クマにあったらどうするか

「クマにあったらどうするか」を読んで


山坊主


 "アイヌ最後のクマ撃ち"姉崎さんの語るヒグマを片山 龍峯氏がまとめた「クマにあったらどうするか」(木楽舎、2002 1600円)を読み終えた。  


 「クマは私の師匠」と語る姉崎さんは、本書の中で繰り返し「クマは肉食ではないし、本来臆病な動物だ」と述べている。65年間、一人で猟を続けてきて一度もクマに手をかけられたことがない姉崎さんの言葉だけに、説得力がある。


 あの大きな体を維持するのに、どれだけ沢山の餌が要るかと思っていたら、案外クマは少食らしい。ただ、元来山奥に住む動物ではなくて、最近までヒトとニッチを共有していたようだ。

 ただ、ヒトに対しては「変な力を持った動物」と感じ、怖れているという。それは、昔から仲間たちを弓矢や銃で倒したり、自分の倒せない太い木をヒトが切り倒す姿を見てきているからだ、と姉崎さんは語る。私たちは気づかないが、クマはヒトの行いをつぶさに観察しているのだ。


 以前、写真家の伊藤 健次さんから同様の話を聞いたことがある。日なたで昼寝をしているクマは、登山者が通りかかると素早く隠れ、通り過ぎると元の場所に戻って昼寝を続けるという。クマと登山者の距離は数十メートル、クマにすれば一足飛びだ。


 時代を経て、ヒトが生活圏を広げる中で、自然淘汰の結果、慎重・臆病な性質を持つクマが生き延びてきた。だから、現在生きているクマには「人里の比較的近くでひっそり暮らしている」という表現が当てはまる。このようなクマの賢さが余り理解されていないのが残念だ。


 ヒグマのすごいところは、姉崎さん曰く「ヒトの怖さを知ってはいるが、同時に自分の強さも知っている」ところだ。だから「一度ヒトに爪を立てた、食ったクマは『なんだ、ヒトは自分より弱いんだ』と思ってしまう。こうなったクマは何としても撃たなくてはならない。」逆に、家畜しか襲っていない/人里に出てきただけの(特に若い)クマを撃ち殺す必要はないだろう。ヒトの怖さを思い知らせれば、寄ってこなくなる筈なのだから。

 姉崎さんの鋭い観察と経験は、個人としての冷静なクマへの対処法を教えてくれる。

  • 会わないようにするのが一番⇒クマの嫌がる空のペットボトルの音

  • 突然ヒトに会うと襲われたものと勘違いして攻撃姿勢をとるが、最初は威嚇

  • いきなり襲い掛かることはない⇒興奮を鎮めればそれ以上攻めてこない

  • 若いクマは冒険心があるので油断禁物、大きな大人のクマは悪さをしないで生きてきたので安心

  • 逃げるのは弱みを見せる事になり、最悪の結果にも⇒できれば立って、できなければ座ってでも睨みあう

などなど、詳しくは本書の豊富な体験談が説明してくれるだろう。

 毎日のように千歳の山を歩き続けてきた姉崎さんにとっては、川・森・山の変貌は心痛むものだったろう。本書の後半では、ヒトの驕りにも鋭い批判を浴びせている。

  • 「森から広葉樹が消え、好物のドングリ・コクワが減った結果クマが人里に出てこざるを得なくなった。」

  • 「山奥まで車道が延び、空き缶や食べ物(の臭いのついた)のゴミをヒトが捨てるようになって、匂いや味を覚えた。(クマは空き缶やカップめんのガラをも齧る)」

  • 「ヒトがどんどんクマの居場所に侵入するようになった結果、出会う機会が増えてきている。(山菜もキノコも、昔は村の近所で摂れた)」

  • 「木の実が減った結果、十勝のクマはシカを餌にして生き延びている。(生存のために食性を変えざるを得ない)」

 ヒトの生活形態の影響をもろに受けているヒグマが、この先ヒトにとって望ましくない性質を身につけないと断言できるだろうか。

 最後に姉崎さんが述べている、「お互いに出会わない共存」には共感する。ただ、「例えきまりを作っても、それを守らないのは人間の方」という指摘は耳が痛い。相次ぐ食品偽装表示が示すように、人間同士のきまりさえ守らないのだ。「本来の目的を軽んずる傾向」をこれ以上蔓延させてはならない。


 最後に、星野 道夫氏の言葉を一部借りることにしよう。「自然への畏敬の念や本能的恐怖、こういった貴重な感覚を思い起こさせてくれるヒグマは、なんと貴重な存在なのだろう。」

 

(2002.5.26)