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9/15(火)記


去年の今日、突然の激痛で病院に運ばれた。
病院生活から続いていた、暗く湿った空間(物理的な)から出て、社会復帰を目前にしていた矢先だった。信じられない出来事だった。
37時間一睡もできずに苦しんでいた。病院内をたらい回しにされ、主治医にも「オーバーだなあ」という顔をされていた。病院に着いてからなんと17時間後の午後5時すぎにサブちゃん先生が、「異常あり、緊急入院」という診断をくだす。なんでそんな時間がたつまで誰もわからなかったのか。これも運命なのかと一瞬頭をよぎる。
あいている病棟のベッドに運ばれ着いたのは午後6時になろうとしていた。助教授のジャンボ先生がいきなり「手術しましょう」と言ってきた。手術室が混んでいるので、9時から始めるという。
そして、そこから長くきつい日々が始まる。

局所麻酔ではいる。ジャンボ先生を中心に外科医2名と主治医N先生のなんと4名がはいる異例なものとなる。それだけでも驚きなのに、そこは壮絶なる戦場だった。飛び交う声声声…。
意識のあるのが怖かった。メスで開腹する音、におい、重み、緊張、怒鳴り声、全部感じるのだ。なんでこんなことになってしまったのだろう。
根本的な治療を終え、私は退院していたはずだ。
教授は、N先生に「そこ、どうだ?」と聞く。
「なにもないと思います。」
「思いますじゃないだろ。ちゃんと見ろ!しっかりしろ!」
耳を塞ぎたかったほど。

どのくらい時間がたったのかはわからなかったが、声が飛び交う中でジャンボ先生が「時間がたりません。麻酔が切れそうなので、全身麻酔に切り替えますよ。」と言った。その瞬間にはもう意識がすぅーっと遠くなっていた。


病気について「告知」する、という言葉を使うのは、たぶん特定の病のときだけではないかと思う。どこかおどろおどろしい言葉にさえ、思える。
恐怖心や偏見、そういったものがもっとなくなれば、そういう言葉を使われることもなくなるはずだ。「病気は?」「腫瘍は?」でいいのではないか。
たぶん私はずっと人に変な弱み?というか弱いところを見せるのはどんなことがあっても嫌だと、入院していたことを殆ど明かさずいた。ずっと連絡がとれなくて気にしてくれていたひとに、「どこが悪かったの?」と聞かれても、「ちょっと治療が必要なだけだから…」というような言葉で全てを濁し、何がなんでも口を閉ざした。誰にも言うなと家族にさえ口止めをした。
何故そのようなことで見栄をはらなければならなかったのだろうか。
他人は、所詮病名を聞いて、「哀れむ」だけだろうと、そう考えていたからだ。
気詰まりな人間関係になってしまうのが一番嫌だったのだ。 当の本人は、時間がたつとかなりサバけているつもりでも「大変でしょう」「つらいでしょう」と言われるたびに、奈落の底に着き落とされる気分になっていた。自分のことしか考えられない。時は自分の感情のまま動いていた。
自分で精一杯。なぐさめは哀れみに、励ましは我慢することにしか持って行き場のない毎日。自分の心の狭さにその時は気がついていなかった。

6月のある木曜日、健康診断(半日人間ドック)を受診した病院より、朝9時ちょうど職場に電話がはいる。
「至急再検査が必要なのですが、明日面談にこられますか?」
いきなりそう言われても、何とも答えようがない。できれば行きたくないと思った。
「明日急には無理です。他の日にちは?」
「土曜日の午前中なら、担当医がいます。」
土曜日は休みだ。
「では、土曜日にいきます」
その日、部屋に帰ると「診断通知」がきていた。<至急>の文字に、心臓の音が途切れ途切れに聞こえる。
できるなら、間違いであってほしい。簡単なことであってほしい。そうして土曜日がやってきた。
もう、よぼよぼになりそうな外見の院長。「疑わしい腫瘍の所見あり」という生きた言葉。
「何か考えられるかもしれないし、そうでないかもしれないということですよ。とにかくもっと大きいところに、行ってください。紹介状かきますから」
不確定な言葉ほど、動揺させるものはない。断定的な方が、腹がすわるだろう。そう思った。電話ボックスから、廻すダイアル。かけようと指が数字を4つ押したところで止まる。会うことをやめてもう1ヵ月以上になるのだ。かけられるはずがない。まして何を言えばいいのだろう。受話器を持ったままただ泣きじゃくってしまった。そしてそのあとどうやって電車に乗って着いたかは、覚えていない。

勤務先から近いという理由で、T医大にいくことになる。
月曜日に教授と面談、診察、検査の予約。
長い長い毎日。そして、検査結果。
結果は-------クロ
見つかってからは、いろんなことがいっぺんに、台風のごとく進んで行った。日々変化していくであろう腫瘍<growth>。growthとは普通、成長していくという意味である。
もうこれで終わってしまうのか?と思った。
T医大に決まってから、友人Aさんは3歳の子どもを連れていつも一緒に付き添ってくれていた。「今こうして病気がみつかったことには意味があるのだから。絶対治ると信じて頑張っていこうね。これからは運命共同体。負けちゃいけないんだから。」その時偶然に彼女の親友が、同じ病院に原因不明の不治の病で入院しており、彼女はふたりを抱えることになる。
その大変さを、感じる余裕さえなかったのだ。母親にも同じ言葉を言ってくれていたという。心臓疾患で身体障害者のチェックをつけられ、生活圏外から動くことをしてはいけなかった母親は彼女に毎日電話をいれてくれていた。
あの時のその言葉があったから、私たち親子は励まされてきたと思う。
それからたくさんにかかわってくださった人達。一派からげにはできないけれど、とても書き尽くせない。


今普通の生活に戻ってから考えるのは、自分と病院の関わりでみる医療の在り方である。
K大放射線科の医師、近藤誠先生の本を読んでいる。「医師を選ぶのも寿命のうち」「医の論理とは何か」「治らなくても敗北ではない」「人間らしく終わるには点滴の拒否を」「がんばれは無意味」などなど中には、色々書かれている。「なぜ、抗癌剤をつかうのか」では、抗癌剤に出会わなくて済んだことを思い知らされている。突然の再入院に、医師は原因不明と認めなかったが、さいしょの治療で二次的に起ったものだろうというのは素人目にも感じる。「医師にまかせるしかない。信頼し、自分が決めたことだ」とそう思い込んできた。
でも読んでいるうちに、任せるしかないだけということではないと分かった。
もっと賢くなって関わっていかなくてはならない。私はまだ爆弾を抱えたままだ。完全に縁が切れた訳ではない。病院とうまくつきあっていくしかないのだ。
いつか医療との関わり方で、思うことを書けたらいいなと思う。

早いもので、1年が過ぎた。まだこれからなのかもしれない。自分らしく、自分と付き合って、健康でいられるようになりたいとつくづく思う。

支えてくださっている、全ての人に感謝していかなければならないことを、今しっかりと確認。

続きは、またいつか。。