私の戦争体験 1945年7月10 仙台空襲



 戦争で辛酸をなめた人々が国民の多数者だったころ、幼少時の私の戦争体験などは取るに足らないものと思っていました。しかしいまや戦争を実感し得ない世代が圧倒的多数者になりました。そんな中、きな臭い動きが勢いを増してきているように見えます。戦争のむごさを人々が忘れるとき戦争への道を為政者は容易に進める。原発を輸出し、核武装を公言する為政者も。

あえて7才時体験を述べます。
71歳の時仙台の戦争体験を集めている「誌」から依頼されて書いたものです。写真は仙台出身の在四街道の友人所蔵の「市民の戦後史」から。
長文なので、以下の6回に分けて記載します。

1回目 爆撃下
2回目 焼死体をみながらの疎開
3回目 8月15日
4回目 敗戦後の自宅付近
5回目 62年ぶりに元寺小路 岩本外科病院跡地に立って
6回目 追記

☆--------- 1回目 爆撃下

7歳時の私の記憶は朦朧としていて断片的なのですが、そのいくつかの場面(シーン)は強烈によみがえってきます。

1945年7月10日の空襲までの、6月、7月の仙台には連日、空襲警報 が出されていました。突然大音響とともに下から突き上げる地震のような振動 が家を包みんだことがあります。私は玄関先で恐怖のあまり身がちじみ中庭につながる戸にしがみつき離れることができなくなってしまった時もありました。 当時家族7人、みんな着衣のまま、いつでも避難できるように寝ていました。 私はかすかなサイレンの音や飛行機の気配にもすぐ飛び起きて目、耳、口をふさいで打ち伏せになるように習慣付けられ、それは敗戦まで続きました。

7月9日は空襲警戒警報があり、やっと解除されほっとしたようです。そんな矢先、真夜中の0時をきして米軍の弾、焼夷弾投下が始まりました。その時はさすがに疲労していたのか末っ子の私は熟睡中だったらしく、父に足で蹴り起こされたようです。

まぶたに浮かぶシーン
記憶は玄関先 3mくらいのところに掘られた防空壕に抱きかかえられ、たどりついたときから始まります。焼夷弾の集束弾なのか大音響が近くで響きました。狭い防空壕の中は6人の家族がひしめき息苦しく、鼻先の土の異様なにおいに早く出たいと思いながら我慢していました。外にいた父はこのままでは危ないと思ったのか、母とわたしと2人の兄姉を外に出し、避難するように促しました。

外に出ると、空は焼夷弾と照明弾で真っ赤に染まり、真昼のように明るく、サーチライトが米機を追っていました。申し遅れましたが、私の家は仙台駅から程近い東六番町小学校のそばにありました。100m先の花京院の方向に火の手が上がったので避難方向は反対側の東照宮に向かって宮町を通って逃げることになりました

避難時のシーン
自宅門口の水槽で水をかぶせられ、毛布(?)1 枚を 4 人でかぶり、B29の 波状攻撃を避けるように通り沿いの軒先に身を潜め、収まると又歩き始めるのです。各家から飛び出して来た人たちで一杯で、混雑の中ではぐれないようにしっかり母と手をつなぎあっていました。宮町の裏の北5番丁や車通り周辺も虫食いのように焼けたのですが、恐怖心のためかそれとも眠かったのか異様さしか思い出すことができません。

やっと東照宮の境内林の草むらに身を隠し、空襲が収まるのを待つことに なりました。50mぐらい離れた真っ暗な森の中でかすかな光(たぶんタバコの 火なのだろうか)が見えた瞬間、周りはひそひそと騒ぎ始めました。「スパイがいる。上空の敵機に合図を送っている」。ここも危険な所になったのです。朝見ると潜んだ場所は変電所脇で、この方がはるかに危険だったのですが。醤油瓶 1 本だけもって、或いは鍋の蓋だけもって、ある者は靴片方だけ持ちはだしで逃 げてきていました。咄嗟のあわてぶりが伺えました。

しばらくして、撃が収まり、家に戻るため宮町に来ると不発弾があるとか、燃えているところがあるという情報でかなり迂回してやっと家に戻ったようです。近所と私の家は健在、でも家中水をかけたためびしょれでした。旧制中学生の兄が動員先で「空襲時は逃げるな、残って消火に当たれ」、と厳格に教育されていたのか必死になって家中水をかけたようです。日頃家の庭の洗濯物を見つけて、敵機からみえる、撤去せよ半鐘を鳴らしていた(消防?) 団長は僕らと同じように逃げていました。火の見櫓は隣のキリスト教教会境内にありました。

次回 2回目

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