虹の松原


虹の松原の名称の由来:

もとは「二里ノ松原」と呼ばれたらしい。豊臣秀吉の時代に大名にとりたてられた尾張人寺沢広高が、唐津城主となって、城を築き防風林として松原をつくった。
江戸中期までの記録には「二里ノ松原」とあるそうだから、江戸期のいつごろからか、唐津人が誰が言い変えるともなく「虹の松原」と言いならわすようになったらしい。

唐津藩は、藩主の交代が頻繁なために武家文化が成熟しにくく、さらには地元が豊かなために、 町人や富農層が唐津文化を熟させてゆくという面がつよかった。
こういうしゃれた言い方は、漢語でこりかたまった藩士層からは、出にくいように思える。・・・

唐津では無駄や無用のことこそ文化だという機微が共有のものになっているようだ・・・・・

江戸期の紀行文も、この松原にふれているのがいくつかある。沖からみれば渚が虹のように大きく湾曲しており、とくに夕陽のさかんな時刻など、浪も白沙も赤く陽に染まり、その色が松原に揺曳(ようえい)して 虹がかかったように見える、などとある。たしかにこの松原は、海と浜と岬の美しさと かかわりつつみごとなものであるが、なによりもすぐれているのは、名称といっていい。
虹という、多少甘ったるい言葉が、これほどありありと生きている例を他に知らないのである。 (司馬遼太郎の”街道をゆく 肥前の諸街道”より抜粋)


唐津城から虹の松原を望む。

鏡山からの展望です。

虹の松原パート2:終了しました。98.09.25


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