私のメールアドレスにも使わせてもらっている「カムエク」。カムイエクウチカウシと呼ばれる日高第二の高峰(1979m)だ。ここのピークの北側は切り立った崖になっているのだが、10m程下に、長さ5m以上の材木が何本か打ち捨てられているのが気になっていた。こんな狭いピークに小屋なんぞ建てられる訳もない。測量に使ったにしても、こんな重い木材をどうやって運んだのだ? 帯広の古本屋で手にした「ふるさとの山と川」(吉田 勇治著)に答が載っていた。 話は1900年(明治33年)に遡る。この年の7月31日、陸地測量手正木照信が「札内岳」を一等三角点埋定地と定めた。この「札内岳」が現在のカムエクにあたる。 当時、中札内付近から望まれる目立つ高峰(カムエク)を測量手一行が札内川の源流とみなし、「札内岳」として三角点埋定地に定めたのではないか(後に、アイヌが「サツナイ岳」と称していた山とは別であることが判明した)、と吉田氏は述べている。実際、ぐるっと山すそを巻いている札内川から現在の札内岳を拝む事はできない。三角点を設けて地図に記載してしまうと、地名の変更は簡単ではなかったようだ。現在でも、「(札内岳)カムイエクウチカウシ山」と記載された営林署の林業施行図があるのだからなかなか頑固である。 翌年の6月初旬、三角点埋定作業が行われた。測量手吉田林太郎は、8名のアイヌを案内と運搬のために雇い入れ、「上札内」を出発した。 この6月初旬という水量の多い融雪期になぜ敢えて遡行したのか。そこには、「この日に埋定せよ」との上官の命令が絶対であった時代背景が見え隠れする。 ちなみにこの「上札内」は、現在の中札内村上札内よりはるかに下流、帯広市大正付近(当時の開拓南限)だったと言う。一行は、90キロの標柱石をはじめ、かなりの重荷を携えて遡行を繰り返した。その回数、97回!よく数え上げたものだ。右岸の河畔林を避けて主に左岸(西側)の高台を通り、現上札内まで一日。さらに、札内ダムまで一日。ピョウタンの滝は、当時も「掌を立てたような崖」だったというから、厳しさは想像を絶する。八ノ沢出合まで一日、水量を想像すればこの日の本流遡行は命がけだったろう。(出発地点から八ノ沢出合まで約60kmもある。)ピークまで丸一日、計四日を要したのである。 一行はピーク北の小カール地形(1650)に「天幕」を設営し、数日間の標柱石埋定作業を行った。仮泊設備は極めて簡易なもので、アイヌ人夫たちの分まで準備されていたかどうか疑わしい、と吉田氏は述べている。ただでさえ「カムイの領域」として入ることを畏れていた彼らにとって、山頂に石柱を打ち込むのはどんな気持ちだったろう。 覘標(てんぴょう)というのは、標石の上に他の三角点との相互観測用に建てる「やぐら」のことで、高いものでは30m位あるらしい。(技術の発達した今日では「遺物」である。)記録では、埋定日に簡易な覘標(高さ6m)が設置され、3年後に改造された。 中札内山岳会登頂時(1956年)の写真(右)から判断すると、高さ10mはありそうだ。吹きっさらしのピークで長い間立ち続ける筈もなく、この3年後には残骸しか残っていなかったという。現在、ピークの北側に打ち捨てられている材木も、何代目かの覘標の残骸だろう。次にカムエクに立ったら、古人の労苦に思いをはせてこよう。 |