『夕空晴れて』


 オレンジ色に染まった空から、その涼やかな音色は降りてきた。
 見張り台の上、手すりにもたれたサンジが、銀色に光るものを唇に当てている。
(夕空晴れて秋風吹き 月影落ちて鈴虫鳴く) 
 あの曲だ。そう思うと同時に、ゾロは一瞬、故郷の幻を見た。目の前の夕焼けの海が、郷里の田んぼの、金色の稔りを思わせて。
(思えば遠し故郷の空 ああ我が父母いかにおわす)
 歌の力は、歳月を一瞬にして飛び越える。無邪気に歌って歩いた幼い日を、傍らにあったぬくもりの記憶を、言葉のないハーモニカの音色が呼び覚ます。
 思わずゾロは、縄梯子をよじ登っていた。見張り台に上がると、音色が途切れる。何しに来た、と言わんばかりに振り向くサンジ。一瞬の緊迫した空気、だが。
「懐かしいな、その歌・・・」
 ゾロがそう呟くと、サンジはふっと肩の力を抜き、悪戯っぽい微笑を返した。
「この曲、お前も知ってんのか?」
「ああ。故郷の村にいた頃、よく歌ってた・・・意味も分からなかった癖にな」
 世界一の夢を抱きながら、まだ、近隣の村いくつかが全世界だった頃。毎日のように道場へ通った、田んぼの中の畦道。秋にはそれが、歌の通りに、鈴虫の声に満たされて。
(思えば遠し、故郷の空)
 帰りたくとも手の届かない、望郷の念の切なさなど、知りもしなかった頃。
 そんなゾロの様子に、サンジは傍らでうなずいた。
「そりゃな、ガキにゃ分かんねえ歌だよな」
「ああ。今になって聞くと、何というか・・・妙に切なくてよ」
「切ない、か。俺もそう思うぜ」
 懐かしさを凝縮したようなメロディだと、ゾロは思っていたが。サンジも同じなのだろうか。
「くいなと二人で、秋の夕陽を見ながら歌ったなぁ。田んぼの金色の稲穂が、真っ赤に染まって・・・そりゃもう綺麗だった」
 歌が呼び覚ました、思い出の光景を、ゾロは口にする。
・・・と、サンジが突然、からかうように言った。
「その子、やっぱりお前が好きだったんだな」
「へ?」
 懐かしさに浸っていた所へ、突然の不意打ち。腹を立てることもできず、ゾロは間抜けな声を出す。そんな様子にくすりと笑いながら、サンジは続けた。
「くいなちゃんはさ、ゾロにだったらついて行きたい、ぐらいに思ってたんじゃねえか? 歌の中に、その気持ちが入ってたんだと、俺は思うけどな。お前より年上ってことは、ちゃんと意味分かってたかもしれねえぞ」
「言われてみれば・・・そうかもな」
 いつか共に、世界一を目指して旅立ったなら。どこか遠い国から、故郷を想うことがあるかもしれないと・・・こんな風に、二人肩を並べて。くいなは、そう思って歌っていたのだろうか。あの澄んだ声で、『思えば遠し故郷の空』と。
 あの日々は永遠に去った。今、目の前に広がるのは、故郷の田んぼではなく黄昏の海。傍らで風に揺れているのは、稲穂の波ではなく、コックの金の髪だ。
 ずいぶん遠くまで来てしまった。そう思いつつゾロは、再びハーモニカを吹き始める、サンジの横顔を見つめた。


 夕食の支度があるサンジは、ゾロにハーモニカを貸してやり、一足先に見張り台を降りた。不器用に奏でられるあのメロディを、微苦笑と共に聴きながら、キッチンに立つ。
 幼いサンジはこの曲を、卑猥な戯れ歌のひとつとして教わった。だが後に、ゼフから聞かされたのだ。
『昔、農作物の不作は餓えに直結していた。当時の人々は、今から見れば馬鹿馬鹿しいような儀式で、必死で豊作を祈った。その、おまじないの一つだったのさ・・・若いカップルが、麦畑の中で「子作り」をするってのはな』
 滑稽で、でもひどく切ない歌だ。ひとが命を繋いでゆくことは、いつだって滑稽で、そして切ない。サンジはそう思いながら、ハーモニカに合わせ、小さく口ずさむ。
「♪誰かさんと誰かさんが 麦畑
  こっそりいいことしているよ
  おいらにゃいい人いないけど
  いつかおいらも 麦畑」
・・・ゾロがこの詞を聞いていたら、思い出を汚された、と怒り狂ったかもしれないが。

END

「故郷の空」の原詞が、実は「麦畑」に近い代物だと知って
ちょっぴりショックだったかつての私。当時は純情でした(遠い眼)

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