title (故郷の山・白山と医王山)

白山、医王山

  深田久弥はその著、日本百名山で、「日本人は大ていふるさとの山を持っている。山の大小遠近は あっても、ふるさとの守護神のような山を持っている。そして山を眺めながら育ち、成人してふるさ とを離れても、その山の姿は心に残っている。どんなに世相が変わっても、その山だけは昔のままで、 あたたかく帰郷の人をむかえてくれる。」といっている、私もそのような山をもっている。

   私のふるさとの山は白山である。しかし白山はいつでも金沢の田園地帯から望めるという山ではな い。少々曇っていても、雨が降っていても、冬の猛烈な吹雪の時以外、朝な夕なに親しみを感じなが ら眺め暮らしてきたのは医王山である。だから時々帰っていって、石川平野を西から金沢に近ずく時 も、東側から浅野川を渡るときも、この山が見えだすと故郷に帰ってきた気分になる。

  医王山はいおうぜんと読み、訛ってヨーゼンと聞こえる、白山連峰の北の末端近く、石川と富山の 県境の山である。だから正確には私の故郷の山々は、白山を主峰とする白山連峰である。

医王山2007-6-3 金沢城址公園から

  医王山は私の育った金沢市内の旧戸板村のどこからでもよくみえた。田圃と梨畑の続くその東の先の 金沢の市街地のずっと上に高くいつも聳えていた。魚釣りをしていても、かぶと虫を捕っていても、犀 川の河原で泳いでいても入道雲の下にいつもこの山があった。友と相撲取りをした田圃の中からも、 寝ころんで歌謡曲を一緒に歌った藁のやまの上からもいつも変わらぬ医王山があった。  手前の山に春が来て、医王山に白い残雪が目立つ時期も、2、3日雨が続き、雪が白く積もり出す 冬の始まりも、白山を含む山々は季節の節目の折々の目安であった。

  何時の年だったか4月になり珍しくどか雪がふったことがあり、その時医王山へ友人と二人でスキ ー・ツアーをした、新雪にシュプールをつけたのを翌日市内で当時一番高かった、大和デパート屋上 の望遠鏡で確認したりした。医王山へ始めていった頃は、鳶岩あたりの岩登りが楽しくて仕方がなか ったが、頂上のピークを2つ縦走して湯涌方面に出るコースも好きであった。学生の頃は月に何回も 登った、積雪の頃はスキーで行くと、自由にコースが選べるので、山の反対側の山腹の思いがけない 雰囲気の所に、でたりして楽しむことが多かった。牧場用に林を刈り込んだところで、友人と秋の星 空を眺め一夜をすごしたこともある。

  そのころはあまり動植物に関心が無く、それらの動向にあまり注意を払わなかったが、金沢の有名 人のある人がカスミ網を使って渡り鳥の調査をしている話を山で直接本人から聞いたことがある、なん でも医王山がシベリヤから渡ってくる鳥の能登半島経由のルートに当たるとのことであった。しかし それはカスミ網で殺して捕まえてまで、調査をしなくてもよかったはずであるから、口実であって、 焼き鳥用に取っていた様にも思えた。

医王山2007-6-3 ホオノキ 医王山2007-6-3 タニウツギ

  昭和39年に見上山荘経由で登ってから平成19年まで訪れることはなかった、その間に見上山荘の 湯原さんが亡くなられお会いすることもできなくなってしまったのは悲しい、湯原さんが初め て山小屋を建てられた頃のことを知るものにとって、医王山はすっかり開発され 全く変わってしまっていたが沢山の人に医王山の素晴らしさを知ってもらえるのだから 良しとすべきであろう。

  夕霧峠からの展望が素晴らしいからと甥が車で連れて行ってくれるまで、 どこのことかとおもっていた、医王と奥医王の鞍部のことだったがこんな山奥へ車で簡単に来ることができ、 一部の山好きだけ知っていた景観を登山をしない人々にも見てもらえるのは喜ばしいことである。

  久しぶりに訪れて若いときに何もみていなかったことに気がついた。車で上るにつれてヤマボウシ、 タニウツギ、ホウノキそして多分ナナカマドの花があちこち沢山咲いていた、こんなに美しい山だったのかと 改めで驚いた。自ら足を使って登ってみたらもっと沢山の花に出会えることであろう。

  金沢から見て、東の医王山の手前に戸室山がある、千メートル近くの医王山に比べ半分くらいの高 さの山なので、小中学生の頃はここへよく登った。なにをしに登ったかと言えば山菜や茸取りを兼ねた 遠足である。この山は平野からは、天候が悪く、遠くの医王山が見えないときでも大抵見える。 更に手前の山は卯辰山である。この山は桜が沢山植えられていて花見に行くところである。リフト などのない時代には市民がよく行くスキー場もあった。リフト無し時代にもう一つよくスキーに行っ たのは大聖寺山である。

医王山2007-6-3 ヤマボウシ 医王山2007-6-3 ナナカマド

  遠足には卯辰山の奥の鈴見山や今ではスキー場になっている獅子吼高原の隣の倉ヶ岳へ父につれて いってもらった。未だ自分たちだけで遠足を試みるにたる経験を持つ前であった。これらの山々もす べて医王山や白山の手前にみえる。

  ハイキング等という言い方をするようになってからは戸室山に行った。春そこから見る医王山は残 雪の多いすごく高い山であって、自分たちのハイキングの対象外であった。日帰りでは行けないと思 っていたからである。後にバスが見上峠まで開通して初めて登る対象になり、やがてバスが側まで行 かない季節でも、地理に詳しくなってから 体力が出来てからは冬季も登れるようになったが、それも 二十歳をすぎてからのことである。滝があり、快適な岩登りを楽しめる所があり、春夏秋冬いつ行っ てもとてもよい山である。スキーも積雪が多く、見上山荘の周りはスキー用に林を刈り込んであった のでいつも楽しめたのでよくいった。春の山菜、秋の茸も山荘の付近でほんの小一時間採れば十分であ った。

  医王山を南へ白山連峰をたどると、次のピークが大門山である。千五百メートル程あり、金沢市の 一番標高の高いところになる。ここは昭和30年代の頃は日帰りでは登れず、一夜富山県側の麓の下 小屋部落の民家に泊めてもらった。しかも道がないので、ブッシュを漕ぐ必要のない残雪期にのみに 登ることが出来た。降りてくる途中日蝕に出会ったり、カタクリの大群落が雨後に一斉に花を開くの に出会ったりしてとても印象に残っている。地図で見るとこのカタクリの群生があったブナオ峠に現在は自 動車道が開通しているようである。

  戸板地区の、北陸道あたりから見る白山は、旧市街地より手前の山に隠れる部分がすくなく、高く そびえてみえる。春秋の、雪で主峰あたりだけが白く燦然と輝く様はすばらしい、まさに白山である。 ごく稀であるが真冬のすごく寒い夜、月光に照り輝くような白山は慄然とする凄さがある。真南の方 向にあたるので、白い山が左側が日に染まる日の出、右側がばら色に輝く夕日の頃それぞれに陰影の ある山容が優雅に望める。

左の山が大門山2007-6-3 キゴ山から撮影

  白山へは純粋に登山で何回も登ったが、ほかに、アマチュア無線の超短波帯で地の利を得た通信を 試みるために、大層重い荷物を持ち登っことがある。そこからの通信は予想を遥かに超え良好なもの であった。真空管で構成されている送信機、受信機を働かせるための電源設備を設置したのだから大 変であった。

  何遍登ってもいい白山であるが、冬と春は登っていない。春は連れが新しい靴を履いてきて足を痛 めたため引き返した、何時でも又これるとその時思っていたが、学校を卒業すると故郷を離れて仕事 に就き、とっくに半世紀近く経ってしまった。その後家族や友人と何回か登っているが夏休みにだけであ る。何しろ自家用車を持つなど夢の時代であったから、夏以外はバスが近くまで行かないため、アプ ローチに一日余計要する時代だったせいである。別山や中宮道のお花畑も未だ訪れていない。行きた いところがあるうちはまだ山に未練がある。

  北陸高速道が通っている付近から海岸にかけての平野は、よく晴れた日に、山岳遠望の利く場所で もある。東北の方向には後立山連峰の白馬岳、更に右は手前の剣岳、立山そして薬師岳と続いてみえ る。その右は近くの手前の山に隠れてしまい、穂高岳、槍ヶ岳や乗鞍岳などは隠れてしまう、海岸沿 いにもうすこし北へ行けば見えるかも知れないと思っている。

  最後に啄木の短歌をあげておきたい。

        ふるさとの山に向ひて

        言ふことなし

        ふるさとの山はありがたきかな

今では観光地化した医王山ではあるが、どなたも簡単に行けるので、金沢観光のついでに訪れていただきたい山である。

2007-6-6改訂


白山初登山記

  白山には色々思い出があるが、なんと言っても初めて登ったときのものは、今もって強烈である。 それは昭和29年の10月、大学の前期試験が終わったばかりのつかの間の休みに当たっていた。誘 ってくれたのは、二水高校物理部の先輩のT.Oさんで当時隣県の大学の学生であった、彼の大学山 岳部や寮の仲間2人と総勢4人で登った。

  その夏初めて、高山らしい山、立山に地下足袋で登ったばかりであったが、未だ登山靴は借り物で あった。なにしろ登山靴は高かったし、アルバイトで稼ぐにも大学に入ったばかりの年でそんなにす ぐに家庭教師をたくさん見つけてはいなかったせいもある。

白山2007-6-2

  夏以外白山方面へのバスはずっと手前の白峰までしか行かないので、そこから歩くとアプローチに 一日余分にかかるが、市ノ瀬あたりでテントを張るつもりでいたので、4人で分けたとはいえ食料炊事 道具なども含め荷物は結構重かった。

  ところがあいにくバスを降りる前から雨が降り出していて、歩くに連れ濡れた荷物は益々重くなる ばかりであった。アプローチというのはどこでも大抵そうだが、谷沿いの恐ろしく単調な道の連続で あるからはなはだつまらない。はやくトラックでもやってこないか心待ちにしながら歩いていた。

  さいわいにも一台の小型トラックが後ろからやってきた。飯場用の大きな飯炊き釜を積んでいる。 手を挙げたら運良く止まってくれた。釜が大きく場所が少なかったので不自然な姿勢で凸凹の砂利道 を小一時間ばかりゆられ、目的の市ノ瀬の30分手前ぐらいまで乗せてもらった。お礼に便乗を期待し て予めバス停の所で買っておいた煙草を渡した。

  せっかく乗せてもらったのはいいが、大きな釜は鍋墨がいつぱい付いていて雨で流れ落ち、乗っていた我々にいやでも くっついてしまったのである。途中の小川で早速洗い落としはしたものの益々濡れがひどくなるばか りであった。

  市ノ瀬へやっとたどり着いたころ、雨は益々酷くなるばかりで、そこにあるたった一軒の家、永井旅 館の軒先を借りて雨宿りを始めたが、相当長時間動けなくなってしまった。予定していた河原は増水 の水音が激しくテントを張る気が全くしなかったし、ナイロンでなく防水もろくに効かない薄い布地 のテントで保つような雨ではもう無くなっていたからである。

 ところがである、あまりに長い間雨宿りをしている我々を見かねて、宿の人が幾らでもよいから入っ て休みなさいと言ってくれた。土間でも借りれるのかと喜んだ我々を通してくれたのはちゃんとした 温泉旅館の部屋で、布団におまけに浴衣まで貸してくれた。有り金の少ない我々は幾らでもとゆうこ とであっても、何となく変な居心地であった。

  とりあえず宿帳に記帳してほしいとのことで、持ってこられた宿帳の形式が、当時でもこれまた数年 近く前の旧民法時代の族籍と言う欄のあるものであった。なにげなく前に記入した人の欄をみている と2、3行まえにその夏、二水高校の名物体育教員であるK.K先生が記帳されていた。ご丁寧にも 族籍欄に平民と記入されているのをみて、新憲法下に育った我々は吹き出してしまった。そこで我々 全員もそれにならって族籍を記入することにし、華族と記入したのであった。

  早朝になって雨戸を締め切った薄暗い中で、依然として轟々たる雨音が耳に入ってきて、がっかりし ながら起き出したのだが、戸を開けてみると、それは増水した川の水音であった。雨は幾分小降りに なっていてとにかく登る気になれる程度であった。持参した食料で朝食を済ませ、再び濡れたシャツ などを着て外へ出た。

  お礼は九州出身の男に任せ、先に歩き始めたが後でその金額を聞いて余りの少なさに帰りに旅館のま えが通り難いほどであった。この親切にしてくれた永井旅館は、後で知ったのだが私と同期の6回生 の永井さんの実家の経営であった。当時の二水は今よりも小学区制であったが、こうした遠い所の学 生が何人もいたのである。

  山では近景の紅葉は見たものの、終始霧に包まれていて、次の日も頂上からの眺望は全くなくおまけ に花などは殆ど咲いていなかったから、どんな姿の山なのかもわからなかった。一緒に登った気持ち のよい仲間との途中の会話、泊まった室堂での会話が随一の楽しい思い出になっている。 私にとって白山がいつまでも心に残る暖かい山であり続けているのは、こうした白山山麓に住む人々 の親切のお陰である。

  次の年もまたその次の年も、季節を変えた何回もの白山に、登る度に異なる素晴らしい眺望と想像を 超えるお花畑や紅葉の美しさを満喫する事ができているのは、その前に、そこに住む人の心の温かさ が無意識のうちに前提になっていたためなのだと思う。

    この永井旅館は今は増築されていて、春からはじまり夏、秋と自家用車で出かける人々で賑わってい るようだが、今年聞いた姪たちなどの登山は、秋でも金沢から日帰りをしているようである。

96/10/24改訂

以上


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