眞・聖なる予言」 ラムサ(著) 川瀬 勝(訳) 角川春樹事務所発行

 2対8の法則(注1)によって、私が感動した本のキーワードをまとめているのだが、この本は中身が濃く、まとめるのが難しい。したがって今回のキーワード集は私の心に強く感じた内容のキーワード集となり、本の内容の80%を抽出したキーワード集ではありません。もし本をまだ読んでいない方は、まず本を読んで下さい。大宇宙の(大自然の)理がわかり、涙が出るくらい感動します。

 

はじめに                    

・わたしはラムサ、わたしがここにやってきたのは;

あなた(人間全て)はまさに神なる存在であり、あなた自身こそが、自分の深い知性を通して人生のあらゆる現実を作り上げたということを、また自分の望みどおりのどんな現実でも創造することが可能であることを悟るための手助けをするためである。

この次元は、人間がさまざまな体験をとおして、純粋なよろこびという存在へ進化するための場を提供する「遊び場」である。

私と私のそばに立つ者(7次元又はそのそばにいる者)は、この地球上のあらゆる人々を一つ にする心の準備をする、ある壮大な出来事のために、すでに動き始めている。 

人間を暗黒の時代においやり、自由を奪い、人々を分断し、増悪を生み、民族間の戦いをもたらしたような考えを捨て、崇高な考え方を体現する時が来ている。

これからやってくるのは「神の時代」と呼ばれるときだ。それは時間の価値をある明確な意図で変えるプロセスを通して訪れる。(時空間を越えることか?)

その時代では、病気や苦しみ、憎しみや戦争、身体の老いや死はなく、永遠に続く生命が知識、叡智、深い愛情を通じて、個々の生命体の人生にもたらされる。

あなたはこの時代にもたらしてくれるものを見ることを全うすべく、今ここに生きることを選んだのである。

 

1 わが名はラムサ              

私の名はラムサ、私はこの地上界では一度の生しか生きることはなかった。この世界の時間の観念で3万5千年前である。アトランティアが水没する「最後の百年間」の時期で、レムリアの恵まれぬ人々の子として無知と絶望の中に生まれた。父は知らない。

母は妹が生まれたとき死に、その後妹も死んだ。兄は後にペルシャと言われた総督に誘拐され性の奴隷にされた。

14歳の時、人間の不条理に対する私の憎しみを伝え、わが祖父の「未知の神」と戦うために巨大な山に登った。しばらく神には無視されたが、そこで神秘の女性と見える存在が大きな剣をもって立っており、「この剣を持って自分を征服するのです」といわれた。

その剣を持って山をおり、その後63年をかけて当時の世界の4分の3を征服した。

私は英雄となった。英雄とは、どん底にある社会を救い、その不条理を正そうとするが、その過程で自分も不条理を作り出してしまう事に気づかない人間のことだ。

ある戦いで剣にさされ、瀕死の身となったが「立て、起きあがるのだ」という「未知の神」の言葉で立ち上がる。以来「未知の神」を探すことになる。

「未知の神」とは、つねに目の前にあるもの、わたしそして私のまわりにある全てである。(のちほど、わたしは未知の神が、結局自分自身であることを発見する…・_)

私は風になることを望んでいたが、そんなあるとき風に思いを馳せていると自分が自分の身体から遠く離れていた。その「自由」を再び手にすること以外、私は何も望むことはなかった。そして2年後に自分の身体を離れる術をマスターした。

長年わたしは想念であちこちの王国を旅した。思考のあるところ、そこに己も存在することがわかったからである。

私の魂は、1つひとつの細胞構造のプログラミングを変え、その波動を高め始めた。わたしの身体の波動は、物質の波動の速度から、光の波動へと進んでいった。そして自分の化身とともに移動できるようになった。

本質はきわめて単純だ。そしてその単純さと揺るぎなさの中で、それは私に何も求めなかった。それは不変であり、けっして判断を下さず、少し考えをめぐらせば誰でもすぐ理

解できるものからわたしは全てを学んだ。人間はまさにその本質の部分であり神なのだ。

2.皆がわが臣民であったとき        

宗教はこの地上界に大きな分裂と深い傷をもたらす。

ここでのおしえは、たんなる知識だ。それは学びでもある。そしてそれは愛である。その愛であなたに神を知らしめて、神の真の姿である無限性にあなたがなれるようにするのである。

目に見える見えないを問わず、あなた自身より偉大なる存在はけっしてあり得ない。そして、あなたより劣る存在もけっしてあり得ない。

自分の神聖、覚醒、そして成長の過程は、自分自身を通して、そして自己愛をはっきりと認めることを通してしか、実現することはない。ほかの誰よりも自分を愛することだ。それはあなたに人類全体を受け入れる愛と不変の意志を与えてくれる。

3.神はただ在るのみ             

神は、それ自体では善も悪もまったく持ち合わせていない。ポジティブもネガティブもない。ただ在るだけなのだ。神は在りて在るものすべてなのだから、正しいことだけなく間違ったことでもあり、美しいものだけでなく醜悪なものでもある。聖なるものだけでなく卑俗なものでもある。

神はあなたが何をしようと関係なく、あなたを愛している。なぜなら、あなたは自分のすること考えることすべてを通して智慧を得ているのであり、その智慧が人生(つまり神そのもの)をさらに豊かにしてくれるからだ。どんな下劣で惨めな行為であっても、そこで得られる智慧によって人生はさらに豊かになる。

あなたがこの地上を去り、自分の人生でしたことすべてに思いをめぐらすとき(これは必ず誰もがすることなのだが)、神はやはりそこにいて、これから先にある数限りない明日に向かってあなたを愛し続けるだろう。なぜなら神はあなたの幻、空想、夢、そのすべてを作り出す舞台だから。すべてのものが独自の形とパターンを持っているが、それをつないでいるものは思考である。思考が全ての生命の創造主であり、それをささえる要素である。

・地獄とは地面を浅く掘り返した墓のことである。宗教がそこを苦難を受ける場所とした。

宗教が、大衆を恐れさせおさえつけて支配可能な集団とする目的で、恐怖という手段を用いた。

イエスは、父なる存在は審判を下し、罰を与える神ではなく、慈悲の心にあふれた、全てを愛する神なのだという教えをもたらした。それはキリスト教の歴史を通して、この事を理解できなかった者たちによって書き残された書物や、新約聖書によって、大きく歪曲されてしまった。キリストとは自分が神であることを知り、しかもその真実を体現して生きる人のことである。(個人名ではない、そういう人達の総称である)

4.神を見よ                   

あなたがすべての生命を、太陽も空も、あらゆる美を創造したのだ。

人間という驚くべき生物を創造したのもあなたであり、その目的とは、宇宙の虚無空間にある輝く光だったあなた自身が、自分で創造した生物のすばらしさを、自分自身で体験できるようにするためだ。この地上のすべての創造物を最初に作った神々が、人間という化身の持つ5感を通してそれらを体験し、理解する事が出来るようにである。

あなたはこの地上界に何千回と生きている。あらゆる顔や肌の色、主義主張や宗教を体験している。自分の歴史の理解の中にある全てのものになった経験がある。なぜか、感じるため、智慧を得るため、そしてあなた自身という最も偉大なる神秘を解きあかすためだ。あなたは、膨大な時間の中で繰り返し繰り返し生きることを通して、いまの自分のすべてになってきたのだ。

身体は、真の存在=自己を構成している変動する光でできた最も複雑で高度な電気系統を宿すためにつくらた。本当の姿は小さな光の点である。そこにあなたがなったもの全てが収められている。

あなたの真の姿は、精神、魂であり、ひかりの存在と感情とが組合わさったものだ。魂はその個体の心臓のちかくにある空洞に位置し、骨によって保護されていて、そこには電気エネルギーのほかに何も存在しない。

あなたの魂は、これまであなたが抱いた思考すべてを感情という形で記録し蓄積している。この感情の集合体のために、固有の自我、アイデンティティ、人格=自己をもっている。身体は、魂を運ぶ単なる車であり、この物質界に生き、遊ぶことを可能にするものである。 神は像を持たない、それはあなたも同じである(身体は化身)。

あなたの人となり、あなたが体験したこと、すべてはあなた自身にその責任がある。あなたは自分の人生のあらゆる瞬間、すべての状況を創造してきた。どんな人間であるかは自分で選んできた。自分の容姿も、どんな生活をするかも、すべて自分で設計し決めてきた。それが神なる人に与えられた特権でもある。

この世界に事故や偶然はない。ほかの人間の意志や策略の犠牲者などという人間もいない。あなたに起きてることはすべて、あなたが考え、感じることによっておきている。

皆は自分の為に何を創造しているのか。不幸、心配、惨めさ、憎しみ、対立、自己の拒絶、老化、病気と死。自分に限界を設けてしまう信念を容認することで、限界だらけの人生を作り上げている。その限界だらけの信念が自分の内面で不動の真実と化し、現実となっていく。

身体を創造した張本人である神とは、実は貴方の内面に宿っている力であると気づくとき、 もはや老いることも病気になることも、消滅することもなくなる。

自分がこの地上から消滅すると定めたとき、肉体は死ぬが、あなたの思考は存在し続ける。行き先はこの地上界であなたがいたところだ。そこで、次回の冒険で何をしたいかを決めるのである。そしてあなたは自分の真性を再び手にするまで、何回でも地上界に戻ってくる。その後別の天界、別の場所でさらに壮大な冒険に向かっていくのだ。

5.この生の後にくるもの           

死は大いなる幻影だ。なぜなら、いちど創造されたものはけっして破壊することはできないからだ。死は身体だけのことである。肉体の中に棲む人格=自己は生き続けていく。

    魂とは一言で言うと記憶である。

死の瞬間、すべては光り出し、物質の個体性から脱出し光の存在にもどる。そこから7つの天界のうちの一つに行くことになる。7つの天界は実際の場所であり、存在の次元である。どの次元も人類を苦しめ、罰する地獄などというものはない。どの次元に行くかは、意識、感情のレベルで決まる。

意識、感情のレベルも7段階在る。天界の7つのレベルとは1対1で対応しない。「意識のレベル」は愛という概念に対する意識のありよう、深さである。その7つとは@生殖と生存、A恐怖と苦痛、B力への愛、C感じる愛、D表現する愛、

Eすべての生命に見る神、F神なるわれである。

思考にはすべて、ある振動数の波動があり、それが特定の感情として体験される。苦痛を会得しようと思考すると、苦痛に関連する低い波動数の波動を生じさせ、感情面ではその波動が痛みとして体験される。愛について学ぼうとすると、愛に関する思考の高い波動がもたらす高揚感を味わう。

この次元は「見える次元」と呼ばれている。ここでは実際の物質界において、自分の創造力、感情という形で表現する価値観がもたらすものを目のあたりにできるからである。このレベルは、7つのレベルの中でただひとつ闇の要素が存在する場所であり、光の音楽を耳に出来ない場所でもある。ここに生まれると、偉大なる知識を「知っている状態」で生まれながらも、何も知らない状態へと追いやられるプロセスを通過しなければならない。(記憶の多くが消された状態となる)

7つの次元で1つだけ大きな悲しみをもたらす次元がある。意識の第一、第二のレベルを表現している存在達の次元である。そこでは何十億の存在が、その光の化身の形のままで、眠りの状態で横たわっている。この存在は墓場の先に生命は無いと信じているゆえに、自分たちは死んでいるという幻影の中に生きている。救世主が戻ってくるまで死んだままでいると教えられ、また悪魔のようなものが、自分たちを誘惑し起こそうとすると教えられ、それを信じているので目覚めるのを拒むのである。目覚めるのに何千年とかかる存在もいる。

信じるとは、まだこれから知るべきこと、体験を通して理解することについて、体験する前に確信を持ってしまうことである。信念は大変危険なものである。信念を持つと、まだ自分の内面で真理として確立していないものに対して、自分の信頼、価値観、生命までも任せてしまう事になる。

殺人等にも、慈悲の情を持つことを学びなさい。殺生という一つの征服を終えると、彼らは感情面でこれに向き合い、消化していくという大変な作業がひかえている、それに何千年もかかることがある。殺されたものは、次の瞬間に新しい身体をもつことも出来るのに、である。

第二の次元は、自分の理解の為に、苦痛、呵責の念や罪悪感を体験している人の次元である。

第三の次元は、力の次元と呼ばれている。他人を支配し、隷属させることを求める人の次元である。

第四の次元は、愛の次元と呼ばれている。この次元にいる存在は皆深い愛情を感じているが、残念ながらその深みを表現出来ない。つまり多大な愛を体験している光のレベルに存在しながらも、その愛を表現する能力が無い状態である。

第五の次元「楽園」と呼ばれているところは、意識の、実現する愛、語る愛、表現する愛のレベルで自己を表現しているところである。この次元の存在は、音と音楽を呼吸し、光のなかに生きている。また望むものは、なんであろうと瞬間にそのとうりになる。

第六と第七のレベルの叡智は、この次元ではそう簡単に達成することは出来ない。

第六の天界では、何かと完全に一つになることが出来る、しかも同時に別の独自の存在でもいられる。言葉では言い表しずらい。

第7の次元は、最終的にはあなたを含めすべてが行き着くところであり、それが神である。視野をどんどん広げていき、やがてあなたの感情が在るもの全てを内包するようになったときである、そのときはよろこびそのものである。第7のレベルとは思考の総体で、それは膨大な「空」であり、惑星を軌道に保ち、細胞の間をつなぎ、永遠に存在しているすべてのものを内包している。ここではもはやレベルというものもない、ただ存在するだけである。

自分への愛情と慈しみの心を表すことが出きるまでは、すべての生命の美しさを見たり、気づいたり、あるいは他者にたいする深い愛情と慈しみの心を表すことはできない。

私たちの人生は、この地上界であろうと、次に行く場所であろうと、私たちの思考そのものである。どのレベルにいようとも、思考が無限に広がれば広がるほど、あなたの人生も無限に広がる。思考と感情をもって、この世界で貴方が創造する天界が壮大であればあるほど、地上界を去ったときの天界でもそれだけ壮大な世界になる。

罪悪感や、自己や他者に対する審判の念、あるいは怒りや憎しみの中に自分の思考が浸ってしまっている人たちは、この次元を離れてからも、その態度に変化はなく、自分のあり方にはもっと偉大なものがあるはずであり、経験すべきさらに偉大な天界があることに気づかない。

6.死か、あるいは昇華するのか       

 ・私たちはどうやって自分の親を選ぶのか;

ほとんどの場合、自分の知っている者を親に選ぶ。前の生で子どもや親であった存在達である。知らない人を選ぶ場合もある。媒体が無くて何百年もかかることもある。本当の意味では親や子という者は無く、みな等しく神の精神であり、皆兄弟姉妹である。

この次元が物質の密度を持つのは、思考が、光というある特定の周波数の波動まで拡張され、それが減速されて電磁場となり、さらに物質の総体となり、固体となるのである。

昇華とは、脳の能力がすべて使用可能な状態になり、体をコントロールしてその波動を上げ、物質の周波数領域を出て、光の周波数領域に入ることがいつでも出来るようになり、、自分の身体を別次元に持っていけることである。死も別次元に行く事だが、それは身体を老いて退化するにまかせ、消滅させることである。死は大いなる幻想であり、この世界での絶対的な法則ではない。

身体は内臓ではなく、分泌線からのホルモンで何十万と生き、けっして老いることがないように作られている。自分がそう想えば、自分の化身の老化のプロセスを逆転して若い時に戻すことも出来る。

この人生は、一つひとつあらゆる瞬間が大切なのだ、未来に希望を託すと、大いなる限界を課すことになる、在るがままに… 

7.創造と進化                 

はじめに思考という限りない空間があった。その思考が自分の内面に思考を向け、思いをめぐらせたとき、思考が拡大していき独自の形をもった。思いをめぐらす思考そのものの本質の部分、その目的とは愛である。神の自分自身に対する愛こそが、自分自身に思索の対象を見出し、独自の形に拡大したいという望み持ったのである。

思考がそれ自体について思索し、ひろがっていったとき、光と呼ばれるものになった。思考が広がっていくと、その波動は光を発する周波数のレベルまで下げられるからである。最初に思索の対象になった想念から生まれた光の分子が、ひとりひとりの人間となり、神となった。(であるから、皆兄弟姉妹である)

この最初のころ、途切れることのない思考の流れの中の思考をとらえる為に魂がつくられ、感情という形で静止する(記憶)ようにした。(感情の創造)

想念を完璧に静止した状態で、感情という形で魂の中にとらえることによって、その姿を完璧に描くことが出来るようにである。

光の分子の動きを遅くして、それを凝縮すると、プラスとマイナスの極がある電磁場になる。想念を電磁場よりさらに減速、凝縮させると物質になる。この形態は創造に必要な観念として、魂が思い描いていた想念によって、ひとつの形に保たれているのである。

花の香りを感じ、花を手にとり、そのあざやかさを体験するためには、物質界に存在して、花と同じ周波数で振動する媒体がいる。そのために、ほかのすべてが創造された後、人間という化身が創造された。自分の創造物を体験し、また自分の創造性を表現するためである。

永遠とは、この瞬間のことであり、現在という瞬間の継続性、永続性そのものである。

8.天使よりも高き存在            

いま皆は自分の永遠の思考プロセスをすべて理解するという、とてつもない冒険に足を踏み入 れている。

皆が「天使」という言葉がある。天使は人間として生きていないために、人間の喜びや悲しみなど、人類についての理解にかぎりがある。人類は天使よりずっと進化した存在だ。

人類の一員となることは、それだけで聖なる体験である。なぜなら、人類になるとき、あなたは神のすべてを体験しているからだ。人間になってはじめて、天界の王国全体を網羅する領域へと旅したことになる。これまで人間になったことがなければ、完璧な形で天界にはいることは決して出来ない。

あなたがいま生きているこの過程が「創造」だ。智慧と叡智を手にして、自分という大いなる神秘を解明していくために、物質を通してそれを表現している。しかしこの次元はすべて幻でもある。真の世界はあなたの内面にある。何かを感じるたびに感じる感情がそれだ。真の世界とは、感情の世界である。

智慧は知的な理解ではない。それはまさしく、体験から得られる、感情レベルでの理解である。

あらゆるものに存在価値を与えるのは貴方だ、そのことはいずれすぐにわかる。もうすぐあなたに、さまざまな生命と虹と色が、本当の自分とは誰なのかを思い出させてくれる。自分がまさに神の一部だと気づくのは当然となる。これがわかった後は、あなたは永遠を手にする。思考の無限性を手に入れて、物質や時間、空間、距離、あなた自身、すべての要素を再評価し、作りなおす事が出来るようになる。

皆が立派な存在なのは、想念から光へ、電磁場の分裂へ、固体物質へ、そしてこの地上界へと長い旅を経て今の自分にたどりついたからだ。皆はこの旅を成し遂げた、これは立派なだけでなく勇気のあることである。自分のアイデンティティを見失い、生存だけにとらわれる危険もある。そしてほとんどの人間がそうなっている。

9.姿ある神                   

皆は様々な理由のためにこの次元にいる、しかし最大の理由は、自己を理解するためである。

神はただ在る、始まりは無い、つねにただ在ったのだ。思考、宇宙、空(くう)、テルスターを維持し、それに生命をあたえる。

テルスターとは光を物質に変え、それを宇宙に吹き出して星団をつくるものだ。

神はあるレベルでは、すべてのものを構成する物質だ。別のレベルで言えば、異なる次元にある時間の流れであり、平行した宇宙を創造する時間の歪曲(タイムワープ)である。さらに別のレベルでは、物質を支える光という周波数帯だ。そして何より大きなレベルでは、あなたを現在の位置に保っている「何もないもの」、つまり思考であり、宇宙空間の永遠なのである。

父(神)を知覚し、理解し、感情面で知るためのただひとつの方法は、あなた自身が誰なのかを理解し、感情を通してそれを知ることである。

10.愛という贈り物              

運命は最初から決まっているわけではない。すべて貴方自身が決定していくものである。あなたが思うことはすべて、これからやってくる瞬間を創造している。父なる存在が、貴方のために決めることと言えば、自分の魂の中にあるさまざまな感情にしたがって、人生の全体を全て体験すべし、そしてすべての生命に対して持つ無条件の愛を知るよに、ということだけなのだ。

 

11.ただひとつの真実            

ただ一つの真実は、そんなものは無いということだ。ただひとつの真実が無いということは、すべてが真実であるということである。あなたが現実とよんでいる世界は幻にすぎず、創造と空想によって創造されたものである。そして、それはただちに物質という形での現実となったのである。

神がすばらしいのは、法というものがまったくないことである。法を持つことは限界を設けてしまうことだからである。無限の真実、無限の思考の中に選択肢の存在を許している。皆の一人一人が、独自に自分自身の真実を創造する(自由)意志を与えてくれている。

真実とは、ある人にとって、真実と見えることの謂われでしかない。真実とは意見であり、態度であり、信念が創造的思考の中で絶対的なものになった姿である。真実は、科学的、知的な理解の中に見いだすことはできない。何が真実かを知ることは、何が真実と感じるかを知ることである。真実は、人類の理解と叡智が進化し、変化するにつれて変わって行く。真実は集合意識、つまり人類全体によって感情の内に抱かれた思考の集合体が、現在この瞬間において物質化した姿でしかない。

占星術は、それを真実と信じている者にのみ真実である。自分が誰なのかが天界の動きを通してわかることなない。星や惑星の動きが人の運命を決めることもない。もしそうなら、私たちには夢や想像力、あるいは創造性や生命さえもないことになる。占聖術師は「宮」を12宮と設定しているが、実際は14である。太陽の軌道に数千年まえにうまれたものと、恒星と考えられている惑星がある。

12.生に法なし                

生きる目的とは、自分の存在の内にある想念を何でも表現していくことである。その目的を満たしていく中で自分の望む通りのものになり、望む通りのことをし、望むとおりのものでいられる限りなき自由があなたにはある。

神は悪でも善でもない、そして神は完璧でもない、ただ在るのである。「在るということ」は、魂が叡智の中で自己を満たしていくために必要な感情面の体験だけについて見るということである、善も悪もない。命を奪われたとしても、犠牲者ではないということである。その者もまた暴行されるかもしれない可能性について思いをめぐらしたのである。暴行をはたらく必要のあった者と、それを理解するために暴行される必要のあった者が、その体験の為に同じところに引き寄せられたのである。

神という叡智では、悪であるものは何もない、あらゆるものは智慧を与える一つの体験である。人間が神そのものだと気づくとき、わざわざ戦争や強姦や殺人等を経験する必要はなくなる。

カルマの法則は確かに現実であるが、カルマは神の法ではない。それを信じる人たちの法である。カルマという制限された状況を通じ、完璧をめざしてもその目標を得ることは出来ない。なぜならひとつのカルマを満たしてもそれは同時に新たなカルマを作り出すことになるからである。あなたは自由な魂であり精神なのである、その瞬間、自分の好きな真実、現実、あるいは幻想を自由に創造し体験できる。そして、何時の瞬間にも、自分が望めば夢を改めて創造し直す事もできる。そうであるからカルマは存在しない。

あなたが自分の運命を支配している。あなたがこの瞬間に考え感じることによって、あなたのあらゆる人生の瞬間を創造している。この瞬間こそが永遠そのものであり、それは途切れなく続いている。だれも過去に支配されている人はいない。あなたがしたことで償いをしなければならない事などない。ある行為をした瞬間、あなたはひとつの理解を得たのであり、そこで学ぶべきことへの気づきを得たのである。

過去は、智慧としてのみ、いまのあなたの内面に生きている。だからこそ、いまのあなたは、これまでの人生で偉大なのである。なぜなら、このいまという瞬間は、体験を通して得られた知識、生を通して得られた体験すべて、知識の蓄積すべてであるからである。過去のいまより「知っているという状態」にあるからである。

この次元での体験から豊かな感情を得たとき、あなたはもはやここに戻る必要もないし、そう望むこともなくなる。そして、いつ自分がここでの体験を全うしたかを判断できるのはあなただけである。

自分は永遠の存在であること、これまでに失敗は何ひとつないこと、そしてこれまでにあなたがおかした、たったひとつの間違いとは、何か間違いをしたと信じたことであることを知りなさい。

13.人生の目的とは             

この地上界にやってくるときには、まだ誰も目的はもっていない。ひとつの例外は、幸せになること、よろこびあふれることである。よろこびとは、まったく邪魔の入らない動きの自由なこと、価値判断のない表現の自由、恐れや罪悪感のない存在、自分自身で人生を創造していることを知っている状態、在るがままでいることを許されている自己の荘厳な姿のことだ。よろこびが最も偉大なのは、よろこびの状態にあるとき、その人は神と共にあり、嫉妬や怒りや反感、憎み、不安、、戦争、あるいは何かが足りないと感ずる余地はないからである。よろこびの状態にあれば、人は満たされて全きものとなり、生命と叡智そして創造性が内面から溢れ出してきて、年老いていくことをやめ、永遠に生きる。

「しておけばよかった」という思いが、その人をこの場所にもどし、それがすべて満たされるまで「今回出来る」ことを体験するのです。すべて満たされるともうここへは戻ってこない。これやあれやをしなければとか、自分の運命はこうだああだなどと考えることを皆が超越して、その瞬間だけを生き、余計なものを取り払って「在る」ということに集中するようになれば、それまでと比べものにならないほどの大いなる幸わせと自由を発見する。それは生の真の状態への解放であり本当に生きるということである、それこそがあなたの目的である。

 

14.忘れ去られた神性            

この地上界で人間が存在しはじめた頃、まだ自分は神であることを知っていた頃、人は同じ化身に何千年もの間生き続けたが、それは人間が在るがままの状態で表現していたので、思考が純粋だったからである。

神なる人間は、この次元での最初の生の体験の最中にも、すでに自分が神であることを忘れ始めていた。それは、この物質界というすばらしい遊び場を心から愛し、ここで創造することだけが大事になり、その過程で、生存や嫉妬、所有欲という想念の体験を始めたからである。

神なる人間が生存という価値観を体験し始めたとき、身体の中にある永遠の生命の流れに点火する思考の力を弱め始めた。こうして、身体がうまく機能しなくなってきて、自分の脳で理性的に考える能力をも衰えるにつれ、人間の意識に恐怖が支配し始めたのである。恐れという要素がひとつの価値観となるにつれ、化身のほうは、恐怖の力とその影響をこうむり始めた。それが病気であり死である。

死の恐怖からくるこの生存という価値観は、俗に「生存本能」と呼ばれるものを通して未来の世代へと伝えられていく。人間が考えることは、すべてその細胞と遺伝子の構造にパターンとして記憶されるからである。

神々がこの次元(物質という制限ある世界)で、限界という新しい世界観を体験し、限界という価値観を持つようになってしまった為に、死を体験することになる。

転生の始まり;自分が進化を続けるために、またこの物質界という遊び場がすばらしい体験だったために、神は早くここに戻りたくてしかたがなかった。物質次元で自己表現を続けるため、また、前の生で自分の思考過程を変えるのを許してしまった想念を融和させるため、自分自身の子どもの種を通して、神は別の化身の中に戻ってきたのである。こうして、この「見る次元」での転生のサイクルが始まった。

人間としての神々が、もはや自分が神なるもの、不滅なもの、すべての知識は自分の内あることを知らない状態になったとき、自分たちだけが神について理解していると語り、自分たちをほかの人間よりも高い位置に置こうとする存在が現れた。これらの予言者や霊能者は、来るべき滅亡と恐怖の予言を流布し、自分たちの権力を強めようとしたのである。こうして、地上界に宗教が生まれた。

宗教は賢かった、剣をもって人々を治め、支配する必要などなかったのだ。神は手の届くところにはなく、すべての知識、力も自分の中には無いという教えを永遠のものとして固めてしまうだけでよかったのである。

魂は永遠の記憶をもっている。それは、すべての生のすべての体験を記憶している。もしある人間に、神は自分以外のところにあり、おまえは魂が卑しく邪悪だと繰り返し言れれば、この想念はその人間の魂の記憶に確固たる概念を刻み込み、これを変えるのはきわめて難しくなり、最後には確固とした現実となってしまう。

皆のほとんどは自分が神であることをいまだ知らないでいる。そして、神とつながり、覚醒するために、儀式や祈りやお経、断食や瞑想が必要だとまだ思っている。そしてこんな苦労をするがゆえに、自分が求めている叡智は遠いことを確信してしまう。

あなたのこの時代は終わりつつある。これは「肉体の時代」であった。新しい時代はすでに地平線にその姿をみせており、これは「光の時代」「純粋なる精神の時代」「神の時代」と呼ばれるものだ。光の時代は人間を限りなき思考へと連れ戻してくれるであろう。

この地上界での皆の人生は壮大なる幻だった。偉大な夢だった。だがこれから皆は神の事を理解して目覚める、ひとり残らず目覚めてくるのである。

競争のはじまり;あなたたち神々には、いちばんはじめから、思考の感情を創造的な形に表現したいという強い欲求があった。その中で、自分の創造性は他より劣るのではないかと思いめぐらし始めた。その劣っているいう気持ちを補うために、互いに他の上をいく創造物を作ろうとし、競争にのめり込んでいった。

自分を化身のレベルまで下げ、細胞物質の現実を体験し始めたとき、自分のなったものを維持するための労苦である空腹、寒さ、生存というような「固体の機能」に自分を縛りつけてしまった。偉大なる不滅の存在と、それ自体の生存を志向する固体構造との結婚は、自我の存在を大きく変えた、つまり変性自我の誕生である。

それぞれの創造物が自分を維持していくのに必要な物質は、自分自身と同じ物質であることから、ここで創造されたものの多くは互いに食物となるようにつくられた、「食物連鎖」である。植物を創造した神々は、動物に食べられる植物をみせつけられた。その動物はより大きな動物に食べられるところをみせつけられる。自分の創造したものがほかの神の創造物によって食べられ消化されるのはとても屈辱的な体験であった。

神々は、自分たちが創造したすべてのものを体験し、関わっていきたいと望んだ。神々は植物、昆虫、動物、人間などあらゆるものになっていた。そして死という行為を体験し理解した。

神々が人間を他の肉食動物から逃げられるよう賢くしたが、生存への価値観、死への恐怖から逃げられなかった。

神々が人間として死を体験したとき、ただひとつの望みは、この物質界を経験し続け、この世界でさらに多くの創造を成し遂げることであった。そうして神々はよろこんでこの場所へ戻ってきては、さらに良い存在へ、もっと良い存在へとなっていった。こうして、この次元の物質界にどっぷりと浸ったために、自分が神なるものであり不滅であることを忘れ、必ず死を迎える運命にある物体と化してしまった。

大いなる存在すべてとひとつである状態は、わずか一瞬しか離れていないところにある。どんなものとも別の存在でありたくないと願うとき、あなたはそうなる。思考に対する価値判断を取り除くことによって、あなたは、父なる存在(大いなる存在)と波動の合った状態に戻る道を見つけるための光となっていく。

自分の在るがままを愛するのです。自分が永遠の存在であるという想念を心に抱きなさい。自分は死ぬべき存在ではなく、まさに不滅であり、限界在る人間ではなく無限の神であるという想念に出会ったとき、あなたの魂はこの限りなき想念をあなたの化身の細胞体に伝え、それを聞いた細胞体は驚喜し、その細胞に無限なる神を宿し、身体の物質がすべて「在りて在る神」の総体と波長が合った状態へと統一されていく。

15.生まれ変わり               

あなたがここに戻ってきたのは神を体験し、自己について理解し、「在りて在るもの」の本質を生きるためだ。そして、「在りて在るもの」の本質は、思考の領域でつくり出されるあらゆる感情を網羅しているのである。

人生は循環でもないし、繰り返しでもない。それはつねに変化し、不変となるべく進化しているものである。

この地上界に生まれ変わることを強いられる人は誰もいない。しかし、気の遠くなるほど長い間ここに生きていると、人間はこれが存在のすべてだと思い始めてしまう。そして自分の身体を失い、感情的な執着から離れると、すぐに大急ぎでここに戻ってきたくなる。あなたがここにいるただひとつの理由はあなたがここにいたいからである。

ユートピアが、苦痛や悲しみや、地獄のような状況と並んで存在することはあるのか、ある、わずかな考え方の違いがそれを隔てている。

この世界のすばらしいところは、それが途切れなく続いていて、変えることも出来るし、何でも自分の好きな役になれることである。

まだ体現していかなくてはならない叡智はたくさんある。その中で、最も大事なのは、ただ生きるという、単純な理由のために生きることである。それが平和を知ることになる。

この次元を輝く栄光のもとに去るには、まずここでの生を生き、愛し、そこにあるものの一部となり、次に、生の自由を制限したり、限定したり、あるいは怯えて縮こまらせるような観念をなくし、自分自身の自由の中に生き、自分を愛し、そして自分を他と比べるのをやめることです。社会的なイメージのために生きるのをやめ、自分自身の理想と真実のために生き、自分の永遠の存在を愛するようになったとき、あなたは草花や魚達や、まさに生命すべてとひとつになり、「この体験はもう終わりだ。私はここにあるすべての生命を愛した。だから新たな冒険に進む準備ができたのだ。遠い国々、新しい叡智、そしてこれまでとまったく違う存在の形へ」と言うことになる。

ここにいる誰もが幸福である。なぜなら、誰もが自分の意志にしたがって自分のしたいことをしているからである。もし病気になりたければ、病気になっている。もし不幸になりたければ不幸になっている。それは、そうなりたいからで、そうなることが彼らを幸にしてくれるからである。

皆、確かに時がくれば死ぬが、それは自分はそうしなければならないと思っているからである。

過去のすべてのじぶんも、いまのあなたほど偉大ではなかった。いまという瞬間、あなたはこれまでで最も偉大な存在なのである。なぜなら、いまのあなたは、これまで生きてきたすべての生の知識と体験の集大成であるから。

16.知るということ                

覚醒するただひとつの道とは、想念が自分の思考過程に入るのを許し、それを感情の中に抱いて、その体験を通してそれを智慧に昇華させることだ。

知識はあなたの一番の宝だ。知識はすでに知っている以上のことを推論し、思索するのを可能にしてくれる。知識はあなたがさらに成長し続け、最高のものになることをあなたに強く求めるものである。なぜなら、知るということは、あなたがなっていくことであるからだ。

集合知覚;全ての星座から塵の一粒まで、すべて存在しているものは、独自の思考を発しているだけでなく、まわりにあるものをすべて意識する「気づき」を発している。そしてその気づきを神の精神へと送っている。

オーラとはあなたの化身の物質を包み、それをひとつにまとめている光の場のことである。オーラは神の心と直接つながっている。オーラはプラスとマイナスのきわめて強い電磁場である。この電磁場をこえると光の領域/純粋なエネルギーとなる。この光の領域は「知っている状態」から発するすべての想念を通過させる。どの想念があなたに知られるようになるかは、あなたの思考過程によって決められる。あなたのオーラの中の電磁場である部分があなたの思考にしたがって特定の想念を引きつけるからである。

意識はちょうど河のようであり、身体の細胞一つ一つを含め、あなたの自己は途切れなく栄養を与えられている。意識の流れからの思考によって、あなたは生かされているのである。

意識は、あらゆる生物、あらゆるものが発する思考全てで成り立っている。意識をつくり上げている思考は、それぞれ異なった波動をもつ。低い波動は「社会意識」としてこの世界を支配している思考だ。高い波動は超意識の波動である。意識とは、異なった思考の波動の周波数値すべての総計であり、その中で、似たような波動の想念が互いを引き寄せている。

社会意識は、あらゆる存在が感情を通してこれまで表現した想念のことである。それは制限が多く、何にでも審判を下すきわめて厳しいものである。食物、住居、労働、黄金、善悪、等々、それは皆の人生が生存と死への恐怖に関する価値観によって支配されているからだ。

波動の高い超意識の想念とは、ただ在るとこと、生、調和、途切れ無き継続性などのものだ。それは愛の想念である。波動の高い思考は、自然の意識の中にいたほうが体験しやすい。

あなたのオーラの電磁的な部分が、あなたの思考過程と、感情面での状態にしたがって、意識の流れから想念を引き寄せてくる。

脳は思考の電気的な波動を受けるレシーバーであり、各部が違った想念の波動を受け取り、蓄積し、増幅するようにできている。各部分はその細胞壁の内側にある水の比重によって、異なる想念を蓄積し、それを電気に変換する。高い想念だけを蓄積、増幅する部分と、低い想念を蓄積、増幅する部分も在る。ある特定の周波数を受信するためには、右脳と左脳の間にある脳下垂体によって、それを蓄積するように作られた部分が起動されていなければならない。脳下垂体は第7のチャクラとか、第3の目とも呼ばれる。

脳下垂体は小さな分泌線で、複雑なホルモンを分泌し、脳を制御している。分泌されたホルモンは、松果体へと流れていく。松果体は想念を増幅して全身に送るのが役割である。

身体の諸機能は、内分泌線から血液の中に流れだすホルモンによって調和を保っている。そのホルモン・バランスを保つのが松果体である。バランスのレベルは松果体が受け取る集合思考の波動によって決まる。思考の波動が高ければ、松果体は脳下垂体のはたらきを増し、さらに高い波動の思考を受け取るよう脳の働きを活動させる。

脳が思考を作り出しているのでは無い。脳は意識の流れから思考がその内部に入ってくるのを許すだけだ。入ってきた想念を受け取って蓄積し、電流に変換、増幅して身体のあらゆる部分に伝達し、その想念を理解、実感するのである。

意識の流れから入ってきた想念は、オーラを通って脳に達すると、知性/理性の機能が宿り、変性自我が表現されているところに移動する。変性自我とは、化身の内でさらに大きな気づきを持つために、すべての想念を受け容れ、それを心に抱くことを拒否する姿勢のことである。そんな変性自我によって脳の中に入ることを許された想念の波動は、電気に変換され、脳下垂体が起動させた脳の部分に蓄積される。その脳の部分は、電流を増幅し松果体へ送る。松果体は個々の思考の波動を集め、さらに増幅して電気的な思考のハイウエイとして脊髄の中を走る中枢神経にそれを送り込み、さらに個々の神経から全身の細胞へと伝えられる。

想念はあらゆる細胞にいきわたり、細胞を通して体験される想念の結果、あるフィーリング、感触、感情を作り出す。そして、そのフィーリングは魂におくられ、そこで記録される。

魂はすばらしい記憶器である、化身の中で感じられたすべての感情を科学的に記録する。 これが記憶と呼ばれるものだ。記憶とは感情の記録である。

どんなものについての思考も、感じるまでそれが知られることはない。感じられて、はじめてひとつのアイデンティティを持つ。知識とは、あることを証明するのではなく、それを感情でたしかめることなのだ。

思考は人生の体験をどうやって作り出していくのだろうか。その想念が感情として記録されるよう、松果体が想念を電流に変換して全身に送る。想念が限りなきものであればあるほど、体中を走る波動の周波数は高く、体中を走る感覚が強くなり、そのフィーリングはある波動として魂に記録される。魂に記録されたすべての想念のフィーリングが、今度はひとつの期待感として、オーラに向けて放出される。その期待感が光の場の電磁部分を起動させ、あなたの価値観や思考全体と似かよったものを何でも引き寄せてくるのである。

望みはどうして具体化するのか。望みとは、満たされるという想念である。「満たされるという想念」は電磁場を通ってあなたの身体を離れ、大きな意識の流れに入っていき、あなたが身体で体験した欲求と同じフィーリングを生み出すものを引き寄せてくる。その欲求が強く感じられたものであればあるほど、満たされると確信をもてばもつほど、早く実現される。

望みを現実のものにするには、何でも自分の望んでいることを感じるだけで良い。するとその感情が父なるもの(大きな意識の流れ)におくられ、それが満たされるのである。ただそれだけのことなのである。

自己表現の無限の自由、けっして死ぬことがない身体、そして存在の平穏とよろこびを望めば、あなたがいま生きている生は無限のものであることを知る。

17.閉ざされた心               

脳は、神の心にあるすべての思考の波動を、「知っている状態」で受け取るようにつくられているが、自分が受け取ることを許す波動だけを受け取る形で活動するようになっている。ほとんどの人は、社会意識という低い波動の想念だけを受け入れているにすぎない。その限定された波動だけで物事を考えると、脳の中で活動するのは、大脳の上左部と右部、それに脊椎の上に位置する小脳の下部の一部だけになり、脳のほとんどは休眠状態にある。

これまでに自分の基準として容認してきたものよりも偉大な想念をひとつ受け入れるたびに、脳の中の別の新しい部分を起動させる。

超意識、そして限りない思考を体験したいと望むとき、あなたの脳下垂体は華麗な花が咲くように開き始める。それが開けば開くほど、ホルモンの流れも増え、眠ったままの状態の脳ももっと起動される。

休眠状態の脳に多くの思考を蓄積すればするほど、身体は活発になり、動きも早くその反応も深いものとなる。脳の全体が使われれば、自分の体をどのようにでも出来るようになる。

脳がその能力いっぱいまで使われると、自分の体を一瞬のうちに光にかえることができて、身体は永遠に生き続ける。もし手足が一部失われたら、脳は再生する力がある。完全に活動状態にある脳は、身体を一瞬のうちに癒すことも、自分が望むどんな理想の形態にでも物理的にその姿を変えることができる。まだ活動していない脳の部分は、そういうことが出来ると単に知るということを通じて、身体のどんな部分でも、損傷のあったところを再生する力がある。自己治癒ができると知った瞬間、その想念は中枢神経を通してもっと強い電流を損傷部分に送り、各細胞のDNAを自己複製して細胞を完全に再生するのである。

「年をとっていく」という想念は、遅い波動、低い波動の電気信号を各細胞組織に送るからだ。速度が遅ければ遅いほど、身体の敏捷さも失われていく。自己を修復していく力が弱くなるからだ。こうして年をとるという過程が起きることが許容され、最終的には身体の死が起こるのである。もし自分に波動の高い想念を受け続ければ、強力な電流を全身に送ることになり、身体は永遠にその瞬間にとどまり、年をとることも死ぬこともなくなる。

どこに喜びが、愛が、永遠が、神があるのか、そのすべては、想念を変えるだけで、すぐそこにあるのだ。

あなたが神のすべてを知り、神のすべてとなることを妨げているのは、変性自我である。変性自我は、神であるすべての思考の波動を受け入れるのを拒むことによって、神とのつながりを断ち切るからだ。

変性自我は社会意識だ。それは限りなき思考を許さないものであり、その教義は恐怖であり、審判であり、生存なのである。

ハルマゲドンとは、神の実現と、反キリストの容認とのあいだの戦いのことであり、反キリストとは、限りない思考が限りない表現を求めてあなたの脳の中に入るのを許さないでいる変性自我のことだ。それは、社会意識と「限りない知っている状態」との間の戦争なのである。自分の外で起きる戦闘ではなく、内面のものなのである。

18.心を開くということ            

無限の状態に戻り、よろこびと存在の自由を体験するためには、脳下垂体をフルに活動させ、社会意識をほんの少しだけ超えたところにある限りなき思考を脳が受け取れるようにすることだ。脳の眠っている部分を目覚めさせるには、どうしたらよいのだろうか。それは、単に望むことを通じてなのだ。自分そのままの「在るということ」になりたいとい望むことなのだ。そうすると、あなたは直ちに社会意識を超越する。

利己的というのは、利神的なのだ。自分のよろこびと光を見つけるためにあなたがすることは、すべてあなたという存在から発して大きな意識の流れに入り、人類全体に栄養を与えるからである。

レベルの高い波動の想念が入ってくると、松果体がこの高い波動を受け取り、肥大し始める。このため、頭痛を起こしたり、少しめまいがしたり、頭が軽くなったように感じたりする。この波動が強力な電流となってからだの細胞へと送られるために、ぴりぴりしたり、持ち上げられる感じを起こす。その波動は細胞を刺激し、振動する速度をたかめる。限界のない想念を受け取れば受け取るほど、さらに大きく振動し、身体を固体の密度から光へと逆行させ始め、あなたはだんだん光を発するようになる。

限りなくあることを望み、そしてそこからくる想念を抱き、感じれば感じるほど、脳下垂体はホルモンを分泌する。そして自分をそのまま愛したい、知っている状態で生きたいと望むことによって、脳がどんどん開かれていく。

花はある思考を出している。カーペットもある思考をだしているのだ。すべての思考の波動を検知できる力を持ったとき、あなたは自分の好きな波動になることができる。風にも、ほかの何でも、自分の望ものになる絶対の自由を手にすることになる。

脳がすべて活動すると、現実の中に占めるあなたの位置が定かでなくなってくる。そのため、この場所にいても、同時に第7のレベルに居ることも出来る。友の側にいながら、プレアデス星に居ることも出来る。

脳下垂体が満開になると、あなたはもはや死ぬ事はない。老いる事もない。身体はあなたが命じるとおりのことをするようになる。身体を死んだ状態からよみがえらせることもできる。純粋な神となり、それは純粋な生命ということだが、あなたは永遠の存在となる。

在るものすべてについて、どうすればもっと理解する事が出来るのだろうか。それを理解していると知ることだ。「もっと知りたいと思う」「もっと知るようにする」などと言ってはだめだ。もとめていたのでは決して見つからない。こう言うことだ、「わが存在の主=神から、いま私はこの瞬間に知るべきことすべてを知っている、そうなるように」そして、答えを待つのである。その時点では、まだそれが実感されないかもしれないが、体験を通してそれが実感されそこから叡智が得られる。がんばる必要はない、懸命に求めたり、苦労したり、それを得るために祈ったり、儀式をしたりする必要もない。ただ知るだけで良いのである。

「わからない」と言えばわかることはない。「できない」と言えば決してできない。そう思うとその思考のフィーリングは魂に記録され、魂はその思考過程を現実にするのである。

わたし(ラムサ)は皆に信じてほしいなどと一つも願っていない。ただ知ってほしいのだ。覚醒するとは、知る事なのだ。知るということが、この世界すべての創造主なのである。

「知っている」と口に出すたびに、それは自分の存在の内に感じられる確信の想念となり、今度は、そのことを知っている状態が生ずる場所を作り出してくれるのだ。

知る事も知らないでいることも、どちらもまったく同じ思考過程、同じエネルギー、同じ顔の表情、そして同じ身体の動きがいるのである。

もし、「私はもう知っている、私は絶対だ、私は完全だ、私は神なのだ、私は在る」このほかに何も言葉がなかったら、あなたはもはやこの地上界に限定された存在ではなくなる。

純粋な思考の「在るということ」に戻るためには、変性自我、つまり、物質界で生きること、生き残っていくことを志向している脳の理性の部分を、支配していかなければならない。

変性自我とは、時間、距離、そして分離という幻影にしたがってものを見る自分のことだ。生存、容認されるという観点からものを見入る部分なのだ。純粋な思考を分断し、審判を下すものなのである。

すべての想念は真実であり、正しいのだ。知るということは、想念を天秤にかけたり、値をつけたりはしない。

ほかの次元を見たり、微妙な音を聞いたり、自分の体重よりも軽くなったりするために必要なのは、そういうものが現実であることを知り、その知っている状態を身体で体験するのを許すことだけなのだ。それだけでいいのである。「信じない」とそれは、ひとつの価値判断となり、脳が力を増すのを妨げる。つまり、「知っている状態」にある思考は、脳ではね返され、父なる精神(大いなる思考の流れ)へと戻ってしまう。

何か創造的なアイディアが欲しいとおもったときに、「突如として」それが浮かんでくるのを可能にしたのは何だったのか。それはあなた自身が「知る状態」へ自分がなるのを許しただけなのである。思考過程が価値判断や変質した思考などにとらわれない度合いが低いほど、超意識の想念が脳の受信器官に入りやすくなるのだ。

自分自身の人生を「在るということ」の目から見るのを学ぶことだ。花を手にするとき、それが醜いとか美しいとか言わない。それは価値判断であり、その花の想念を変質させてしまうのである。純粋なのは、「花」という想念だ。花を見て、「花、光、生、ただ在るもの」として見るなら、それはあなたの体中に波動の高い電質を送る。

自分の受け取る想念に価値判断を下してはならない。いいとか悪いとか、プラスとかマイナスとして見ると、自分の存在に変質した見方を作り出すことになる。そして、自分の知覚したものは、自分がそうなるものでもあるのだ。その想念は、自分の内にフィーリングとして刻み込まれるからである。それはあなた自身を犠牲にする。あなたの価値判断の影響を受けるのはあなた自身だからである。

誰かを責めるとき、それはその人の内に見える「自分のある側面」を責めているにすぎない。あいてのその面があなたに見えるのは、あなたの意識がそういう側面に向いているからである。その誰かは、あなた自身の内なる価値判断を映す鏡として機能したにすぎず、自分の価値判断を見直すための道具としてそこにあるのだ。

自分の思考過程から価値判断を取り除く手っ取り早い方法は何だろうか、それは、そういうものを生みだした自分のフィーリングや想念をまず意識することによってである。この気づきを通して、あなたは思考をより純粋にすることが出来る。

自分が好まない感情を感じたときには、自分の思考を調べてみることだ。判断を下したり、不快な感情との関係が見えてくるだろう。そしてこういうフィーリングにうんざるしてくると、価値判断を取り除き、思考を浄化し始めるのである。それにともなって、自分の限りなき思考と、平和、よろこび、調和、そして身体の動きの軽さなどとのあいだにある関係も見え始める。それと、自分が価値判断を下すことにも、価値判断を下してはならない。自分に慈しみの心を持ち、ただ自分の思考やフィーリングへの気持ちが自分に教えるままにしておくことだ。それは必ず教えてくれる。

これまでの中で、一番大切な言葉は「在る」という言葉だ。それは、何であろうと自分に在るがままでいることを許すこと、そういう自分を完全に愛することだ。

自分のクローンをつくる力を持っていない限り(脳が完璧に機能していたら可能なのだが)、今の身体をわざわざ傷つけないことだ、自分の身体を愛し、栄養を与え、世話をすること。身体はこの地上界で生の体験をさせてくれる純粋な表現手段なのである。思考過程では無限にあること、それをさせてくれる化身を大切にすることだ。

身体が欲する物だけを食すること。身体に耳を傾ければ、身体に必要な物は何かを教えてくれる。害をおよぼすものはけっして体内に入れてはならない。

時間が生まれる前からずっとあなたを愛し続けてきたもの、あなたが生きてきたすべての生であなたと共にあったもの、そして身体の死、あるいは昇華の時に傍らにいることになるただ一つの存在とは、あなただ。あなたのこれまでの体験を受け入れ、それでも変わることなくあなたを愛せるのは、あなただけなのだ。

どんなものにも終わりがないことを知り、しかも絶対なものはないことも知ること。すべてはこの瞬間にあり、これからも必ず続いていく。自分の思考の限界を取り払うものは、単にもっと偉大な真実があると知ることだ。それよりもさらに偉大な真実もある。どの程度受け入れる準備が出来ているかにしたがって、それがあなたの内にひらめいてくる。必ず道はある。あなたの道を照らしてくれる想念がやってくるのを許すのだ。

巨大な宇宙船に乗ってくる兄弟たちは信じられないほどの美を持っている。別の時間、別の空間、別の次元からやってきた別の存在と友人となれる力を持てるようにするのだ。

自分の脳をただちにすべて活動させたいという無理な望みをしてはいけない。想念を一つずつ、体験を一つずつ重ねながら脳を開いていき、それぞれの想念があなたの内で固まっていくようにすることだ。

19.体験のすばらしさ             

あなたは人間の細胞体を通して自己を表現することを選んだ。それは、物質という限りある形体に生きる神の体験ついて学ぶためだった。この体験は、神について完全に理解するために必要なことだ。なぜなら、限りない状態を理解するには、限りある状態を理解する必要があるからだ。よろこび、自由、永遠を理解するためには、悲しみ、限界、死という幻を体験する必要があるのだ。

叡智とは、あなたの体験のすべてから得られてきた感情の蓄積であり、この次元を去るときにあなたが持っていく、ただひとつのものなのである。

宗教、政府の圧政、人種間の分断などは、どれも実際に体験してみなければどんな感じかわからないので、意図的に体験しそれを感情として知ったのである。

神は間違いなくずっとあなたを愛し続けてきた。なぜなら、あなたの夢をあなた自身がつくりだしたそのままに体験することを許してきている。あなたは自分でこの夢も作り出したことを忘れてしまったにすぎない。そして、好きな時にそれを変える選択をすることもできる。

偶像崇拝し、批判、価値判断、憎しみ、所有力、恐れ、傲慢、これらの目的は何か、それはそういう人生を生きることがどういうことかを理解する為だ。最終的な結果はなにか、けっして死なず、永遠に生きること、それが自分自身であることに目覚めることなのだ。

人間が創造した、正しい/誤り、完全/不完全という概念は同時に罪悪感、後悔の念という落とし穴をつくり出し、それが人間の成長を困難にしている。

これまで皆がしてきたことはすべて、それがどんな下劣で卑しいことであろうとも、それは単に自分のための学びの機会をつくる目的でしたことなのだ。その学びを通して、皆は傷つき、苦痛を味わい、悲しみ、自分をおとしめてきたのに、そこから再び立ち上がってきた。なぜなら、自分の真の姿である美を知り、心に抱く準備ができているあなたが、いまここにいるからなのだ。

生まれた瞬間から、すべての想念を一つひとつ感情面で理解していくという壮大なる旅に出発したあなたの魂は、あらゆる形の思考、価値観、すべての感情を理解するというその命題を満たすため、体験から体験へ、冒険から冒険へとあなたを動かしてきた。あなたが思考の全てを知り理解できるようにである。

魂は、まだ体験したことがないものを渇望する。そのため、欲求というフィーリングを作りだし、冒険、体験へと駆り立てていく、その冒険では誰かに痛みを体験したかも知れないが、それはあなたが「痛み」という感情を理解するのに役立ち、生というもの全体への理解をさらに豊かにしたのである。そして、その体験が終わり、そこからくる感情が収まるとき、あなたを叡智の中へと一歩進めたのである。

失敗というのも、何かを失敗だと信じる者たちだけの現実だ。あなたは失敗などしたことはない。いつも学んできたのだ。不幸にならずして幸せというものをどうして知ることができるのか。あなたは過ちを犯したこともない。一度たりともだ。あなたのしてきた間違ったこと、失敗、誤りなどは、すべて一歩一歩進むための「神の階段」と呼ばれるものだ。

あなたは自分にとって必要なことをしてきた、すべては必要だったのだ。そしてすべてにおいて正しい選択をしてきた。すべてにおいてである。あなたの一つ一つの行為は、あなたの理解を広げるのであり、それが今度は人類全体の意識に新たなものを加え、神の精神をも拡張するのである。

過去を無くしたいなどと決して思ってはならない。あなたのすべての崇高な体験と卑しい体験との相克は、あなたの魂の中に感情の記録として、美しい叡智の宝玉を作り出したからだ。

愛につてのあなたの理解を超えるほど、あなたは愛されているのだ。これまでのすべての生でのあらゆる体験から、あなたは知識と叡智を得てきた。それを世界に与えてもきたのだ。

あなたの人生は、聖なるもの、神なるものとして敬意を払うべきものだ。なぜなら、あなたが何をしようとも、あなたは神だからである。どんな仮面をかぶろうと、どんな人間関係を体験していようともあなたはやはり神なのである。

これまで自分がしてきたことは、すべて自分自身である神の叡智を得るためだったということに気づくまでは,あなたは「在りて在るもの」になることは許されない。

自分の背中に重荷を抱えていきたい人は、もしそれが幸をもたらすのであれば、そうしたらよい。しかし、もううんざりしているなら捨ててしまうことだ。どうやって? それを愛し、心に抱き、受け入れ、あなたの中にそういうものがあることを許すのだ。そうすれば、それがあなたを抑えつけることはもうなくなる。

自分の生を抱き、受け入れるのだ。自分が神なる存在であることを知り、これまでにあなたがしてきたことすべてがあったからこそ、いまの自分の存在がの強さがあるのだということを知ることだ。罪悪感を持つことをやめるのだ、悲しみにくれる自分というばかばかしいい善はよそう、自分に重荷を課すのをやめるのだ。そして他人のせいにするのをやめるのだ。その責任をしっかりと自分の手につかむのだ。もとはと言えば、それはあなたの、ものなのだから。

神を知り、神になるただひとつの方法は、完全に生を生き、受け容れることだ。魂がすべての生の叡智をもてるように、あらゆる状況を体験し、あらゆる感情を感じ、崇高な、あるいは卑しい行いをすべてすることなのだ。洞窟や寺で修行したり、高い山にすわって、何だかわけのわからない思いをめぐらすことでではない。

徳ある生への道は、あらゆるものを内包するものでなくてはならない。それは人間の意識の内に作り出されたあらゆる性質、状況の幻像を含んでいる。これこそ、人類が作り出したあらゆる状況を生きてきている理由なのである。賢者は淫売であり、僧侶であり、導師(グル)、農民、殺人者/その犠牲者、征服者/征服される者、そして親であり子であった。

あなたが本当の師となるとき、他の存在が限界ある状態でいるという自由を許す。これこそが真の愛だ。なぜなら、それが限りない叡智を持つことを学び、互いに愛することを学ぶためのただひとつの道である事をあなたは知っているからだ。

自分自身を完全に受け容れ、まわりのすべてのものを受け容れることができない者には、壮大なる空間へと旅する扉は閉じたままなのである。

何かをしたいと思うとき、それが何であろうと、それは人生を楽しくしてくれる壮大な冒険へとつながり、深遠なる叡智へと進化していく体験が待っている。あなたは必ず正しいことをしている。

自分のフィーリングに反することをしたときは、身体の病や、神経症、や絶望が訪れる。

 

20.ある晴れた朝に               

わたし(ラムサ)はあらゆる次元を訪れたが、すべての体験のなかで最も深遠だったのは、皆の中に人間として地上界にいたときであり、恐怖や絶望や、誰でも知っている栄光の刹那を体験しているときであった。

わたしは、あなたを救うために来たのではない。もともと救う対象が存在しないからだ。私がやってきたのは、遠い昔にあなたが忘れ去ってしまった、自分のすばらしい血筋のことをあらためて思い出してもらうためであり、これからすぐ目にする栄光あふれる未来について語るためだ。この生にあるすべてを抱き、受け容れるとき、次元を越えて永遠の冒険の中に戯れることが、あなたのことも待ち受けていることを伝えるためだ。

偉大なる生とは、都から離れた場所、巨木の根もとや、空気は澄みきって、風は冷たくすがすがしい、雪をいただく山の頂上、あるいは広大な砂漠、無限の海等に見いだされるものだ。そのような場所で一人になり真夜中の空や、夜明けの暁光のときまで昇っては沈んでいく月とともにあることに平穏を感じるまでは、あなたは真の意味で生を知ったことにならない。

殻を飛び出し、この大地の一部になるのだ。あらゆる場所を訪れ、その場所と一体となるのだ。身につけた絹や宝石をはずし、靴を脱ぐ。流行おくれの簡素な格好に身を包み、あなたがつくりだしたこの天国で、神を体験しに行くのだ。そこで、その途切れなき永遠の意識の一部となるまでは、あなたは真の生を生きたことにならないし、あなた自身である神を理解できるようにもなれない。

これまで私は、考えられるあらゆ  る言い方で、何度も何度も、あなたが知ることが出来る真実を語ってきた。それは、あなたは神である、ということだ。

おわり