私の戦争体験 1945年7月10 仙台空襲



 戦争で辛酸をなめた人々が国民の多数者だったころ、幼少時の私の戦争体験などは取るに足らないものと思っていました。しかしいまや戦争を実感し得ない世代が圧倒的多数者になりました。そんな中、きな臭い動きが勢いを増してきているように見えます。戦争のむごさを人々が忘れるとき戦争への道を為政者は容易に進める。原発を輸出し、核武装を公言する為政者も。

あえて7才時体験を述べます。
71歳の時仙台の戦争体験を集めている「誌」から依頼されて書いたものです。写真は仙台出身の在四街道の友人所蔵の「市民の戦後史」から。
長文なので、以下の6回に分けて記載します。

1回目 爆撃下
2回目 焼死体をみながらの疎開
3回目 8月15日
4回目 敗戦後の自宅付近
5回目 62年ぶりに元寺小路 岩本外科病院跡地に立って
6回目 追記

☆--------- 4回目 敗戦後の自宅付近

○米軍が進駐してきました。先頭に機関銃をすえたジープが走り十数台のジー プ、トラックが家の前を過ぎていきました。空に向けて空砲も撃ったと他から聞きました。占領開始の威嚇を狙ったのだと思います。私にはカーキ色で赤の縦線の入った軍服をまとった米上官がかっこよく見えました。

○近くにある仙台駅の半分は、ペンキが塗られたのか瀟洒な米兵専用駅になり、金網越しに覗き見ることができました。列車は冷暖房つき。日本の列車は、デッキや窓から体を出すほどの込み具合。その差は 歴然、敗戦国の姿でした。米占領軍兵舎が置かれた榴ヶ岡(旧陸軍四連 隊。ここには 2 等兵の兄がいて母と慰問に行ったことがあります。殴られて顔が無残に膨れていた。ここからガタルカナルやアリューウシャン や北支さらにビルマなどに派遣され転戦し多くが死んだ。兄の同窓会名簿は約半数が戦死か無記入)。国鉄線路をまたぐ橋の道路周辺はMP、憲兵が厳重な警護。交通整理に当たっていました。

○駅は孤児や、家を焼け出された人たちの住処になっていました。線路下のガードも家を焼け出された人たちの住処になり、通路は避難者を避けてひとりがやっと横になって通る程度に狭くその状態がしばらく続いていました。

○米軍は私の自宅前の東六番町通りに沿って常盤木丁にある遊郭地に向かっ て大型トラックをゆっくり走らせ、買春用(トラック)にしていました。トラックから当時パンパンといわれた売春婦が降り立つのを何度も見ました。 自宅そばの教会の庭はパンパンといわれた売春婦と米兵のあられもない場になりました。遊び場だった教会の庭に子供が行くと風船が投げられ追い払われました。風船はコンドームとはしらない付近の子供たちの宝物になりました。

○当然、私は家の外に出ることが厳禁となりました。米兵たちがジープから子供たちにチュウインガムを撒き始めました。私は門の隙間から道路をそっとのぞいただけだったのに、血相を変えた父から罰として蔵に閉じ込められてしまいました。真っ暗な蔵の中で泣きじゃくった覚えがあります。門を開けて 米兵が一人で入ってきたこともありました。女性を探しにきたのです。裏通 りの各地に売春宿ができはじめ日本人の円タク斡旋屋が間違ってつれてき たということです。親は不在で小学生2人が棍棒と擂り粉木を持ってきて姉を守ろうとしました。大人が誰もいないと気づくと出て行きました。姉はとっさに隠れたようです。

○待っていたのは空腹でした。学校ではクラスで弁当持参は70人中 2~3 人だけ、一つの弁当にみんなが群がったようです。私は低学年だったので家に帰ってから食べました。母が着物など売って芋などに変えていたようです。 よくかい出しにいっていました。学校では米軍放出の腐ったにおいのするミルクがアルミの蓋の上に注がれました。私は吐き気を我慢して飲む場合と捨 てるときがありました。先生の指示で小学5,6年生は食べられる雑草を摘んで登校しました。雑草入りどんぐり粉パンが配給されました。私はとても食べられず捨てたのでひどくしかられたことがあります。

○日系二世の米兵が教室を廻り戦争に関する掲示物をはがしていきました。教科書には墨が塗られました。校舎は焼け出された女学校も使うようになり2部授業になりました。(学制が変わってからは 3 部授業にもなりました)。この女学校には姉も通っていて、同級生には迫りくる火に追われて逃げ場を失って広瀬川に飛び込み亡くなった友人、包帯だらけになってくるもの、先生も火傷をおっていたといいます。

○敗戦の混乱は人々の心を蝕んでいきました。私の通学のズック靴も傘も学校の帰りにはしばしばなくなり、やむなく私ははだしで学校に通うこともありました。大人が学校に入ってきて盗むということでした。

私の名前がハルオのせいか、ハローハロー(チュインガム)といって米兵を 追いかけていた子供たちに、私はチュウインガムとはやし立てられました。私にとって屈辱のあだ名でしたが当時の世相を反映していました。

次回 5回目 62年ぶりに元寺小路岩本外科病院跡地に立って

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