「お前、まだあいつと喋ってねえみたいだから、俺から話しといたぞ。俺の仲間には『海賊狩りのゾロ』がいて、本当に凄い奴なんだぜ、って」
しししし、と笑ってみせるルフィに、ゾロは少し頭を抱える。この前と同じ、バラティエの廊下の片隅で。
(逆効果だろうが、それは。道理で今日は、奴によくにらまれると思った)
昨日まで、サンジはゾロをほぼ無視していた。客としては礼儀を払うが、後は意識から追い出す。どの男客にもそうしているのと、同じ態度で。
なのに今日は、妙によく目が合った。どんなに笑顔でいる時も、ゾロの視線に気づくと、居合刀のようにさっと敵意を抜き放ち、突きつけてくる。今までなら、ゾロがこっそり「観察」していても、あのコックは振り向いたりしなかったのに。
それは、知ってしまったからだ。獣の雄が、縄張りに入った別の雄に、本能的に牙をむくように。サンジは「海賊狩りのゾロ」の名に、警戒心を感じたのだろう。ゾロはそう思う。それは、神経質なあのコックの中で、「敵意」にまで高まっているはずだ。
その「敵意」を生じさせず近づくには、どうするか。ゾロが苦慮していたのは、そのあたりだったのに。頭をひねり続けていたのが、すっかり無駄にされてしまった。もっとも、良いアイデアは無かったのだから、「無駄」というのも変だが。
「お前が、世界一の大剣豪を目指してるって話したら、あいつ興味持ったみたいだぞ」
「興味じゃねえよ、それ・・・」
「興味だよ! あいつ、お前のこと凄いって思ってたよ!」
「そう言ってたか?」
「言わねえ、でもそうだ!」
・・・そうだろうよ、あくまでも「敵」として。ゾロはそう感じ、その勘は正しかった。しかし、ルフィが言い張ることもまた、間違ってはいなかったのだ。
「だから、もう一押しなんだ。サンジが、ここを卒業する気になってくれるまで。本当は、もういつでも卒業できるんだよ。後はあいつの気持ちだけなんだ」
「俺にゃ、よく分からねえけどな」
卒業なんていう言葉を、こいつはどこで覚えたんだ? 半ば現実逃避気味に、そんなことを思いつつ、ゾロは答える。
「うん、まだ分からなくてもいいよ。・・・あ、そろそろ休憩時間も終わりだ。俺、雑用に戻るから」
ルフィは勝手に話を打ち切り、近くのドアから外へ出ていく。
自分もGM号に戻ろう。いつものトレーニングをして、それから昼寝でも。そう思って、ゾロはデッキに出た。・・・と、少し先に、ルフィが立ち止まっている。曲がり角に身を隠すようにして、息を殺しつつ、何かを見ていた。
声を掛けるより一瞬早く、少年は振り向く。立てた人差し指を、素早く唇に当てると、もう片手でゾロを手招きする。何だろう、と思いつつ曲がり角の先を見た。・・・黒スーツの背中。サンジがいる。手すりにもたれ、海を見ながら、煙草の煙を吐き出している。
(何だ、休憩中か)
そう思いかけて、はっとした。サンジの頬に、すっと光るものが伝ったのだ。
(あいつ、泣いて・・・?)
海風に舞う金髪が、濡れた青い瞳をのぞかせる。海の果てを見つめながら、くわえた煙草をぎりっと噛み締める。手すりについた腕が、男としては華奢な肩が、小さく震えていた。
横顔に浮かぶ、重い諦念と、なおも絶ちようのない憧憬。その痛ましさはまるで、翼をもがれた鳥にも似て。
(知ってる。誰かの、こんな表情を俺は知ってる)
わずかな目眩と共に訪れた既視感は、じきに一つの名前となる。
(くいな)
忘れようもない。ただ一度だけ見た、親友の泣き顔を。『私だって世界一の剣豪になりたいよ!』・・・そう言って涙していた、あの時の姿を。
あんな風に、泣いてほしくなどなかった。だからあの「誓い」を立てた。彼女の気性なら、意地にかけてもそれを守り、現実の壁を乗り越えてくれるはずだった。
なのに・・・飛翔のその日を待たず、くいなは死んだ。
二度とは見たくなかった絶望の涙を、今、目の前の男が流している。遠い水平線を、食い入るように見つめながら。
(何なんだ。一体何が、お前をそんな風に縛りつけてるんだ)
その時、肩をつかむルフィの手に、力が入った。抑えた声が囁く。
「・・・知ってるんだな、ゾロ。誰かがあんな風に泣いてたのを」
無言で、うなずく。知っている、どころではない。あの表情こそ、くいなを喪った日から、ゾロの中に刺さったままの棘だった。
「うちのコックに迎えたら、俺もう、あいつにあんな顔させねえよ。だからゾロ、お前も頑張れ。あいつが、ここを卒業できるように」
ルフィはやはり正しかった。ゾロは改めてそう思う。自分には、他の誰よりも強烈に、あの男を説得する動機ができてしまったと。
そして、その晩。昼寝をしすぎたゾロは、他のクルーが寝静まった頃に目を覚まし、空腹のためバラティエに駆け込んだ。しかし、財布を持っていない。閉店時間は目前だ。
後で必ず払うから何かくれ、と騒いでいると、サンジが顔を出した。ほんの数秒で引っ込んでしまったが、直後、盆に載った賄い飯が、ごついコックの手で運ばれてきた。
「余らせちまったんだってよ、無駄にしたくねえから食えって。全く、あの副料理長ときたら」
乱暴に言った男は、それを渡して、ゾロをデッキに追い出す。今日の閉店後は、テーブルを全部動かしての床清掃だそうで、客がいると邪魔らしい。
レストランの外壁にもたれ、夜風に吹かれながら、ゾロは食事を始めた。コックたちの賄い飯には、余った食材を使うのだろうが、それでも十分すぎるほど美味い。「たかがスープ」や「一見どこにでもありそうなチャーハン」が、これだけ複雑で豊かな味わいを持つなんて。
今まで、食事などは「生きるための餌」ぐらいに思っていたゾロだが、ここに来て少々、認識を改めた。食物が血肉となり、ひいては強さにつながるとしたら、これほどの「極上の餌」を食い続けていけば、もっともっと強くなれるはず。
(そのためにも、あいつを動かせるような何かを、やってのけて見せなきゃな)
最後の一口になったスープ。皿ごと持ち上げると、透明な汁が月明かりを映す。口をつけて思いっきりすすり込み(後に『そんな音を立てるなぁ!』と喚き立てるサンジと、そのどこが悪いのか分からないゾロとの悶着が発生する)、しばし喉ごしの余韻を味わう。
「ごちそうさま」
皿を置いた後、癖でつい、そう言ってしまった。と、そこへ突然、可笑しげな声が降ってくる。
「魔獣も美味い飯にゃ勝てねえか。なあ、ロロノア・ゾロ?」
はっとして振り向く。今まで、気配を感じ取れなかった。それは相手が、相当の使い手である印。・・・夜目にも白く浮かび上がるコックスーツ。デッキの上を、コツコツと義足の音を立て、歩み寄ってくる初老の男。このバラティエのオーナー、ゼフだ。
「お前、最近うちのチビナスを、こっそり眼で追ってるよな」
半分からかうような、その口調。だがその裏に、何か底知れぬものを秘めて。
「・・・あ、ああ。船長に、説得の手伝いを頼まれてて、糸口を探してる」
ごまかしの苦手なゾロは、正直にそう答えた。別に、ごまかす必要もないことだ。ルフィがサンジを勧誘していることは、このオーナーも知っているのだ。
「ふぅん。それで、糸口とやらは掴めたか?」
「まだ、よく分からねえ。・・・けど、あいつがこのレストランに縛られてるんなら、解放してやりてぇとは思ってる」
言葉を探りつつ、ゾロは、飯に添えられていた酒の小瓶を開けた。目の前の男には、人の上に立ち、数々の修羅場をくぐってきた「大物」の風格が感じられる。気圧されてはなるまい、と思いつつ、急に乾いてきた唇を酒で湿した。
刀こそ抜かないものの、これもひとつの「勝負」だ。ゾロにとっては、剣の勝負よりよほど困難な。ゼフは腕組みしつつ、探るような目つきで問うてくる。
「解放、だと? お前、今まで人助けをしたことはあるか? 囚われの身になってる奴を、どうしても救いたいと思った時、一体どうしてた?」
「・・・捕らえてる悪党を、この刀で叩っ斬った」
ゾロは、傍らの三刀を視線で示す。が、その答えに、ゼフの顔にはあからさまな軽蔑が浮かんだ。
「ふん、それじゃ永遠に無理だな。あのガキを縛りつけてるのは、奴自身だ。斬っちまったら、連れてけねえだろうが」
「・・・・・・」
「てめえは随分と、単純な人生を生きてきたんだな。敵は斬る、仲間は守る。そうしてひたすら戦い続ける。初めてだろう、こういう単純じゃねえ事態は? 助けたい奴がいて、そいつを捕らえてる最大の敵が、そいつ自身だなんてことはよ」
「初めてじゃねえっ!」
言いたい放題言われ、ゾロはさすがに腹を立てていた。何より、ゼフの「初めてだろう」という言葉に。
世界一の誓いを立てた相手、くいなはまさに、「自分自身が敵」という苦しみを抱えていた。男より力で劣る、女としての身体。勝ち気なあの少女の涙を、ゾロは間近に見ていた。「人生の機微を知らない単純バカ」呼ばわりされる覚えはない。
音を立てて酒瓶を置き、ゾロは男の顔を見据える。凶刃さながらの視線にも、全く動じないゼフの様子に、苛立ちながら。
「昔、俺の親友が、現実の壁にぶち当たって、勝手に夢を捨てようとしてた・・・俺は、そいつに喝を入れてやって、一緒に誓いを立てたんだ。どちらかが、世界一の剣豪になるんだって!」
生き様を見せろというのなら、そうしてやるまでだ。誓いに賭けて生きてきたこの道を、軽蔑できるものならしてみろ。ゾロがゼフに向けた見えない剣は、自らの根源たる思い、命より大切な誓い。
「ほう。・・・で、その親友とやらはどうした? もう一度、夢に向かって歩き出せたのか?」
悪気はないのだろうが、最もゾロの胸に刺さる問いを、男は容赦なく投げてくる。ゾロはついに、目を伏せた。
「・・・分からねえ。その後すぐ、事故で死んじまったから・・・」
ゼフは何も答えない。「勝負」がどうなったのか、ゾロには判断がつかない。だが、しばらくの沈黙の後、男は再び口を開いた。
「時に、ロロノア。お前、歳はいくつだ?」
「歳・・・? 十九だが」
ゾロの答えに、ゼフは一瞬、驚いたようだ。確かにゾロは、日頃、年相応には見られない。が・・・ゼフはすぐに眼を細め、くっくっと笑いを漏らし始めた。
「何だ、チビナスと同い年じゃねえか。こりゃあいい」
何が「こりゃあいい」なのだろう? ルールさえ分からない勝負の中で、ゾロは戸惑うしかない。
「単純な人生、なんて言ったのは詫びるぜ。その歳で、その落ち着き振り・・・てめえにも、色々あったんだろう。誉めてやってもいい所だが・・・」
一瞬、言葉を切るゼフ。どうにも内心が読めない。
「実は、そうはいかねえんだな。確かに大人に見える。いや、見え過ぎるんだ、てめえは。だからこそ・・・卒業しきれねえものを、抱えてやしねえか?」
「!」
何を言うんだ、このおっさんは。理解できない。なのに、ゾロの心はひどく揺れる。自分でも知らない弱みを突かれたように。
「・・・歳の割に大人びた人間ってのはな、だからこそ、子供時代を卒業できてねえんだ。ガキでいたい想いを、無理やりぶち切って大人になっちまった奴ってのはな。ガキの雑用坊主じゃ無理だから、大人に見えるてめえが説得しようってか? ハハッ、所詮てめえもガキの癖によ」
見透かすような、ゼフの眼差し。この男を「クソジジイ」と呼ぶサンジの気持ちが、ゾロには少し分かった気がした。
「まあせいぜい、頑張るこった。俺みてえな年寄りにとっちゃな、ガキにしか託せねえ夢もあるんだから」
ゾロの肩を、からかうようにぽんぽんと叩き、そしてゼフは歩き去ってゆく。義足の足音が消えてからも、ゾロはしばらく、身動きできずにいた。
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