2001/3/20更新

マヤ観

 神戸は摩耶山中にある 「摩耶観光ホテル」のことを、我々はこう呼んでいました。

 これは1989年6月に撮影されたものであるが、どこから見ても立派な廃屋・・・。

 このホテルは1932年(昭和7年)から1967年(昭和42年)まで営業され、その後廃屋と なっていたが1974年(昭和49年)から1994年(平成6年)まで学生向けの合宿所として開放。私も 学生時代(1990年頃)よくサークルで利用しました。

 以下は、サークルの後輩が以前調査した興味深いデータです。

摩耶観光ホテルについて

N.K


 摩耶山には,中腹に天上寺という古寺(西国33ヶ所霊場の一つ)があった。近世から多くの参詣者が訪れ,賑わっていたようであり,参詣者は摩耶山西側の谷筋の登山道(行者道)を使っていた。一方,近代になって近隣の六甲山が観光開発され,同時にケーブルカー(六甲ケーブル)設置等の交通機関の整備が進むにつれて,摩耶山にも開発の目が注がれるようになってきた。そして1925年(大正14)1月,摩耶ケーブルが開業され,同時に摩耶観光ホテルの歴史が始まる。以下,年表風に記す。

1925年(大正14)1月6日 摩耶鋼索鉄道(後の摩耶ケーブル)開業

 これにより,参詣者はケーブルで天上寺門前まで行けるようになる。
 そして,山上駅(後の摩耶駅)東側に4階建の木造ホテルができ,浴場・演芸場(活動写真等を上映)を併設したという。
 この建物は,後の摩耶観光ホテルの場所にあり,おそらくその前身となるものであったのであろう。

1932年(昭和7)春 摩耶観光ホテル開業

 鉄筋5階建,L字型のアールヌーボー風で,海側にせり出した部分が軍艦のブリッジを思わせるところから「軍艦ホテル」と呼ばれた。
 20畳敷きの岩風呂,舞台つきの400人収容の大ホール,中ホール,大食堂,和洋客室13,屋上ビアガーデン,庭園の小動物園,ローラースケート場等があったという。
 当時の神戸付近の地図では,ホテルのあった摩耶山中腹を「遊園地」と記載しており,摩耶観のそれなりの繁栄が想像できる。

1944年(昭和19) 戦争激化に伴いケーブルの運転が停止され,摩耶観も営業を停止

1945年(昭和20) 戦争による資材提供のためケーブルの線路等を撤去  やがて終戦...

 終戦後,米軍は摩耶観を将校用のクラブにする計画をたてたらしいが中止された。
 その後摩耶観は営業を再開したが,ケーブルは撤去されたままで,まもなく休止に追い込まれた。
 また正確な時期は不明だが,戦災で焼け出された人々が不法に摩耶観に住みついたという話も伝わっている。

1955年(昭和30) 摩耶ケーブル営業再開 奥摩耶ロープウェイ開業

 しかし摩耶観の営業が再開されることはなかった。ケーブルの再開は,新たに設置された摩耶山頂(奥摩耶)へのロープウェイ連絡のためであった。
 この頃から摩耶山観光の中心は,摩耶観・天上寺のあった中腹から,摩耶山頂に徐々にシフトしはじめた。
 これは六甲山方面から自動車道(奥摩耶ドライブウェイ)が開通して,車で摩耶山に行けるようになったことも影響していたようである。

1962年(昭和37) 摩耶観光ホテル改装され営業開始

 所有者が変わり(関西のホテル業者という),数千万円で改装された。
 内装はイル・ド・フランス(豪華客船)から操舵輪・ステンドグラス・木製ベット等の家具・装飾品を買い取って使用された(これらは私達も実際に見たものである)。

1967年(昭和42) 摩耶観光ホテル閉鎖

 夏の台風により暴風と塩害の被害を被り,摩耶観は再開からわずか6年足らずで営業停止になる。

1970年(昭和45) 所有者の意向により管理人が荒廃した摩耶観に住み始める

 コンパ時,何かとうるさかったあのおやじが,実はこの管理人であったのだ。

1974年(昭和49) 摩耶観,学生のために開放

 学生のゼミ・サークル合宿に限り,施設の一部が開放された。最近まで見られた摩耶観の営業は,この年から始められたのである。

1976年(昭和51)1月30日 天上寺,火災によって全焼

 この事件は,摩耶山に大きな影響を及ぼした。
 天上寺は数年後再建されたが,それは元の場所にではなく,ロープウェイと奥摩耶ドライブウェイの終点の摩耶山頂側に再建されたんぼであった。
 これにより,天上寺に参詣に来る人々を当て込んで営業していた摩耶ケーブルの摩耶駅東側のみやげ物屋や飲食店等も営業を停止した(摩耶観周辺の廃虚がこれ)。
 そして摩耶山中腹は,摩耶観も含めて廃虚だけが残り,単なる摩耶山頂へのケーブルとロープウェイの連絡地に過ぎなくなった。
 このようにして摩耶山観光の中心は,中腹から山頂部に移動したのであった。
 さらにこの後,摩耶山へは自動車で行くことが主流になり,ケーブル・ロープウェイの必要性が徐々に低下していったのである。

1994年(平成6) 管理人の体調不良により,学生向けの摩耶観の営業が停止

 もしかしたらあのおやじは,もうこの世にいないかもしれない...

1995年(平成7)1月17日 阪神大震災 ケーブル・ロープウェイとも運休

1996年(平成8) ケーブル・ロープウェイ 一旦再開されるものの,まもなく営業停止

 震災が契機となって,存在意義が完全に薄れたケーブル・ロープウェイを停止したと思われる。
 したがって,ついに摩耶観には歩いて行くしかない状況になった。
 ちなみに摩耶観が震災でどれほどの被害を受けたかは未確認であるが,麓から見たところ,原形はそのままのようであった。


 こうして摩耶観の歴史を概観してきたが,まともにホテルとして営業していた時間は,極めて短期間のことだったのです。
 この歴史を調べていた頃,管理人のおやじの体調が悪くなって摩耶観の営業が止んでしまい,私は残念がったのを覚えています。
 摩耶観の建築は,なかなかユニークであり,コンパがもはやできないのならば,この建物を文化財のように保存できたら良いだろうにと考えていました。
 しかし今や摩耶観は,人の目にも触れることもなくなりました。この先,摩耶観は人々に忘れ去られ,本当に朽ち果てていくことだろうと思います。
 そしてきっと,何十年後かになって,探偵ナイトスクープにような番組で「発見」されるものなのかもしれません。それはそれで面白い話かもしれないですけど...

 2001年3月16日、摩耶ケーブルが運行を再開しました。しかしマヤ観が復活する可能性はかなり低そうです。


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