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暴走族首領になった話

昭和46年6月、スズキフロンティアという軽自動車のミッションがボロボロになりセカンドのままギヤも動かなくなってしまった。無理矢理ナダメ、ギヤもそのままで車屋に持っていったらよくもこんな所まで運転できたなーと感心(?)されてしまった。 新しい車が欲しいと思っていたので、衝動買いというのか何とその場で注文した。

当時はよき時代で、諏訪から東京出張に軽自動車で行ったまま徹夜徹夜の連続で寝るのは機械室の仮眠所というわけで宿泊費などの旅費に加え100時間以上の残業手当などを頂いていた。3ヶ月位は給料に手を付けなかったこともあったので車のお金は問題なかった。

買ったのは、日産サニー1200GXクーペという車種。

当時、ゼロヨンという言葉があった。スタートしてから400M先に到達できる時間のことであるが、レシプロ(松田のロータリーエンジン車以外)では国内で一番早いと聞いてこの車に決めた。何故早いのかと言うと車体が軽い(600kg位)上に1200CCで83馬力あったからだろう。SUのツインキャブというのも燃費節約で気に入った。気を付けて乗ると20km/Lまで走る。買ってから気がついたが、エンジンの回転数と速度が正確に比例していた。4速でガソリンはシェルのハイオクで3000回転が丁度100km/時だった。速度計は180kmしかないが、東名高速で瞬間6000回転出した時は200km出ていたはず、よく死ななかったものだ。しかし正確に言うとタイヤの回転がエンジン回転数に正比例というのが正しく、2速でも3速でも4速でもアクセルを吹かしすぎるとタイヤが空回転してしまうので扱いがやっかいだった。

当時、アパートの近くの国道20号線沿いにスナック喫茶がありその地階に駐車場を借りていて車を置いた後スナック(何故かジンライム)で飲んでから帰るパターンが多かった。 ある時から、諏訪にたむろする暴走族がそのスナックに入り浸るようになった。16歳〜21歳位が12名〜13名でヘッドは21歳、乗っているのはトヨタのセリカGT。毎日スピード自慢をしており、あまり生意気なので注意したところ勝負するか、となった。若気の至り(当時私は24歳位)と酔いの勢いで受けてしまった。

諏訪湖一周のタイムトライアルで一発勝負、一週間後の日曜日午前2時。同乗者なし。 私が勝ったらグループのヘッドになる。負けたら、グループ全員のスナック支払1ヶ月分払うことで合意。翌朝、えらい事になったと反省したが既に遅し。 次の日より下見は勿論、毎日スピンターンの練習を諏訪湖の砂浜みたいなところから始めた。何故なら諏訪湖一周で一番タイムロスが出るのは岡谷の水門の所で直角カーブがあるためだ。コンクリートの上でも何とかできるようになったところで勝負の日が来た。 彼は相当自信があったようであるが結果は私の勝ち。合計タイムは忘れたが6秒差だった。 勝因は、車の差(こちらの方が出足と低速時の加速が早い)、練習の成果でスピンターンがうまくいったこと等も考えられるが、本当は運だけだったかもしれない。私の時、対向車はなかったが、相手は直線ではあったが大型トラックとすれ違ったとのこと。(両方とも直進方向に車はいなかった) 勝ったあと、辞退しようと提案したが約束は約束とのことでリーダに奉られてしまった。

以降、そのグループが半年後につぶれるまで首領の形となった。その間私は一回も彼らと集団行動はとらず、毎日スナックで飲みながら恋の悩みなど彼らの相談に乗ってやったりしていた。 暴走族の首領として私のしたことといえば、事故を起こした奴の後始末が2回程度と、松本のグループから挑戦状が届いた時に相手のリーダと無駄な事は止めるよう話をつけたことだけだ。(実質この時に暴走族を解散させた)

車の出足・加速については何も競争ではなく、安全のためにも早い方が良いというのが私の考え方であった。今と違って一般道を走る事が多く遅い車も多いため追い越しすることが多かった。また追い越し禁止車線も今より圧倒的に少なかった。 そのことから、今でも乗っている車も車体標準排気量に比べ大きなエンジンをのせたタイプにしている。
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