Lacrimosa 〜未完成レクイエム〜
by Natsuki.K

「完璧な美?」
 オールグレンは、思わず聞き返した。
 勝元が、そう訪ねてきたのだ。いつもの「カンバセーション」の最中に。お前は、祖国で「完璧な美」に出逢ったことがあるか、と。
 ひどく遠い気がする祖国を、オールグレンは思い返す。
「……そんなもの、滅多にあるものじゃない」
 地平線まで金色に染まる大穀倉地帯も、空恐ろしいまでに巨大なグランドキャニオンの渓谷も、氷冠を頂いて天を衝くロッキーの山嶺も見た。それぞれに感動的ではあったが、勝元の言う「完璧」とは、少し違う気がする。
 多分それは、もっと繊細な形で、完成されたものだ。
 例えば、今二人が縁側から見ている、美しく整った寺の庭。そこにもうすぐ咲く桜は、純粋な野生種ではなく、一層の美しさを求め、長い時間をかけて品種改良されたものだという。人だけでも自然だけでもなく、双方の力が溶け合い調和して生まれる、その美。
 その意味でならば、アメリカにある「美」は壮大で圧倒的だが、「完璧」とは言えない。
 アメリカは、フロンティアの野生を相手に、食うか食われるかの戦いを重ねて出来上がった国だ。人と自然の調和を、まだあの国は理解していない。それを知る先住の民が、どんな運命を辿らされたかは……オールグレンが、一番よく知っている。
「美しいものは多いと思う。でも『完璧』とまでは……」
「あんな大きな国でもか?」
「アメリカは、若い国だ。歴史が浅い分、色々な面での洗練度はまだまださ。その意味では、歴史のあるヨーロッパの方が上だ」
 アメリカへの移民たちが、自由と引き替えに捨ててきた「歴史と文化」。日頃は意識せずとも、やはり劣等感の根は深い。歴史を重ねた文化に、ポジティブに愛情を寄せられるならまだいいが、「追いつき追い越せ」とむきになるアメリカ人も多いのだ。
 そう言って、オールグレンは問い返す。
「それで、勝元が見てみたいのは? きっと、西洋文明が生んだ、西洋ならではの美ってことだと思うけど」
「ああ。日本にはないような美を知りたい。異国で生まれた『至上の美』とは、どんなものなのかを」
 勝元は、鷹揚にそう答える。
「出来ることなら、世界中の様々な美しいものに触れ、存分に見聞きし味わってみたい……そう思うのは、人として当たり前のことではないか?」
 そして、悪戯っぽく笑って付け加えた。あの大村とさえも、この点だけは意見が一致したぞ、と。
「奴はワグナーが好きでな、確かに気宇壮大な調べだ。聴いておるだけで、何やら気が大きくなってきおるわ」
「ああ、あれか……」
 大村は、小規模ながら私設楽団を持っている。もっとも、その演奏を楽しめるのは、賓客や身内の人間だけだ。
 目の前の「サムライの長」に比べれば、余りに卑小に思えるあの男が、陶酔の表情でワグナーに聴き入る姿を思い出し、オールグレンは少々げんなりした。
 さらに、インテリぶった笑みを浮かべるバグリーも連想してしまい、ますます嫌な気分になる。奴も、ワグナーが好きだった。初めて出会った場所は、オペラハウスのロビーで。あの頃は、奴もまだ紳士然とした、素晴らしい将校に見えたものだが……
 オールグレンの想いを引き戻したのは、気遣わしげにのぞき込んでくる琥珀色の瞳。
「どうした? ワグナーは嫌いか?」
「いや、その……嫌いじゃない。ただ、『ワグナーを好きな奴』に関しちゃ、あまりいい思い出がないんだ」
 そう答えながら、気づく。
(あった。ワグナーじゃなく、あれなら……)
 オールグレンは、嫌な回想を吹っ切りつつ、ようやく思い当たったその名を口にする。
「完璧な美というなら……モーツァルトがいいと思う」
「おお、知っておるぞ。残念ながら、名前だけだが」
 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。アマデウス、すなわち神の寵児。その名の通り、華麗な天上の調べを生み出し続け、短い生涯を駆け抜けた天才。
「きっと、勝元も気に入るはずだよ。本当に軽やかで美しいんだ」
「どのような音楽なのだ? 実物を聴かねば分からぬぞ」
「じゃあ、まず、オペラ『魔笛』から『魔法の鈴』を……」
 好きだったいくつかの曲を、解説を交えつつ、オールグレンは歌った。……本当は、少々不本意だったのだが。自分は歌手ではないし、伴奏もない。子供の頃は、教会の聖歌隊にいたが、声変わりを理由にして辞めてしまった。決して下手とは思わないが、それでも素人レベルだ。
 出来ることなら、モーツァルトが「完璧に」創り上げた、その通りの形で、勝元に聴かせたかった。
 だが、かの天才の調べは、それでも十分、このサムライの心に届いたようだ。満足げに微笑んで、その歌に聞き惚れている。
 いくつかを聴き終わった勝元は、こう口にした。
「確かに、いずれも素晴らしい。……だが、お前が最も『完璧』だと思う曲は、まだ出ておらんのではないか?」
「鋭いな、その通りだ」
 彼の洞察に感嘆しつつ、オールグレンは答えた。
「残念ながら、俺の歌では聴かせられないよ。あればかりはやっぱり、伴奏付きの合唱でないと……『レクイエム』だよ」
 多くの作曲家が手掛けているが、モーツァルトのレクイエムは、間違いなくその頂点にあると、オールグレンは思っている。
「彼の最高傑作だ。完璧な作品に、なるはずだった」
「はずだった、とは?」
 その言葉の含みに気づき、勝元が問うてくる。
「……完成する前に、モーツァルトは死んだのさ」
 本当に、完璧な美がこの世に現れるのは難しい。少し皮肉にそう思いつつ、オールグレンは答えた。
「死の直前、最後に書かれたのが、最も美しい『ラクリモサ』。意味は『涙の日』だ。出来過ぎた話だよな」
「完全な形でなくとも良い、聴かせてはくれぬか」
 勝元に促され、オールグレンはしばし迷ってから、そっと目を閉じた。ゆっくりと息を吸い、そして、歌い出す。
「Lacrimosa dies illa, qua resurget ex favilla……」
 死の床で書き留められた、哀切極まりないメロディ。運命を悟った「神の寵児」が、自らの鎮魂歌として誕生させた「涙の日」。
 聴き終えた時、勝元の眼はうるんでいた。
「……まさに、涙のようだな。天の光の中から、きらきらとしたたり落ちる雫のようだ。この世のものならぬ調べだ……」
「ああ……勝元も、そう感じたんだ?」
 失望されなかったことに安堵しつつ、オールグレンは改めて、悲運の天才の最後の日々について語ったのだった。


「音楽は、何故その場で消えてしまうのだろうな。どれほど素晴らしい演奏でも、魂の限りを込めた歌でも、風のごとく一度限りに流れて消える」
 話が昔の作曲家から、当代の演奏家たちのことに移った時。勝元は残念げに、そんなことを言った。
「仕方ないさ。ほら、確か、日本の言葉でも……『一期一会』だったか?」
 そうオールグレンが応じると、勝元は軽く首を振って答えた。
「分かっておっても、時折思うのだ。この調べを、箱にでも詰めて取っておければ良いのに、と」
「箱に?」
 思わず、オールグレンは吹き出す。オルゴールのような箱が人の声で歌い出す、少々ナンセンスな光景を連想して。
「可笑しいものか、写真機があるだろう?」
大真面目に言う勝元に、思わずはっとして、オールグレンは笑いを止めた。
「あれは、一時の光景を写し、永遠に取っておくための機械。お前たちの『西洋文明』は、もうじき、音を写して取っておく機械も生み出すはずだ」
「ああ……そうか」
 そうだ、この男の方が、遙かに本質を突いている。改めてオールグレンが浮かべた笑みは、感嘆からのもの。……彼は知るよしもないが、この一八七七年末、祖国アメリカでは最初の蓄音機が発明されるのだ。
「そうだなぁ。そんなものが出来れば、世界中の音楽を詰めて運んで来られるだろうに」
 オールグレンの想像に、勝元も愉快げにうなずく。
「この吉野の郷で、モーツァルトを聴くことも出来ような。もし、それが実現したなら」
「そうしたら、色々な『箱』を部屋一杯に積み上げて、毎日でも楽しみたいよ」
 ……あなたと、一緒に。
 その言葉を、オールグレンは呑み込んだ。時代はこんなにも早く流れるのに、何故、「音楽を取っておく箱」は間に合わなかったのだろう?
 ギャトリング・ガンを造り出した西洋文明は、まだ、勝元にモーツァルトを聴かせてやることが出来ない。このサムライの長はきっと、至上のレクイエムの調べではなく、醜い連射音の中で死んでゆくのだ。
 未完成の詩を、調べを、心に抱いたまま世を去った芸術家が、どれだけいただろう。今作っているという「白虎の詩」が間に合わなければ、勝元も程なく、その一人に加わる。
 のどかな春の日差しの中、全てを悟ったように微笑む、最後のサムライの君主。その姿を見つめつつ、オールグレンの胸には、ここでは聴けないはずのレクイエムが響いていた。

END.


*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
BGM:Mozart「Lacrimosa」
MIDI作者:Windy
http://windy.vis.ne.jp/art/
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
04年冬の同人誌『Apricot Dream』より転載.
曲を実際に聴けるようにしたかったので、サイトUPしてみました。
←オルゴールMIDI版の「Lacrimosa」を置いておきますので、
お時間があれば、BGMにして再読してやって下さい。
出来るなら、オーケストラ演奏・合唱入りのMP3を設置したい所ですが
著作権の問題もありますので……。

余談。オールグレンが挙げた「アメリカの美しい物」は
全部「デカい物」だと、書いた後で気づきました(笑)。