーではなく、ケーラーとかカバレフスキーとか(ご本人たちには失礼ながら)聴いたことのない作曲家の、ごくごく平易な練習曲集へ進んだ。ちなみに後年に知ったことながら、ケーラーやカバレフスキーら自体は非常に評価されるに値する作曲家たちであった様子。ただ、当時の僕が抱いた印象が「退屈な曲ばかり」だったのは事実だ。

 練習しない自分の責任なのだが(笑)、知っている曲は弾かせてもらえない状況が続いており、「ピアノに触れていて楽しい」時間は(姉が既に弾いて憶えていたバイエルの曲に当たったとき以外は)、ドラクエやらの曲のメロディをなぞる時でしかなかったのだろう。右手だけだが(笑)。

 そうして僕が中2病全開になるべき中2の時(笑)。ここで、恐らく非常に大きな転機となったと言える出来事がある。姉の留学である。

 姉は、母親のアメリカ合衆国至上主義にカッチリ洗脳されて幼少期を過ごし、しかしその洗脳がヘンな方向へ行かぬ程度に自らもアメリカへの憧れを育てながら成長した。中学に入っても英語の成績は抜群(国語は優秀。他は並み。数学はダメ)。3年のときには県の英語弁論大会にて、クライマックスで『WE ARE THE WORLD』の一節を歌いあげる伝説のスピーチを披露して優勝。以降の年、同大会にてスピーチ途中の歌は常套手段になったという。

 そんな伝説の中学生(笑)な姉は、高校も、ただアメリカへの交換留学制度があるという一点で選択した。これは、高校2年の1年間をアメリカで過ごしつつ、帰って来てそのまま3年生になることが出来るという、「人によっては好条件と思える」制度である。そうして見事、留学生の座をゲットだぜ。英語だとか留学といった面に関して言うなら、間違いなく運も実力も伴った人物なのである。

 姉と僕は仲が良い。たまにシスコンとか言われるが、それは正確ではない(詳細説明は省くが・笑)。そんな姉が高2の1年間、不在となった。僕はどうしたか? 色々と変化はあったろうが、それらのうちひとつに、ピアノを弾く時間が増えた、というものがあるのだ。
 これは姉がいなくてサビしいボクがそれをマギらわすためにピアノにボットウ、とかいう単純なビダンではない(いや、そもそもこれって美談か?)。様々な要素が複合的に混ざり合った結果である。だが、きっかけが姉の不在であったのは事実だろうと思う。

 それら複数の要素を挙げて行くと・・・まずはピアノがいつも空いていること(その気があれば練習し放題)。腕力が付き、鍵盤を強く叩けば強い音がきちんと出るようになって来ていたこと(小さいころはピアノ弾くと指が痛かったのだ)。そのころ、ぼちぼちと始めていた「好きな曲の、メロディライン以外も音を拾って弾く」、という行為があり(まだ耳コピーという言葉は知らず、実際そのレヴェルではなかったが)、ナウシカ、というか久石譲の『風の伝説』あたりを左手まで一応コピーしていたこと。

 もうひとつ、これはそれなりに事件だったのだが、矢野立美の『NINA』の存在も挙げられる。これはシティハンター劇場版のサントラに収録されており、原曲はピアノとストリングスという編成。これを気に入った僕は中学1年の半ばごろから音を拾い始め、未熟な段階ながら弾けるようにしていた。しかも、主旋律はワリと正確に拾ったにもかかわらず、左手とか装飾音はオリジナルだったりするので、耳コピーに加え編曲の要素も若干ながら含まれている。「耳」のレヴェルが低いが故の(笑)、結果的に当時の自分の水準からすればそれなりに高度なことをやらかしたのである。実情は「聴きとれないからやむを得ず」なのだが(笑)。

 また、小室哲哉がキーボードを演奏している映像を見たのも、姉の留学中だったかは憶えていないが、ひとつの転機になっている。小室は独学でキーボードを習得しているため、技術が高くない代わりに(笑)、弾き方が自由なのである。五指を伸ばして弾いたり、というのもひとつだ。そんな小室の、あるテクニック?が僕の目に止まった。そのとき小室はキーボードの、やたらと奥の方を弾いていたのである。
 あ、そんなところを弾いても音は出るんだ、と思った。あたりまえなのだが、目から鱗の気分だった。

 それらに加え、フルネームと国籍を憶えていないのだが(多分USA出身)、ロイという名の留学生が家に遊びに来たことも挙げられる。同年代(彼の方が2つ3つ上だが)の男の子がピアノを弾いて、それが格好いい――という事態は、それが初めてのことだった。他は自分と同レヴェルか、あるいは音大予備軍みたいに真似する気にもならない連中の演奏しか知らなかった。その意味で、「目標とするのにちょうどいい演奏」を見ることが出来たのは刺激になったと思う。

 上記の雑多な要素が絡みあったり(ときには打ち消し合ったりもしたことだろうが)した結果、僕の中に「最初の成長期(ピアノ演奏についての)」が訪れたのだと思う。

 で、姉の留学期間も終盤に差し掛かったころ、僕も2週間程度、アメリカへ行く機会を得る。旅の詳細は省くが、その中で僕は「ピアノを弾きたい」という衝動を覚えたのである。
 同時に、『NINA』の左手の改造計画が頭に浮かんだ。こんなの出来るのか? と思いながら、それを試してみたくてうずうずしながら旅行を終えた。実際、そのフレーズは当時の僕には高いハードルだったが、自分で考えたことなので、試すのを苦とは感じなかった。そうして姉が帰って来るころには、新しいヴァージョンの『NINA』がほぼ出来上がっていた。

 中学時代の最後の自分内転機と呼べるのは、ショパン『別れの曲』である。歳がバレるが、当時ドラマで『101回目のプロポーズ』というのがあった。そのドラマの流れの中で重要なキーとなる曲として『別れの曲』が使われたのだが、ある話数の劇中で主演の武田鉄矢が弾くのである。
 メチャへたくそ・・・というか、つまずきながら符をなぞっているだけの『弾いている』と言って良いのかわからないようなモノだったのだが――たぶん勇気づけられたのだと思う。

 もともと『別れの曲』は好きだったこともある。僕は、当時の自分にとっては信じられないほど真っ黒な楽譜(音符の密度が高いから黒く見えるのだ)を入手し、練習し始めた。合言葉は、1日1小節ずつ(笑)。実際には1日に複数の小節を進めた日もあれば、進まなかった日もあるわけだが。ともあれ、そうして僕は自分の技術の限界の超え方を知った。

 中学3年の中盤過ぎ。僕の通っていた先生のところは、例年クリスマス前後に発表会を行なっていたのだが、毎年、先生から演奏する曲を指定されて(もしくは何曲か提示された中から選んで)いた。
 その年も、自分の課題曲が提示されようとしたとき、僕は先生の言葉を途中で止めた。多分、声が震えていたと思う。妙に緊張していたのは覚えている。

ぐれ「やってみたい曲があるんですけど」
先生「え、なに?」
ぐれ「あの、別れの曲を・・・」
先生「別れの曲ぅ!?」

 先生があんなに驚いたのを見たことはなかった(笑)。どれくらい無謀だったかというと、あくまで全音(←メーカー名)のピアノピースだか何かの規定したランクだが、『別れの曲』は『F』の、最高位だか準最高位の難度とされていた。ちなみにそれまでの僕が弾いたことのあるランクは『A』か、せいぜい『B』止まり。皆がバイエル以降ブルグミューラーに進んで通るべきランクを3つか4つ、すっ飛ばしたわけである。

 学問に王道なし、という言葉がある。ピアノの世界にもそれは当てはまる場合が多い(ごく一部の、音楽の神に愛されている人々を除いて)。それは今でもそう思っているが――実際に自分の指で弾いてしまえば、本人のレヴェルがたとえ『A』であろうとも『F』の曲が物理的に弾けないわけではないのだ。

 それを、たとえばピアニストになることを志す者が行なうとしたら基本的に論外であろう。ランクの『C』やら『D』の曲を弾く経験によって身に付く経験値は計り知れない。そういった累積なしに『F』を弾くのは、やはり邪道なのだ。そのまま平気で『F』の曲群を弾き続けたら、あるイミ覇道かも知れないが(笑)。
 だが、プロを目指すなんてあり得ない、単にピアノを鳴らすのは好き、という者であれば。たとえ『A』から『F』に飛躍しようと、初心者がいきなり『F』を練習し始めようと構いはしないのだ。

 僕は、中学3年生まででピアノの先生のところへ通うのを辞めた。母がその当時「教えてもらわなければ上達しない」という主旨の発言をしていたのを憶えている。そうか? と思いつつも、その当時は漠然とした想いでしかなかったから反論しなかったが、今なら自信を持って言える。弾く気さえあれば、己の分相応には、いつでも上達できるものだ、と。

 さて、高校生になると周囲もとっくに「自分の好みの音楽」を選んで聴くようになっている年代である。僕も「TMとアニソン」という基本姿勢ながら(笑)、「選んで聴く」ようにはなっていた。したがって、高校時代は中学時代の趣向を受けて展開する、起承転結で言う「承」にあたる部分のような始まり方をしたのは当然だと思う。

 TMと、既に聴くようになっていた何人かのアーティストたち(谷村有美、遊佐未森あたりか)の曲や何かの主題歌で気に入ったものを聴き、ジャンル的な見方をすると恐らく自分の人生で最も『癒し系』に近づいた、イヤな時期であったとも言い得る(笑)。ただし、その後も継続する「気に入った曲はずっと聴き続ける」という性質は既に有していた。もっとも当時は、経済力の問題で新曲の追加が少なかっただけ、とも言い得るのだが。

 さて、高校には芸術選択という忌まわしいモノがあった。理不尽にも、「音楽」か「美術」かを選択しろというのである! ちなみに中学までの成績(5段階)で言うと僕は音楽「5」美術「4」だった。別に自慢をしたいわけではないが(笑)。で、いざどっちを取るかとなったとき「音楽は放っておいても聴くし、歌おうと思えばカラオケにでも行けばいい。ピアノも弾くだろう。でも絵は、自分からは描かない」と思ったわけだ。それで美術を選択し、そのことに後悔はないのだが、音楽選択の子たちがギターとか教えてもらったらしいコトを考えると、やはり音楽もやりたかったなぁと思うのである。芸術選択のバカ〜!

 で、高校時代。特筆すべき出来事(音楽関連のね・・・と、今さらだけど一応補足)は、ロックの洗礼と不協和音の肯定、そして新居昭乃との再会、菅野よう子との出逢いである。

 もちろんそれまでだってロックは耳にしたことがあったし、自分が好んで聴く曲の中にもロック的なものは多々あった。しかし、「ロックとは何か」と問われたときに「生き様だ!」とか「どこまでも転がり続けることだ!」と真顔で答えてしまうような魂は持っていなかった。

 今? もちろん持ってますよ?(←真顔)

 そのロックの洗礼は、本当はいわば時期的なものであって、「その年頃なればこその自分に、複数のアーティストや曲によって行なわれた」というべきだが、1人挙げるなら布袋寅泰になるだろう。ギタリストに初めて惚れた。その他に、自分にとってのロックの伝道者を挙げるなら・・・熱気バサラとかか? いや、マジで(笑)。

 不協和音は、X JAPANの『ART OF LIFE』を聴きながら理解した。それまで僕は不協和音が「全くダメ」に近い状態だったのだが、音を構成として聴いたときの要素として存在する不協和音に気づき、あ〜、と腑に落ちた感じがした。それ以降、むしろ今では不協和音のもたらすアンバランスさや翳りがたまらなく好きになっている(条件:平均律であること。平均律でない場合は意図したものであること)。

 ここで挙がった布袋寅泰とX JAPANは、共に友人からの紹介で僕にもたらされたアーティストたちである。そういう意味で、「皆が自分で選んで聴くようになっている年代」である高校時代だからこその出会いだったとも言えるだろう。

 さて、続いて新居昭乃との再会の話である。当時の僕は引き続き映画やらアニメの主題歌からもお気に入りを探して来ていた。そんな中、観ていた作品に『マクロスプラス』がある。単純に『マクロス』はバルキリーがカッコいいから、と観始めたこの作品は、作品内容はともかくと言ってしまえるほど(←どんなだ・笑)、その後の僕の人生を変えたと思う。

 映像の(当時としてのだが)美しさもさることながら、音楽がいい。たまらなくいい。なかんずく、恐らくは作品中でも重要なキーになるのだろうと予測された、ある歌に僕は著しく惹き込まれた。

 ひとつめの言葉は夢――そんなフレーズで始まるその歌、『VOICES』。

 これは一体誰の歌か、と思い、エンドロールだったのか何かの本のスタッフ一覧だったのか記憶が定かではないが、そこにAkino Araiという名を発見したときの感慨。あぁ、『風と鳥と空』の新居昭乃なんだ――と。この「再会」が僕の人生を変えたのは疑う余地がない。

 僕は『マクロスプラス』のサウンドトラックを購入した。既に2枚リリースされていた。高校生にCD2枚の購入は厳しい。しかし、昼食代を削って捻出した費用で(笑)、迷うことなく買った。そうしてやがて3枚目のサントラが出ると、それも買った。

 もちろん『VOICES』目当てである。1枚目にはオリジナルver.が、2枚目にはアコースティック版が収録されていたからだ。だが、3枚目のころには恐らく、それだけではなくなっていたはずだ(明確に時期と結びつく記憶がないため断言はできないが)。
 そう、それ以外の音楽も、途轍もなくイイのだ。菅野よう子とかいう知らないヒトだったが、この人は凄い才能を持ってるに違いないと直感。直感がいつも直観に通ずるとは限らないのだが、この場合に関しては大当たりだった(言うまでもないですな)。

 高3のある日、とある私大の模試を受けに遠出した。その帰り道。僕は友人らと別れ、独り現地の映画館へ向かった。当時、地元の映画館はバキバキと潰れて行っている真っ最中であり、お目当ての映画が上映されていなかったのである。そうして僕は、映画館で『WANNA BE AN ANGEL』を聴く僥倖に遭遇できたのだった。

 そんなこんなで非常に不真面目な受験生だったのだが、どうにか進路は決まり、大学は1人暮らしをすることになった。1〜2年次は神奈川県の厚木に住んでいたのだが、小田急線・本厚木の駅前に某CD屋があって、そこが(自分的に)優れた品揃えを誇る店だったため(バイトの関係もあるのだが)、住居を東京の足立区に移してからも、厚木の店のお世話になっていた。ちなみに店の名は「ほていや」という(笑)。今もあるかな〜。

 大学時代の、リスナーとしての自分を今になって概観すると、「自分の聴きたい音楽は一体どんなものなのか」を模索する期間だったと思える。チャートに近い音楽を最も聴いていたのもこの時期なら(毎週CDTVとか観てたな)、平気でジャケ買いをしてたのもこのころ。ちょっと興味を持ったりオススメされるとすぐ何にでも飛びついて聴いてみたりしていた。

 サントラ系音楽への本格的な傾倒もこのころからで、観た映画のサントラを逐一チェックし、久石譲を聴き、まだまだ少なかった菅野よう子名義も可能な限り網羅して行った。また新居昭乃さんのCDも、最初は何故か「ご本人名義のものだけにしとこう」とか浅薄な決意をしていたのだが、すぐに(違う方面に/笑)挫折し、結局はコンプ目指して探索の旅を始めた(今も続いてマス)。

 そんな中、癒しブームを気持ち悪いと思うようになったり、それまで好きだったアーティストのCDの大半を買い漁ったりし、大学卒業時で600枚あまりのCDを所有するようになってたりしたものだった。いやっはっはっは、蔵書とも相まって引っ越しのタイヘンだったこと(^-^;)。

 プレイヤー?としての自分は、大学時代に大きな転機を経ることになる。まず、ピアノが弾ける環境の欠如。電子ピアノが欲しいなぁ、とは思いつつも、日々の生活と書籍&CD購入を裂いてまでお金を貯めるには至らず、大学の音楽室を個人で借りては2時間くらい弾く、というのがたまにあったくらいだ。しかしまぁ、「自分にはピアノを弾きたいという、それなりに強い欲求がある」ということを明確に自覚したのはそれなりに大きい契機のひとつといえばひとつだろう。そうして大学卒業後、何年かの実家暮らしを経たのち独り暮らしを再開したのだが、そこそこ優先的に電子ピアノを購入した。貯金があるわけでもない中で3ヶ月後には買っていたのだから、まずまずの優先度と言えるだろう。音を奏でられるものが身近にないのはツラい、と感じた大学時代の経験が、ここに生きていると言えなくもない(笑)。

 それ以上に大きな転機は、DTM(デスク・トップ・ミュージックの略です、と補足を一応)との出会いである。最初はPlaystationソフト「音楽ツクールかなでーる」というのから入った。プレステをDTMと呼ぶのには意味的に抵抗もあるが、入門がそこからだったのは事実なので記載(笑)。続いてPCを購入後、PCソフトの「音楽ツクール95」。いずれにせよ入門者用のソフトなのだが、その後も愛用した(今も音ツクは後継ver.を)。続いて「Recomposer」やらに手を出し、MIDIキーボードや音源を購入した。

 DTMを始めたのは、当時、部活の先輩を中心とした仲間内でゲームを作ろうという話があり、その中の音楽を担当しそうになったのがきっかけだった。DTMという単語は知らずとも、PCで音楽をやってみたいという思いはあったはずであり、その意味では渡りに船だったのだろう。自分にとってDTMへの入り口は、作曲への入り口でもあったわけだ。

 そうしてDTMを始めてすぐに僕は、自分が音楽のことなど全っ然、まったくもって、判っていなかったのだと知った。まず、浮かんだメロディを譜面にするのに一苦労。これでいいと思って譜面にしても音を重ねるとヘンになるなど茶飯事。

 また、DTMで初めてベタ入力した曲を聴いて思ったのは「楽譜通りってのは、なんとつまらないのだろう」だった。ところが、MIDIキーボードなどによる直接入力をするようになると、今度は自分の「楽譜通りに弾いていない程度」の著しさに辟易した。例えばテンポは(意図せぬ限り)変動しないのが基本的に正しい。楽譜に書いてある通りのテンポで、書いてある通りのリズムを刻むPCは、問答無用で正しいのだ。

 それまで僕は、どちらかというと「音を伸ばすところは情感に任せて好きなように伸ばす演奏」こそを是としていた。音を伸ばすのに限らず、強弱もテンポも、すべて演奏者のセンス次第であるべきと思っていた。いや、自分の演奏についてはそんなふうに情感やらを音に乗せられる水準にはないのだが(笑)、理想として。

 ところがDTMというものに触れることで、それこそ「機械のように正確に」音符の示すところを再現する演奏も正解なのだと思うようになった――もうひとつの到達点を見出した。

 同じくメロディラインなどについても、それまでは曲のメインであり感情の迸りを託すべきモノだと信じていたが、DTMを始めてからは、メロディそのものが余程に秀逸というのでなければむしろ全体の構成(各種バランスやら編曲とゆーイミも含めて)こそが重要と考えるようになった。

 恐らく、DTMを通して、音楽に対する姿勢がいくぶん俯瞰的になった、と言えるのだろうと思っている。そしてもちろんそれはプレイヤーとしての自分のみならず、リスナーとしての自分にも多大な影響を及ぼしたはずである。

 DTM歴と同じキャリアで作曲もどきも(自己満足の範囲内で)してみたりしてるわけだが、これも意外なところで感覚器官(?)に成長している様子だと気づいたり。たとえば・・・特にアマチュアの人が作曲/制作した音楽やら、デビューしたばかりのアーティストたちの自作の楽曲を聴いたときなどに、「あぁ、やったやった。それ俺もやった(笑)」という微笑ましくも生暖かい感情が芽生えてしまうことがあり、そんなときは気恥ずかしい思いでいっぱいになる(笑)。

 要するに「こういうメロディ好き」、「こういう展開好き」、「こういうリフ好き」・・・(以下略)を、積み重ねて積み重ねて「とっておきの1曲」を作ってしまう、というやつである。それを感じるのはAメロ・Bメロ・サビなどがうまく馴染んでなかったりする場合(言うまでもないが「楽想が自由である結果として曲の先が読めない」のと「単にチグハグ」なのは別モノである。もちろん自分程度では、その辺のビミョウな違いがいつも判別できるわけでもないのだが)や、それぞれの部分があまりにキャッチー狙いすぎだったりする場合・・・など(その時々なので一概には言えないが)。プロに近いはず(てかプロ)の人々で最近そーゆーのを感じてしまった曲は例えば『THIS ILLUSION』とか『君の知らない物語』あたりだったりするが(共感して貰える人はどれくらいいるだろう)。ちなみに『THIS ILLUSION』は、『disillusion』の方に関してはその印象が薄らいでいた。編曲の妙で、川井さんさすが、と言ったところなのかな?

 さて。大学には、期間で言うと5年・延べで言うと4.5年くらい通った(意味不明・笑)。最後の1年は実家から月に1度くらい通ったので、実質プー1年目、とも数えることが出来ると思う。

 この辺りになると大体、現在の音楽的嗜好と同じカンジなので音楽的なイミでの転機として特筆すべきは減って来るのだが、友人らと音楽の話を出来るようになったのは財産であると思う。

 高校以来の友人MTは、大学卒業時で僕とほぼ同じ枚数のCDを所持していた。なおかつ互いの持っているCDが一部しか重なっていなかったというところがあるイミ笑える(まぁ嗜好が国内と国外に分かれているのも大きいのだが)。僕が大学卒業あたりでひとまず自分の音楽的嗜好を固め、それ以上はあまり広げないようにしたのに対し、友人MTは現在も音楽の探索をたゆまず続けている(今となってはCDの所有枚数は随分と水をあけられてしまった)。また、体系立てて音楽を聴いているという点では、僕の交友/知人関係の範囲で右に出る者がない。

 同じく高校以来の友人TSは、僕と著しく近い嗜好を一部(新居さんちのおねえさんとか坂本さんちのお嬢さんとか)有すると同時に、妙な嗅覚を持っている。物凄く売れるようになるアーティストを、売れる前から好きで売れてからあんまり・・・というのが何件か。あと中途半端にブレークしつつベスト盤を出して消えて行くアーティストを事前に探し当てるのも得意だ。「イヤな先物買いの才能」と評してみる(笑)。恐らく音楽に対する感性が、非常に広く普遍的なのだろうと思う。普遍的な部分を含む広さ、というか。実際、誰も知らない段階のアーティストを発掘するのは大変なのだ。発掘、というからには後に幾分でも世に出る必要があるのだから。

 世紀の変わり目に高校の友人SHと『新世紀に残したい20世紀の名曲(マイナーな曲限定)』という企画をウェブ上で行なった。自分たちの生きて来た20世紀末に集中したのは当然の帰結で、また今なら同じ観点であっても別の曲を選ぶかも知れないという時点で絞り切れていない感も漂うのだが、自分が聴いてきた曲を、そのような視点から選ぶというのは新しい経験だった。

 同級生歴は小学校からだが交友関係は中学から(同級生といっても「同じクラス」になったことはない)、という友人IM改めKMは、一部に恐らく非常に僕と似通った感性を有している。過去の一部を共有しているからという点も大きいが、それだけではないだろう。ココロが部分的に双子なのだ。僕の布教の毒牙(笑)の最大の犠牲者とも言い得るのだが、元々の素養やら嗜好の性質が共鳴していなければ、僕もここまで紹介を続けていないだろう。また彼女の結婚式に於いては、BGMを選ばせてもらうなどという越権行為をさせていただいた。フツウ、人は自分以外の結婚式の曲を選ぶ機会に恵まれるコトはないだろう(自分の結婚式でも音楽は式場まかせって人もいるかも知れない)。せいぜい「イイ曲ない?」と訊ねられて何曲か紹介する程度と思われる。さすがに僕も「コレにして下さい」と言ったわけではなく(笑)、各シーンに合わせて2〜3曲ずつの候補を提供し、その中からご夫婦に最終的な選択をして貰ったのだが――あまりにレアすぎる貴重な体験であったことに変わりはない。重責に緊張もしたけど、すごく楽しかった。

 大学卒業後の最大の事件は、新居昭乃さんのライヴに参加したことだろう。そのへんの詳細は既に存分に語って来ているので残念ながら(笑)割愛するが、ライヴ音源というモノを軽んじていた自分を心底、愚かだと思った。

 今にして分析すると、人生で最初に買ったアルバム(ドラクエ)がライヴ録音だったコトがトラウマだったのかも知れないなぁ、とは思う(^-^;)。まず、これは単に当時の自分の迂闊さの責任なのだが(タイトルもたしか『ドラゴンクエスト・ライヴ・コンサート』とかそんなカンジだったのに)、フツウのスタジオ録音だと思って買ったら拍手とか入ってて軽くショックだったりとか、『そして伝説へ』のクライマックス部分で金管が盛大に音を外してて「そこ外すか!?」と思ったりしたことが・・・うむむ〜う。

 ともあれ、そのように軽んじていたライヴへ、状況の許す限り参加して行こうと思うようになったのは大きい転機だと思う。

 しかし、「ライヴは参加して聴かないとイミがない」という基本路線の考えは今も継続している。以前も少しネットの日記か何かに書いたのだが、基本的にライヴは、演奏者と聴衆が同じ空気を共有しているところにこそ最大の魅力があるのであり、たとえばライヴDVDとかで観ても十二分に楽しめるモノも中にはあるだろうが、実際に参加していないと、映像を見ても「なんでココでこんなに盛り上がってるんだ?」と思うような例は沢山あるだろう。

 菅野よう子ちゃんが2009年7月7日に行なった奇跡のライヴを、今のところ映像化するつもりがないのは、多分このあたりに原因があると思っている。インタヴューを読むと、菅野さんも空気の共有というか客席と演奏者が一体になって楽しむことの重要さを語っている。
 また実際、僕程度が聴いてもライヴの音源はスタジオ録音には劣るものがほとんどだ。もちろん、ナマならではの良さとか味、と言えるモノもあるのだが、それはわざわざCDなどで聴く必要があるのか? と問われれば、全ての面での肯定は出来ない(あたりまえだが)。ましてや超絶天才カンノヨーコの耳。ライヴ音源で、歌詞を間違えるくらいならまだしも、少しブレる音とか、想定より飛び出して耳触りになってしまったギターとか、僅かに狂うリズムとか・・・を、「ナマ以外で聴かせる」ことに意味を見いだせるだろうか? カメラを通して記録された瞬間、それはナマではなくなるのだ。かといってDVD化に際して、それらの点を逐一、修正して行くのも何かが違うだろう。

 脱線しているが続けると(笑)、ここ1〜2年で梶浦由記がライヴDVDを何枚か出した(現在は2009年です)。非常にクオリティの高い仕上がりで僕は感銘を受けたのだが、ここで菅野よう子と梶浦由記の、ライヴに対するスタンスの共通項と相違点を見たような気もしたのだ。
 ともに、参加した聴衆が楽しむことを非常に重視している。菅野さんの場合はそのまま、その場の聴衆と奏者に、その場の音も空気も、全てを捧げているのだ。それに対して梶浦さんは、ライヴでありながらスタジオ録音と比べても遜色ないクオリティのパフォーマンスを提供することに心血を注いでいるようにも見える。無理に名付けて分類すれば、前者はシャーマン型であり、後者はキング型とでも言おうか。両者の立ち位置は酷似しているし、どちらがどちらに優越しているというのでもない。だが、僕には微妙な差異があるように見える。そして、それがライヴDVDリリース状況にも現れてるんだろう、とも。

 そのように解したうえでなお、世紀の一夜の記録として、超時空七夕ソニックのDVDは出して欲しいんだけどね(泣)。

 さて、僕のハナシに戻るが、聴くアーティストについて、大学卒業〜プー時代開始の最初の何年かで新規探索のアンテナを意図的に小さくした。とはいえ引っかかって来てしまう(←悪いことのようだが・笑)アーティストは存在しており、たとえばLia、梶浦由記、川江美奈子などはファン歴は浅くとも結構ハマっている。
 一方、巷で流れているチャートの音楽には「ほぼ興味なし」という姿勢になって・・・はや6〜7年。売れている曲やアーティストでも、良ければ耳に引っかかって来て購入することはある(中島美嘉とか平原綾香とかタイナカサチとか・・・ん? タイナカサチは売れて・・・る?)。しかし、売れていることが聴く基準ではない(もともとなかったが、一層そうではなくなったというか)。

 Liaの歌と出会ったころ(2001年くらいだと思う)、あることを考えた。卵が先か鶏が先か、ではないが・・・自分はアニメとかゲームに偏見を持つことなく触れて生きてきたから、こういう音楽が今でも好きなのか、それとも様々に聴いてきた中で結局、こういう音楽が耳に残ってしまうのか、と。・・・答えは、どちらも等価、というところなのだろうけれど。

 まさにそのLiaは、ゲーム『AIR』の挿入歌『青空』でハマった。大学の友人YMの紹介で『AIR』ドリームキャスト版をプレイし、クライマックスで流れた『青空』に感動。世間的に有名な『鳥の詩』も、聴いて「とてもいい歌だな」とは思ったものの、『青空』がなければ、Lia自身に興味を持って他も聴いてみようとは思わなかったかも知れない。
 そんな『青空』との出逢い。そして同時期、衝撃の名曲『ヘミソフィア』リリース。これはTVアニメ『ラーゼフォン』のオープニングテーマだった。
 ・・・ギャルゲーにアニメ。ちょっと出自にモンダイがあり(笑)、付き合いの浅い相手、または「フツウ人の顔」でしか接していない相手には紹介する気にならない。

 だが、翻ってチャートで流れるような売れセンの歌を見てみれば――自分の琴線に触れる楽曲の、如何に少ないことか。よくある「自分だけの特別な」恋模様を歌った曲が悪いとは言わない。だが、それしかないのは一体どういうわけか(7〜8割が恋愛、残りの2〜3割が友情や夢、それ以外はコンマ以下ってところか)。
 同じく、曲調も歌詞も、ちょっと何かが売れると、犬も杓子もそればかりになる。

 「恋」、また「愛」は、歌というモノの中にあって最重要の要素と言ってしまって良いだろう。「夢」も「友情」も同じくだ。それは認める。だが、それらだけでは満足できない自分に気づいたのだ。
 別にそれらだけの歌があってもいい。しかし、それらだけの内容を、似たようなコード進行で、似たような(その時点での流行の)曲調で、歌うことに一体どれほどの意味がある? 悪いが、それくらいなら俺でも出来る、と言ってしまえる(すべての面でとは言わないが、基本的に僕は「自分に出来ない創作物」について良し悪しを語らないようにしているのだ。よって、本当にその程度なら出来る)。自分程度でも出来ることを、いみじくもプロが、延々やり続けるのはどうなのよ、と。

 だから自分は、音楽に対しプラスαを求めているのだ。たとえば布袋のように孤高の魂(とギター)を感じさせてくれるとか。あるいは世の儚さを歌っているとか。宇宙の真理に挑んでいるとか。変拍子だとか。哀しいメロディだとか。なにか、「もうひとつ」の要素がないと満足できないのだ。

 当たり前の内容を当たり障りない歌詞と曲調で歌われるだけでは、余程に声が好みだったりしなくては、耳に残らない。また、残す価値が見出せない。ちなみに音楽的な技術の水準が一定以上なのは大前提(平たく言うと、ある程度以上に歌や演奏がうまいのは必須、ってコトね)。

 そんな「もうひとつ」の要素は――チャートには滅多に出現せず、逆に映画やらアニメやらゲームは(関連性ないじゃん、っていうタイアップを除いて)、「世界観の表現」という前提を抱えて音楽をチョイスなり制作している。

 「世界観の表現」は、既に「もうひとつ」なのだ。あとは、その「もうひとつ」が自分の琴線に触れるか否かという点と、基本的な問題――音楽性の部分をクリアしているか否か。

 つまり、自分の好きな音楽は、圧倒的に「別の創作物のために用意されたモノ」の中にこそ、高い確率で発生するのだ。そうでないなら、唯一無二の世界観を有し、それを表現しようとし続けているアーティストの曲の中に。

 こういった文章は今後に向けての予測を書いて締めるべきだとは思うのだが、大体これまでを読んでくれた方には感覚が伝わると信じて、これにて中途半端な終わり。

<2009年12月27日(日)> 


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