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新羅三郎義光

(しんらさぶろうよしみつ)

新羅三郎義光は、寛徳二年(1045)鎮守府将軍伊豫守源朝臣頼義を父に、上野介平直方の女を母として生まれた。
義光は、近江国(滋賀県)円城寺(三井寺)の新羅明神の前で元服し、新羅三郎を名乗った。知謀に富み、弓術をよくし、笙(しょう)の名手だったと伝えられる。
 前九年の役から20年後、清原氏は真衡の時代になっていたが、永保三年(1083)真衡と一族の吉彦秀武との争いが始まり、真衡の弟清衡・家衡が秀武側についたため、内紛が勃発した。折しも新しい陸奥守兼鎮守府将軍として陸奥に下ってきたのが、父頼義の後をついだ源義家(八幡太郎・新羅三郎義光の兄・鎌倉初代将軍頼朝の祖)であった。
真衡の急死により一旦はおさまったかに見えたが、義家の真衡領の処分に不満を持った清衡・家衡が争いはじめた。義家は両者の調停を試みたが成功せず、応徳三年(1086)家衡が清衡の館を襲い妻子を殺害すると、清衡は義家のもとに走り義家も合戦に巻き込まれてしまう。 

義家・清衡軍は、家衡の籠もる出羽国(山形・秋田両県)沼柵を攻めるが、容易に落ちないばかりか雪にも悩まされ苦戦し、国府へ引き上げざるを得なくなる。その後、家衡は叔父・武衡の加勢を得てより堅固な金沢柵に移った。
 左兵衛尉に任じ京都の警護あたっていた義光は、兄が奥州で苦戦中と聞き、朝廷に救援に向かうことを請うたが許されなかったので、寛治元年(1087)官許を得ずに奥州に救援に赴き解任された。
義家・義光・清衡連合軍が兵糧責めで金沢柵に家衡・武衡を下し、義家・義光は京に戻り、清衡は安倍・清原両氏の地盤を継承して実父の姓である藤原に姓を戻して奥羽に君臨し平泉を中心に藤原三代の栄華の基礎を築いた。
 これを世に「後三年の役」という。朝廷は、これを私闘として功を賞しなかったので、義家は私財をなげうって将士の労をねぎらったといわれ、東国の武士は、その徳に深く感じ入り、東国における源氏の基礎は固まった。また、諸国の百姓が田畑を義家に寄進するなど、絶大な信望を集めた。
 その後、義光は刑部丞に任ぜられ常陸介から甲斐守に栄進し、東国の経営に力を尽くし武田氏をはじめ佐竹氏・小笠原氏の祖となった。その後武人としては最高位である刑部少輔従五位上を賜り、大治二年(1127)十月二十日京の地で没した。享年八十二、法号は「先甲院殿峻徳尊了大居士」。
 義光は、天喜四年(1056)父頼義が後冷泉天皇から下賜された日の丸御旗と楯無鎧を子の義清に譲った。これが、代々甲斐源氏の子孫に伝えられ、武田家の惣領の印として、また、「御旗楯無も御照覧あれ」という言葉がしめすように武田家の守りとして、信玄・勝頼の時代まで引き継がれていった。

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大聖寺蔵