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人間の個人の進化とは?、魂の進化とは何なのでしょうか?
SF妙法蓮華経 石川英輔著 講談社
まとめ;森田鉄治
この本は、スペースコロニーに移住可能になるくらい科学が進歩(?)した21世紀中ごろの建築青年技師とそのまわりの人々の生活環境や考え方を、紀元前の時代に釈尊が弟子達に見せながら、宇宙の理(大いなる宇宙の実体)を教えると言うSF物語である。妙法蓮華経の内容を、仏教用語を使わないで表現しており、分かりやすい所が私の気に入っています。もちろん、妙法蓮華経のほんの一部の内容だとおもいますが。
**釈尊の言葉**
・一瞬にして真理に到る者もあるが、生き代わり死に代わりしなくてはその境地に到れない者も大勢いる。 だが、そのすべての段階を踏んでいく道筋こそ、限りない価値がある。
・種が一滴の水を吸って小さな芽を出し、さらに土の中の僅かな養分によって葉を開き、大地に根を 張って大きな木に育つように、僅かずつであっても正しい修行を積み重ねる者は、必ず大いなる宇 宙の実態を理解し、真の解放、真の不死に到る事が出来る。
・真の原理は、見えざる原理でもある。見えざる原理は見える原理と違って、理論や論理によって説 明する事が出来ないばかりか、言葉によって伝える事さえ出来ない。
・大いなる宇宙の実体に到り得るのは、ただ直観だけなのだ。
・大いなる宇宙の実体は、この宇宙にあるすべてのものや、すべてのできごとの有るがままの姿を直 観的に究め尽くすことによってのみ知る事ができる。 そのためには、全宇宙にあるあらゆる姿をした、ありとあらゆる性質の存在や現象が、ただの1つ として独立したものではないこと。すべての存在や現象は、それぞれの原因と条件が互いに依存し 合いながらかりそめの姿として現れているが、それがただの一瞬とて同じ状態に留まってはいない ことを真に理解しなくてはならない。 正しいと思う事も、誤っていると思う事も、その実は同じ1つのことであり、自分といい他人とい うのも、その実はおなじであることが、ありのままに見えるようになる。
・苦心して高い峰の頂きに達し、自分はこの世で最も高い山頂を極めたと思い、その状態に満足仕切 って誇りに思っている者が、それよりはるかに高い山のあることを知らされた時、どのように感じ るであろうか。自分独りの悟りを求め、それに達して満足している者が、さらにはるかに高い境地 のあることを知ったとき、不幸になることもある。
・ここに、述べていることも、言葉で説くことのできない真理を、あえて言葉で説いているのである。
・海の表面には、たえず波が立っては消えている。そして、この世にはまったく同じ波は1つも無く、 ただの一瞬間も止まる事無く生じては消えていく。 波は現実に姿があり、存在しているように見える。しかし、よく考えるなら、波とは、海の水の表 面が風や大地の力などの原因や条件の変化によって、仮の姿をあらわしているにすぎない。本当に 存在しているのは海の水であって、波でない。波はあくまで大海の表面に現れてた仮の姿にすぎない。 宇宙にある全ての存在も、これと同じように、さまざまな原因や条件によって生じている仮の姿にすぎない。
人の欲望は果てしない。たとえ高い山に上っても、より高い山が有る事を知れば、自分はまだ低い所にいると思うものだ。
・第五の500年の末(西暦20nn年頃)には、特に豊かとはいえない者でも、今の(釈迦が今世 におられた時代)われわれの千倍、いや万倍もの生活を営んでいる。それを、さらに百分の1だけ 豊かにするためには、今のわれわれを百人も養えるだけの財貨を必要とする。個人としてはつつま しい欲望に過ぎなくても、実体はおそるべき貧欲となることを知らねばならぬ。
・見える原理をいかに深く学ぼうとも、理解できるには真理のほんの一部、表面だけにすぎない。
・人が豊かであるかどうかは、黄金や品物をどれだけ持っているかではなく、どれだけ満足しているかによる。
この世で豊かで有り得るには、ただ満足することを知っている者のみである。
・宇宙の全てが関連し合って成り立っていることが本当にわかれば、個人だけ、自分独りだけの幸いなど本質的に有り得ないことが理解できるようになる。
・私(釈尊)の教えは次の3ケ 条を自覚することである。
第一は、この世のすべての現象や存在は、大いなる宇宙の実体がその時その時の条件によって現れる仮の姿にすぎないのであるから、全ては一体であり、独立した存在などただの一つもないと いうことである。
第2は、さらに、それぞれの現象や存在は、また別の現象や存在を生じさせるための原因や条件となるから、あらゆる現象も存在も一瞬の休むことなく変化するのがこの世の特徴である。
第3は、以上の事を真に理解し、宇宙の実体の仮の姿にすぎない現象や存在に心を動かされなくなった時に、真に苦悩から解放され、大いなる幸福に到ることができる。
・ブッタも自分も他人も、人間以外のすべての存在も、本質的には何ら区別するべき存在ではない。
・正しい理解なき信仰は、排他的になり自他とに傷つき易い。
・この教えは、真理について何も知らなくても、正しい生活を送り、自分の考えだけに固執しない人 や、自分が苦しむのは他人のせいではなく、ほかならぬ自分自身に原因が有る事に気づいて真の真 理を求める気持ちを起こした人には、理解が早いであろう。
・今生で解決し得ない問題を天空に持ち越したところで、同じ人間が同じ心で生きている限り、解決 することはない。人は、その場において苦しみ、その場において耐え、その場において解決しなければならない。 そうでなければ、いずれ必ず、先送りしておいたすべての苦痛と全面的に対決しなくてはならない。
・人間の意識の奥には、自分で直接感じ取ることができない潜在意識のマナ意識がある。さらにマナ 意識の奥には、人の「いのち」そのものであるアラヤ識がある。アラヤ識のさらに奥にはアマラ識 がある。人はこのアマラ識において大いなる宇 宙の実体と結合している。
・大いなる宇宙の実体の力に接するための重要で基礎的な方法を3つだけ;
第1は、自分にとって大切なものを、少しでも自分以外の存在に受け取って貰う事だ。自分以外の存在とは、人間である必要はない。大切なものとは、物質でも良いが相手に対する行為であるほうが望ましい。相手のためにする行為であってはならない。できることなら相手に知られないほうが良い。まして、相手が喜び感謝してくれるはずだと期待する気持ちがあるなら、しないほうが良い。相手が知らぬ顔をして立ち去ったとしても、不満に感じるようではどんな立派な行為でも無価値である。そうする機会を与えて貰って有り難いと感謝しながら行うのでなければ、自分の大切なものを受け取って貰った事にならない。
これは、世の中を円満に運営する道徳とは次元の違う考え方である。道徳とは、それぞれの社会制度の規範にしたがって変化する、時代や場所によって同じ行為が異なった評価を受けるので、一定の法則は有り得ない。道徳とはそれぞれの社会のある層の人にとって都合の良い行為にほかならない。
「自分にとって大切なものを、自分以外の存在に受け取って貰う」ことは、大いなる宇宙の実体に近づくための最も重要な、自分の心の中だけの問題であって、この行為によってのみ、人間はわずかづつであっても欲望から解放されて心の曇が薄れ、大いなる宇宙の実体に接近することが出来る。
第2は、5つの努力目標を定め、出来るだけ良い習慣を心がける事だ
生き物を殺さぬようにせよ
うそをつかぬようにせよ
正当でない方法で物を手にいれないようにせよ
みだらな性的関係を結ばぬようにせよ
精神状態を変える物質を用いないようにせよ
いずれも、残念ながら、現実の生活では厳密に守り難いことばかりである。悪いと知っていながら、やむをえず行うなら、過ちを反省することが出来る。
自分の弱さを反省するばかりでなく、同じように弱い人間である他人に対して、自分に対して以上に寛大になることもできる。
第3は、自分にも無限の力が潜んでいることを強く信じることだ。光輝く宝石の、すなわち大いなる宇宙と直結する能力が埋め込まれている。
また、自分の心の底に光輝く宝石があるように、自分以外の存在にも同じ様な宝石が有る事を認めなくてはならない。 そうすれば、人を外見や地位などによって差別する気持ちが次第に消えて、この世の本当の姿が見えて来る。
・現在の能力が全てだと思う気持ちこそが、こころを閉ざし、大いなる宇宙の実体への接近を妨げているのだ。碑小な常識を捨て去り、劣等感を拭い去れば、心の奥底の宝石の輝きが見えてくる。
・大いなる宇宙の実体は、人々が目覚める時を待って心の奥底で接触し、その無限の力を注ぎこもうとしている。たとえ、僅かに目覚めた細い糸のようなつながり過ぎなくても、その糸を通して大きな力が与えられる。
・心が開けば、それまで感じられなかった世界を感じられるようになり、絶えず変化する現象も、その奥には変化することのない実体があることがわかって、それによって病気も治ってしまう。
・現在の人々は、科学技術の発達のおかげで、驚くほど簡単に欲望を満たせるが、そのような技は単に困難を先送りにし、拡大し、さらに深刻にするだけである。
・五感がが全てだと信じている人々がたとえどのように考えようとも、五感以上の感覚が存在するの は事実である。人間は五感で感じられる肉体だけの存在ではなく、深いアマラ識を通じておおいなる宇宙と連結しているため、未来の世界を関知する事ができる。
・大いなる宇宙の実体の意向に自分自信を合わせるには、正座して心を静めると良い。当たり前のことを、当たり前に行うだけであるが、この方法によってのみ、大いなる宇宙の実体の限りない力を心の底に受ける事ができる。
・人にとって、最も大切なのは、今この瞬間にほかならない。今を否定し現在を犠牲にして、不確かな未来のために生きるのは、愚かな事である。
・飢えている人が充分に食べる努力をするのは当然である、充分に食べられるだけでは不満で、より美味しい食物を食べたいと思い続けるなら永久に満ち足りない。
病気に苦しむ子供を健康にするため、親が努力するのは当然である、しかし健康に育っているのに、子供らしい楽しい生活をさせずに立身出世のための苦行を強いるなら親子共々苦しみ続ける事にな る。
負債を抱えた商人が、負債を返すために必死で働くのは当然である。しかし、充分な利益を得ていながら、さらに莫大な利益を得るために、他人の得るべき利益まで自分の手に収めると、恨みを買うばかりでなく、帳簿に記入できない自分の真の利益、見えざる真の原理にしたがった利益を減ら すことになる。
・真の原理に合わせて生き、僅かでも大いなる宇宙の実体の救いを得たならば、日々の営みそのものが大きな喜びとなり、必要なものは必ず与えられる。
・心の修行は、現在の段階がどれほど理想から遠くても、その一歩一歩こそが尊い。
・次に目指す、より高い段階とは、他人も幸福にならない限り、自分も本当の幸福にはなり得ないことに気づくことである。
・たとえ途中で生を終えたとしても、その人にとっては宝の山への道の途中で休息しているにすぎない。次の生では、またその段階から出発する事ができる。
・社会の仕組みを変えて問題を解決しようとしても、それは本質的な事ではない。
もっとも大切なのは、財貨を多く蓄えることも蓄えないことも、立身出世するもしないも、まったくこだわることなく平等に見られるよう、まず、自分の心を変えることなのだ。
大いなる宇宙の実体にとって価値があるのは、人それぞれの人生をその人なりに生きることであり、財貨の多少や見かけの社会的地位の高低ではない。
・より高い段階に進む為の心の準備が出来ていない場合などは、むしろ災厄のような形で恵みがもたらされる場合もある。そのような時も決して恨んだり呪ったりしてはならない。恵まれ苦労を知らずに育った者が立派な人格になるわけではない。
・ブッタが人類に救いの手を伸べる理由は、地球の中で悩み苦しむ心があってブッタになり得る可能性のあるのは人間のみであるからである。
・生き代わり死に代わりした後に生まれる、遠い遠い未来の世であるかも知れないが、男女の差なく人は皆偉大な師と同じ段階のブッタになれる。
・文字を読む事も出来ない人が一瞬にしてまことの原理を悟る場合もある。むしろ、学問を究めたつもりでいる人の方が中途半端な知識にさえぎられて、まことの原理に近づけない場合が多い。
・たとえ立派な家が立ち並び、立派な制度も法律があろうとも、そこに住む多くの者の心が汚れているなら、その国は地獄と異なるところがない。その逆もいえる。
・植物に花が咲き実がなるのは、地下に深く埋もれた根があるからで、根が健康でなければ、良い花も咲かず実もならない。同じように、人間の世界も、世の中を本当に支えているのは、社会の上層にいる居る人ではなく、普段は人の目につかない所で誠実に生きている人々なのだ。
・表面の意識は、心の働きのごく一部にすぎないのであって、人間を真に動かしているのは潜在意識にほかならない。
・絶えず移り変わるこの世の現象の奥にも、不変の存在がある。目に見える世界は目まぐるしく変化しても、大いなる宇宙の実体は永遠に代わることはない。
・この世に生きる人々を見ていると、自らを窮地に追い込んでいるとしか思えない。今の苦しみの原 因が自分のまいた種によることさえ気づかず、世を恨み人を恨む。 末法の世の人々は、まさにその見本であって、今この瞬間の苦痛を逃れるためなら、いかなることもためらわずに行う。
寿命が尽きて死んで行く者さえ無理に生かそうとする。
子供らしい生活を犠牲にして、将来の立身出世に備えさせる。
感情的に不愉快なものは、どんな方法を使っても排除し、結果を考えない。
今その場の居心地が悪ければ、なぜそうなったかを考えずに平気で逃げ出す。
弱い生き物達を、自分の僅かな利益の為に平気で殺す。
人の息の根源である森林も、今不必要なら伐採する。
このように、自分の行為が、周囲にあるいは自分自身にどのような影響を与えるかを考えないにもかかわらず、快楽を求め、一時的に苦しみから逃れることによって、さらに新しい苦しみの種を蒔き続ける。
・人類は、これまでに何度も滅亡の淵に立たされて来た。それにもかかわらず、人類は生き延びてきた。 末法の世の人類は、またもや破滅の危機に立っている。しかし今回は、自分で招いた危機であるから、これまでのように自然の力にまかせて生き延びることは出来ない。これまでの危機は、自然環境の変化に原因があったが、今回は、人類自身が自然環境を変化させたために滅亡しかけているからである。
しかし、今回もまた生きのびる人類がいる。だが、氷河期までの危機と違って、その人々はけっして肉体的な適応によって生きのびるのではない。自分の招いた危機は、自分で解決するのがまことの原理であるから、危機を招いた心のあり方を根本的に改め、強制ではなく自分から喜んでこれまでの生き方を変えられる人々が、新しい人類である。
・もし、この教えを理解し信じ、読み暗記し書き写し、そして心の曇を取り払い、大いなる宇宙の実 体に僅かでも接触する事が出来たなら、その人は、現在の肉体のままで、普通の人間をはるかに超越した能力が与えられる。
・この教えを書き写して、世間にひろめようとする者は、ブッタの教えを伝えるために寺院を建てる必要がない。妙法蓮華経の教えを信じ、理解しているだけで、その人は宝石で飾られた立派な塔を 建て、香をたき花を供えて礼拝するのと同じである。
**21世紀の青年達の言葉**
・「心ここにあらざれば、見れども見えず」見ようと言う気持ちが無い限り、何も見えません。
・われわれは、何でも見たり聞いたり感じたりできるつもりでいるが、実際は、心の中によけいなも のがいっぱい詰まっていて、そのため目の前にあるものでも見えていないのではないでしょうか。
・植物は、ほかの植物に情報を伝えるための物質を放出して、縄張りを守ったり、他の植物の成長を促進したりしているようです。
20世紀後半に、キク科の雑草がポリアセチレン類とかの化合物を放出して勢力争いをしていることが発見されてから、研究が盛んになり、植物がさまざまな物 質を使って複雑なコミュニケーシ ョンをしている事が研究されているそうです。
・土1gの中には10億の微生物がいる。人間一人当たりでは、体の中と表面を合計すると2〜3兆の微生物と仲良く共生しているそうです。
・猿が立って歩くようになってから何百万年にもなるというのに、電気を使う文明生活がはじまってからはたったの百年足らずです。 人間が進化して新しい環境に適応できるような体に変わるまでには、10万年〜百万年単位の時間が必要なので、今の人は肉体が適応した条件とは全く違った環境で、無理やり生活させられているわけです。
・強制収容所で絶望的な状況下で精神破壊を起こして死んで行った方と、生き延びた方の違い(アウ シュビッツ収容所でのフランクルの記録)
亡くなった方=「くれない族」;誰も助けてくれない、だれも何一つしてくれない
生きに残った方=自分は誰かに対して何かが出来る、誰かの為に何かしなくてはならないと、思った方、とのことです。
自己中心的になっても不思議でない過酷な環境にいながら、自分の利益より他人の利益を優先する気持ちは、「超越的無意識」すなわち自分の利益や快楽よりも、大勢の人々の幸福を優先する心が、人間の心の奥ふかくにプログラムされている、と言う事のようです。
・マックス・ウエーバー;優れた経営者は「限界的階層」から出やすい。貧乏でも破壊的にならない程度の環境が、立派な人を育てる、ということでしょうか。
・地球上の事は、近くで見ていると一つ一つがばらばらに独立しているようでも、遠くから見ればコ ップの中の嵐とでも言うか、みんな一つの運命共同体なんだと痛いほど感じました。(シャトルで地球を離れて行くときの想い)
・われわれは、何か目に見えない大きな物の一部にすぎず、その力によって生かされているようにおもえます。小鳥も虫も木や草も、細菌も同じだろうと思います。 小さな虫の生命も私の生命も、本当は一続きで一体のものだということが信じられれば、雑木林を 削るのは、体の一部を切り捨てているのだと分かります。つまり、目先の利益のために、雑木林を 削り、海を埋め立てるのは体の一部が高く売れるからといって、切って売るのと同じです。爪や毛のように、再生する部分を切っているぶんには、自分を傷つけることにはならないけれど、もっと儲かるからといって、麻酔をかけて体を切り売りし始めれば、いずれ死んでしまいます。
・顔形や身長、体重、知能指数や学校の成績、学歴、家柄、人種などというものは、いわば人間の舞台衣装のようなものです。職業や勤め先や、社会的地位などは、芝居の役のようなものにすぎません。ところが、世間で通用するのはそういう表面的な価値だけで、舞台から降りて衣服を脱いだと きの本人が、本当はどんな人間なのかという点は、ほとんどどうでもいいのです。
・立派な制度を作れば、人間も制度に合わせて立派になり、より幸福になれるというのは、思い違いだと言う気がします。実際は人間さえ立派なら、制度なんてどんな形でも困らないのではないでしょうか。
・われわれの営利第一主義の社会では、目先の能率がすべてに優先するのだから、学校だけをそういう傾向から切り離して、理想的な形で運営しようとしても無理だと思います。
・ノーベル物理学賞受賞のユージン・ウイグナーの意識説(量子力学)
人間の意識あるいは心は、脳の中に閉じこめられているのではなく、ずっと外まで広がる事が出来、外界に物理的影響を与えるという事のようです。
2つのスリットの実験;平らな金属版に接近した2つのスリットを開け、そこに電子を発射する。 電子は2つのスリットに広がりどちらのスリットにも部分的に存在して通り抜ける。ところが2つのスリットに電子を検出する装置をつけると電子はかならずどちらかのスリットだけを通る。人間が観測したというその意識に電子は影響される、という考えです。
・パリ大学 アラン・アスペの実験;人間が素粒子を観測する影響は光以上のスピードで伝わる。
お互いに反対向きの性質になる1対の素粒子(1つがプラスで他は必ずマイナスになる)を分割して、同時に反対方向に発射する。その直後に一方の粒子の向きを変えるともう一方の粒子の向きも 変わる。充分な距離を離して実験しても光速より早い時間内(ゼロに近い)に相手と反対の行動を 取ることがわかった。
「SF妙法蓮華経」の参考書
法華経(上中下) 坂本幸男・岩本裕 訳注 岩波書店
法華経の新しい解釈 庭野日敬 著
法華経を読む 紀野一義 著 講談社
法華経 田村芳郎 著 中央公論社
法華経の奇跡 謝 世輝 著 KKベストセラーズ
法華経で生まれ変わる ひろさちや 著 立風書房