私の戦争体験 1945年7月10 仙台空襲



 戦争で辛酸をなめた人々が国民の多数者だったころ、幼少時の私の戦争体験などは取るに足らないものと思っていました。しかしいまや戦争を実感し得ない世代が圧倒的多数者になりました。そんな中、きな臭い動きが勢いを増してきているように見えます。戦争のむごさを人々が忘れるとき戦争への道を為政者は容易に進める。原発を輸出し、核武装を公言する為政者も。

あえて7才時体験を述べます。
71歳の時仙台の戦争体験を集めている「誌」から依頼されて書いたものです。写真は仙台出身の在四街道の友人所蔵の「市民の戦後史」から。
長文なので、以下の6回に分けて記載します。

1回目 爆撃下
2回目 焼死体をみながらの疎開
3回目 8月15日
4回目 敗戦後の自宅付近
5回目 62年ぶりに元寺小路 岩本外科病院跡地に立って
6回目 追記

☆--------- 3回目 8 月 15 日

 天皇の玉音〔敗戦〕放送は縁故疎開先の中新田町 [現加美市] の母の叔父の家で聞きました。みんなは正座していました。私は遠巻きにしていました。叔父が、なんだ負けたのだと声を上げたようです。2人の息子を兵隊にとられた叔母は黙っていました。私は何がなんだか全く理解はできませんでした。ただ親が迎えに来るぞという思いにいたったのかは明確ではないのですが、何故か明るい気持ちでした。学校で飼っていたウサギが心配の小学5年生の兄はすぐにも帰りたい思いだったようです。疎開期間途中、一人で仙台に帰りこっぴどくしかられた兄でした。8月20日過ぎにやっと母がやってきました。 仙台に帰るのは危ない。米軍がやってきて皆殺しになるからと、親戚一同が私たち兄弟を帰すまいとしていたようです。母は死ぬときは家族一緒だと、反対を押言い張り、し切って連れ戻すことになったと後で聞きました。別れるとき、親 戚たちが泣いていたのも進駐軍に皆殺しになると本気で思っていたからでしょう。中新田駅から仙台東照宮下駅まで、軽便〔ミニ機関車列車〕で3時間近く揺られて帰仙したのですが、家では兄姉全員が待っていました。兄弟姉妹で手をつないで輪になって家中の座敷の中をくるくる走り廻ったこと、コレが今だに瞼に刻印されています。よほどうれしかったのか、今も平和のありがたさを噛み締める私の財産になっています。

次回 4回目 敗戦後の自宅付近

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