QJYつうしん 第39号

     休日は山にいます 平成8年9月10日



自然観察って何でしょう? 何かを発見するよろこびを

 

登山が好き?

私は登山は好きではない。

?意外ですって?もちろんこれはへ理屈で、「山歩き」は大好き。登山と山歩きの違いは、と言うとそれはイメージしか無いのだが、山頂を目指すのが登山で、山の中にいることだけで幸せを感じるのが山歩きではないか。

山に登るといつも出くわすのが先を先をと急ぐ人。ただひたすら頂上に向い、のろのろ歩いている人達を邪魔に思うのか、挨拶さえしない人もいる。

山ではいろんな人との出会いも楽しみのひとつだが、良く「どんな山がよかったですか?」という質間を受ける。2〜3の山の名前を挙げる。「それならみんな行きましたよ」、の残念そうな返事。

そう、この人は山頂を窮めるのが目的の人。一度登った山に何度も登るのはもったいないのだそうだ。別に構わない。それが楽しみなのだから。それがアルピニストの本髄か。

だけど、話を聞いて下さる人ならぱ、次のように私は答えている。

「そこにはいつ登ったのですか?違う季節に登って見てください、きっと違う山になっていますよ。」と。

アルピニストには概してこの意見が通らない。

山歩きの好きな人は、目を輝かせて聞いてくれる。「その頃はどんな花が咲いてました?私が行った頃はまだ蕾だったのあの花は?」、こういう人達をアルキニストと呼ぶ。もちろん冗談。

同じ山に一年を通じて登る人は山歩きの好きなアルキニスト、一ケ月の違いを体感で経験している人。だいいち広島県内の山で登山と言える山は本当にあるのか。

三角点のある山頂を目指す登山はそれなりに面白さもあるはずだが、白然観察の一環として山歩きをしてみようという貴方は時間切れで頂上に立つことが出来なくとも焦る必要は無い。

目的は山頂ではなく、山にある自然すべて。

だから山歩きは「山登り」でもなけれぱまして「登山」でもない。

白然の中でどれくらい過ごしたか、がその日の成果なのだから。

だからゆっくり歩くほうが収穫も多い。目的は山頂ではなく、山にいること。出来れぱ新しい何かを見つけること。

 

こだわりを持ってみる

見つけた何かは、その目の収穫として必ずフィールドノートに記録して欲しい。見つけられない人はどんな植物でもいいからこだわりを持って観察してみる。

こだわりを持つということはこんなこと。

今、春のカタクリの花が目の前にあるとしよう。

カタクリは四年や五年では花は咲かない。じっくり見ることが観察の一歩、と前にも書いたがじくり見ると花の咲いているカタクリは必ず葉の数が…。

そう枚数が決まっているよね。

そう言えば今年生まれたぱかりのひょろひょろ一年生もいるぞ。


花びらも一度スケッチしてみよう。面白い模様があることに気づく。花びらと言えぱ「がく」はどれだろう。同じような構造の花は?じっくり観察することはその花を良く知ろうと努カすること。じっくり観察しなけれぱ見えないものがたくさんあるのだ。

そしてもっと理解しようとして「図鑑」を見ることになる。これで貴方も自然研究員。

来月、この花はどうなっているんだろう。

その次の月は?来年この一年坊主は?

登山と山歩きはぜんぜん違うんだね。


 

発見することの嬉しさ

植物の名前が覚えにくかったり、覚えてもすぐ忘れる、と言う人。どんな分野でもそうだが得意科目をひとつ持ってみては?

何でもかんでも知る必要は無いのではないか。八方美人は広く浅くどんなことにも首を突っ込み課題を抱え込んでしまう。そうなると山歩きのアルキニストは歩く距離に比例して宿題を増やしていき、最後は登校拒否児童になってしまう。楽しい山歩きが苦行になっては山岳修行の行者みたいだ。

そこで貴方の山歩きの得意技をひとつ持つことを薦める。植物観察を目的とするなら、

 

@つる性植物ならおまかせ

Aマメ科ならなんでも

B果実酒の帝王

C良く似た植物の見分けかた

Dセイヨウタンポポがその山のどの高さまで見られたか

Eトゲのある植物

 

など、何かにこだわった観察を続けてみると意外に知識は周辺にまで広がって行く傾向を見せる。

例えぱBの応用で「食用になる植物」について愛用の本をひとつ持つとその果実の味見をしなければおさまらない。味見のノートは貴方の宝物になる。必然的に毒の植物は覚えてしまう。

周辺知識まで広がる。

Cの応用ではサツキとツツジはどう違う、などと分類について研究してみてはどうだろう。

 

そんな事に詳しい図鑑を探すところから観察が始まる。努力して初めて覚えられる。そう本の中の発見でもそれは喜びとなる。

 

本当に植物の名前が覚えられない?

人の名前も覚えにくいが、花はそれ以上に覚えにくい、という人。花は何とかなるが樹木は全然と言う人。いつも言うように人を知る事でその人の名前を覚える訳で、その要領で花や木を知ろうとする努カを怠らないこと。

人類は本質的に手足の数や目鼻の配置など同じに出来ている。なのに、知ってる人の数はとてつもなく多い。知ってる人が違う服を着て来ても間題無く見分けが出来る。それに比べれぱ葉の付きかた、花の構造、実の中の種の数、どれをとっても大きな違いがあるはずなのに、じっくり観察してみたら名前を覚えにくい訳が無い。

人は知り合いになれぱ名前を覚えるでしょう。

だったら花も知り合いになるまで付き合ってやること。

 

確かに広島県内は植物の種類も多く、覚えるのも大変。そもそも日本の国は世界的にも植生が豊富で、種子植物の数だけでも北米の約二倍、五千種にものぼる。更に森林限界と言われる標高2500メートルまでを垂直に見渡したら、国内にいながらにして亜熱帯から亜寒帯の植生を垣問見ることさえ出来るのだ。

もうこれは、植物園の中に住んでいるようなもの、そしてそれを取り巻く昆虫、鳥、小動物の世界。溢れる清水の自然の中に安心して出掛けられる幸せを感謝しなけれぱならない。

反面、そのような環境が人問の暮らしを便利にするがために壊されてゆく。

分かっていても何もしない、いや何をしても無力な自分に腹が立つ。

開発で失ったものを少しずつでも戻してやらなければ、と思う今目この頃。


 

{質問}毒キノコと食用キノコの見分けかたを教えて下さい…。

{答え}見分けは出来ませんが食べ分けができます。