戦争経験者に聞く戦後70年

        市原憲二郎さん

 
 カトリック信者で教育熱心だった母,無神論者ではあったが教会に行くことやミッションスクールに通わせることに反対しなかった父。そんな両親の元で育った市原憲二郎さん(79)。日本では陸軍の青年将校が政府要人を暗殺したクーデター「2・26事件」、世界ではヒットラーがオーストリアと協定を結ぶなど、戦争のにおいが漂い始めていた1936年、市原家の次男として長崎で生を受けた。
「子どもたちには教育を!」と、女学校を卒業していた明治生まれの母は、市原さんたちに惜しみなく教育を受けさせた。「召天する直前、私が母と最後に交わした言葉は、『憲ちゃん、しっかり勉強しなさいよ』でした」というほどの教育熱心ぶりだった。それとともに、日曜日には必ず子どもたちを教会へ連れて行った。市原一家と親交の深かった外国人宣教師たちは、市原さんにとって「先生」でもあり、「遊び相手」でもあった。「宣教師の家にある螺旋(らせん)階段で遊ぶのが楽しくてね。私は、先生の家に行くのが大好きでした」と当時のことを楽しげに語る。
1941年に太平洋戦争が勃発すると、市原さんの生活も徐々に変化していった。長崎市内でも空襲が何度もあった。そのたびに防空壕(ごう)に入り、空襲が収まるのを待った。戦況が悪化し、終戦が近くなった頃、外国人宣教師たちは皆、祖国へ帰っていった。「あの階段でもう遊べないのか・・・、あの先生にもう会えないのか・・・、と寂しかったのを今でも覚えています」と話す。


被爆60年記念誌の編集会議の様子。右下から3人目が市原さん。


1945年8月9日、市原さんが9歳になったばかりの夏。セミの声が鳴り響く暑い夏の日だった。その日、兄は学徒動員で軍需工場に既に出勤していた。父も仕事場に向かい家を後にしていた。自宅にいたのは、祖母、母、姉、幼い妹2人、そして市原さんだけだった。
突然、強い光が辺り一面を包んだ。強烈な光に驚き、市原さんは母に抱かれて机の下に潜り込んだ。爆風で直下型地震と思えるほどに家は大きく揺れた。今まで聞こえていたセミの声もなくなった。世の中の全ての生物が死に絶えたかと思うほどの静寂だった。爆心地からわずか3・8キロの自宅で被爆した瞬間だった。家の中にいた家族はとりあえず無事だった。父親もほどなくして帰宅。家族の無事に安堵(あんど)したが、爆心地から1・8キロほどの距離の軍需工場に行っていた兄が帰ってこない。その日の夕方、市原さんは父と兄を捜しに向かった。
道すがら、「水をください」と言いながら、丸焦げになった人を何人も見た。言葉では言い尽くせないような惨状を「これでもか」というほど見せつけられた。爆心地から約2キロの所までたどり着いたが、父親は突然「引き返そう」と告げた。「あまりにも悲惨な光景を、幼い9歳の少年に見せるべきじゃないと思ったのでしょう」と市原さんは言う。





千葉県健康友の会連合会の定期総会で話す市原さん


翌日になって、兄は下着一枚という姿で家に帰ってきた。市原さんは、「兄は傷ついた同級生を助けだし、飛び出していた内臓を手づかみで腹に収め、自分の服でグルグルに巻いて、郊外の農家まで運び、助けを依頼して帰ってきたのです」と力なく話した。
その時のトラウマからか、現在に至るまで当時のことを多く語らない市原さんの兄。「70年もたっているのに、あの日のことを思い出すのは苦しいのでしょうね。よく皆さん、『ノーモア・ナガサキ』と非核団体の方などが言うでしょう。あれを私たち被爆者風に訳させてもらうなら、『もう、まっぴらごめん!』という意味なんですよ」 と市原さんは話す。




原水爆禁止日本協議会の「国民平和大行進」出発式で


 原爆が投下された1年半後、それまで元気だった母が急死。内部被ばくによる病に倒れたのだった。その後、市原さんも数々の病に襲われた。甲状腺悪性リンパ腫、胃ガン、肺結核、結核しんなど、体には5回ほどメスを入れた。母の遺言通り、勉学にいそしんだが、病がそれを阻んだ。高校生の時、「生きることの答えは全て聖書にある」と思い、プロテスタントの教会で受洗。大学時代には学生運動にも参加した。ブルーの旗に十字架を刻み、クリスチャンの学生運動にも参加した。
やがて結婚したが、被爆による後遺症で子どもを授かることはなかった。「これは本当に悔しいというか、妻に何てお詫びしたらよいか分からなかった。私は被爆者なので、もともと妻の親戚からは猛反対されていた結婚だったのです。原爆は、被爆者の体を苦しめ、精神的にも苦しめたのです」と市原さん。

定年後、被爆者の苦しみを伝えようと「語り部」として、千葉県被爆者の会「友愛会」に入会。米国でも教会を中心に10回以上講演を行った。ワシントンで行った講演会では、市原さんの話が終わると、何百人もの聴衆が一斉に立ち上がり、市原さんに謝罪した。「この光景は今でも忘れることができません。涙がこぼれました。しかし、私は彼らに話したのです。私は、あなた方を恨んではいない。当時の米国政府を憎んだことはあったかもしれない。でも、報復に終わりはない。あなた方だって、パールハーバーの奇襲攻撃を聞いて日本を恨んだでしょう。お互いさまです。本物の愛とは、『赦(ゆる)す』こと。イエス様の愛、そのものなのです。母から学んだ聖書の教えは、『汝(なんじ)の敵を愛せ』でした。あなたがたは敵ではない、私の兄弟姉妹なのだから、なおさら愛さなければならないのです」と当時を振り返った。
「今の日本を見ていると、何のためにわしらが70年間、『戦争は二度と繰り返さんでくれ!』と叫んできたか分からなくなる。わしらだけであんな思いをするのは十分だ」と、枯れそうな声で力強く話した。
戦後70年の夏、もう一度原点に立ち返って、「先人たちの声」に真摯(しんし)に耳を傾けたい。




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