
中津の有名人
佐伯祐三(画家 明治31年−昭和3年)
明治31年4月、中津2丁目5番4号、光徳寺の13代裕哲の2男として生まれた。中津尋常小学校→北野中学校(現北野高校)→東京美術学校(現東京芸術大学)油絵科を大正12年に卒業。在学中は、中村つねの画風に影響を受けたところが見られる。大正13年妻子を連れてフランスに渡り、ブラマンクを訪ね、その指導によって画風が急速に変わった。主としてパリの街景や、近郊の古い壁の家などを描いたが、その作品は佐伯独特の鋭い感覚と繊細な叙情をひそめる独自の画境を展開し、ブラマンクとはまた異なるものがあった。大正14年、サロン・ドートンヌに「コルドヌリ」「煉瓦屋」が入選、英・伊を旅行して翌15年妻子とともに帰国、二科展に滞欧作品19点を特別陳列した。昭和3年パリ郊外の病院で死去した。遺骨は光徳寺の佐伯家の墓に納められている。代表作は、「ノートルダム寺院」「サンタニス教会」などパリ風景を描いた数々の作品と、人物画では没年に描いた「郵便配達夫の像」がある。昭和63年光徳寺内に佐伯祐三の顕彰碑が建立された。
森本薫 (劇作家 明治45−昭和21年)
明治45年6月中津6丁目で生まれた。生家の裏を大正3年8月から阪神北大阪線(昭和50年廃止)が走るようになり、その騒々しさを嘆くようすが、初期の戯曲「一家風」にくわしい。中津第二尋常小学校(現中津南小学校)から北野中学・三高を経て京都帝国大学英文科に入学したが、三高のとき山本修三の影響を受け、のち岩田豊雄(獅子文六)に師事した。京大在学中の昭和9年「劇作」の同人に加わり「みごとな女」「わが家」「華々しき一族」などを発表した。岩田豊雄が激賞する「みごとな女」一幕は、文学座で上演、新劇界に新風を吹き込んだ。このほか「かくて新年は」「衣装」など在学中つぎつぎ作品を発表し、その華麗な人間模様と機知にあふれた清新な戯曲が、作者の早熟ぶりとともに注目を浴びた。昭和12年大学を卒業、同15年文学座に入り、以後「富島松五郎伝」の脚色、「怒涛」「女の一生」などの戯曲をはじめ、翻訳・ラジオドラマ・映画シナリオの執筆など、多彩な活動を展開した。生家ゆかりの中津2丁目、中津公園の一角に昭和61年5月、森本薫の文学碑が建立された。自然石の文学碑には、「女の一生」の一節が刻まれている。
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文学碑には、
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誰が選んでくれたのでもない
自分で
選んで歩き出した道ですもの
森本 薫 「女の一生」より
−−−−−−−−−−−−−−−−
と刻まれています。 |