Shadow of The Dragon 〜予告編〜
by 刈穂川夏樹

「今まで、世話になった」
 一言、それだけ言って、李龍(リ・ロン)は背を向けた。
 信濃山中、昼なお薄暗く、道すらもない森の中。この近くに隠れ住む親娘にとっては、馴染みの場所であっても。旅立とうとする李龍を、千恵はそこまで、小走りに追いかけてきたのだ。
 声もないままに。彼女は、喋ることができない。
「お前たち親子が、ただの村人ではないことなど、とっくに気づいているさ。同業者は匂いで分かる」
 山中で助けられ、しばらく共に暮らすうち分かった。千恵はともかく、その父・八兵衛は、並々ならぬ体術を身に着けている。さりげない挙動に隠されたそれを、李龍は見抜いていた。
「明人の俺が一緒にいれば、ただでさえ噂になろう。お前たちを追っている何者かが、それを聞きつけんとも限らん」
・・・八兵衛はまだ、この男に、彼らを狙う者の正体について教えてはいない。というより、八兵衛は判断していたのだ。封魔衆の腕利きたちが相手では、李龍でも勝ち目はない。まして戦いになれば、確実に殺される、と。それは、李龍を巻き込みたくない、という親娘の好意でもあったろう。
 そんな思いを、李龍も薄々察していた。彼もまた、お尋ね者の刺客として追われる身だ。それに、探索を命じられていたソウルエッジがない以上、じきに日本を離れねばならない。
 その優しさが、いかに心に染みても、所詮、千恵は敵国の娘だ。
「行かねば、ならんのだよ。・・・達者でな」
 ぶっきらぼうに告げる言葉の奥に、李龍は、告げられぬままの想いを封じる。背中に注がれる、千恵の眼差しが痛いほどだ。言葉を持たぬ分、彼女は、その瞳に全てを込めるから。
 それでも、もう、ここには居られない。振り切るように、一歩を踏み出したその時・・・
 か細い、嗚咽のような声を、李龍は聞いた。
「龍、さ、ん・・・」
 はっとして、彼は足を止める。
 まさか・・・まさか! 千恵は、口が利けぬのではなかったか!
 恐れているかのようにゆっくりと、彼は振り向いた。
 それは確かに、千恵の唇からこぼれた言葉だった。幼い日の悲劇以来、失われたままだった言葉。使い方を忘れていた喉を、懸命に振り絞るように、不器用に、哀しげに。
「い、か、ない、で・・・龍、さん・・・わたし、の・・・」
 今にもこぼれそうに、涙をためた瞳。震えながら差し伸べられた、白い手。・・・その瞬間、李龍の中からは、他の全てが消えた。勅命も、故国も、身に迫るいくつもの危機も。
 地面を覆う枯れ葉の上に、小さな手荷物が転がる。
 どちらからともなく、二人はよろめくように駆け寄り、そして、ひしと抱き合っていた。これまでずっと、側にありながら遠かったぬくもりを受けながら、李龍は激情にまかせて叫ぶ。
「千恵、俺の千恵! どこへも行くものか、二度と離すものか!」
 待ち受ける宿命を、二人はまだ、知らない。



99年冬コミにて、チラシ本に掲載.
続きは、『Shadow of The Dragon』本誌で.

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