母と妹への手紙

                                作:岩佐 幹三

 母さん、好っちゃん(好子)。今年も八月六日がやってきたね。被爆から六十三年がたった今でも、僕は、原爆で連れ去られた母さんたちの命を甦らせて、手をとり抱き合いたいという空しい願いを持ち続けているんだ。母さん、僕は、先日も何回目かのつらい夢を見たよ。頭上でグワンという爆発音がして、破壊し尽くされた町並みが現れた。それを見た僕は、「今度こそ母さんを助けるぞ」・・・と叫んだ瞬間に、目が覚めた。その時の悔しさは、言いようがなかったよ。

 母さんたちの死は、戦争だから仕方がなかったという考え方は、絶対に許せない。でもね、当時の僕は、十六歳の中学生、全くの軍国少年だった。あの年の五月病気で亡くなった父さんや母さんを、本当に困らせたんだろうね。日本が起こした十五年戦争で、アジア諸国で二千万人、日本でも三百万人の尊い命が失われた。その戦争のお先棒を担いだ一人だったんだからね。僕たち若者が、敵の軍艦や戦車に体当たりして戦死すれば、家族は守れるし、後はどうなるだろうと浅はかにも死ぬことだけ考えていたんだ。それなのに死んでも家族を守るべきはずの僕が生き残り、守られるべき二人を守ることができなかった。戦争ってなんだったんだろう。軍国少年って一体何だったんだろう。その反省と謝罪の気持ちをこめて、今この手紙を書いているよ。

 十五年にわたる戦争、特に敗戦の年は、僕たちの生活は耐乏状態の限界を超えていた。戦争に勝つためにがまんせよと、すべて軍事優先、衣服も食料も配給制度になり、それも遅配続きだった。お金があっても何も買えなかった。本当につらかったね。父さんがいない我が家では、食料の算段もできず、八月はじめには米ビツも空っぽだった。母さんは、「少しでも食べてね。」と言って、わずかに残っていたお米を炊いて茶わんに半分ずつ三人で食べたよね。あれが水盃になったのかな。母さん覚えている? だが母さんは、八月四日か前日の五日か、近所の小さな店で、醤油いためのひじき一皿分を、僕たち兄弟のために持ち帰ってくれたんだ。自分も空き腹なのに、一緒に出された大豆の豆かすをひいたコーヒー(?)汁を飲んだだけで。それを僕たち兄妹は、むさぼるように食べてしまったが、親なればこそ、決して忘れてはいないよ。母さんは、そんなことまでして僕たちを守ってくれたのに、僕は、何もできなかった。だから今になって戦争がもう少し早く終わっていたら、せめて少しでも銀シャリ(白米)を食べさせて上げられたのになんて、時々ごたくを並べているんだよ。

 でもね。母さんたちの死は決して無駄にはしない。戦争も、原爆=核兵器もない世界のためがんばっているよ。あの年、昭和二十年、東京、大阪、名古屋をはじめ全国の大中小都市が次々と米軍機によって焼土となり、沖縄も陥落していた。日本の戦争する余力は尽きていた。それでも国は戦争を継続し続けていた。そして八月六日がやってきた。

 あの日は、動員中の工場が休日だった。八時十五分少し前、僕は、自宅(広島市富士見町=爆心から一・二キロ)の庭にいた。飛行煮の爆音が聞こえてまもなく、激しい爆風の衝撃で、地面にたたきつけられた。そこはやわらかい畑地だったからたいした傷も負わなかった。五十センチほど右にいたら庭石にたたきつけられて即死だっただろう。家の前のバス通りを挟んだ向いの家の屋根の影になって、奇跡的に焼けども負わなかった。一瞬にして崩壊した広島の町並み、母さんは、崩れ落ちた家の下敷きになっていた。

 「母さん!」と呼ぶと、屋根の下から「ここよ」と言う声が聞こえた。「ああ良かった。生きていてくれたんだ」とその瞬間は安堵の胸をなでおろしたんだ。しかしその喜びも束の間だった。屋根板をはがして逆立ちするように顔を突っ込んだ目の前には、家のコンクリートの土台の上に大きな梁が重なって、行く手をはばんでいた。わずかな隙間から一メートルほど先に仰向けに倒れている母さんの姿が見えた。つむった目のあたりから血が流れていた。どこかをひどく打ちつけたのか、何を話しても目を開けず、顔をこちらに向けようもしなかった。「こっちからはもう入れんのよ。そっちで動けんの」と聞くと、「左の肩の上を押さえている物をどけてくれんと動けんのよ」という答えが返ってきた。別のほうから掘り出したが、なかなか進まない。そのうちに爆風の吹き返しの火事嵐がものすごい勢いでせまってきた。火の粉が降りかかってくる。気がきではない。「母さん、だめだよ。火事の火が近づいてきたよ。こっちからはもう側までいけんよ。」悲鳴に近い叫び声を上げた。外にいる僕でさえ何が起こったかわからないのだ。まして家の下敷きになって周りが見えない真っ暗な中では不安というよりも恐怖心で一杯だったろうね。でも母さんは「そんならはよう逃げんさい」と言ってくれた。それなのに気も動転していた僕は、「母さん、ごめんね。父さんのところへ先に行っていてね。僕も、アメリカの軍艦に体当たりして、後から行くからね。」何という不遜な親不孝の言葉だろう。しかもその後に「好ちゃんが大きくなったら、いいところへお嫁にやるからね。」と言ったんだよね。すぐ後から行くと言いながら、妹が大きくなるまで生きると言ったんだ。死別の祭に母さんを裏切る言葉を告げたんだよ。そして八十歳近くまで生き延びているんだよ。 

 母さんへの罪の意識は一生抱いていくよ。母さんは、死を覚悟したのか「般若心経」を唱えだしたね。僕は、その声に後ろ髪を引かれながら、原爆の業火で生きながら焼きこらされる母さんを見殺しにして逃げたんだ。二~三日後、家の焼けあとに積もった灰の中を探したら、母さんが倒れていた場所から遺体らしいものを見つけ出すことができた。それが母さんだったんだ。でもそれは人間の姿ではなかったよ。母さんは、小柄な女性だった。まるで子供のマネキン人形にコールタールを塗って焼いたような油でずるずるした物体だった。母さんは、あんな姿で殺されたんだね。人間としてではなく、「モノ」として殺されたんだ。悔しい。本当に悔しい。あの日、比治山橋近くの土手で野宿した僕は、翌日、紙屋町から半ば破壊された相生橋まで来て、突然、絶望感におそわれた。それまで被害は広島の東部地区だけだと思っていた。橋の上から見わたせる西部地区も同じように原爆焼け野原になっていた。好っちゃん(好子)は、あの年、憧れの県立第一女学校に入学できて、張り切っていたね。でもあの日は、土橋付近の建物疎開の後片付けに動員されていたんだ。相生橋からみると、すぐ目の前じゃない。「あっ!好っちゃんもやられたんだ」そう思うと頭の中が真っ白になった。避難先にしていた安佐郡緑井のかおる叔母さん(母の妹)の家にも、好っちゃんは来てなかった。好っちゃんたちまだ十二~三歳の男女中学生約五千人が、青春の喜びも悲しみも知ることなく、死んでいったんだ。

 戦争が招いた原爆地獄の悲劇は決して繰り返してはならない。その日からもう生きているはずのない好っちゃんを探す兄ちゃんの放浪の旅が始まったんだ。土橋、己斐、江波、草津、五日市までどこをどう歩いたか全く覚えていない。毎日とは言わないが、ただ夢遊病者のように歩き回ったんだ。あれは、もしかして原爆被害特有の「ぶらぶら病」の一種の症状だったのかもしれないね。そしてちょうど被爆から一ヶ月たった九月六日、急性症状が出て病床に伏すことになった。かおる叔母さんのおかげでたまたま近所に疎開していたお医者さんから高額な注射治療を受けられて、又奇跡的にも回復できたんだ。そのことが契機になって、僕も被爆者なんだと自覚するようになったんだ。その後かおる叔母さんが、母さんの代わりに僕を養育してくれたんだ。そのおかげで大学を卒業でき、大学の先生になれた。そして勤務地の金澤で石川県原爆被災者友の会の会長に選出されて、被爆者運動に係るようになったんだよ。

 定年になって千葉県に移り住んで、今は被爆者の全組織である日本原水爆被害者団体協議会の事務局次長を努めることになった。その間にも多くの被爆者と同じように原爆被爆の影響で晩発性放射線障害のがんや原爆白内障にもかかった。中でも前立腺がン派、薬物療法による治療を受けて、体内にがん細胞をかかえたまま。運動に勤めているよ。

 繰り返すことは、決して許されないことだから。でも僕たちが体験したことよりも、原爆は、もっともっとひどくつらい体験を被爆者に与え続けているんだ。そのような被害を、僕たちの子孫、そして日本国民、更に人類の上に、再び繰り返させたくない。だから「再び被爆者をつくるな」と核兵器の廃絶を訴え、国が、その「証」として戦争被害、原爆被害に対して将来にわたって補償することを求めてがんばっているんだよ。二〇二〇年には核兵器を完全に廃棄させようという運動が進められている。その目標が達成されたなら、その時には、お空で、母さんと好っちゃんと一緒にお星さまになりたいね。



注) 昨年に続き、今年も(2008年)NHK広島が募集した「ヒバクシャからの手紙」に応募したもの。番組でもその一部が朗読されました。 又、今年(2012年)8月にNHK広島の深夜ラジオ番組で放送(約7分)されたようです。

教科書副読本 官製副読本批判の副読本 母と妹に捧げる想い 副読本サイトアドレス https://www.ad.ipc.fukushima-u.ac.jp/~a067/index.htm





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