南クリル紀行

これは色丹・国後島への「北方墓参」に同行した記録です。



8/24
 どんよりした空の下、久々の鈍行列車で根室へ向かう。デッキには禁煙を守れないおっさんのふかす紫煙が漂い、早々に頭が痛む。上尾幌で空いた席に腰掛けて外を眺めるが、霧雨模様も手伝って変わりばえしない光景が続く。

 チェックイン時間前とのことで愛想のない根室のEホテルから締め出される。あてどもなく街をぶらつき、贔屓にしている魚信から旬の秋刀魚を送る。1本18000円のスケは目が小さくて可愛らしい。

 立派過ぎる北方四島交流センター「ニ・ホ・ロ」での結団式に臨む。団員の平均年齢は68歳とのことだが、団長さんはじめ皆さんは元気そうだ。何もない事を祈る。

 晩は期待の回転寿司「花まる」へ。トロサンマは言うまでもないが、カンパチなど九州直送のネタが驚くほど旨い。洋上のメシは「ぱっとしない」との噂だが、これでしばらくは「何でもござれ」だ。頼むぜ

8/25
 目覚めると船出に相応しい完璧な青空。心も浮き立ち朝の散歩で汗を流す。

 花咲港での出港式に続き、水産大学校の練習船「耕洋丸」に乗り込む。見送りの姿が徐々に遠ざかる。海中を覗き込むと、魚卵と思しき粒が無数に漂う。団員のSさん曰く、かつてはいくらでも獲れて肥料にしていたシオムシとのこと。

 沖に出るとやや揺れが強まる。張り切りすぎて酔っては困るので一寝入り。船中ではいつも以上に良く眠れる。

 目覚めると空腹感を覚える。昼は甘口のカレーにシュークリーム。団員さん達の食欲は若者並みだ。

 甲板に出ると、左手に国後南部の東海岸が望まれる。50mはあろうかという断崖が海に落ちている。低い虹人の気配は殆どない。火山帯に乗っている「温泉天国」国後のこの辺りには温泉があるらしいが、ロシア軍の秘密基地があって立ち入ることはできないらしい。根室で居酒屋を切り盛りしていただけあって、色丹出身のSさんは事情通だ。

 5時間後、晴れていればこの辺りから国後のシンボル爺々岳が拝める筈だが、雲の中だ。風も強まって、いつしか暗い雰囲気に。

 程なく古釜布到着。ここはロシア側の関所で、いわゆる「北方四島」を訪れる際には必ずここを経由することになっている。ロシアの領有を認めたくない日本は「入域手続き」という滑稽な呼び名を使っているが、手続きにやって来る船が日本がロシアに寄付した「希望丸」、というのは複雑すぎて笑えない。白糠泊での羆対策にハンター3名が乗り込む。ムネオ印の船

 錆びたロシア船ばかりが停泊する古釜布にはあの「ムネオハウス」があるのだが、残念ながら我々の予定には含まれていない。人影までは判別できないが、数年前の地震後に丘の上に建った住宅が目立つ。手続きを終え、明日の上陸地である色丹島穴潤(アナマ)へ向かう。

写真上:耕洋丸 中:古釜布にかかる虹 下:これが希望丸

8/26
 目覚めるとすっきりと晴れてはいるが風が強く、うねりも高い。2000トンの耕洋丸では接岸できないため、沖合いで伴走船に乗り移らねばならない。打ち棄てられた船船乗りの手を借りるとは言え、タイミングを計って飛び移るのは相当スリリングだ。最初はうねりが強すぎて断念。錨を一度上げ、母船の風下に伴走船を配して仕切りなおす。1時間後、何とか伴走船に乗り移った我々は帰路の心配をひとまず置いて穴潤へ。

 通年吹きすさぶ厳しい風のせいだろう、樹木の少ない緑の斜面が美しい反面、湾には錆びた船が打ち棄てられ、すえた匂いが漂っている。

 ここも津波で大打撃を受けたようで、廃墟と化した水産加工場と疎らな人影が目につく。拿捕した日本漁船の乗組員を強制労働させていたソ連時代の収容所も無人で、すっかり昔話になっている。

 墓地のある斜古丹までは車で20分程だ。「加藤アルミ」の社名がそのまま側面に書いてあるバンと窓の開かないトラックバスに分乗する。礼文のよう「手を加える」発想がないのか、それともそんなゆとりがないのか路面は一切舗装されていない。突然、街中に「1945」と記された戦勝記念碑が現れる。極東の冷戦終結は遠い。

 カンバ林を抜け、小さな峠を越えると小さな軍港・斜古丹に出た。ここなら耕洋丸でも苦もなく入れるだろう。

 墓地は450mの斜古丹岳を正面に望む牧草地の中にある。斜古丹岳を望む墓地ここには19世紀後半に北千島から強制移住させらてきたクリル人(アイヌ人)の「クリル人墓地」も併置されているが、団員にクリル人は含まれていない。斜古丹出身者に尋ねてもクリル人のことはよくわからない、との答え。元島民が自由に行き来できないのは問題だが、場所請負から強制移住に至るクリル人への振る舞いを省みずに「領土問題」を語っても説得力はないだろう。

 強風の中の慰霊祭。祭壇や花輪を支えるのも一苦労だ。この地で生まれたT団長の言葉がしっかりと大地に染み込むのに対し、大臣や知事の言葉は何故か軽い。

 Sさんに当時の話を伺う。ソ連軍来襲の報を受け、夜逃げするように小さな船で根室を目指したという。ほっと一息同じ色丹出身のTさんは、樺太に連行された後、函館に送られたとのこと。「樺太での1ヶ月は長かったよ。」言い知れぬ苦労があったに違いない。

 風光明媚なマタコタンに移動して弁当を広げる。地名からすると狩りの適地か。水と空の青さが心に残る。

 わずかな昼休みを終え、穴潤に戻る。ロシア本土から派遣されていると思しき20歳前後の兵士に見送られて耕洋丸を目指す。頂きは雲の中移乗のスリルは朝と同様だ。なんとか全員無事に帰還し、胸をなでおろす。安心感に包まれ、すぐ眠りにつく。

 夕闇の中、爺々岳のドームが陰鬱な姿を覗かせる。甲板上で故郷を眺めて思い出に浸る二人の老人。国後を見やる眼差しは少年のようだ。明日は岩壁すらない砂浜に小船で乗り付けなければならない。上陸はうねり次第だ。

写真上:穴潤港にて 中上:トラックバス 中:背後は斜古丹岳 
中下:マタコタンは"冬の集落"の意 下:爺々のド-ムは拝めずじまい

8/27
 この日も朝方から強い風。小船での上陸はかなり危ういので、「白糠泊出身者のみ上陸」の方針に転換する。

 5:20、何と伴走船座礁の一報。上陸地点を探査中に岩礁に乗り上げたらしい。海図もない海域での手探り作業とは言え、母船に動揺が走る。幸いにも浸水や乗組員の溺水はないようで、潮が満ちるのを待つとのこと。全ての予定が変更に。

 元島民としてはさぞかし無念だろうが、10時から船上で慰霊祭。小雨混じりの空模様なので結果としては正解だったか。

 昼頃、ようやく伴走船が自力で脱出し、耕洋丸に接舷。舵が効かなくなったため、母船が曳航して帰ることに。半分の7.5ノットに減速したため、明日の帰港が危ぶまれる。情けない姿

 15:30(現地時間17:30)、やっと古釜布到着。この時間では当日中の出域手続きは不可能と半ば諦めていたが、思いがけずロシア側が柔軟に対応してくれた。手続きを済ませ、一路根室へ。

 晩は打ち上げを兼ねた解団式。白糠泊出身・Kさんの話。「オヤジは木工所をやっていた。ソ連軍が来る、というんで日本軍の指示で工場の機械を全部壊したんだ。でも逃げる前にソ連軍が入ってきて、『工場を使えるようにすれ』って命令されてさ。全部直すまで2年くらいかかったかな。最後の引揚げ船が出るって聞いて、必死で古釜布まで馬車を走らせたよ。」その後Kさんは樺太経由で帰国したという。白糠泊への墓参は3回目だが、上陸は1回だけという厳しさだ。

写真:曳航される伴走船

8/28
 船は深夜のうちに根室沖まで進んだらしい。早朝から懐かしすぎる根室沿岸が望まれる。日が照ると暑い位の陽気で心も軽い。最後に伴走するのはイルカ達だ。

 きらきら光る花咲港に投錨。終わりよければ全てよし、とはこの日のために用意された言葉だ。