2."海外生活体験記(家族帯同版)"
更新日: 2003年7月14日
更新日: 1998年4月19日
私たちは、1992年3月から1994年5月までの2年強を米国ミネソタ州
ミネアポリスで暮らしました。実際には、ローズビル(Roseville)という
ミネアポリス郊外の小さな街での生活でしたが、たくさんの思い出が出来ました。
少々長くなりますが、以下に記述するのは、日本ユニシス労組が発行して
いる機関紙『PA通信』、No.125 〜 No.127に連載されたもので、私たち家族
の出張体験を基にお粗末な私の筆で書き上げたものです。取り込んだ写真が
汚いのが残念ですが、とりあえず、本文を載せておくことにしました。
海外生活の体験談を求めている方には、少々お役に立つかもしれません。
早くアメリカへ行こう-ユニシスの夢追い人に捧ぐ-
成田で家族と別れてから、かれこれ15時間になろうとしていた。飛行機の窓からは雪の残るミネソタが見える。まだ雪は残っているけれど明らかに湖と分かる景色を見て、出来ればアメリカには行きたくないと言っていた妻のことを思い出した。英語を知らない息子たちのことも心配だった。引っ越しはすべて妻に任せてしまったし、小学校の入学式を控えていた長男の晴れ姿ももう見ることはない。
「あーあ、本当に着いちゃった!」大きく息をついてミネアポリス空港に降り立った時、何十人ものNUL
出張者の出迎えには至極恐縮したけれど、頭はまるでボーっとしていた。 今度の出張は長い。春も冬もみーんな経験しなくちゃいけない。僕にとっては二度目のローズビルだけれど家族はまったくのド素人。「家族でいればいいこともあるかな? でも本当に大丈夫かな?...」
私が XPCの開発でローズビルに出張したのは92年の 3月、翌 4月には家族が到着し、いよいよ波乱のアメリカ生活が始まりました。
「アメリカは自由の国、日本よりもずーっと大きいんだぞー!」 息子たちにはそう言って別れました。生活基盤を整えてからということで家族よりも先に出発した私は、子供たちに出来るだけ良いアメリカのイメージを伝えておきたかったのです。私の方は到着してからというもの、銀行で口座を開き、アパートを探し、運転免許を取り、息子の小学校を訪ねたりしているうちに、あっという間に一ヶ月が経っていました。
「しまった、寝過ごした。」今日はカレンダに二重まるをしていた日。家族の到着をミネアポリス空港で迎えるはずの私が、なぜ今ごろベッドの上で寝ているのか。大急ぎで空港まで行ったけどロビーにはもう誰もいない。「さてや、バゲージに?」 走って走って走りまくった。いたー、あそこだ 力いっぱいに走った。呼吸を整え、「ごめん」と言いかけて妻の顔を見上げた時、全身に電気が走るのを感じました。「うー、まずいー。妻は怒っている!」 それから起こる出来事を私はとっさに想像しました。「遅い!何してたのよ!」、「遅いわよ!何してたのよ!」ピンポン! 「ひどい!」、「ひどいわね!」ピンポン! 感動の対面のはずだった。昨日は寝付かれないで遅くまで飲んでしまったとはいえ、このむごい仕打ちは何なのだ 子供二人を連れてはるばるアメリカまで来た妻の怒りようといったら、まるで鬼のようでした。
初日から大失態を演じてしまったけれど、朝私を起こしてくれるのは、やはり、ウチのカミさんしかいません。ってなことで、奥さんの機嫌も徐々に直り、こうして家族のアメリカ生活が始まったのです。
それは、うちの次男坊が、ある日突然、「早くアメリカへ行こう!」と、言ったことから始まりました。
「わっはっは! 恒介、ここがアメリカだよ、もうアメリカに着いちゃったんだよ!」、 「エッ?...」
すかさず長男が言いました、「パパ、恒ちゃんはまだ小っちゃいから分からないんだよ。」 「恒ったら、おかしいの! ホホホ。」ママは笑いました。
次男は少し考えたふうにして、また言うのです。「早くアメリカへ行こう ...」
この会話が、その後、数日間に渡って何度も繰り返されました。当時2才半だった息子を、「こいつはもう分かっている。ここでの生活が気に入らなくてわざと言ってるんだ。」そんな疑惑の目で見つめてしまう出来事でした。
「んー、先が思いやられる。」 私の不安はいよいよ大きくなっていくのでした。
なぜか落ちつかない気持ちで目覚めた朝。長男が初めて現地の学校に登校する日。心配で、「おしっこ」とか、「お腹がいたい」とか、小さなカードを作って持たせることにした。来ないなら来なくてもいいと思いながら黄色いスクールバスを待った。
遠くの方からバスの音が聞こえてくる。「乗るのはいいけど、帰りにここが自分の家だってわかるだろうか?」バスはどんどん近づいて、目の前で止まった。「よし、行ってこい!」長男が不安そうにバスに乗った時、母親は泣きそうだったけど、次男は大声で泣いた。「恒ちゃんも乗る!」 バカもの! あれは遊園地のバスじゃないんだぞ!
英語を知らない息子を乗せてバスは離れて行きました。「すまない。」、悲しさが胸一杯に広がりました。(写真 )その日からスクールバスの停留所をわが家の前にしてくれたアメリカのおおらかさに、僕は感謝しています。
長男の英語はその後どんどん上達して、友達もたくさんできました。(写真 )「アメリカの学校はとてもいいよ。ボクは日本よりアメリカの学校の方が好きだな。宿題は少ないし、みーんな親切だしサ。」毎週土曜の日本人学校で、一週間分の宿題をたっぷり与えられ、日本の子はこんくらいの問題はみんなわかるんだぞ、と親に脅かされている間に、長男はアメリカの学校の方が好きになっていました。算数ではクラスのスターだったし、授業も教えるというより勉強って楽しいんだって思わせるような感じだったから、息子の気持ちも分からないではありません。
そんなことを言う長男を見るたびにつくづくノー天気な息子だと思いながら、カミさんは、私のことをノー天気な夫だと思っているのだろうなと予感するのでした。
アパートのまん前にある公園で、さっきから「遊ぼう!」って言っているその子をずっと不思議な顔で見つめていた次男に、「あの子は恒ちゃんとは違う言葉を喋っているんだ、英語っていって、パパたちとは違う言葉なんだ。恒ちゃんと遊びたいって言ってるよ!」 「...」 まだ日本語もろくに分かっていない。そういう次男をなかなか幼稚園に行かせる決断ができなくて、次男にはなかなか友達ができませんでした。一人ぼっちで遊んでいる後ろ姿がとても不憫に思えて、ジワーっと目に涙がたまってくる時期がありました。このままではいけない、あいつのためにもならない。アメリカに来てからもうだいぶ経っていたけれど、思い切って幼稚園に通わせることにしました。
「いいか恒介、分からなかったら、日本語でいいから、わかんないって言うんだぞ。黙ってないで、言うんだゾ。」親の心配をよそに、初日は泣かないでスタート。聞けば、幼稚園で日本語を話しまくってきたらしい。「そうか、...がんばったんだ。」次男の精いっぱいの努力でした。
やがて誕生日会にも呼ばれるようになり、クラスのちょっとした人気者に成長しました。遠足であの黄色いスクールバスに乗れた時の満面の笑み。妙にひょうきんな性格は、アメリカ暮らしの影響でしょうか。(写真 )
生活に慣れるまでは大変な労力を消費したけれど、生活に慣れるにしたがって、なんとかやっていける、いやいや、アメリカは思っていたよりいいところだと思えるようになりました。
ある日、妻がイキイキととても嬉しそうに言いました。「今日、あそこの公園で初めてアメリカ人の友達ができたの、すごいでしょ!」「良かったね。」 そう答えて、心の中で囁きました。「家族がいる。だから暖かい。」(写真 )
まだローズビルの位置についてお話ししていませんでした。
ローズビルは、アメリカ合衆国中北部、ミネソタ州の中心都市ミネアポリスとセントポールのほぼ中間にあり、ミネアポリスからは北東、セントポールからは北西に位置する緑豊かな小都市です。いや、都市という言葉は少々大げさで、郊外型の小さな街といった方が適切かもしれません。ユニシスローズビル工場からミネアポリスダウンタウンまでは車で15分、セントポールダウンタウンまでは30分ぐらいでしょうか。ちなみにミネソタ州の東はウィスコンシン州、南にアイオワ州、西にノースダコタ、サウスダコタの両州、そして、北はもうカナダという土地柄です。
緑の芝生と何十年も生きてきたはずの大木が街並の中に見事に調和して、それはきれいな所です。(写真 )ミネソタは10,000個の湖を讃える州としても知られており、ローズビルの回りにも驚くほどたくさんの湖があることを特筆しておきましょう。私達が住んでいたアパートの裏手には小さな森があり、その横にも湖があって、うさぎや鹿、ラグーン、グースなどの野性動物が住んでいました。動物と子供たちの戯れを見ていると、心が洗われる、生きているって気がしてくる。そんな瞬間が何度あったかな。(写真 )
ローズビルにはローズデールという大きなショッピングモールがあり、ダウンタウン北側の街の中ではちょっとした賑わいを見せている街でもあります。
ローズビルの四季
誰もが心の中に何枚かの写真を持っている。悲しかったことも嬉しかったこともみーんな心のどこかにしまっている。ローズビルの四季はそんな写真の枚数を何枚も何枚も増やしてくれたような気がする...。
けっして雪の多い土地ではないけれど、雪の多くは根雪となり春が来るまでけっして解けない。冬のあの寒さの中で、まるで死んでしまったかのように枯れ果てて見えた木々が、小さな芽を持ち、ゴーファーがローズビル工場の駐車場に顔を出すようになると、春はもうすぐそこ。雪解けと共に眩しいばかりの緑が一斉に広がります。ほんの一週間の間に緑の量が驚くほど変わっていく。公園の芝生もゴルフ場の芝生も一日ごとに青さを増していくんです。(写真 )
だからローズビルの春はとても短い。春だねー、って言ってるうちに春は終わっている。ふと気付くと、いつの間にか夏になっている。そんな一瞬の春を、あの重苦しい空と長く寒い冬に耐えてきたミネソタの人たちはけっして見逃しません。通勤に自転車を使い始め、ジョギングを開始し、犬の散歩が日課に加わる。ずっと東京で暮らしてきた私でさへ、春が来ることの素晴らしさを実感できるんです。一生のうちで一度でも輝けたら、それでもいいかな...、なんて思えてくるんです。
春の到来をいち早く察知するのは、ミネソタ人だけではありません。そうです、ゴルフ好きの日本人がいたのを忘れていました。来週にはできるかな? なんて気にしているとその週はまた雪。そんなヤキモキしながら迎える春もありました。それは私ではありませんからネ。アシカラズ。
さて夏。夏はアウトドアライフの天国です。春と夏の境目がはっきりしないまま、やれゴルフ、やれテニスといっているといつの間にか夏本番。バーベキュー、釣り、水泳、ヨット、水上スキー、サイクリング。もう何でも来いっていう感じです。キャンプに出かけ大自然に触れるのも良し、木陰で読書するのも良し、公園のグースに餌をあげるのもまた良い。若い水着ギャルを見たければ、近くの湖へ出かけて下さい。ローズビルの夏は日本のように蒸し暑くはありません。ちなみに私が好きだったのは、んー...やっぱり、ゴルフかな。安い、多い、近いと来れば、つい手が出てしまうのも無理からぬことです。でもやりすぎには注意しましょう。家族から不満の声が上がるのは必至です。(写真 )
秋とくれば真っ先に思い浮かぶのが紅葉。僕は日本とミネソタの紅葉をうまく比べられないけれど、ミネソタでは名所を訪ねてわざわざ遠くまで行く必要はありません。通勤途中のドライブで驚くほどきれいな紅葉が見られるんです。見とれて事故りそうになってしまうぐらい素晴らしい。
僕が一番好きだったのはミネソタノースショアの紅葉。間近に見る紅葉は原色のように黄色く、燃えるように赤く、淡く透き通って見える。木も土もみんな生きてるんだって気がしてくる。遠くの山は黄色や赤、オレンジで覆われて、その中にちらつく緑があまりにも鮮やかで、もう見事という以外にはありません。(写真 )
もう一つの秋はハロウィン。All Saints’Day(10月31日)の前夜、子供たちはこの日のために準備しておいた、バカバカしくもおもしろい姿に変装して、大きな袋をぶらさげながら近所の家を回ります。普段まったく縁のない家でも構わず、一件一件ドアを叩いては、「Trick or Treat 」と大声で叫びます。昔は、家の中に恐ーいトリックを仕掛て子供たちを楽しませる家もあったようですが、今はトリートの方が中心でキャンディやチョコレート、人によってはお小遣いをあげて、「Happy Halloween!」と挨拶し合います。かぼちゃの顔で代表されるハロウィンの装飾品もなかなか奥が深く、各家の玄関の飾り付けがハロウィンのムードを大いに盛り上げていることも忘れてはいけません。わが家でも「トリック オア トリート」を猛練習して50軒ぐらいの家を回りました。(写真 )その中の一軒は、人の気配を感じると突然パーッと電気が付き、幽霊の音楽が始まったと思うとご主人が幽霊の姿で現れるといった、まさしくトリックで出迎えてくれる家もありました。
日本人留学生の悲しい事件で話題になったハロウィン。最近はキャンディに毒を盛るといったハロウィンに絡む犯罪も増えてきて、ミネアポリスでも場所によっては子供たちの訪問を禁止しています。世界に誇っても良いほどの楽しい行事なのだから、ぜひ続けて欲しい。実際はけっして恐ろしい国ではないけれど、これもたくさんの問題を抱えるアメリカの一端なのかもしれません。
ミネソタと言えば、なんといっても冬。アラスカは別にしてアメリカ本土の中では最も寒い州と言われています。別の州を訪れ、ミネソタから来たと答える度に、「オー寒い!」なんて冗談を言われてしまうぐらいです。特に、93年から94年にかけての冬は記録的な寒さが続き、ー30℃はざら、体感温度もー60℃なんていう日があって、とても人の住むところとは思えなくなってきます。私の車も三日間エンジンがかからずにNUL 出張者の応援を求めました。それでもここに住んでいられるのは、西部開拓史以来、ここを定住の場と決め、努力と工夫を重ねてきたミネソタ人の知恵のなせる技と言えるかもしれません。どんな大雪でもチェーン装着は決して許されませんが、除雪作業は実にすばやく行われます。外がどんなに寒くても、暖炉を初めとする暖房機器の充実で家の中は快適だし、外気に触れないで済むように車のガレージは家の中、あるいは地下に作られ、ダウンタウンのビル群はすべてスカイウェイという通路でつながっています。アメリカ最大のショッピングセンタ、モールオブアメリカの中には、キャンプスヌーピという遊園地がまるごとビルの中に納められています。
冬のミネソタで私が一番好きなのはクリスマスの飾り付け。一ヶ月以上も前から家の回りを数千、多い家では数万の電球で飾りつけ始めます。何の得にもならないけれど、これを現地ではクリスマススピリットとして尊重し、飾り付けの素晴らしい家は新聞で紹介されて、夜毎多くの見物人が押し寄せます。派手な家から質素な家まで、とにかくほとんどの家がそれなりの飾り付けをしてクリスマスを迎えます。町中がエレクトリカルパレードしている。その光景にはトナカイに乗ったサンタクロウスがピッタリくるけれど、信心深い多くの人々は、セントニクラウスが貧しい家を回っては、そっとお金を投げ入れたという行為を、いつまでも忘れてはいけないと願っているのかもしれません。素晴らしいね。
僕は学生の時アメリカに二年ほど留学(人は遊学と非難しますが...)していたのでアメリカ人と接することには慣れている方かもしれません。でも学生時代のいい加減な付き合いと社会人として仕事を中心にした付き合いでは、そもそも友達として選ぶ相手が違う。自分自身も年をとり、昔のようにすぐに友達になるということが難しく感じられてくると、付き合うならNUL 出張者が一番、なんて思ってしまう訳です。
それでも、ローズビルにはNUL 出張者を暖かく迎えてくれるアメリカ人がたくさんいます。日本人は嫌いという人もいる訳だけど、なぜかみんな親切なんです。少なくても表面上は。私が在米中に特にお世話になったアメリカ人家族、ダラス家とベーカー家のことを少しお話ししましょう。
ダラスはローズビルでも親日派の筆頭と呼べる人で、たまたま赴任時の仕事上のリーダだったためにたいへんお世話になりました。日本人は仕事をしないと落ちつかないということまで把握していて、思わず「そんなに心配してくれなくてもいいんだけど」なんて冗談を本気で言ってしまったほどです。ダラスの家には何度もお邪魔して、食事をご馳走になったり家庭菜園の野菜をおみやげにもらったりと物質面でもお世話になりましたが、現地での友人として、精神的な面でわが家に与えてくれた安堵感は測りしれません。ダラスの別荘にも何度か足を運び、湖で泳いだり、釣りをしたり、冬には、アイスフィッシングも教えてもらいました。(写真 )釣った魚をフライにして食べてからというもの、次男坊は金魚を見ても「これ食べよう!」 日本のデパートでは言うなよ、絶対に!
メアリー夫人の暖かーい人柄も忘れられないネ。
フィルはたまたま席が隣だったことからお付き合いが始まりました。ダラスよりはずーっと年が若いので話題も全然違いますが、私の一番の話相手になってくれたのはこのフィルです。フィルの家にはサニーという大きな犬がいて、うちの子供たちは食べられそうになりながら必死に逃げ回っていたのですが、訪ねるたびに仲良くなり、その後は、玄関のドアが開くと、「サニー!」と、こちらから呼んでしまうほど仲良くなりました。(写真 )地下室にはビリヤードがあり何度か勝負を挑みましたが、私はフィルの相手にはなりませんでした。いくら負けてもなぜかビールはうまかった。そうそう、彼はいつもミネソタ生まれの地ビールを用意してくれていました。ベス夫人は、目下会社の副社長。とてもキャリアウーマンとは思えない優しい人で、日本びいきでもあります。
馬車馬のように働く日本人と私生活重視のミネソタ人。あまりの仕事ぶりの違いに日本人もアメリカ人もお互いを理解出来ない。それが今までのNUL とUNISYSの関係だったかもしれません。それが今、ちょっとずつ変わろうとしています。日本人の働きぶりを内心では働き過ぎと思っていてもNUL という会社の存在感は強大で、スケジュールを守るということの重大さは、仮に実行できなかったとしても彼らの頭の中では理解されるようになりました。文化の違いは考え方の違いを生み、食事の違いは背の高さの違いを生んだ(違うかな?)。所詮は同じ人間、付き合えば分かるってところも随分とあるように思うんです。
NUL の強硬な主張を、NUL の立場を伝えてから話すと結構分かってくれる。少なくても一緒に仕事をしたXPC
の連中はそうでした。あきれずに最後まで付き合ってくれたXPC 開発メンバに栄光あれ!(写真 )
喫煙仲間
雨にも負けず、風にも負けず、雪にも負けない。で、たばこを吸う。これがローズビル喫煙者の心得です。ビルの中では一切禁煙。雨の日には傘をさし、風の日には木陰に隠れ、雪の日には帽子をかぶる。傘を忘れたと言えばわざわざ自分の席まで傘を貸しに来てくれる、そんな心温まる人間劇が喫煙者仲間の間で繰り広げられています。まさに喫煙に国境はない、とでも申しましょうか。
零下40℃もなんのその、ある日誰かが言いました。「鼻毛も凍る寒さの中でさへタバコを吸う、これが真の喫煙者だ 」 ちょっと汚いけど、けっこう好きです、こういうノリ。
ミッキーさんと駐在員
ミッキーさんは、日本人でありながら実はアメリカ人。NUL オフィスのセクレタリ、ミッキーさんを知らない人はユニシスの人間じゃないと言われるぐらいの有名人です。そんな中で僕は努めてミッキーさんの目に触れないように頑張りました。ミッキーさんに呼び出された時は、何か迷惑をかけた時か怒られる時なのですから、なんとかそれから逃げたいって、思いますよね。でもダメでした。怒られっぱなしっていうヤツです。今思えば、前回の出張で何も考えずにミッキーさんに年を尋ねてしまったのがいけません。それからというもの未だに僕はミッキーさんが恐い。なーんて言うと、「あなたみたいな人がいるから、恐いって思われちゃうのよ!」と、またまた怒られてしまうかな
普段は口に出して言わないけれど、ミッキーさんや佐野駐在、小川駐在のおかげで無事にローズビル勤務が遂行できていることをローズビル出張者はみんな感謝しています。NUL
のために、どうか頑張り続けてください。
アメリカにいても、一番の仲良しはNUL 出張者。へー、そうなの?って思うかもしれませんが、仕事はもちろん英語ですし、買い物も英語、子供の学校も英語、ご近所も英語、テレビも映画もみーんな英語なのですから、疲れ方も結構大きい。ってな時に、いつもそばにいてくれるのがNUL
出張者な訳です。ゴルフをしたり、テニスをしたりしながら、日本語でおもいっきり話し合えるっていうのは、お風呂のないアメリカでは心のオアシスとでも言いましょうか、実にうれしいんです。みんながいるから、頑張れるんだよね。(写真 )
洋行帰りというしゃれた言葉はもう死語に近いけど、海外出張を外見の派手さだけで論じるのは片手落ち。日本に家族や恋人を残して来た人たちは、日本に帰りたいという気持ちを心に押ししまいながら働いています。ちょっとだけ仕事のことも書かせてください。
ローズビル工場
ローズビルは2200シリーズを生産するハードウェア工場であると共に一大ソフトウェア工場でもあります。この長ーい二階建てビル三棟の中には、数々の2200プロダクトを生み出し、天才の名を欲しいままにしてきた優秀な人物たちが座っている。その同じビルの中で、これから自分も新しいプロダクトの開発に参加しようとしている。最初は誰でも素晴らしい緊張感に包まれると思います。
通常ローズビルでの開発は、自分の世話人となる現地人マネジャを紹介されることから始まりますが、喋りたくない英語での挨拶にタジタジになってしまう。汗を拭い、やっと終わったかなと思うと、今度は仕事仲間を紹介されてまた汗を拭う。やれやれと思っていると、まだあいつがいた、なーんて言われて、もうタジタジのしどうしです。やがて背の高いパーティションで仕切られたキューブと呼ばれる一室に案内され、そこが自分の仕事場だと分かると、やっと落ち着ける。そういう長ーい一日で始まるのです。以降仕事はその広いキューブの中で、マネージャや他の仕事仲間の顔を見ること無く、完全に自分一人の世界を作って行われることになりますが、働きぶりを監視するというような風景はほとんど見られません。勤務状態よりも、その出来高が問題となる世界。給与が年俸制であることを見ても、日本のやり方とは大きく違うことが分かります。
みんなバラバラに仕事をしているように見えるのですが、ミーティングや端末でのメールのやりとりは頻繁に行われています。じゃあ雑談は無いのかな? というと、ひーとりふーたり三人来ました、ってな感じでキューブから這い出て来る。どじょうが出て来てこんにちは!ってな具合に雑談の輪が広がります。何の会話も無い仕事場なんて、さぞかし気持ち悪いだろうから、この雑談も案外大事なのかも知れません。
今回の仕事はXPCのS/W開発。最新のハードウェアに最新のアルゴリズムと来れば、思わず胸がワクワクするようなアカデミックな仕事に思えるけれど、輝いていられるのは、ほんの一瞬だけ。
開発中の輝きは、デザインを決定していく過程の中にあると思います。まだ誰も経験したことのない問題に対してデザインを決定していく。そんな時には、星飛馬の燃える瞳のように身体の血が熱くなっていくのを実感できます。アーキテクチャを変更しないと目的の数字に到達しないとか、特殊なケースでのリカバリが効かないとか、バラバラな定義を一つにまとめないと今後の開発に矛盾を含むとか、そういった問題が、次から次へと表面化していく。これ以上の方法はないと確信しても、ハードウェア上できちっと動くのを見るまではどこか落ち付かない。いつの間にか、大変だとか、努力しなくちゃ、なんていう言葉は忘れてしまっている。「おれが何とかしてやる!」なーんていう感じで、希望に燃えている訳です。いくら苦しくても「大丈夫、大丈夫!」の一点張りでいられる瞬間です。
デザインが決まってからの作業は、どちらかと言えば体力勝負。楽しいなんていう言葉はもはや思いつきません。ただひたすらスケジュールとの戦いを繰り返し、現地人の進捗の遅れに意見し、たくさんの作業を抱え込む。NUL
出張者にとって、スケジュール維持は、自分がアメリカへ送られた最大の理由であり使命であって、そのためには憎まれても働く。現地人がNUL
出張者に対して抱く大きな謎、「どうしてそこまで働くの 」を自問自答した時、「そうだよなー、どうしてここまで働いちゃうんだろ?」って、答にならない答を繰り返しながら、やっぱり働いてしまうのがNUL
出張者の証です。
午前7:30から午後4:00まで。これがローズビルの標準勤務時間です。ほとんどの現地人は4:00を境に帰宅の準備に入りますが、NUL 出張者はここから第2 ラウンドの勤務に突入するのが一般的です。仕事の内容にも寄りますが、NUL への納期が近づくにつれ、この第2 ラウンドの働きぶりは、まさしく馬車馬の如し。「一日の中で一番嬉しいのは眠ること」といった状態が何日も続くようになります。特にテストが深夜に及んだり、深夜早朝から始まるといったことが続くようになると、身体の疲れ方も尋常ではありません。それでもへこたれないNUL 出張者は、偉いのかバカなのか? 「あいつは仕事が好きだから!」なーんて答えたら、怒っちゃいますからね。
車での通勤は帰りにどこかで一杯という日本型サラリーマンの伝統を許さないし、終電の心配がいらないということは、とことん飲めるのではなく、とことん働けるということを意味します。車で行けるという気安さは、土日の出社も容易にする。
自らが家庭や自分を犠牲にして働こうという選択をしてしまうのだから、ローズビルには宇宙の不思議な力が働いているのかも知れません。いや、そういう仲間がいるから、自分もそうなっていくのかな? けっしていい事とは言い切れないけれど、それがローズビルの伝統となって息づいている事に、僕は拍手を送りたい。NUL
を支えてきた大きな力だよね。
その気になってやってみるとけっこうこだわりも生まれて、XPC には語り尽くせない思い入れがあることを実感せずにはいられません。ローズビル出張を苦労話しとして語ることも出来るけど、きっと大した苦労はしていない。
いろーんなことがあって、いろーんなことを感じて、怒ったり笑ったりしたのは、ついこの間のこと。ローズビルの景色は、いつもそこにあって、同じように四季を迎えました。その移り変わりに目を見張り、自然が自然であることに驚きながら、たくさんの感動に出会いました。広ーい大地や大きな空を見ていると、そういう自然の力が、希望や夢を忘れちゃいけないって思い出させてくれる。ローズビルのそんな景色が懐かしいな。
家族がアメリカに到着して間もない頃、ここはアメリカじゃないと信じて疑わなかった次男坊が、私を責めるように言い続けた言葉、「早くアメリカへ行こう!」
何も分かっていなかった次男のあの言葉を今でも時々思い出します。英語が分からなくて、いつも一人ぼっちで遊ばなければいけなかったキミの努力をパパは忘れない。たくさんの友達ができたのは、がんばった証拠だね。
パパはそれを、「前向きで行こう!」って聞くことにしました。キミがしたようにパパもがんばるぞ。
快晴の空にきれいな飛行機雲が残りました。やがて消えてしまうその雲を見ながら、アルバムの最後に書き記しておきたい言葉を思いました。「いつまでも、忘れずにいようね!」