唐津藩は、藩主の交代が頻繁なために武家文化が成熟しにくく、さらには地元が豊かなために、
町人や富農層が唐津文化を熟させてゆくという面がつよかった。
こういうしゃれた言い方は、漢語でこりかたまった藩士層からは、出にくいように思える。・・・
唐津では無駄や無用のことこそ文化だという機微が共有のものになっているようだ・・・・・
江戸期の紀行文も、この松原にふれているのがいくつかある。沖からみれば渚が虹のように大きく湾曲しており、とくに夕陽のさかんな時刻など、浪も白沙も赤く陽に染まり、その色が松原に揺曳(ようえい)して
虹がかかったように見える、などとある。たしかにこの松原は、海と浜と岬の美しさと
かかわりつつみごとなものであるが、なによりもすぐれているのは、名称といっていい。
虹という、多少甘ったるい言葉が、これほどありありと生きている例を他に知らないのである。
(司馬遼太郎の”街道をゆく 肥前の諸街道”より抜粋)