コイカクシュサツナイの謎

「コイカクシュサツナイ」の謎

(2002.6.21上梓,2002.8/15,2003.10/10,2004.1/28加筆)

筆者は地名の研究者ではありません。以下はあくまで素人の見解です・・・


  「コイカクシュサツナイ」という地名の由来が気になっている。「コイカ=東を、クシ=通る、サツナイ」と一般には通っているが、地図を見ても歩いてみてもわかるように、コイカク沢はサツナイ川の西にある。不思議に思って、手元の資料を調べてみた。

 その前に、「川に対するアイヌの考え方」を示しておこう。すべてのものに「カムイ(造物主)」が存在するとしていたアイヌは、川に対しても同様の見方をしていた。知里真志保氏の「アイヌ語入門」によれば、アイヌは川そのものを生き物とみなし、水源を「ペッ・キタイ=川の頭」、川口を「オ=陰部」と呼び、夏には暑さでやせ細るとして「サッテク・ナイ=痩せた川」と呼んだ。夏のサツナイ川はバテているんだ、と思うとほほえましい。
 また、川は海から山奥へ入り込んで行く、と考えられていた。この発想は「上流・下流」の現在の私達のものとは逆である。狩猟などで村から川を遡る暮らしを常としていた人たちならではの考え方か。

 次に、アイヌにとっての「方角」であるが、単純な「東西南北」で割り切れるものではなかったようだ。「カムイノミ(儀礼)」などに見られる東方上位の思想(必ず東(日の昇る方向)に「カムイプヤラ(神窓)」を設けた。)は有名だが、アイヌ語自体には方位名を直接表す単語はない。
 山田秀三氏は、コイ・カ=波の上手、コイ・ポク=波の下手の地名を集め、潮流との関係を論じている。氏はコイカ、コイポクが太平洋側にしか見られないことに注目し、千島海流(親潮)の流れに沿って「海のうねりの上手」がコイカ、「下手」がコイポクがつけられたのではないか、としている。確かに、太平洋岸を東から西へ流れる親潮は、十勝沿岸では北から南、日高沿岸では南から北向きであり、これでトヨニ川やシベチャリ川を含め大部分の地名の説明はつく。しかし、コイカクシュサツナイ沢はサツナイ川から見ると南であり、この説明も成り立たない。

 十勝では日高アイヌとの争いの後、日高の方向を向いてカムイノミを行うようになったという。それと関係あるか?とも考えたがコイ=波、を無視しない限り解釈は困難だ。そこにはコイボクサツナイが

 もう一つ不思議なのが、「コイポクシュサツナイ」がないことだ。太平洋側の川の多くは右股コイカク、左股コイボクのパターンだが、ここにはそれらしき二股がない。サツナイ本流から見るとコイカクは左股なので、そもそも合わないのだ。出合すぐ上流の二股にしても、コイカク川は左股(南側)なのでやはり合わない。
 こうなると、@以前あった「コイポク」が何かの理由で消えてしまった。Aあるいは「コイポク」が「コイカク」と間違えられた。のいずれかが考えられる。でも、アイヌ語をろくに知りもしないで偉そうなことを言うのは憚られ、心の中に疑問が引っ掛かったままだった。

 そんなある日、「北大山岳部50周年記念誌」を図書館でめくっていたら、部報第4号(昭和8年)掲載の「日高概念図」が出ていた。なんと、そこには「コイボクサツナイ(岳)」!これが間違いでなければ、これまでの疑問は一気に解決する。やはり、「コイカク」が誤りだったのか?

  補遺(2002.8/15)

 1940年、ペテカリを目指した北大山岳部パーティの8人が雪崩で命を失った。その慰霊碑にはコイカクシュサツナイ岳(コイボクサツナイ岳)と記されているようだ。今度確かめたい。

 元来、アイヌの人々は山奥を近づきがたいものとして畏れていたため、多くの山が無名峰だった。明治以降入り込んだ「和人」が、地図を作る際に無名では都合が悪いので適宜名前を付けていった。コイカクシュサツナイの名もその過程で生まれた「和製アイヌ地名」なのかもしれない。(東"から"サツナイに合流する、という発想はアイヌと逆なのだ。)

  補遺2(2003.10/10)

 慰霊碑はダム建設で建て直され、場所の記載はなかった。

 明治26年に道庁が発行した地図には、"コイカクシュサツナイ"(沢にのみ記載)と記されている。もっとも、この地図の地名は現在と異なる部分(現楽古岳が「オムシャヌプリ」など)が多い。これに反して、「北海道の山岳」(昭和6年刊)によれば当時の地形図「札内川上流」にはコイボクサツナイ岳と記されていたようだ。北大山岳部部報第6号(昭和13年)にも、「コイボクサツナイ」で載っている。

 日高の山名は、北大山岳部員達がアイヌの案内人に尋ねながらつけていったと言う。案内人にしても名前のない、或いは知らない山や沢の名を尋ねられ、答えに窮して適当に応じた場面もあったかもしれない。どこかで「コイボク→コイカク」の勘違いか聞き違いがあって、後で勝手な解釈が当てはめられた可能性もある。どんな場合も「正しい」答えは一つとは限らない。心のどこかに「コイボクサツナイ」の火を灯しておきたい。

  補遺3(2004.1/28)

 今年に入って、アイヌ語地名の研究家Sさんから貴重な助言を頂いた。

 要約すると、「アイヌ語地名では、他水系への交通路(峠越え道)となっていた支流を『他水系の名称+オマ+その本流名』で呼ぶことがあり、「コイカクシサッナイ」に適用すると、静内川水系の支流「コイカクシスプサリペッ:コイカクシュシベチャリ川」へ至るときに通るサツナイ川の「支流」を「コイカクシサッナイ」として表している可能性がある」とのこと。

 目からウロコか、と思ったが、コイカクシュシベチャリ川の源流に下りるにはペテカリ近くまで稜線を下らねばならず、交通路としては現実的ではない。ナナシ沢やコイボクシュシベチャリ川なら自然で、「コイボクサツナイ」にも分がありそうだ。

 交通路ならアイヌに聞け、ということで江戸末期の著明な探検家、松浦竹四郎による「東蝦夷日誌・七編」(アエブシユマム〜白糠)にあたってみた。ここには、歴舟を遡ってサルプツ(更別)経由でサツナイに抜けるというエキサイティングな記録が残されている。

 が、サツナイの上流に関する記述は「川上にはユワウトロ(南川)、ユウナイ(南川)、トモラウシ(右川)、ユクルベシベ(左小川)等、其邊兩山相蹙(せまり)て掌を立る如く、川筋其間に大瀧有。」に留まる。当時の十勝アイヌ達は、源流部を畏れて近づかなかったらしい。「川筋取調図」でも、現札内ダムの下流にあたるユクルベシベが最上流で、その上流に関する記録はない。詳細を綴った「東部報十勝誌巻之壱」にしても同様だ。

 当時、コイカク沢に一般的な名前がついていたかどうか。

 明治24年初版の永田方正「北海道蝦夷語地名解」にも、札内川筋にコイカ、コイボクを冠した沢名はない。にも拘わらず、2年後の道庁図にはどこで拾ってきたのか「コイカクシュサツナイ」とある。(尤もこの地図は結構不正確で、当てにはならない。)やはり和製アイヌ地名か。


 北大山岳部報では、途中から「コイボク札内→コイカクシュ札内」へと呼称が変化している。いつからだろう?そう思って、古本屋で第7号(昭和16年)をめくってみた。そこにはなんと、OBである橋本誠二氏による「カムイエクウチカウシ山、コイボク札内岳等の山名に就いて」なる文章が掲載されていた。

 曰く、「コイボク札内川と、吾々は札内川の内の字の處に右岸から注ぐ一支流を呼ぶ。然るに之は吾々の爲した誤りであって、事實は本流がコイボクシュ札内で、その支流がコイカクシュ札内なのである。」なんと。

 引用を続けよう。「見ても判る様に、コイボクシュは南-北方向を示し、コイカクシュは西-東を示すからである。吾々はコイボク札内をコイカクシュ札内と改めねばならない。從つて國境線一七二一米峰を今後コイカクシュ札内岳又は上述の道廰測量隊(筆者註:上述の明治26年道庁図作成のための測量隊)による如く南札内岳と改めた方が良いと思ふ。」

 戦後、国土地理院が氏に日高の山名を照会し、その回答に基づいて地形図上に現在の山名が記載された経緯から判断すれば、(アイヌ語解釈の正否は別として)橋本氏が「コイカク」の名付け親と考えて差し支えなさそうだ。

 今更、山名にケチをつけるつもりはないが、橋本氏自身が「吾々のずつと前に、大古そのままの日高の山脈に水脈を追つて入つて行つたアイヌの感興そのまま与えた美しい名を、吾々が勝手に、別の地に、澤に、与えて良いと云ふ理由も又ないであらう。」と述べているのだ。「コイボクシュは南-北方向を示し、コイカクシュは西-東を示す」とは一概に言い切れないし、それだけを根拠に名称を変えたのだとしたら早計だったかもしれない。

ここまでの印象

  1. 現コイカク沢は明治以前は無名だった可能性がある。
  2. 明治時代に作成された地図に記載された「コイカクシュサツナイ」は「コイボクサツナイ」の転記ミスか聞き違いの可能性がある。
  3. 現在の「コイカクシュサツナイ」を決定づけたのは、北大山岳部出身の橋本氏である可能性が高い。
 


松浦氏の日誌や橋本氏の文章には、他にも刺激的な内容が盛りだくさん。

追々紹介していきますので、お楽しみに。

 アイヌ語地名に関して貴重な助言を頂いたSさんと、

北大山岳部報等の資料を提供頂いたTさんに、厚くお礼申し上げます。

この謎について、何か知っている方は山坊主まで