成田にて


                             2015年4月2

 今26日夜半の1時です。
背中と腹部に触る一切を避けて書き始めました。
一昨日24 1時から3時の成田空港。
児玉さんと友人(被曝者二世南さん)らのニューヨーク(国連軍縮会議)に訴えに行くのを見送る為でした。
 本来なら私たちに馴染みの岩佐さん(策12月平和と文化の集いで講演)、被団協代表としていくはずでしたが従来からの原爆症として首筋からおもしを押し付けられたような苦病が走り、ニューヨーク行きをあきらめざるを得なくなりました。
岩佐さんは出発の為の打ち合わせ会に船橋からお1人で空港に見送りに出てこられたのです。
挨拶を求められ「私は行けなくて悔しいです。皆さんと行って訴えたいことがあります。私の変わりに聞いてくれませんか。(各国の代表に対してだと思います。)“被曝者のことをどう思いますか”返事が核廃絶に向けてあいまいな場合、生涯、苦病を抱きながら被爆者として生きてきたことが一切無駄だということが、そこで明らかになるのです。私たちが生きてきた意味はなかったということになります。“しかし、私はあきらめません。訴え続けます。と言ってください。核(兵器)として人間、生き物は共存できません。身をもって知ったからです”と。」
挨拶は私の聞き違いがあるので(後で本人から一緒に行かれたアオギリノ会のHさん、ミュージカルのSさんに聞いて直します)
 ニューヨーク行きの人には90歳の被曝者(私はこの中で一番若いと笑いながら挨拶していました。)急に様態が悪くなりいけなくなった被曝者(例えばニューヨークで配布する文書の英訳をされた方)もおりました。四街道の原爆展にいつも着ておられた方です。独語翻訳された方は一昨日亡くなりました。

 次に私はニューヨーク行きの中に天来の友人を見つけました。被曝二世として、両親そして兄弟4人を原爆投下時及びその後の原爆症で亡くなりました。氏は、福岡県から行く人の班長で緊張と忙しい中、満面の笑顔で接しながら「私の場合――父と暮らせば」という文書をかばんから取り出して分けてくださいました。家に帰ってから読み始めました。言いようのない感動がこみ上げました。皆さんにお分けします。添付をごらんください。メールのない方には申し出があればファックスします。
 成田空港第1に行ったこと全てが私にコレカラ生きる「糧」になるようにしようと思いました。
岩佐さんらの笑顔、しかし、毅然とした意味。私はその生涯にわたって痛みをとうてい想像することは出来ません。しかし、人間ですから少しは想像することが出来ます。特定疾患難病になったことが想像するように向けたのではないでしょうか。私の場合はここ4~5年来の発病でした。しかし、被爆者の多くは生涯を通じ今尚私をはるかに超えた苦しみの中にあります。にもかかわらずその笑顔は、ナガサキ、ヒロシマ、大石又七さん、そして福島でつながっています。私のつたない五感をとらえ始めています。私は日々のことに忙しい中で、情報が秘匿されてきていきてきました。私は認識不足でした。差宇和ウ私は家にいることが多くなりました。この期間に多少なりとも真実(事実)を調べる意志を持ちました。愛する、私にとって目の前の未来の孫、彼の生きていく未来を考えていきたい。
 目の前の愛する人と、その未来のために。この間のあり方を変える歩美を牛歩ですが続けて見たいと思います。
激痛が走ります。今3時を回りました。この文を書いていると痛みがまぎれます。明日は指定医の検査です、私の住む街に重病の友人が増えています。心を通じ合える人たちなので、家族ともども心のことを頼り、頼られる関係をつくるのが目標です。既に3人になりましてその交流が出来ました。さしたることは出来ないでしょうが、向き合っていきたい。“わらえる”とこにはいきたいと思います。 c 注 24日の成田には「宮城県の木村さん、長崎の  さん、東京の  産、など各県の方がおられました。5年前より見送りの人が少なくなっております。時勢の生でしょうか。気になります。 添付 南さんの「父と暮らせばー私の場合」を添付しました。母と暮らせばの撮影最中の吉永さんに思い切って、この南さんの文書を紹介します。

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