追記―被爆者の事

 私は高校以来被爆者の事に関心を持ってきました。高校生の時に「原爆の子」などを読み、大学生の時にはヒロシマ・長崎の被爆者に出会い、大学の生協で「核兵器」、「戦争」にあくまで反対し続けようと、人生の恩師福武直先生に教えられました。

私が勤めた生協は選挙運動をする政治団体ではありません。僕らは民の一人として国民等しく核兵器廃絶を求め、「戦争」に反対することは当然のことでした。学生たちのまじめな取り組みに私は背中を押されました。地域生協では「子供たちを広島へ」など、毎年欠かすことなく続けました。48歳で勤めた千葉の生協の総代会で、被爆者の日本生協連竹本会長が記念講演をされました。500名の地域総代のすすり泣く声が耳にこびりついて離れません

 定年後、被爆二世のMさんの手記に胸をえぐられ、多くの人に拡散し続けました。私は定年後くも膜下出血など各種病気を「わずらって」すごしましたが、そのなかで被爆運動については千葉で、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマについて我が事となるように追ってきました。井上ひさしに敬服し3回千葉で講演をきかくしました。

その延長で今年9月24日吉永小百合さんに共感をいただき、当地の「平和と文化の集い」に来ていただくことができました。広い大ホールがシーンと静かになり、一つにまとまって感動につつまれました。それを実行委員のひとりとして、観るうちに希望が湧いてきました。 それぞれみんな思想信条の全部違った人たちです。 来場者1000人、ほかに出演者220人です。

それが一つになっていく場が目の前でくり広げられたことです。実行委員30余名を支えに、子供出演者、被爆者、市民が合唱団・吉永さん朗読・によって可能になったシーンでした。
私に関していえば、動きは鈍いものでした。迷惑をかけました。ただ寝床の中で電話をいっぱいかけました。そんな中かって生協で働いていたOBOGや友人が74人きてくれました。もちろんOB会世話人の努力があってのことですが。

 こんななかでみんなで良い場を協力して創っていけば「いのちと暮らし」の行動が湧き上がってくるという思いが募りました。競争・利権・無関心・人間関係の希薄化がはびこる日本社会の中で・実生活に寄り添えあえば地域の中で根を張ることができるという思いでした。まるで、沖縄が立場や信条を超えて一つになっていっているように。人々を横につなぐ人たちの出番ですね。

●とはいえ私は原因不明の不治・進行性・希少指定難病です。全国1000名、12万人に一人の患者です。だんだん体が弱くなり寝床の中にいることが多くなっていくよう運命づけられています。が、私の住んでいるところには病気は違いますが、私と同じような病もちの普通老人の人や障がいのある方がたくさんおられます。
そのような、社会的弱者とその関係者には温みがあります。ですから「よりよく」いきていくことができます

そんな中の一人の言葉「命がある限り、生きたいから生きる」という40歳の自閉症の方の言葉に惹かれています。視覚障がい者で詩人であり社会的な運動家とも仲良しです。こんな友達ができるのも私のひそかな誇りです。年寄りの立ち位置から楽しみながら3世代とつながっていたい。あとしばらくの間、皆さんの「営み・達者」をはげみとして活きたいと思います。非社会性・非政治性が日本社会が陥ってきた土ツボですが、時代は変わりつつあります。今の時代の戦前責任を問う年寄りの仲間でありたい。

     
     






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