私は今日、庭にリンゴの木を植える。 〜マルティン・ルター〜 (ジーク・・・ジークフリート・・・) どこから聞こえるのだろう。鈴を振るような、清らかな乙女の声。 幻のように、白い服の後ろ姿が、木漏れ日の中に浮かび上がる。風に揺れる、淡い金の髪。そして振り向くと、澄んだ泉を思わせて、青い双の瞳が微笑む。 (これが、あなたの好きな森・・・綺麗だわ。五月の『黒 い 森』ほど美しい森なんて、きっと世界中どこにもない。そうでしょう、ジーク?) 遅い春を迎え、一斉に咲き乱れていた、北の花々に囲まれて。それは遠い記憶の中、今もなお鮮やかな面影。 ・・・ああ、夢だ。あの頃の夢を見ているんだ。ジークはそう気づく。 あれから、どれだけの日々が過ぎたろう。彼のことを、親しげに「ジーク」と呼ぶ者は、もういない。傭兵隊の部下たちは皆「隊長」と呼ぶか、そうでなければ・・・。 (私も、この森が好きよ。故郷に帰ったら、大切な人たちみんなに話すわ。北のこの地には、世界で一番美しい森があるって) 忘れない。胸に焼きついた言葉を、愛しい面影を。 想いはいつも、あの日々に帰ってゆく。いつまでも、どれだけ時が過ぎても。ソウルエッジ探索の日々。果てしなく思えた旅、繰り返した戦いと、いくつもの出会い。 (俺は十六だった。そして・・・彼女と、出会った) その名を呼ぼうとした。ソフィーティア、と。 だが、乾いた唇から、音がもれることはなかった。 代わりに、夢から無理やり引きずり出すように、男たちの声が彼を呼び覚ます。泣き叫ぶような、すがりつくようなその声が。 「隊長! しっかりして下さい! 隊長! 隊長!」 のろのろと、眼を開ける。 片方だけの、碧緑の瞳を。・・・もう一方を失ったのは、いつの戦でのことだったろう? ほんの先頃のような気もするし、遥か昔の気もする。それほどに、ジークの生涯は戦いの連続だったのだ。 そして今、部下たちの顔が、傷つき横たわる彼を見降ろしている。 「ああ、隊長・・・気がつかれましたか? 良かった・・・」 土埃と煤にまみれた顔を、さらに涙でぐしゃぐしゃにして、側にいた若い傭兵が声を詰まらせる。 こいつは、あの頃の俺ぐらいの歳なんだ・・・と、ジークは思った。幼いということは、こんなにも頼りなく、隠しきれない弱さを抱えたものか。精一杯強がっても、まだ、導いてくれる誰かを求めずにいられない・・・。 焼けた木の匂いが、鼻をつく。薄明かりに照らされて、半ば炭化し、折れ崩れた木々の幹が、部下たちの背後に立ち並んでいる。 戦場となったこの森に、いや、昨夜までは森だったこの地に、夜明けが訪れようとしていた。 ・・・敵軍は、ジークフリート・シュタウフェン率いる傭兵隊の、巧みなゲリラ戦術に悩まされていた。寡兵ながら、森に潜み、地形を最大限に生かしての奇襲を繰り返す彼ら。業を煮やした敵はついに、隊の潜む「黒 い 森」に火を放ったのだ。折からの強風に乗って、火は一気に燃え広がった。 炎に追われる傭兵隊に、敵軍が襲いかかる。夜の森を染めた猛火の中、繰り広げられた戦い・・・ジークは逃げ惑う部下たちを叱咤し、先頭に立って敵に向かっていった。 巨大なツヴァイハンダーがうなりを立て、炎よりなお紅い血が飛び散る。が、それは、敵兵の血ばかりではなかった。小さな負傷でも、積み重なれば確実に、生命を削られてゆく。 そもそもジークは、本調子ではなかったのだ。この冬に、大病をしている。病み上がりの体に、三月の寒さはこたえた。北の地である「黒い森」に春が訪れるのは、やっと五月になってからだ。 それでも「隊長の俺抜きで出陣なんて、隊の士気に関わる」と、病身を押しての戦だった。 「俺の剣は、どうした・・・?」 ジークがかすれた声で尋ねると、壮年の傭兵のひとりが、悲痛な顔でそれを差し出した。 折れている。血で染まった刀身は、中程の所から先がなかった。 いにしえの戦神ヴォータンは、戦士の剣を砕くことで、その命運が尽きたことを示したという・・・幼い頃に聞いた、古伝説の一節が頭をよぎる。迷信じみた、そんな言い伝えがあったが。 「ああ、そうか・・・」 思い出した。辛うじて生き残りの部下たちをまとめ、傷ついた体を引きずるように、ここまで逃げてきて・・・杖代わりに体重をかけた時、剣は鈍い音と共に折れたのだ。ジークは地面の上に転がり、そのまま気を失った・・・。 だがそれは、本当に、神の託宣なのかもしれなかった。北の古代神の王、嵐を司る隻眼の魔神ヴォータンの。・・・それとも、魔道師ファウストと契約を結んだ、悪魔メフィストフェレスの? (いや、もしかしたら・・・遠い南の、オリュンポスの神々かもしれねえな) 何故ならジークは、夢うつつの中で、あんなにもはっきりと見たからだ。神の乙女、ソフィーティアの清らかな姿を。 本当なら、父から受け継いだ大剣「ファウスト」が砕けた時、彼は死んでいたはずだった。あの、ソウルエッジとの戦いの果てに。邪剣に魂を奪われた者は、人ではなくなる。ただ操られるままに、虐殺を繰り返す魔物となり果てる。 死以外に、解放の道はない。奇跡が起こらない限り。 ・・・その奇跡を起こしてくれたのが、彼女なのだ。狂戦士と化した彼に、恐れず立ち向かい、ついに邪剣を破壊した。そして、その純粋な慈愛で癒してくれた・・・自らの罪深さに押しつぶされ、死を願いさえした彼を。 「さっき、ソフィーティアの夢を見たよ。お前らに起こされなきゃ、もう少し側にいられたのに」 「隊長の、想い姫ですね?」 ジークの呟きに、壮年の傭兵が答える。 隊の皆が、断片的にではあるが、彼女のことを知っていた。彼らの隊長が、届かぬ想いと知りつつ、愛し続けていた南の乙女を。 ・・・邪剣から解放されて、じきに分かったのだ。ソフィーが戦い抜くことができたのは、恋人であり、無二の理解者である青年が、故郷で待っていてくれたからだと。彼女の背負う「選ばれし者の孤独」は、ひとりきりで耐えるには重すぎた。 ジークは、彼女の想いを理解した。彼はもう、現実を拒否する子供ではなかったから・・・。 故郷へと発ったソフィーを見送って、彼は再び、傭兵として戦いに身を投じた。心の奥に、ひとつの夢を秘めて。・・・自分のような悲劇が繰り返されぬために、この国にいつか平和を。それは、かつて彼が誤って手にかけた、父フレデリックの夢でもあった。 分裂し乱れきったこの国は、もはや流血なしに統一されることはない。ならば、戦士としてその罪を背負い、己の血を流そう。戦う力を持たぬ、弱き者たちの代わりに。それが彼の覚悟であり、新たな決意だった。 じきにジークは、同じように傭兵隊となっていた、かつての仲間たちと再会した。ジークが折にふれ語っていた、父の夢。それを笑い飛ばさなかった者だけが残り、新たな仲間を集めつつ、待っていてくれたのだ。彼らを率いての、長い長い戦いが始まった・・・。 そんな日々の中、彼に情婦がいなかった訳ではない。子供が出来たら結婚してもいい、と思ったこともある。だが子供は生まれず、女たちはいつの間にか、他の男と一緒になっていた。ジークの中に、決して消えない面影があることを、彼女たちは敏感に察していたらしい。 ・・・結局、彼は生涯、妻子を持たなかった。あえて言うなら、傭兵隊が家族のようなものだったが。 思い出が、目まぐるしく駆け抜けていく。俺も終わりだな、とジークは思った。これが天命か、という、不思議な安らぎと共に。 「おかしなもんだな。あの人の誕生日が、俺の命日になるなんて」 微笑さえ浮かべての言葉に、部下たちがはっと息を呑む。構わずに、彼は続けた。 「きっと彼女、幸せになったろうな。心優しい男と結ばれて、平和に楽しく暮らして、子供も沢山できて・・・きっと、長生きして、大勢の孫たちに囲まれて・・・」 そんな平和をいつか、この国にも。ジークの悲願だった・・・その日を見る前に逝くのが、少しだけ心残りだ。荒れ果てた大地の、新たな再生を見られないのが。 焼けただれた森の、明け方の空を見上げながら、彼は呟く。 「・・・でも、彼女の国には、この『黒い森』は無いんだ。世界で一番美しい森、って言ってくれたのに・・・俺たちのせいで、こんなにしちまって」 自分の死に場所ならば、どんな荒野でも構いはしない。傭兵として、ジークにはその覚悟があった。だが、この無惨な姿の森だけは、そのままにしては逝けない。 薄れゆく意識の中、彼は部下たちを見回した。息をするだけで苦しい。魂が、壊れた肉体を逃れようとあがいている。待て、もう少しだけ待て。そう自分に言い聞かせ、気力を奮い起こして言った。 「これは、俺の、最後の命令だ」 「隊長! そんな・・・」 若い傭兵を制して、ジークは続ける。 「この戦が終わったら、俺の墓の周りに、木を植えてくれ。ここだけじゃない。戦の間に荒らされて、不毛の荒野になっちまってる所が、この『黒い森』には沢山ある・・・そこにみんな、新しい木を植えて、森を蘇らせるんだ。・・・俺の父上も言っていたよ。森は、この国の命だ、と」 そう。森は、この国の命、この国の魂。だからこそ、南から来た乙女は「世界で一番美しい森」と呼んだのだ。 長い戦争の中、いつからかジークは思っていた。最期の瞬間まで、戦士でありたいと願う一方で・・・剣を握れなくなる日が来て、まだ余生が許されていたなら、それは森を蘇らせるために捧げようと。 壮年の傭兵が、ゆっくりとうなずく。 「分かりました、隊長。ご命令通りに。・・・毎年、木を植えに参ります。子供にも、孫にもそうさせます。この森が、かつての姿を取り戻すまで」 ・・・森が、神の乙女の祝福した姿に戻るまで。 何百年かかるだろう。この北の地では、樹木の成長は遅い。温暖な南の国の何倍も・・・それこそ、何百年という時間が要るだろう。 でもいつか、森は蘇る。ジークはそう信じた。ここに眠る自分の魂を宿して、木々の葉は風に歌うだろう。永遠に、優しく囁き続けるだろう。 ソフィーティア、愛している、と。 ・・・ジークの様子に、若い傭兵が、その体にすがりついて叫んだ。 「隊長! 死なないで下さい! 俺たちを置いて行かないで下さい!」 「わがままを、言うんじゃない。いいな?」 その一言が、最後だった。生涯を戦い抜いた彼は、見守る部下たちの嗚咽の中、静かに眼を閉じたのだ。 壮年の男は、若い傭兵の肩に手を置き、なだめるように言った。 「・・・さあ、親父さんの遺言通りにしてやろう」 西暦一六四七年、三月十二日。傭兵隊長ジークフリート・シュタウフェン、神聖ローマ帝国・フライブルグ市付近の会戦にて戦死。享年七十九歳。帝国全土を巻き込んだ「三十年戦争」が終結するのは、その翌年のことであった。 それから数百年。かつての姿を取り戻した「黒 い 森」は、今もなお、西南ドイツの地に静かに広がっている。 Das Ende.
★古い未発表ネタです。計画倒れしたソフィー×ジーク本用の物でした。 |